二十代の供養塔

久遠マリ

『シルディアナの鍛冶娘』

第一章 瑞雨


 ぽつり、とひとつ、足下に雫が落ちる。

 クライアは空を見上げた。いつも砂混じりの薄く蒼い色をたたえている空は今、分厚い雲に覆われていて暗く湿っている。もうひとつ、ぽつり、と最初の雨粒の近くに落ちた。こんな天気を肌で感じたのはいつ以来だろうか、と、彼女は鉱石がたんまり入った丈夫な麻の袋を抱え直しながら考える。

 暑い、あつい大陸中部の都市シルディアナの郊外にひゅう、と涼しい風が吹いた。日光が殆ど入ってこない廃鉱も涼しかったが、降り始めた雨に誘われて足を踏み出した岩山の外も中々に快適で、荒れ地の背丈の低い草でさえも活きいきとして見える。しかし、彼女は早いところ師の待つ店の方へ戻らねばならなかった。こんなところでのんびりしていては、帰り着く頃には昼を過ぎてしまう。

「師匠もうるさいしなあ、お腹空いた、って」

 呟いて、クライアは岩山を下り始めた。シルディアナの方を見れば、堅牢な石造りの塔を持つ城を中心として、広げられた絨毯のように同じ高さ、橙の屋根がざあっと広がっている。それは広場のところだけ虫に食われたようにぽっかりと穴があいているのだ。この五年、幾度もここへ探索に訪れこの景色を見る度に、彼女はこのシルディアナ共和国の首都が美しい、誇りだと思うようになっていた。雨の向こうに見えるのもまた、良い。

 防ぐ術もないまま受ける雨は容赦なく髪を、服を濡らし肌に染みてくる。 これでは走っても歩いても店に着く頃にはびしょびしょだろう、しかしクライアは時間にうるさい師の昼食の為に急ぎ足で来た道を戻る。食事を取ったらすぐに鍛冶屋を開けなければいけない、そしたら野にはびこる獣を退治する為にと剣や槍を折った門番達が幾人も来るだろう。

 女として必要以上に力のついてしまった腕で重い麻袋を再び抱え直しながら彼女は考えていた。昨日、町の中に三ヶ所ある市場のうちの南の一つで買ったパン、師が何があっても手に入れて来いと言っていた珍味の夜光茸と草食竜の肉が余っている。貯蔵庫には野菜も沢山あった筈だ……竜角羊の乳は余っていただろうか。あるのなら、シチューが出来る。考えたところで、クライアは己の師があの羊の角も武器として使えるぞ、と言っていたことをふと思い出した。

「……確かに、刺されたら死ぬよね、あれは」

 一度だけ見せてもらったそれは彼女の指先から肘のあたりまでの長さで、その先端は鋭く尖っていた。気を付けろよ、という師の優しく低い声も同時に蘇ってきた。

「待っててね、師匠」

 そう、鍛冶屋の弟子にとって師は厳しくも優しい、恩人であると同時にただ一人の憧れでもあった。


「――雨か」

 窓の外にふと目をやって、アウルスは呟いた。

 若き鍛冶師の元に弟子が来て五年、彼の生活は自他共に認める程堕落していた。町への使いや補助になる鉱石の探索、朝食も昼食も洗濯も全部犬のような少女に押し付けることが出来たので、家主は昼近くまで惰眠を貪るようになった。昼食を取ってから店を開け、弟子が応対した客から取った注文をもとに得物を作ったり細工を施したりする。

 アウルスは着替え、右に左にはねる自分のくすんだ赤い髪をなでつけてから肩にかかるそれをくくる。雨が降る度に彼は決まって弟子と初めて会った日のことを思い出すのだ、乾いたところがないほど濡れた服に小さな背、捨てられた飼い犬のような目。鍛冶ギルドの目の前で佇んでいた年端もいかぬやせた少女。

 昼の刻まではあと少しだろうか、窓から見た近くの小さな広場の日時計はしかし雨雲のせいで時の槍を失っている。近付いてみればうっすら槍も指してくれているだろうか、そう思いながら頭までをすっぽり覆う雨具を手に家を出ようとしたところ、きき慣れた足音と息づかいが彼の耳に届いた。店の表からだ。

「ただいま、師匠」

 耳ざわりな木の扉の音とともに弟子が帰ってきた。どさっと落とした麻袋から水が染み出す音がして、店の方へ出たアウルスはその姿に思わず溜め息を漏らす。

「……盛大に濡れたな、クライア」

「本当に、でも、久し振りでしたしいつも暑いから、かえって心地良かったですよ」

 頭のてっぺんから爪先までびしょ濡れになったクライアは、師の呆れたような顔を見てにっこりと笑ってみせた。

「すぐに食べる物、用意しますね。お昼はシチューにしようと――」

「いや」

 鉱石の入った麻袋を置いたまま台所に向かおうとする彼女に向かって、彼は声をかけた。弟子は振り返って何故ですか、とその目だけで問いかけてくる。

「そんな濡れっぱなしの服のままでいたら風邪をひくからな、着替えてこい。昼食は俺が作る」

「でも師匠、それは私の仕事ですし――」

「いいから着替えろ。体が冷えるぞ」

 近寄って、袖なしの服から伸びる濡れた二の腕に触れると案の定冷たくなっていた。アウルスはほらみろ、と言いながら今度は雨の雫がつたう弟子の頬と額を両手で包み、次いで後頭部の高い所で纏められていた髪をほどいて背中を押してやった。

