読みきり短編集

N.river

第1話 DROP

 水面の曲線は、あらがうことを忘れた穏やかさだ。

 眺めていたら、映った白い雲が開いた穴のように、向こう側へとぼくを誘った。

 出かけることは別段なれない準備の連続でもない。

 去年の夏、汗と労力をつぎこんで作り上げたボトルシップをひとつ。それから、ここぞで役立つに違いない雨傘。着替えはお気に入りだけで十分だ。そして寂しさを感じたなら紛らわせるための彼女の写真。寂しさなら、腹も紛らわせるためのビスケット。飲み物は冷蔵庫に残っているソーダ水が丁度だろう。

 それから……。

 膨れ上がった麻のリュックを見下ろして、ぼくはしばらく考えた。

 いいや、きっと必要なのはこれだと、絞ったリュックの口へ、最後に釣竿を刺し込む。

 玄関を飛び出す直前、ドロップを口に含んだ。残りの缶を戻しかけて、無理やりポケットへ捻じ込む。

 自然ともれる鼻歌は、水面の曲線とそっくりだ。

 抗うことを忘れた穏やかなメロディー。

 どちらに連れられ、どちらに導かれて、ぼくの足は自然と水辺へ向かう。やがてキラキラ光るそこに靴先を浸した。

 温度だって悪くない。

 匂いだって最高だ。

 振り返る。

 写真は持ってきたけれど、彼女にさよならを言っていなかったことを思い出して眉をひそめた。田舎の両親もだ。けれどどちらもしばらく会っていなかったなら、たいして重大なミスじゃないとうなずく。

 少し日の傾いた水面には、白かった穴がオレンジ色で張り付いていた。その色は、穴が閉じてしまうまでのタイムリミットを告げている。

 急げ。

 慣れているからと準備に気をかけなかったからもしれない。時間は思ったより過ぎ去っていて、ぼくは少し慌てた。けれど慎重にならなければならないのは、ここからだ。

 ぼくはリュックからボトルシップを取り出す。コルクの栓を抜いて、中の船が傾かないよう、そっと水面へ浸していった。まるで乾ききっていたかのように、ボトルは水を吸い込んでゆく。やがてふわりと船も浮かび上がった。小さな船には幾ら穏やかでもそれだけで大波なのだ。くすぐったそうにも見える動きで揺れて動くと、ボトルの中で出航の足踏みを踏んでみせる。

 見極め、ぼくはボトルをそっと後ろへ引いた。船は、その場に止まっていただけだけど、そのときから進み始めていたようだ。するり、ボトルの口から抜け出してゆく。

 抜け出した船の帆に、赤く焼けた日は差した。

 とたん風を受けたように帆はバン、と張る。

 ぼくが縮んだ。

 いや、そのとき船が大きくなったのかも。

 水面は穏やかなまま。

 そこに旅の足は堂々、浮かび上がってぼくを待つ。

 ボトルの中の水を捨て、ぼくはポケットに捻じ込んだ缶からドロップを移しかえた。ほら、こうする方が中が見えて、いいだろう。何かの役に立つかもしれない缶をリュックへ戻し、担ぎ上げて船に乗り移る。

 おっといけない。

 空の端はもう、青味がかって夜のマントをなびかせている。水面に開いていた穴も、下へ流され先ほどの場所とは違うところに開いていた。

 さようなら。

 心の中で呟く。

 ぼくは用意されていたカイで、岸を押し出す。応えるように進む船が、水面に開く穴めがけて走り出した。

 と、どこでどう聞きつけてきたのか、離れゆく岸へ彼女は駆けてくる。大きく振られた手には、夜のマント。彼女はその端を握り絞めていた。そうしてぼくへ懸命に叫んでいたようだけれども、もう聞こえない。ただその口元が動くさまだけを目にする。きっと見送りだから、ぼくはありがとうと叫んで返すことにした。夜のマントを振り続ける彼女を、小さく消え入るその瞬間まで見届けた。

