一の巻
1
ここはどこ――? 森の中……、暗い。
「フェングェナンドニファアラデ、マコトフィトナリ」
たちまち明るい光が目の前にさし、目を覚ます。人に取り囲まれている。慌てて跳ね起きようとしたけれど、なにしろ重い十二単を着たままなので体の自由がきかない。
明るい光はたいまつの炎。人は三人で、みんな若い女性。でも変な格好。坊さんの服着てるし。
「隆浩!」
慌てて首をひねってみる。
そばで隆浩も下人姿のまま倒れてたけど、驚いて起き上がっている。そんな姿が炎に照らし出されて見えた。
「オドロカシェタマフィシヤ。ナド、カヤウナルトコロニ、フシタマフェル」
この人たち、何言ってんの? 外国人? でも顔は日本人だし、言葉も外国語みたいだけれど日本語のようだし。
もしかして方言? たしかに、関西弁のアクセントって感じだけど。
「イドゥカタヨリ、オファシェル」
「ここはどこ? あなたたちはだあれ?」
私の言葉を聞いて急にびっくりしたような顔つきになって、三人の坊さん服の女たちは互いに顔を見合わせていた。
「ワレラガテラナレバ、マドゥファ、クリニオファシマシェ。ウィテコショマウィラメ」
私を助け起こそうとしているみたい。もう一人は隆浩の介抱に当たっている。
まわりは真っ暗で、たいまつの炎だけが頼り。
でもすぐに分かったけど、私たちが倒れていたのは何かの建物の庭だってこと。だってすぐに建物に着いたから。
「ニファニフシタルモノアンナルトイフファ、ショレニテカ」
手にろうそくを持って出てきたのはお婆さんで、やはり坊さんの服を着ている。尼さんだなのかな。そう思うけど、頭がボーッとしておまけに軽い頭痛もしてる。まともに思考回路が働かない。
建物の縁側に上がった。もともと長袴だから、履物なんて履いていない。
家のような建物はこんなに暗いのに電気もついてなくて、小さなお皿に入った芯に火がともっているだけなのが唯一の照明。
全体的に古いお寺みたい。部屋は畳もなく板張りで、私はその上に座らせられた。
そこにさっきのお婆さんが、向かい合って座る。建物の中に入れられたのは私だけで、隆浩は別のところに連れて行かれたみたい。
「オンゾミタマフルニ、ヤンゴトナキカタトゾオボユル。ナドワガテラノニファニフシタマフェル。アルヤウコソファ」
とにかくなんて言ってるのか全く分からない。だから答えようがない。
いったい何なの、この人たち。山の中で暮らす変な趣味の人たち? ここはよっぽど田舎の山の中? だって、こんなわけの分からない言葉を喋るなんて。
「ここはどこなんですか」
またもや私の言葉におばあさんは目を伏せて、黙って静かに首を横に振っていたりする。
「フィナノコトバニヤ。マタ、イトドシタトキコト。エオボイェズ」
独り言のようにしてつぶやいたあと、お婆さんは優しく目を上げた。
「コヨフィハ、コウジタマフィケルランカシ。イマファトク、オフォトノゴモラシェタマフェ」
何だか悪い人ではなさそう。親切心が伝わってはくる。でも、何て言っているかが分からないのは困る。それよりも何よりも、今の自分の状況は……。だけどそれを考えるにはもっと落ち着いて、頭の中をゆっくり整理しなければならないみたい。
若い尼さんが入ってきた。
尼さんとは言っても髪はおかっぱぐらいはあって、丸坊主ではない。手には箱に入った布がある。優しく私を立ち上がらせて、服を脱がせようとする。
やっと十二単を脱がしてくれるんだな、着替えを持ってきてくれたんだなと、一安心。
多分この人たちも、私がこんな昔の服装してるからびっくりしてるんだろうなと思っていたら、この人たちの手際、あの着物学院の先生たちよりよっぽどテキパキしてる。
ところが一番下の白い着物と赤い袴だけになったら、今度は黒っぽい服を上から着せられる。
「アマデラナレバ、カヤウナルモノノミファベルニ、ユルシャシェタマフェ」
え、なんでなんで、どうして全部着替えさせてくれないの?…って思ってるうちに、尼さんが手に持つろうそくの光だけを頼りに別の部屋に連れて行かれた。
そこも板張りだったけども、畳が二枚だけ敷いてある。ここで寝ろって? 掛け布団は?