「ほら、早く」

 奥の部屋、扉の向こうへ消えていくクライアを見送って、食事などでいつも使っている机の上に外した髪飾りを置き、彼は台所に立った。あの弟子が一体どんなシチューを作りたかったのかはよくわからないが、冷えた体には熱いものが必要だ。貯蔵庫から野菜を取り出し、水の力を孕む魔石で埋め尽くされた冷たく大きな木箱の中から養殖された草食竜の肉を使う分だけ切り分けた。香りの強い夜光茸と切った竜の肉をホルトの樹の実から採れた油で炒め、これまた適度に切った野菜を途中で投入し、水をざっと入れてしばらく煮込む。熱を通した夜光茸の辛く強い香りに、着替えを済ませたクライアが癖のある髪を柔らかい布で拭きながら奥の部屋から出てきた。鼻をひくつかせている。

「師匠、何を作っているんですか」

「今から竜角羊の乳を入れる、シチューだ」

 アウルスは声の方向を見ず、歌うように言った。

「で、師匠は私の髪飾り、どこにやったんですか」

「ああ、そこの机の上だ……濡れ髪をまとめるのはやめておいた方がいいぞ」

「どうしてですか」

 クライアは机の上の髪飾りに手を伸ばそうとして師の方を向いた。すると、鍋をかき回す手が止まり、彼は水の魔石の木箱から竜角羊の乳が入った瓶を取り出しながら答える。

「なかなか乾かなくなるぞ、その分冷える」

 彼女は髪を纏めるかわりに、髪飾りを首に結んだ。

 台所だけでなく、寝室にも作業所にも店の表の方にも良い香りがふわりと満ちる。アウルスの腹は食べ物を求めて容赦なく鳴り、気付いた弟子がけたけた笑った。

「仕方ないだろ、朝は何も食ってないんだ」

「それは師匠が決まった刻に起きないからですよ、毎朝ちゃんと用意してるのに」

「……用意してたのか」

 思わず鍋をかき混ぜる手を止め、アウルスは振り返ってクライアをまじまじと見つめる。すると、彼女は何も悪びれることなくこんなことを言うのだ。

「だって、師匠、いつ起きてくるかわからないじゃないですか。この前なんて私より早かったですし……あ、師匠が食べなかった分は残さずにちゃんとおすそ分けしに行ってるんです、暑さで痛んじゃいますから」

「……おすそ分けって、どこに」

「探索へ行く時に包んでいくんです、門番さん達の所に」

 アウルスは溜め息をついた。

「……俺の稼ぎで門番を食わせてどうする」

「いいじゃないですか、いつも来てくれるお礼ですよ」

「結果的に剣や槍の修理代の割引だろうが」

「だから、師匠がちゃんと起きればいいんですよ」

 言い返す言葉をなくした彼は、もう一度大きな溜め息をついてから同じ大きさの底の深い器を棚から取り出す。しばらく首を垂れ、降参だと呟いた。

「わかった、出来るだけ努力する。だからパンでも出してくれ」

 振り向いた先にあるのはいたずらっぽい笑顔。クライアがここに来て五年、よく笑うようになった。しかし、ふとした時にその背中があの時のものと重なる……そう、例えば今みたいに。自分にくるりと向けられた小さな背中は殆ど変わっていない、ただ、纏うものだけが明るくなってきた。それを感じる度に、アウルスはこの娘を自分の所に連れて来てよかった、と安堵するのだ。


 短い雨季の始まりを告げる強い雨が、その日も降っていた。

 その季節が来るのを知っていたかのように、首都の広場に枝を伸ばしている幾本もの大木は石畳の更に下の大地から水を吸い上げ、薄く甘やかな緑色をした若葉を茂らせつつあった。雨は生まれたての柔らかな翠を叩き、恵みの到来を本格的に告げる。そして、木の葉の数と同じように、雨具を買い替える者の数も増えるのだ。

「ごくろうさんアウルス、よくそのおんぼろ雨具で間に合ったな」

 アウルスが鍛治ギルドの軒下で雨具を脱ぎ水を振り落としていると、立て付けの悪い音とともに窓が開き、親方が苦笑いの顔を出して声をかけてきた。

「……いや、まだ大丈夫だ、プラティウスの親父」

「お前、肩がびしょ濡れだぞ」

「服じゃないし、むき出しだからいいんだよ。まだ開業したてで金もないし、最悪、軒下渡りでこっちまで来る」

「ったく、近所のガキじゃああるまいし」

 親方――プラティウスは言って、自分で面白がって愉快そうに笑った。それに鼻の奥で笑いを返しながら、壁に雨具を引っかけたアウルスは自分の腰にくくりつけている大きな麻の袋を外し、紐で結んでいた口を開ける。

「そんなことより納品だ、親父」

「おう、この間頼んでいた剣三本か」

 親方は青年が袋から剣を取り出すのを見つめた。するり、と現れ、火の魔石のランプの光をきらりと反射するのは曲がりも欠けもない三本で、手に取り眺めた刃に映っている自分の姿には一切の歪みすらない。袋から染みて刀身を伝う雨の雫すらも芸術だ。

「……見事だな、アウルス」

「装飾はそっちでやってくれよ」

 アウルス本人は賛辞にすら耳を貸さず、ぶっきらぼうに答えた。

「祭祀用の剣なんだろう、親父。うちは実用品専門の鍛冶屋だ」

「ああ、そうだが……しかし、お前に頼んで正解だったな、我が共和国軍の三大将軍様が使う剣を作ったのがたった二十歳の若造だってきいたら、将軍様もびっくりするだろうよ」

