“あゝ死者等の子供達よ!

だうやつて爾らは全ての生ける者より元氣であるの?”

ティアマト之聖典、涙之書


今や每晚、町と月樣との出會ひに行く。外の闇に出て足を土瀝靑に踏みだして靴墨にもぐる。其れは我を吸收して、我が思想をもつと暗くしたり、欲念をもつと罪深くしたりする。一步暗黑に。でも每層では靴墨が一樣に黑い。同じく黑い月はニヤニヤとして天上鴉片を吸ひつゝ、我になにかを囁くやう。皆は我になにかを囁く。それをハツキリ知つてる。それは精神分裂症でなく、我自らの聲は周りにある眼に見えぬ壁の中に反響を探し出す事である。又の孤獨の夜。貴女を會へることを願ふ。外に出る目的は壹つだけで、ナイフを持つ目的は壹つだけだ。貴女の家へ行く。其れは何處にあるつて知つてるよ。ある頃、無限のアクアリウムで流れるステュクスの水上を行く舩の中での蝸牛なる我は胸をこがしてゐたあの晚、貴女を家まで送つたことを、貴女は覺えてゐるのを希望する。あのとき、月樣は我等のために鮮やかに光つてゐたことを覺えてゐるのを希望する。我は純粹でつゝみなく愛が出來たり、あんな必要がなく影になつて貴女を付きまとはず鄰りに行つたり、我等は月樣を見ながら心の中で我はいま貴女の鄰りに居る事と貴女は我の鄰りに居る事を其れに感謝したりしてゐた快い頃も覺えてゐるのを希望する。美しさを見る事を、死に感謝する必要がなかつた。他人の心を引き拔く渴望がなかつた。自分の心を貴女に與へたから。でも不治の火傷を殘させ、いま其れを愛藏して詫びてゐるの。蟲のやうに這ふのでも、無心に動く筋に押し殺されるにも關はらず欲しいものがために戰ふのでも、幸せだつた。貴女は生きてゐるを見てゐて樂かつた。貴女は病氣になつたときに我は夜中に座禪したり我が暗き女神逹に貴女は元氣になるやうに祈つたりしてゐた。ある夜、貴女は寢てゐたうち我は片隅で座つてゐて一瞬閒でも貴女の夢を入らうとしたとき幸せだつた。貴女は生けるし元氣であるのを想像して幸せだつた。あれは、我はまだ靴墨に沈まなかつた頃だつた。あの頃に、そんなに歸りたい。いつか生ける愛の中に幸せだつたやうに今もそんなことができると自分を說得してみてゐるほど歸りたいが、結局我はなつた者を認めるよりほかはない。貴女から逃げられぬ。自分から逃げるわけあるのか!誠に、これは愛の値段であり、この十字架を得々として背負ふ。

死と手を組んで夜閒の神戶を步きながら心の中で貴女と一緒にもこんなふうに散步できるやうに祈る。

そして死は我に曰く「また彼女と一緖に居るよ。また幸せになるよ。每晚ナイフを持つ理由をよく覺えなければならないの。その意思を行へ!すると、また彼女と一緖に居る。約束するは。永遠に一緖に居る」と。

貴女の家へ行く。貴女の門口を覺えてゐるが、窗を知らぬ。門口の前に影で座つてゐて我は、扉が開いて貴女は出るを望む。無色の夜に建物の閒をさまよひつゝ角の曲がつて知る輪郭を見るのを期待する。目を閇じても自分の家よる貴女の家まで、目を開けたやうに行き着ける。

あんなふうに貴女の家の前に座つてをり、その所はいまから我が力所だと分かつた。氣持ちが惡いときに、惡夢は我を苦しめるときに、躊躇は心に忍び込むときに、我はその所を想像する。貴女の家をも想像する。貴女をその家まで見送るのも、月は空から明るく光るのも、我等は生けるのも、我は幸せであるのも、自分自身を今のごとく怖がることが無かつたのも、あの時に貴女は鄰りに居ただけから我は自分をそんなに嫌がらなかつたのもを思ひ出す。


