第87話:お前の分まで

 試合は一時中断していた。


「大丈夫だよ、晴斗。少し痛むけどプレイには影響ないから。そんな顔するなよ」


「いや……だけど。デッドボールなんて初めてだろう?」


 念のため一度ベンチに戻ってアイシングをしながら工藤監督に状態を確認されている悠岐の隣に俺は着いていた。悠岐は問題ないとアピールしているが監督の表情は冴えない。それは俺の怪我を見抜けなかったことへの戒めなのか、安易に選手の言葉を鵜呑みにすることなく、患部の状態を触診して確認する。


 そして。工藤監督が下した決断は。


「坂本君。ここで交代です。骨に異常はないと思いますが念のためコーチと一緒にすぐに病院に向かってください」


「監督! 僕は大丈夫ですよ! 少し痛みはありますが打撃にも守備にも影響は―――」


「ダメです。これが甲子園の決勝戦ならまだしも練習試合です。無理をする場面ではありません。それに秋季大会が間近に控えているんですよ? そこで君がいないほうがのよっぽどチームとしては致命的です」


 悲痛な面持ちで工藤監督は悠岐を諭す。俺も監督の意見に賛成だ。こんな・・・試合で無理をして怪我を悪化させるくらいならすぐに病院で診てもらって患部の治療に専念したほうがいい。


「監督の言う通りだ。ここで無理を通して怪我を悪化させて秋季大会にお前がいないほうがよっぽど辛い。ここは大人しく病院に行って治療を受けてこい」


「晴斗……でも……」


「大丈夫だよ。お前がいなくてもこの試合……負けたりしない。だから安心して休め」


 ポンと頭に手を乗せる。一番悔しいのは悠岐本人だ。だがチームのためにもそして悠岐の将来のためにもここは無理を押し通す場面ではない。安心させるようにくしゃくしゃと頭を撫でる。


「あぁもう! わかったよ! 大人しく病院行ってくるよ! だからそんな犬を撫でるような真似は止めろ!」


 鬱陶しそうに手を払う悠岐に俺は思わず笑みを零す。監督も微笑ましいやりとりに頬を緩ませていた。


 工藤監督が審判に代走を告げる。グラウンドはにわかにざわついた。デッドボールというアクシデントは野球ではよくあることだが、まさかそれで交代するとは思わなかったのだろう。もしかたら何故交代するのかと見当はずれなことを呟いている観客もいるのかもしれない。


 けが人はコーチと一緒に病院へと向かうべく準備をする。そんな親友に俺はヘルメットを被りながら、


「お前の分は俺がきっちり打ってくる安心しろ」


 と伝えた。悠岐に当てたのはおそらく力んだことによるコントロールミスだろう。その前の球が良かっただけに残念ではあるが、投手としてこの天才打者を相手にすれば余計な力が入るのは仕方のないことだ。


 だが、頭で理解できていても感情は別。到底納得できるはずがない。もし大怪我に繋がっていたらどうする。腕ではなく頭に当たっていたらどうする。選手生命が断たれるようなことがあったらどうする。


「晴斗…………」


「きっちりフェンスオーバーしてくるよ」


 最後にそう言って、俺はベンチを出る。


 試合は再開してバッターは4番を任されている真砂先輩―――右投げ右打ちの二年生。ポジションはライト―――は粘ったが三振に倒れた。


 3回の裏。ワンアウト満塁で俺の打席が回ってきた。


 悠岐の分は俺が打つ。序盤だが試合を決める一撃を。



 *****



 4番打者を三振に抑えたところでタイムがかかり、常華明城のキャッチャー益子はマウンドに駆け寄った。


「ここで今宮か。さっきスライダーを上手く打たれたな。投げて良し打って良しとか天才はムカつくね。そんなことより。国吉、お前今日は力みすぎだぞ? 何を気負っているんだ?」


「ふぅ……仕方ないだろう。この上位打線を抑えないと勝ち目無いんだから。力は入るさ」


 額の汗を拭いながら国吉はキャッチャーからの問いに答える。心ここにあらず。国吉の気持ちはこの円陣の中になく、その出陣を今かと待ちわびる相手バッターに向けられている。


「そういうことじゃなくて…………はぁ、もういい。お前のやる気はわかった。ただ、もうぶつけるなよ? 1回に二度もぶつけたらさすがに試合が荒れるからな」


「わかっているさ。話は終わりか? ならさっさと戻れ。ここを0に抑えて反撃するんだからな」


 国吉に胸をドンと叩かれた益子は頼れるエースの闘志を感じて心中で安堵のため息をついた。自ら招いた逆境だが、彼の炎は衰えるどころかさらに勢いを増している。これなら大丈夫だと確信した。