「……買いかぶりすぎじゃあないのか」

 満面の笑みとともに贈られた言葉に、彼は肩をすくめてみせる。雨の音が扉の下の隙間から忍んできて足元に絡みつき、残り少なくなった火の魔石の力がランプの灯りを揺らした。いつも暑いシルディアナの町、だが、今日は涼しかった。プラティウスは目を細めて窓から外を見る。

「にしても、よく降るな」

「精霊セザーニアははしゃぎすぎだ」

 アウルスは顔をしかめて、火が弱くなってきたランプに手を伸ばして火を消し、黒く変色してただの石になってしまった魔石を幾つか取り出して両手の中におさめ、体の中を巡る気を集中させた。

「ああ、すまんな、アウルス」

 紅の光が合わせた手と手の間から漏れ、何かが割れる小さな音が聞こえる。礼を言った親方の面前、青年が木の勘定台の上に転がしたのは赤く透き通る美しい石だ。ランプの炎が消えたギルドの中、薄暗がりにそれはよく映える。

「……まあ、魔石を買うなんて面倒なことをする前に近くの術士を頼れ、っていうことだろう、親父」

 アウルスは復活させた火の魔石をランプの中に入れ、再び火をつけ壁にかけた。あたたかな光が満ちて、建物の中は先程よりも明るくなる。青年は火使いでもあった。

「だから、剣と引き替えのディリア金貨十二枚に、魔石五つ分の銀貨一枚上乗せで」

「……取るのかよ」

 アウルスは口の端でにやりと笑った。

「魔石屋の半額だぞ、あと、当分若造のところに仕事なんざ来ないだろ。言った筈だぞ、開業したてだ、って」

「……ったく、しょうがねえな」

 無精髭の生えた顎を撫で、プラティウスは溜め息をつく。と、表の通りの方で何かがぶつかる鈍い音がしたので、二人とも扉の方を向いた。

「……何だ」

 親方はいぶかしげな表情で呟いた。

「雨で誰か、滑って転んだんじゃないのか」

「ちょっと見てきてくれ、アウルス」

 青年は言う通りに、ギルドの建物の扉を外に向かって開けた。その向こう、翠雨と呼ぶにはいささか強すぎる雨の中に、水の精霊かと思えるくらいまで濡れながら震え、こちらを見つめ少女が立っていた。

「おいおい、お嬢ちゃん、どうしたんだい」

 プラティウスが驚き慌てて大声を出し、アウルスは眉間にしわを寄せた。少しにごった青緑の目は潤いを渇望するシルディアナ郊外の少ない木々のよう、頬や首筋にはりついたゆるい癖のある髪の色は枯れ木みたいだ。粗末な長いチュニックの腰が端切れで縛られていて、うら若くしなやかなその体の線に扉を開け放したまま青年は動きを止め、釘付けになった。思わず彼は息を飲む。

「アウルス、おい、アウルス」

 そうだ、壊れてしまいそうな程に危なげで、裸足で、だから美しい。その考えに行き着いたときに親方の呼び声が背に響き、彼は慌てて振り返った。

「入れてやれ」

「……ああ、わかった」

 プラティウスの言葉に頷き、アウルスは再び少女の方を向いて何処かすがるようなその表情に優しく問いかけた。

「何かあるんだろう、とりあえず入らないか」

 少女の左足が一歩後ずさり、口元に戸惑いが現れた。怖がらせたつもりはなかったのだがと少し焦りながらも、彼は更に畳みかける。

「いつも暑いが、今日はそうでもないだろう。それに、その格好じゃ風邪をひくぞ……俺は火使いだし、ほら、早く」

 こういうことをするのは非常に苦手だったが、アウルスは少女に微笑みかけて薄汚れたその二の腕に触れた。引いた左足が今度はこちらに向かって踏み出され、にごっていた瞳にわずかな光が灯る。おずおずと歩み寄ってくる小さな背に手を回しギルドの屋内にいざなって扉を閉めた時、プラティウスが奥の部屋から乾いた柔らかい布を何枚も抱えて出てきた。

「ああ、とりあえず乾いた布、持ってきたぞ」

「よかった。服は余っていなかったか」

 布を受け取り、少女の髪の上にその一枚を乗せながら彼が言うと、親方はいや、と頭を振って困ったように首を傾げる。

「幾らギルドの女の予備の服とはいえ、俺が棚を開けられるわけがないだろう、違うか」

「違わないな」

「明日、突進してくる竜角羊より危ない女に問い詰められる羽目になる。全く、奴らは服ぐらいなら構わんとか言う癖にな」

 アウルスは全くだ、と呟いて少女の方を見やった。のろのろと濡れた肌を拭くその腕には鳥肌が立っている、やはり冷えているのだ。

「親父、イオクス材の炭になったやつと、割れそうにない鉢、あるか」

「多分あるが、どうした」

「暖を取るんだ、体が冷えている」

 言ってから触れた頬が思ったよりも冷たかったので、青年は思わず目を見開いた。自分を見つめてくるこの少女はどれだけあの雨の中にいたのだろう。

 プラティウスが再び奥に引っ込み、彼は再び少女に話しかけた。

「一体、こんな天気に外で何をしていたんだ」

「……働きたくって」

 それだけを紡いだ声はまだどこか幼い。か細くて、今にも消えてしまいそうなくらい弱かった。捕まえておかなければふらふらと出ていって倒れてしまいかねない、だから彼はひとまず少女を安心させる為、と肩に手を置く。

