第3話 事件の日

 太陽が昇りきる前、私は日課のジョギングをするために寮を出た。街がまだ眠るような早朝で道路を通る車もほとんどなく、すれ違う人もごくわずかしかいなかった。

 前日に降っていた雨のせいで空気全体が少し湿っている。走りながら空気を吸うと、濡れた土のにおいが少ししてきて、お気に入りの音楽をかけて寮からそれなりの距離にある自然公園を目指した。

 公園につく頃には人も起き出して、ときおり同じジョギングを行う人や、犬の散歩をする人とすれ違う。もう何年も続けている習慣だから、ほとんどの人とは顔見知りになってしまっている。だからすれ違うときには軽い会釈をする。そういう付き合いもなんだかんだ嫌いじゃなかった。


 日課といっても走る距離は実は決めていない。調子が良ければ、自然公園を何周かして、悪ければ公園についた時点で寮に引き返す。日に寄ってコロコロと変わった。今日は調子が良い気がした。

 公園を走る。走るうちにふと静かだと感じた。自然公園には多くの鳥や野生動物が棲んでいる。普段は聞こえてくる鳥や小動物の鳴き声がまるで聞こえない。どうしても気になってしまって耳を澄まそうとイヤホンを外した。やはり聞こえない。そこでようやく気が付く。


 


 すっと背筋が冷えていく感覚がした。普段なら、普段であればもう誰かしらとすれ違ってもいい頃あいだ。どころかまだ公園内で誰のことも見かけてすらいない。

 足を止めて周囲を見渡す。見える範囲には誰もいない。それがなおさら不安を煽る。

 そんなときにタイミングの悪いことに湿った風が不安を逆なでるように強く吹いた。冷たい風が頬を撫でて身震いをする。風はそのまま公園の木々を大きくざわつかせる。


 ざわざわ、ざわざわざわ。


 音はそれしか聞こえない。枝が揺れ、葉が擦れる音がするばかりで他に音がしない。もう駄目だった。いつの間にか漠然としていた不安が恐怖に変わって、来た道を逆走していた。

 寮に戻ろう。寮に戻ってベッドに潜り込もう。そうして眠って、こんな怖いのはさっさと忘れてしまおう。そう、思った。


 まだ暗い、日も昇らない時間の話だ。


 きっとそうやって焦ったのが悪かった。走るペースを崩したせいで息が乱れて、呼吸を整えるために足を止めてしまった。そのときだった。

 茂みの中から伸びて来た腕に、つよく手首を掴まれた。悲鳴をあげる暇もなく、茂みの中に引きずり込まれた。とんでもなく強い力で、私はあっけなく地面に倒される。その上に覆いかぶさって来たのは、黒いパーカーを目深に被った男だった。

 辺りが暗かった、ちょうどパーカーの影に隠れて顔は見えなかった。はっきりと形になって現れた恐怖に声も出なかった。

 それから、パーカーの男の手が伸びてきて、思わず目を瞑ってしまった。皮膚に細い何かが刺された感触がして、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る