「すぅ……ふぅ…………」


 タイムが終わり。深呼吸をしながら打席に立った今宮を睨みつける。国吉の心中は益子が想像している以上に燃えていた。親の仇を見るような憎悪の感情すらその瞳に宿っている。


 対する打席の晴斗の瞳にもまた、国吉と同じ光が灯っている。その証拠に、彼はゆっくりとバットの先端を国吉に向けている。この動作は怪我で無念の途中交代をして、今はベンチに下がった男がしたのと同様の意味を含んでいる。


「晴斗…………」


 そんな。普段打席に立つときは滅多に見せることのない親友の背中を見て。ベンチに退いた悠岐はその思いを知る。


「ふざけやがって…………!」


 三度目の予告ホームラン。しかもそれをしてきたのは投手としては神に愛されているとしか思えない才能を有しており、それは国吉も認めるところではあるがまさかそんな男がこのような挑発的な態度を打席で見せるとは。さすがの国吉も頭に血が上る。


 彼女である恵里菜が見ている目の前で。元彼氏である男にホームランを打たれるわけにはいかない。いや、一打席目にヒットを打たれたことさえ悔しかった。


 一球目。目には目を歯には歯を。アウトローにアウトローを。大きく足を上げてしっかりと体重移動を行い、外角低めに構えるミット目掛けて思い切り腕を振ってストレートを投げ込む。


「―――ッシッ!」


 キャッチャーの益子は心中で思わず馬鹿野郎と叫ぶほどに国吉が投げた直球のコースは甘く高めの真ん中に入ってきた。それを逃すまいと晴斗は力いっぱいスイングする。


「ストライク!」


 しかしバットは空を切る。だがもし当たっていたら長打、それこそフェンスオーバーになること間違いなしのスイングスピードを目の当たりにして、打者今宮晴斗の才能の片鱗を益子は感じ取った。


「晴斗! 引き過ぎだ! リラックスしろ!」


 ベンチから悠岐の声が飛ぶ。それに反応した晴斗は一度打席から出ると何度か深呼吸をする。まるで逸る心を抑えるように。冷静になれと言い聞かせるように。


「フゥ…………」


 ゆったりと構える晴斗。その両肩には先ほどまでの力みはなく、マグマのように燃え滾っていた闘志は鳴りを潜め、今はただ静かな氷のような冷気を纏っている。この一瞬の変化に益子は戦慄を覚えた。


「―――ラッァ!」


 二球目。益子のサインに何度も首を振り、国吉が選択したのは初球と同じ外角へのストレート。今度はコース、高さともに完璧。右のサイドスローから投げ込まれる右打者への外角低めの140キロ近い直球はそう簡単に打つことはできない。


 ズバッ―――


「ストラ―――イクツー!」


 晴斗の身体はピクリと反応していたが手は出してこなかった。コースが厳しいと思ったのか、それとも変化球狙いだったのか。それはわからないが国吉の強気の姿勢が勝ったことに益子は安堵する。


 三球目。理想的すぎる展開だが慢心はできない。見せ球を要求するか、それとも決めに行くか、はたまた際どいコースで誘いに行くか。国吉バッテリーの選択は―――


「ふぅ―――はぁ―――ふぅ―――はぁ―――」


 対する簡単に追い込まれた晴斗の心境はしかし落ち着いている。マウンドに立ち、打者を圧倒している時と同じくらい、深く深く集中している。


 投じられたボールは身体に向かってくる。ストライクゾーンからは外れているので見逃せばボールとなる軌道を進んでいる。だが晴斗の目はその硬球の縫い目まで確認できるほど回転が見えていた。


 国吉が選択したのはフロントドア。内角からストライクゾーンに曲がってくるスライダーだった。


「――――――」


 晴斗はすぅとバットを引く。心に刻んだ悠岐の助言を思い出して引き過ぎず、最適な位置にトップを置く。その場所は二球目を見逃した際に修正は済んでいる。


「―――ッシッッ!!」


 空気を切り裂く鋭いスイング。甲高い金属音がグラウンドに鳴り響く。


 晴斗はバットを静かに置いて。レフト方向に高々と舞い上がった打球を確認しながら悠然と歩き出す。


「…………ウソ、だろ……?」


 がっくりとマウンド上でうなだれる国吉。


「満塁……ホームランなんて……そんな、悟史さん……」


 その姿を泣きそうな目で見つめる国吉の彼女。


「…………」


 晴斗は無言で、ただ静かにダイヤモンドを一周した。


 試合を決定づける、エースによる場外満塁ホームランが叩き込まれた。

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