「それがどうして、こんなにびしょ濡れになったんだ」

 訊くと、一瞬でその青緑の瞳がにごった。安心させるどころか全く逆の方向に気持ちを行かせてしまったことに気付き、咄嗟にアウルスはこう付け足す。

「……いや、言いたくないなら……違った、言うにしても、無理して喋ろうとしなくていい……話したくなった時に話せば、それで」

 ……言いながら彼は、話したくなる時までこの少女がギルドにいる、という保証など全くないことに気が付いて、口をつぐんだ。そのままぴったりと言葉を発さなくなってしまったのを不思議に思ったのだろう、青緑の瞳は真っ直ぐ青年を見つめ、ややあってこう呟いた。

「……追い出されたの」

 それは先程よりも幾分かはっきりとした声だった。

「……また、何で」

「……一年前に父さんが死んで、母さんに恋人ができて、その恋人が遊んでばっかりで、私の下には弟が二人と妹が一人いるのに……でも、母さんは寂しがりやだから」

 アウルスは、前触れもなく降ってきた今日の雨のように突然喋りだした少女をじっと見つめた。話は続く。

「……だから、母さんがあれで幸せそうだから、今はいいの……でもあの男、お金がなくなってきたからって、私に向かって働け、って言い出したの……三ヶ月前くらいから。あの男、母さんのことは好きみたいだけど」

 少女は苦く悲しい表情になって、唇を噛んだ。

「歓楽街の華折で稼げ、そうしたら沢山金が入る、って言ってた。それか、鍛冶屋にでもなれ、って。戦争が増えてるから、どっちの仕事も軍人のためになる、って。あぶれ者の俺よりもいい武器が打てるかもしれない、って」

「あぶれ者……」

「でも、私はまだ十五なの、華折で体を売るなんて嫌だ。何で、外面ばっかりいい男なんて好きになったんだろう……母さん」

 と、そこで奥の部屋の方からガチャガチャと木と陶器の音がしたので振り向けば、プラティウスがイオクス材の炭を陶器の鉢に突っ込んで持ってきた。

「ほい、アウルス。代は請求しないから自由に使え」

「ああ、ありがとう」

 アウルスは持ったままの布を勘定台の上に置いてから手のひらに炎を燃え上がらせ、受け取った鉢を下に置いてそのたかまま点火してやった。手近な椅子を取ってきて少女をそこに座らせ、言う。

「じきに炭に火が回ってくるから、暖まるといい……そうだ、親父」

「次は何だ」

「何か熱い食べ物も頼む」

「おう、まかせとけ」

 親方は少女に向かってゆっくりしていろ、と微笑み、白髪の混じったイオクス材のような濃い茶色の髪を必要以上に撫でつけながら再び奥へ引っ込んだ。

「……若い女には目がない、と」

 二つ目の椅子を持ってきてそこに座ったアウルスが呟くと、少しだけ安心したのだろうか、少女はくすりと笑った。

「あの……ありがとうございます、色々よくしてもらっちゃって」

「いや、まあ……放っておく方がおかしいだろう」

 面と向かって礼を言われ、彼は少し戸惑って頭を掻いた。

「それに、行くあてもないんだろう、当分ここに居させてもらえばいいんじゃないのか。俺も一時期そうだった――」

「おーい、お嬢ちゃん」

 会話をさえぎるプラティウスの大声に二人してそちらの方を振り向けば、ご丁寧に前掛けをつけた親方がおたまを持ってこちらに出てきていた。鮮やかな色の女物のそれは鍛え上げられた体に全く似合っておらず、アウルスは思わず吹き出した。

「……仕方ないだろうアウルス、これしかなかったんだよ。そんなことより、シチューには竜角羊の乳か野菜を煮詰めたソースかどっちを入れたいと思うんだ、お嬢ちゃんは」

 傑作だの何だのと言いながら椅子の背を叩いて爆笑するアウルスの隣で、少女は少し考えてから頷いた。

「どっちも入れると美味しいですよ」

「どっちもか」

「はい、この町では大体どっちかしか入れないし、母さんは野菜ソースなんですけど、前に両方入れたら意外といけたんです」

 親方は笑顔でわかった、と頷き奥へ行こうと踵を返したが、ふと何かを思い付いたようにこちらを振り返り、笑い続ける青年の名を呼ぶ。

「アウルス」

「……はあ、どうしたんだ、親父」

 アウルスは親方の姿を見ずに大きく息をついた。引き笑いが止まらないのだ。

「何か問題があったら遠慮なく言ってくれよ」

「ああ、わかった……っと、そうだ」

 プラティウスのその一言に、彼は先程少女が言ったことを思い出した。あぶれ者の俺よりもいい武器が打てるかもしれない……青年は物を覚えることを面倒と称して様々なものに興味を抱くことはしなかったが、自分の職や知り合いに関することとなると途端に地獄耳となるのだ。

「親父、鍛治師連中にひとり、どうしようもない奴なんかはいるのか」

 親方は天井を向いて、首を傾げ唸った。少女がそれをじっと見つめる。

「うーん、どうだろうなあ。訳あって仕事を回していない鍛治師は何人もいるんだが……何しろ、共和国軍からの注文が増えているからな。得物も鎧も盾も何もかも、回せる仕事は片っ端から回せる者に回しているんだ、これでも。因みに、お前に回した依頼は最上級のやつだぞ、アウルス」