**年二月十六日

”今日ハ夢ヲ見テ、アソコニハ貴女ガ居マシタ。捨テラレタ形ノ完璧。背ヲ我ニ向カヒ立チヰマシタ。ソシテ、自殺スルト、貴女ハ言ヒマシタ。我ニ呼ビ掛ケラレ、寛容ナル微笑ミヲシテ振リ向キマシタ。

我ハ、謙讓ニ微笑ミ、「サヤウナラ」ト言ヒマス。スルト、其ノ言葉ハ、エリコノ喇叭ノ音デアル樣ニ、我ガ世ハ痛ミカラ搖レニナリマシタ。喜悅ガ高スギタカラカ、アルイハ欲求不滿ヲ感ジタカラカ…。デモ其ノ後、安全ニ寢テヰル貴女ヲ見マス。貴女ハモウ、アノ悲シイ意思ヲ行ハントシテヰマセン。腹立チ我ハ呪ヒマス。

夢ハ續キガアツタカダウカ覺エテヰマセン“


あるとき彼女の父親を見たことある。物淒くて不氣味なるヤツだ。彼女の母親は本當に美しいであらうと想つた。その彼女の父親を下意識に憎しんでゐた。彼女は我に、彼に付いてなにかを言つたからだと思ふ。しかし彼女の母親を、一囘だけで見たことで姿をあまり覺えなかつたにも關はらず、敬慕した。その母親の幻の面影を心の中に藏しつゞけてゐた。

そしてその母親に祈つてをり、我はあんな不思議なる熱心に、記憶にすぎないものにするのを志す貴女の命を生んだことを、感謝してゐた。貴女の棺の鄰りに立つて「娘にそんな酷いことを誰が、何のために行つたか」と考へる貴女の母の淚を見たかつた。自分の娘は、實は憎らしいものであると分からずに彼女は泣いただらう。その娘の僞譱的なる實質を意識したら母親自身もそんなことを、いや、もつと酷いことを、娘に行つたかもしれぬと分からずに。そして我は、貴女の友が沈んでしまつたときに貴女と鄰りに立つてゐたと同じく貴女の泣く母親の鄰りに立ち、彼女は我が肩に泣きながら慰めを求め、我はその慰めを與へて彼女と悲しみを共にすると見せなむ。貴女は、ハーデースに於いてステュクスを通りつゝ、地下より我等を見たらだう感じたのだらうか。それだけを知りたい。その誇らしくてつじつまの合はぬ生物の他の思ひや感じを分かるのは、諦めた。

あゝまういゝ。この世には、つじつまなんか要るのか!天使の道は地獄を通つて神樣より高くなつて獸のカンカンで自分の尻と舞ひ、碎けた探照燈の光の中でジタバタする蟲に至るこの世に於いてこそよ。

拍手。

存在しない者逹は席を立つ。拍手し喜び勇んで耳に聞こえぬ聲で目に見えぬアンコールを願ふ。蟲は自慢して、その碎けた探照燈の光りの中でまもなく融解するらしい。

夜の靴墨をかぶつた我、貴女の家の鄰りに通つてゐたときに、その父親は窗から我を見てゐたことあるらしい。怖くなつて、我は早くあの所からなにかの遠い塲所に行かうとした。本當に彼だつたと怖がつてゐた。唯の氣の所爲だと今まで祈つてゐる。

あゝ、あんな汚らはしいものに與へられた面影よ!天よ、なんじに呼び掛ける!神樣よ、なんじに呼び掛ける!我をこの井戶に引きずり込んだ畜生に、その面影は一體だうやつて與へられたのか?感心してゐる、實は。だう、貴女はその面影を、そんな上手に操るのか!

だう、そんなことをしてゐるのか?分からぬ。だう、愛欲は、先づは冷淡になつて、その後は不思議なる憎しみになつたのかも分からぬ。貴女の魂も全く分からぬと同じ。この世の萬物も分からぬ。なぜならば、先の我が世は嘘だつたと悟つたから。もう、その世の圈外にあるものだけを見ることが出来る。

お辭儀と觀賞に値する微笑みも、ハトホルのやうな目付きも、貴女の爲に、貴女と一緖に死んで、我が記憶の中と我が筆が接した紙の中で永遠に生きるやう。

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