第6話 書く時間

 書く時間へハサミを入れる。

 少し滲む血は時間も生きている証だ。

 だから手の中、強張り、反り返って暴れるけれど、もう押さえつけた後だからガマン、ガマン、と声をかけた。

 分厚い紙を切るような、手ごたえに芯はある。刃先からしっかと指まで伝わって、それは意志がなければ切り進めないことを知らしめていた。だからいったん緩めて交差を開く。また刃先へと力を入れた。わずかとその刃が食い込めば、今、自身がしようとしていることは思い知らされて、だとしてもう後戻りはできないのだ。躊躇したところで怯んでどうする。奮い立たせた。

 それもこれもこの暑さのせいで気が狂っての残虐、というわけではない。ひとつきり、つけたスタンドの明かりの下、影をくっきり落としたカタチがブサイクに見えただけだった。これでは書く時間も不憫だろうと、良きをはからい決心したに過ぎない。

 夜なのに、窓の外では蝉が懸命と泣いてる。

 鳴いている。

 聞きながらだ。良き場所を見極めると、ハサミを入れるその前に四方八方、手の中で回転させてはこねくり回し、刃を入れる場所をあれやこれやと吟味していたはずだった。このくらいの出血で済んでいるのもそのためで、残り半分と切り進んだところで自身の抜かりなさをしめしめ、と振り返りもする。

 などとしくじった、と気づけたのは、直後、我に返ったからだ。スキをつくと手の中で書く時間は暴れ出す。食い込む刃を嫌うと激しく身をくねらせ、こちらを驚かせかと思うと怯んだ手から抜け出した。わあっ、と上げた声はその勢いに椅子から転げ落ちそうになったせいだ。拍子に、半分切れた書く時間に思いっきりだ。噛みつかれる。痛みと恐怖で殴りつけると叩き落としていた。床で跳ねた書く時間は、気が狂ったかのように天井まで飛び上がる。闇雲さにぼん、とぶつかり血を降らせ、かぶってこちらもキチガイみたいに振り上げた手で払いのけた。散々な中を書く時間は、窓を破り逃げ出してゆく。

 千切れた体でふらふら行く後ろ姿はもうとっくに愛想をつかしていた。それはどうにも仕方のないことだけど、これじゃあ、とんでもなく悲しいままだ。

 足りない美的感覚と一方的な善意を詫びたくて、転げて椅子から這い出していた。部屋からも抜け出すと、靴の左右を履き違えたまま外へ出る。

 見上げればだいぶ小さくなった書く時間は夜空を飛んでいた。振り返ることない姿はもうそれだけで、何も書かずとも雄弁だった。

 だろうと追いかける。

 追いかけ、追って、追いすがった。

 けれどもつれる足はキモチのせいがほとんどで、冷静さを失い次の角を曲がり切れずにぬるい地面へへたり込む。上がる息にどうせ追いついたところできっと詫びる言葉の一つも出せやしないに決まっていた。そういう情けない生き物でいることを、無様な様子を、せめて空からせせら笑えばいいと思う。だから思い切り、夜だから思い切り泣いた。

 曲がるはずだった角からだ。そのとき足音は近づいてくる。

「あ、ケンちゃん」

 提げたコンビニのレジ袋はカップ麺で膨れていて、足を止めて彼女が驚きこちらを見ていた。思わず顔を上げたのはこちらこそびっくりしたからにほかならず、合った目に彼女は瞬きだけを繰り返す。

 やがてショートパンツからのぞいていた足が、前で静かに折りたたまれていった。ゆったりと、彼女は腰を落としてゆく。

「血が、ついてる」

 微笑んだ頬に、書く時間の消えた夜が蒼い。

 蝉はまだ鳴き止まず、迷わず拭った彼女は口づけもまた添えた。添えてこの手を掴取って引き寄せる。風をまとい、立ち上がった。

「仕方ないなぁ」

 言う声はけれど全然、仕方なさげじゃない。

「帰ったらラーメン食べようっ。太るけど」

 証拠に笑ってぺろり、舌をのぞかせ悪だくみへ誘う。

 けれど太るのも時間が生きている証拠だ。

 もう金輪際、ハサミは使わないよ。

「うん」

 もう疲れた。

 うなずき返す。

 歩き出した彼女の後を追いかけ、歩きづらさに靴の左右を履き替えた。ぴたりと沿う靴で再び彼女と肩を並べる。なら、ハフハフとハシですする味わいは早くも頭の中に広がっていた。

「味噌とさ、塩なんだけどどっちがいい?」

「あっと。味噌、取っていい?」

 もちもちシコシコ。ネギ浮く薄いチャーシューがお楽しみの、濃厚味噌味ノンフライ麺だ。

「いいよ。塩にするつもりだったからさ」

 もうそんな時間を書こう、と思っている。

 ブサイクでも。

 逃がさないように。

 二度と痛めつけない、ために。



※本作は 「note」の「シロクマ文芸部」お題、「書く時間」参加作品です

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