「うん、まあそんなことはどうでもいいんだ。仕事も回して貰えないようななまくらしか打てなくなった奴とか、実力はあるのにやる気のない奴とか――」

「面白い物言いだなアウルス……たった今お前の言葉にぴったりな奴を思い出した、商人居住区の方に店を構えている、イグナウス・フェルムだ」

 と、隣で息を呑む声がしてアウルスは少女の方を向いた。その表情が強張り、眉間には皺が寄って唇は固く引き結ばれている。

「……どうした」

 彼が訊くと、少女は殆ど口を動かすことなく答えた。

「イグナウス……母さんの恋人と一緒の名前」

「――何だって」

 青年の頭の中で何かがぴったり噛み合ったような――例えるならば、剣が正しい大きさの鞘に納まった時のような――気がした。あぶれ者の俺よりもいい武器が打てるかもしれない。

「……それがどうかしたのか、アウルス、嬢ちゃん」

 プラティウスが不思議そうに言った。

 知ったところで何をすればいいのかわからなかったが、アウルスはこの少女の為に何かしないといけないのではないかと思い始めていた。そして勿論、イグナウスとかいうなまくら鍛治師のこともどうにかしなければならない筈だ、このままでは鍛治ギルドの恥となってしまう。

「商人居住区か……親父、どこの通りにあるんだ」

「行くつもりか、アウルス」

 青年は、親方の言葉に少しの間を置いて頷いた。

「……同じ鍛治屋として恥ずかしい、それに――」

「嬢ちゃんのこともある、か。イグナウスの鍛治屋は商人居住区を南北に分ける大通りの、一番真ん中の北居住区側だ。ここからはそんなに遠くない」

「わかった。じゃあ行ってくる――」

 言いながら立ち上がった瞬間に服の裾が引っ張られ、彼は体勢を崩しそうになりながら振り返った……少女が懇願するような瞳でこちらを見上げている。

「連れていって欲しいのか」

 アウルスが訊くと、少女はしっかりと頷いた。

「……私も行きたい」

「嫌な思いをするかもしれないぞ、それに――」

「母さんの娘として、言っておきたいことも一杯あるの。今までは言えなかったけれど」

 腹をくくったと思われる口調、服の裾を掴んで離さない手。おそらくその気持ちは本物なのだろう、青年はそれを悟って溜め息をついた。

「その前に、親父特製のシチューを食ってからにしろ」


 シルディアナ共和国の首都の東側、橋を越えた先に、問題の商人居住区はある。高さの整った、しかし見た目も様式も全くばらばらな四階建ての家が立ち並び、階に数えられていない地面に接した階は殆どが商店となっていた。遠く西から取り寄せてきた瑞々しい野菜や果物は水使いが管理する清潔な水の中に浸してあって、アウルスの隣を歩く少女はそれをじっと見つめていた。凝視したくなるのも当然だ、大きく熟れて甘やかな香りを周囲に撒き散らす桃はひときわ存在感が大きく、まるで女王のようだ。

「おい、はぐれるぞ」

 彼が人混みの中に埋もれかける少女に向かって呼び掛けると、その小さな手はまた服の裾を掴んできた。

 雨は上がっていた。分厚い雲の隙間からは青い光がちらと見え、石畳の上に出来た水溜まりは道行く人の様々な表情を映している。薬草屋に並ぶ人の山と酒場の外で昼間からグラスを片手に騒ぐ男達を避けて、二人は活気のある通りをはぐれないように進んでいった。首都中央の行政区、東の端の鍛治ギルドを出てからそんなに時間は経っていない筈であったが、雨上がりの商人街の人の多さに参って、既に二人とも疲れていた。

「……人が多い」

 少女が、人だかりを抜けたところで大きく息をついて言った。

「この通りはいつもこうだ、昼までが雨だったから余計にな」

 アウルスもつられて溜め息をつき、言った。

「私、こんな所には来たことなかった」

「家はどこなんだ」

「南街区の一番北の通りに」

「……そうか、あんまり遠くでもないな」

 肉屋の中から漂ってくる何とも言えない焼き肉の良い香りをかぎながら、二人はやがて通りの中ほどに差し掛かった。このあたりだろうかと青年があたりをきょろきょろと見回していると、少女があっ、と声を上げた。

「……あそこ」

 指差した先にあるのは、鍛冶屋ギルドの軒先にあるものと同じ、鎚と剣が交差した繊細な鉄細工の看板だった。その下に吊り下げられた鉄板には“鍛冶屋フェルム”の文字が穿たれている。

「フェルム……ここか」

 当たり前のように、フェルムの鍛冶屋の前には人が全くいない。通っていく者も、わざわざ店を振り返って見ようともしない。よく見ると看板の隙間には蜘蛛の巣が絡み付き、窓は埃で白く濁っていた。

「……やっぱり、あの男……仕事してないんじゃないの」

「さびれているな。入ってみるか」

 呟いた少女に向かってアウルスは言った。隣の店は魔石屋だったが、目の前の鍛冶屋に比べたら失礼な程に、沢山の客でにぎわっている。大方、傭兵や共和国軍の兵士が己の得物に風だの水だの、何らかの力をくっつけようとしているのだろう。術を使える人間などは、シルディアナのこの首都に二百人いるかいないかだ。背に竜のような黒い翼を持ち空を飛ぶことが出来る竜人族の一個軍団と違って、魔石屋に行くような人間は特に何がどうということもない、ただのヒトだった。