 その目で、帆を仰ぐ。

 幾分、弱くなったけれど、オレンジの光を受けて帆は、まだまだ元気よく張っていた。証拠に舳先は真っ直ぐ穴へ向かって水面を裂いている。

 ぼくはカイを置いて、舳先へ向かった。

 今や穴はずいぶんすぼんで小さくなると、オレンジ色の縁をなぞって空気を、光を、歪めて吸い込んでいる。

 いよいよだ。

 見上げた帆は万全。

 いまなら受けた光にまだ飛べる。

 と船体が、穴の上へとせり出した。半分ほども進んだところでぐらり、穴の底へ傾いてゆく。

 ぼくは目を見開き、船をしっかり両手で掴んだ。

 落ちるという感覚なんてない。それは吸い込まれ歪み、流れるままに突き進む力だ。そうして穴へ潜りこんだなら、空がぼくの背後で青く変わった。

 間一髪。

 夜だ。

 マントでふたされた穴はみるみる、閉じてゆく。

 やがて回りに、先ほどと変わらぬ水面は広がった。時間だってほとんど同じだ。ただ少しばかり先を行っているのかもしれない。

 彼女はあの後、真っ直ぐ家へ戻れただろうか。心配になって胸のポケットをまさぐった。携帯電話はあったけれど、その液晶画面が光る様子はない。

 ぼくは安心することにして、マストの中ごろに吊り下げられた、たった一つの明かりをつけた。眠る前に読書もいいけど、おなかだってすく。ボトルから残りのドロップを取り出して口に含んだ。その味はいつだって僕を興奮させるけど、まだ足りない。

 ぼくはリュックから釣竿を取り出す。

 これが夢だったんだ。

 舳先に座り込んで、星の散らばる青い水面へ針を投げた。

 何が釣れるだろう。

 小さな小魚かもしれないし、一人じゃ食べきれないほどの大物かもしれない。ワクワクするのは部屋で出かける準備をしている時と、そっくりだ。

 ぼくは待った。

 すごく、待った。

 そして、待ち続けた。



 あれ。

 目を覚ます。

 最初に気づいたのは、釣竿がないことだった。そして次にようやく、待ちくたびれて眠ってしまっていたことに気づかされる。船から落ちなかったことだけが不思議なほどの幸運で、何しろそれほどまでに船は揺れていた。

 夜は明けているのだと思う。

 けれどもそれすらわからないほど、空には黒い雲が覆いかぶさり、強く風は吹いていた。

 帆が、千切れそうに張り詰めている。

 嵐だ。

 ぼくは慌てて船の中ほどに戻った。

 おなかがすいて、グーと鳴ったけれど、それどころではない。慌ててリュックを開く。こんな時のためにと、傘を持って来たのだ。見つけて白いそれを抜き出した。マストを背に、両手で開く。

 待ち受けていたかのように、大粒の雨は降り出していた。

 船がうねる水面に合わせ、斜めと傾ぐ。

 ぼくは転ばないよう傘を片手に座り込んだ。

 雨はますます激しさを増し、船を、ぼくを、この水面をこれでもかと叩き続ける。慌てたりしたら思うツボだ。堪えてぼくは、ここぞとばかりリュックからソーダ水を取り出した。傘をさしているのだけれど、雨にびしょぬれになりながらすきっ腹へ流し込む。つまみ上げた指先から、湿気て溶けてゆきそうなビスケットもまた舐めた。その味になんだか急に侘しくなってきて、涙がこぼれそうになる。実際、泣いていたかもしれないけれど、雨が酷くてそれはぼくにもわからなかった。

