9−3「勧誘現場」

清掃場所に戻ろうと防護服で場内の廊下を歩いている最中。

階段付近で女性と若い男性の声がポソポソと聞こえた。


『ねえ、さとるくん?何度もあっているんだから、ちょっとだけでいいから顔を見せてよ。こんな時にしか会えないでしょう?』


「えっ…こんなところで。ちょっと、ダメだよ。」


(ええ…っと。)僕は思わず足を止める。


どうしたものか。通り道の関係上、階段を上らないと次の清掃先に行けない。

でも、目の前では明らかに何かしらのコトが起こりそうな雰囲気であり、ここでうかつに入ってしまえば明らかに向こうからヒンシュクを買いかねない状況もあるわけで…


そうして階段近くで悶々としている僕に、背後から主任の声がかかった。


「なーにしてるの?さっさと行かないと時間が押しちゃうわよ。」


完全な不意打ち。その言葉に僕は思わず階段に踏み込んでしまった。

(…あ、やべ)そして僕は目の前の光景に完全にフリーズした。


階段の隅で舞台衣装を着たままの女優と防護服の上を脱いだ撤去班と思しき男性がバッチリキスをしている。


キャーと言って僕はその場から逃げ出したくなったが、この手の状況には慣れているのか女優は軽く微笑みながら男性を階段に置いて上へと向かい、男性は見られたことがショックだったのかそのまま階段に座り込む。


「…あ、えと。お取り込み中にすみませんでした。」


そう言って気まずい気持ちでその場から離れようとすると僕の首根っこを主任は「落ち着け童貞」と言いながら押さえつけ、すぐに無線で全体連絡する。


「こちらエージェント・ドグラ。現場は北階段1F。撤去班の佐藤哲がフェーズ2に移行する可能性があり、緊急時とみなし回収します。情報漏洩に心当たりのある人物は今すぐ外部設置の救護班テント前に出頭するように。」


そして主任は僕の肩を叩いてこう言った。


「急ぐわよ、さっさとコイツを外にある救護班のテントに放り込まないと。」


「え…あ、はい。」


なんだか瞬間的にひどいことを言われたような気もするが僕は上半身を主任は足の部分を持って男性を外のテントまで移動する。そこで気づいたことなのだが、男性は心ここにあらずと言った感じで体に力が全く入っておらず、しきりにブツブツと「行かなきゃ…行かなきゃ…」と何事かをつぶやいていた。


「救護班!フェーズ2に移行する直前の撤去班職員。名前は佐藤哲。すでに名前が周知されている可能性あり。」


テントに男性を運び込むと、常駐していた防護服の看護師が男性を回収する。


「呼吸停止!体温心拍数、脈拍数ともに低下!AEDを急いで!」


数人の看護師がテント内を大急ぎで駆け回る中、主任が僕の肩をたたく。


「…出ましょう。もう、彼は手遅れだから。」


「え?」


そしてビニールシートで覆われた救護班テントと劇場の入り口をつなぐ通路のところで、エージェント・カサンドラの怒号が聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る