「……魔石屋の前に普通は鍛冶屋だけどな」

 彼は、自分の鍛冶屋の隣にも魔石屋があるのを思い出しながらフェルムの鍛冶屋の扉を三回、叩いた。返事がないかわりに少女がぼやいた。

「やっぱり、今日も来てない」

「ああ、そりゃあ昼前までは雨だったからなあ。でもなあ、お二人さん、あの怠け馬鹿は晴れの日でも滅多に来やしないよ、鍛冶屋なら他を当たった方がいい」

 と、背後で若々しい声がぶっきらぼうにいい放ったので二人は振り返る。そこには、若葉色の柄を持つ美しい短槍……しかし刃が折れている、それを肩に担いだ青年がいた。共和国軍のうちでも下っ端の、簡素な鎧に鉄のすね当てといった門番の格好をしている。

「いつになったら来るんだ、ここの主は」

 アウルスが訊くと、門番は砂色にくすむ長めの前髪を掻き上げながらさあな、とこれまたぶっきらぼうに答えた。前髪以外は全部まとめてうなじのあたりで結んでいるらしい。苛立ったような瞳は薄い青だ。

「前に、たまたまここが開いていた時に槍の修理を頼んだらなまくらになって返ってきやがった。開いてても来ない方が賢いぞ」

「……そうか。一応俺も鍛冶屋なんだが――」

「そうなのか、あんた。それなら何でこんなところにいるんだ、丁度いいから俺のこの槍でも直してくれよ」

 余程切羽詰まっていたのだろうか、門番は折れた槍の先を指し示しながらアウルスの言葉を遮って、先程よりも幾らか高い声で喋り出した。

「ひどいんだ、あの鍛冶屋。綺麗に磨き上げて中々いい出来だとか言ってた癖に、町の外で獲物を一突きしたらぽっきり折れやがってさ――」

「――何を一突きしたんだ、一体」

「暴走した養殖の草食竜だ。あれの鱗すらも突き通せないなんて――」

 何とも無茶をする門番に、火使いは思わず溜め息をついた。草食といえど、されど竜、そこらの金属では歯が立たない程の堅い鱗を持っているのはシルディアナの八つの地区に住んでいる人々なら殆ど誰でも知っていることだ、下っ端の兵士ならばそういうことは教えられている筈。

「――わかったから、少し落ち着け」

「直してくれるのか、俺の槍を」

「その前に、だ」

 アウルスは、何かあるのかと言いたげに目をぱちくりさせる門番の青年を見た……働き始めてせいぜい数ヵ月だろうか。しっかりした眼差しだが、何でも喋りそうだ。

「そこの鍛冶屋のなまくら主が普段どこにいるのか、手がかりはあるか。俺はギルドの野暮用でちょっとそいつに用があってね」

「……行くのか」

 門番は不思議そうな目で彼を見て、その傍にいる少女に視線を移した。まるで、その子が絡んでいるのかとでも言いたげな表情だ。

「見たところそんなに野暮でもなさそうだけど」

「……まあ、そう言われてみればそうかもしれない。お前もここの鍛冶屋に言いたいことがあるんなら、一緒に来ないか。その後で、少し遠くなるがうちの鍛冶屋に来ればいい」

 我ながらお人好しすぎるのではないかと想いながらアウルスは言った。門番は満足げな顔で頷き、行かせて貰おうと答え、そして何かに気付いたようにあっ、と声を上げる。

「あの鍛冶屋、ここの店の奥に住んではいるけれど、最近はどこかの貴族の未亡人のところに居座っているらしい。何でも、行政区の近くの北の端あたりの、何ていったかな――」

 火使いは思わず少女を見た。その表情は凍りついていて、それに気付いた門番はまさか、と呟く。

「……貴族の娘だったのか、お前」

 アウルスがかすれた声を出すと、少女は唇を引き結んでこくりと頷いた。

「クライア・サナーレ……父さんが死んだのは、南街区の穏健派の議会の人を支持していたから。夕方の散歩に出掛けたっきり」

 薄れた痛みがぶり返してきたのに耐えるような顔を見ても、鍛冶屋と門番は掛けるべき上手い言葉を見つけ出せずに黙り込んでいた。

「胸を一突きされてたの。私の家は術士の家だから、術を使われる前に動けるような人がやったんだと思う……でも、もう過ぎたことだし、私には何も出来なかった。一番年上なのに、光使いなのに、誰の心も癒せなかった。父さんの傷も――」

「もういい、わかった」

 アウルスはいたたまれなくなって少女――クライアの肩に手を回し撫でてやった。泣きそうになっていた少女はしかし、すっと顔を上げて笑みを見せる。

「大丈夫……父さんはいなくなったけど、私は大丈夫。今は、母さんのことが心配だから……あの鍛冶屋に会いたいなら、今から連れていってあげる」

 しばし間を置いて、鍛冶屋と門番は互いに顔を見合わせた。槍をかつぎ直しながらどうする、と訊いてくる薄く青い目に向かって、アウルスは行くしかないだろう、という念を込めながら肩をすくめ、眉を上げてみせた。

 そして二人はクライア・サナーレと名乗った少女の方を向き、それぞれわかった、という風に頷いた。

「じゃあ、こっち」


 サナーレ家の屋敷は、首都中央の行政区をぐるりと取り囲むエーランザ大通りに面しており、首都内をゆったりと横切って流れるアルヴァ川がすぐ横にあるとのことだ。少女は二人の前を進みながら自分のことについてぽつりぽつりと語った。シルディアナ共和国を治めている評議会には、行政区を除く首都の七街区それぞれと、国の各地にある町から選ばれた代表者が集まり、資源の手っ取り早い獲得の為の軍備強化を目指す急進派と、講和及び安定した諸外国との交易を求める穏健派の二つに分かれて争っている最中らしい。