 酷いもので、それでも雨は止んでくれない。

 風もますます強くなる。

 ぼくはぼくを押さえつけることだけで、精一杯になった。

 飛ばされたリュックが倒れて口を開く。中からごろごろ、ドロップを収めたボトルは転がった。四角い缶ならこんなことにはならなかったハズなのに。ぼくは最後の食料に慌てて手を伸ばす。けれど、もう間に合わない。傘だって掴んでいなければならないからだ。

 やがてうねった船の縁から、ボトルは跳ねて水面へ飛び込んでいった。

 散々だ。

 と、思った瞬間、頭上で鈍い音がする。

 見上げたそこで、傘が破れて裏返った。

 そのむこう見えた帆も、また弾け飛ぶように白い布を翻している。

 その勢いに連れられてきたような大波が、唐突に船の中へと打ち上がった。

 役に立たなくなった傘を投げ捨て、ぼくはリュックへしがみつく。

 波に押し流された体が、ドンと船の縁にぶつかっていた。ぼくはずぶ濡れのままもう一度、深い眠りにつく。



 今度こそ、目が覚めた時の天気はよかった。

 そんなに悪い事は続かないものだと思う。

 流されてぶつけた体は少し痛かったけれど、天気がよければそれだけで最高だ。水面もいつもの穏やかさを取り戻すと、白い雲を映し出し、忘れていた鼻歌をぼくから引き出し始める。

 きっと嵐がぼくに、ごめんなさいと言っていたのだろう。甲板には、打ち上げた大波と一緒に飛び込んできた魚が二匹、残されていた。おなかがすいていたぼくは早速それを料理して食べた。けれど問題はそれからだ。ぼくは帆を修理しなければならない。

 そんなこと、初めてのぼくには不安だったけれど、マストに登ってすっかり破れてぶら下がったそれを。ぼくはどうにかくくり直してみせた。素人仕事のせいで、ずいぶん小さくなってしまったのが惜しいけど、どうにか形を整える。

 そんな帆が不恰好なせいか。それからというもの嫌って風は、吹いてくれなかった。帆をまんぱんに張らせるあの光も、差しはしなかった。

 ぼくはただ、途方に暮れる。

 どうにか奮い立たせようと、リュックを開いて彼女の写真を探してみた。あの嵐に流されてしまったのか、写真はもうなくなっていて、ずいぶんとしぼんだリュックを前に、ぼくもまた酷くしぼんでうずくまる。

 穏やかだけれど、水面は何も助けてくれない。

 と、ぼくは不意にあることを思い出し、立ち上がった。

 そうだ。

 確か造ったハズである。

 甲板の後方。

 そこに跳ね板はあった。

 駆け寄って、かかとでを甲板を踏み込んだ。板は驚いたように跳ね上がって、それをぼくはめくり上げる。

 小さな金庫はそこにあった。

 ぼくにその解錠番号は、お見通しだ。

 右へ五つ、左へ七つ、行ったところで十戻る。

 分厚い扉が、嵐を耐えて浮き上がる。

 開けば、二つ折りのサイフは納められていて、ぼくは肩まで船底へ手を突っ込み、金庫から掴み上げる。

 開いて中を確かめた。

 日はまだ高い。

 そして嵐はまたここへ、いつやって来るかわからない。

 ぼくは血眼になって右へ左へ、頭を振る。

 岸は見当たらなかった。

 けれどこう、考える。

 そうだ、風だ。

 風を買いに行こう。



 夜のマントをたたんで彼女は、ふと、岸に流れ着いた一本のボトルに足を止めていた。心地よさげに浮かんだその中には、七色のドロップ。

 拾い上げて、マントで水気を拭う。

 コルクの栓を抜いた。

 逆さにすれば、ボトルの底から剥がれて、たった一粒だけドロップは転がり落ちてくる。

 口に含んだ。

 甘い味が、喉を転がす。

 漏れる鼻歌。

 その調べは水面の穏やかさだ。

 乗って彼女はこれまでにないほど確かと、家へ足を運んでゆく。

 底でひとつに解け合った、ドロップのボトルを片手に。

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