「その急進派の中に、行政区代表で名門のシルダ家の人間もいるの。二千年も前からこの町にいて、昔は一族代々王様になっていたんだって。シルディアナ、もシルダ家に因んだ名前だしね」

「そういうのは誰に教えて貰うんだ、あんた」

 門番――この若者はアツェルだ、と名乗った――が不思議そうに問うと、クライアはあっさりとこう返した。

「父さんが色々教えてくれたの、知っておくことは悪いことじゃない、って」

「……そうなのか……いや、ごめん」

「どうして謝るの、何も悪いことしてないのに……まあ、それで、シルダ家の権威のおかげで急進派が強くなってて、私のご先祖様は王政時代に代々シルダ家に仕えていたんだけど……父さんは優しい人だった、戦争は多くの人が死んでいくものだ、って言ってて、穏健派の人を支持していたの」

「……大好きだったんだな、親父さんのことが」

 アツェルがそう呟いた。アウルスは何も言わなかった。

「うん、大好きなの、今でも。父さんが持ってる本は、昔に起きた戦争とか、シルディアナの国の北や東に住んでいる民族とか、竜と人に関する内容のものが殆どだった。私も読んだの」

 くすんだ茶色の癖のある髪がすうっと通っていった雨上がりの涼しい風に揺れて、小さな手は太陽の光を受け止め、少女は空を振り仰ぐ。何とも貴族らしくない服装に言葉遣い、振舞いではあったが、その中に芯の強さが垣間見えた。

 黙って聴いていた鍛冶屋自身、行政区代表のシルダ家の者が何やら動いているらしい、ということは噂で耳にしていた。だが、クライアは自分よりも遥かに政治に近い所にいたのだ。ここのところ武器や防具の注文が増えているとプラティウスが言っていたが、彼が数少ない情報から理解し把握できたのは戦の気配と波乱の時代の足音だけで、急進派と穏健派の存在など知りもしなかった。

 そして彼は思うのだ。得物をつくる身であるのならば、それが使われているこの国の状況を、自分はもう少し知っておくべきではないのか。だから、アツェルがアルヴァ川の底を覗き込んででかい魚だ、と大声を出すまで、己が橋の上を歩いているのに気が付かなかった。

「ああ、あれは駄目、食べられない」

「何で知ってるんだ」

 橋の欄干から身を乗り出す二人につられ、アウルスも川底を覗き込んだ。確かに、少し濁った水の中を一抱え出来そうなくらい大きな魚がぐるぐる泳ぎ回っている。

「うんと前にね、父さんが釣ってきて料理する、って言ってさばこうとしたら、背びれに毒があったの。刺された父さんは私が治したんだけど、腹を開いたら毒袋が詰まってた」

「……最後の晩餐になる所だったな」

「それ、父さんも面白そうに言ってた」

 門番の言葉に、クライアは笑いながら答えた。あの魚が何故あそこまで大きいのか、何となく鍛冶屋にも理解出来た。食べられないと知っていて人々も漁師達も捕らないからだ。

 やがて、橋を渡り終えた三人は左手に古びた大きな屋敷を見ることになった。少女が立ち止まって見つめる先にはおそらく王政時代の装飾と思われる竜の浅浮き彫り、角を基調とした紋様の荘厳な門。それは人の背丈よりも腕ひとつ分高く、その奥には手入れのされていない雑草だらけの庭、元は白かったのだろうが長い年月を経て黒ずんだ古い石造りの三階建ての邸宅が鎮座している。そう、周囲よりも低いのだ。人の気配は殆ど感じられない。

「……ここか」

 アウルスが呟くと、少女はただ頷いてこう言った。

「帰ってくるのは二日ぶり、追い出された時から雨が降ってた。あの男、気に入らないことがあったら私や弟を殴るようになったの」

「ますます放っておけないな、鍛冶師としても人間としても」

 彼は溜め息をついた。全く、今日は嫌なものを絶えず吐き出し続けているようだとさえ思えるくらいだった。

 クライアが黒ずんだ鉄の思い門を開けようとするのを鍛冶屋と門番は手伝い、育ちすぎた草の中の道を歩き、これまた入念な装飾の施された古く美しい屋敷の扉を開けた。

「……凄いな」

 アツェルが呟いた。余程驚いたのだろうか、その声は掠れていた。何故なら出た空間は太い柱が突き抜ける吹き抜けの玄関で、天井から吊り下がっているのは火の魔石が大量に必要な巨大なランプ、それも大樹のように明かりの部分が枝分かれした白金だった。無理もないがしかし、どの皿にも魔石は乗っておらず玄関は薄暗かった。

「……暗いぞ、クライア」

「……しょうがないじゃないの」

 門番が言うと、クライアはぼそっと返した。

「お金がないから使用人も雇えないの。登ろうとしたら母さんに怒られたし」

「まあ、そりゃあ誰だって怒るだろうよ」

 俺様でもな、と付け足した声は正面の階段を登って右側の扉の方から聞こえた。そこには無精髭を剃ろうともせず、胡乱な表情をしたいかにも不真面目そうな若い男が立っている。彼は再び口を開いた。

「帰ってきたのか、クライア。仕事は見付かったのか」

 少女はただ、その男を睨み付けた。きっとこれがイグナウス・フェルムとかいうなまくら鍛冶屋なのだろう、とアウルスは思う。そしてサナーレ家に居座っているのだ。

「それとも、そこに連れてきた奴らが客なのか。自分の家を華折にするのか」

「違う、そういうのじゃない」

「じゃあ、何なんだ。一人は兵士……最下級の、門番か。もう一人は何なんだ、得体の知れない野郎なんか――」

「俺は鍛冶師、アウルス・フルウィオルスだ。ギルドの用事でなまくら鍛冶師に勧告する為に来たんだ、仕事をしろ、とな。お前がなまくら鍛冶師のイグナウス・フェルムなのか」

 男のあまりの言い草に、火術士は下世話な喋りを遮って己の目的を主張した。相手は眉をひそめ、更に気に障るような抑揚を声に乗せる。

「なまくら、って連呼するなよ、まだろくに世間もシルディアナの今のことも知らないような青二才が。お前、きっと俺様がここにいる理由を聞いたら何も言えなくなるぜ。それと、まあイグナウス・フェルムは他でもない俺様のことだな」

 その分厚い面の皮に火球でもお見舞いしてやろうかと言いたくなるのをこらえて、アウルスは人を小馬鹿にしたような男――イグナウスに向かって言った。

「……俺は一応、儀礼用の剣を納品してきたところだ。プラティウスの親父も言っていたぞ、どうしようもない鍛冶師はいるのかと訊いたら、お前の名前が出てきた」

「……まあ、そういう風に振る舞っているからな、俺様は」

「……どういうことだ」

 アツェルがそこで初めて反応した。手入れのされていない顎を撫でながら一人頷くなまくら鍛冶屋に向かって、門番は続ける。

「あんた、直して貰った筈の俺の槍は一瞬でまた折れたんだぞ、金を払ったのが馬鹿みたいじゃないか。わざと脆くしたんなら、返してくれよ、金」

「金を返せ、って、俺様はたまに受ける仕事には真剣だぞ、失礼な」

 イグナウスは苦い顔で返答した。しかし、アツェルはまだ食らいついていく。一体いくら払ったのだろうか、それとも門番という仕事が余程割に合わないのか。

「だったら、暴走した草食竜を一発突いただけでぽっきりいくわけがないだろう、あんたが一番堅い鋼を勧めてきたから俺もそれに従ったのに」

 アウルスは思わず溜め息をついた。階段の上の鍛冶屋は心底他人を馬鹿にしたような表情で門番を見やり、クライアは視線をあさっての方向へやった。

「……何だよ、俺、何かおかしいこと言ったか」

「阿呆だな、お前。草食っていったって竜だぜ、堅い鱗に鋼が通るわけがないだろう。アウルスっていったか、お前も何で言ってやらないんだ、儀礼用の剣を打って納品する程の若くて有望な鍛冶屋なんだろう、違うか」

「……忘れていた」

 火術士は正直にぼそっと呟いた。門番は顔を赤らめて黙り込んでしまった。

 イグナウスが大きな溜め息をついた。まるでこの世の事物が全て情けなく見えるとでもいいたげな表情だ。荘厳な石の浅浮彫が施された階段の手摺に頬杖をつき、彼はまた喋り始める。

「全く、草食竜も含め、竜に刃で挑むなという当たり前のことすら知らないような奴まで共和国軍に入ってても何も言われないとは……軍も評議会も墜ちたもんだ。国が馬鹿な状態なのに戦争まで企んで…鍛冶ギルドもてんてこまいなんだろう、おい」

 アウルスをじっと見つめてくる瞳の色は鈍く光る鋼のような灰色だ。ふざけた口調であるのに変わりはなかったが、その視線は真剣だった。

「あそこの親父から何か聞いていないのか、アウルス」

「……注文は増えている、と聞いたが――」

「やっぱりな。開戦論者だらけの急進派評議員が、武器と一緒に人手も探してる。シルダ家の連中のことは知っているか、お前ら。今の当主のアブラクスが急進派に味方しやがった、七人の妻の子供達も半分が父にならえ、だ。奴ら、長男のミラクスを中心にして固まっている、術士が必要だとか何とか言って事もあろうに次女のアリオトーが俺様の店まで直々に来たぜ」

 絶世の美女だ、とイグナウスは付け足した。そして、俺様は水使いだ、と更に言ってふてぶてしい笑みを浮かべる。三人は沈黙をもって次を促した。

「戦争だぜ、戦争。いくら術士で鍛冶師で少しばかり武器が扱えるからって、わざわざ死ににいく趣味なんて俺様は持っちゃあいない。だから、アリオトーが寄ってくる店から離れたかったんだよ。何処かに隠れて乞食でもして生きていこうと南街区をぶらぶらしていたら、悲鳴が聞こえたんだ」

 そこで水術士は思い出したように姿勢を改め、その場で赤錆色の乱れた髪を掻きあげた。先程とは全く違う、背を伸ばせば大きな体。

「クライア、お前の父親は死んだな、急進派の連中にやられて。だけどな、ティリアも、お前達きょうだいも狙われているんだぞ、だからお前はそういう服を着ているんだ。俺様が悲鳴を聞いて助けたのはティリア、紛れもないお前の母親だ、クライア」

 しばし沈黙があたりを支配した。今晩炎が揺らめくことのないであろう天井の豪奢なランプはしかし、窓から差し込む陽光にきらりと煌く。イグナウスは尚も真剣な表情で続けた。

「逃げ場所が必要な俺様にとっても、主を失っても狙われ続け護衛が必要なサナーレ家にとっても、これは必然だ」

「……じゃあ、どうして」



・物語はここで止まっている。

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