とにかく頭の中はパニックだけど、頭痛は前にも増して私の考える力を奪っていた。
まずは敷き布団もない二畳だけの畳の上に横になった。もう初夏の頃だけれど、まださすがに何も掛けてないと寒い。
だから私はさっき上から着せられた黒っぽい服を脱いで、それを掛け布団にした。その様子を見ても若い尼さんは、布団を持ってきてくれそうもなかった。まるで着物を布団代わりにするのが当たり前のような顔をして見てる。
若い尼さんが火を消した。たちまち部屋の中は真っ暗。私は暗闇を見つめながら何がどうなったんだろうと頭の中を整理してみることにした。
ショーの本番中、階段から落ちたんだ。だけど記憶はそこまでで、その後一瞬だったか長い時間だったかは分からないけど、とにかく私は隆浩と一緒に夜の山の中のこの家の庭に倒れてた。
その間がどうしてもつながらない。
そして今、頭は朦朧としている。これ以上、考えるのは無理。
そのまんま私は、眠りに落ちていった。
うるさいくらいの小鳥の声。そして、戸の隙間からはうっすらと日が射している。
目を開けた。
知らない天井…じょ…じょ……天井がない! 頭の上はいきなり屋根裏。
そうだ……昨日の記憶がよみがえる。状況は何も変わっていないみたい。
昨夜のことも全部夢だったっと思いたいけど、このシチュはどう見ても夢じゃあない。
外はもう明るくなっているみたいだけど、締め切られているので部屋の中は暗い。
立ち上がって戸を開けてみた。だけど動かない。横に引いても開かないのなら押してみようと思って押したら、上半分だけ向こう側に跳ね上がった。
こういう窓なんだ。下半分は壁のままだけど。
開けた途端に明るい光と一緒にちょー新鮮な空気が飛び込んで来た。
こんなすがすがしい気分になったの、どれくらいぶりかなあ。
緑がめちゃまぶしい。本当に大自然って感じ……って、そんなことに感動しているバヤイではない。今の自分の状況を把握しなきゃ……。
上に押し上げている戸は手を離すと閉まってしまうので、押し上げたまま私は隆浩を呼んだ。
窓のすぐ下が庭なのではなくって、手すりのある縁側がついている。やっぱここはお寺のようで、同じ建物の中から女の声でお経を読む声が聞こえてくる。
「ミッコ!」
来た来た、下人姿の隆浩。わらじをはいて、庭を小走りに駆けてきたよ。
「あんた、どこに寝てたの?」
「離れの小屋みたいなところ。土間に藁布団だったぜ。おめえは?」
「一応畳の上に布団敷いて」
「それにしても、ここどこなんだよ。何で俺たち、こんなとこにいんだよ」
顔がマジだ。それは私だって同じ。
「ショーの最中に、おめえが階段から落っこちてきたんだよな」
「うん。そのあとは?」
「分かんねえ。気がついたらここに倒れてたんだ」
「いったいどういうこと?」
「こっちが聞きてえよ!」
「誘拐……? 階段から落ちた瞬間に意識を失って、その間にここに運ばれた? ああ、でも……でも、こんな森の中に倒れてたってのは変だね。誰が何のために?」
「瞬間テレポーテーションとかだったり……?」
「んなことあるわけないじゃん」
「ここは寺?……だよな……」
隆浩は、あたりをきょろきょろと見回した。
「だったら昨日の人たち、尼さんよね。ぜんぜん言葉が通じないけど、でも私たち見てちょーびっくりしてたって感じだったし、なんか一所懸命いろんなこと聞いてきた。何言ってるか分かんないから答えようもなかったけど」
「まあ、そりゃこんな格好でこんな所に倒れてたら、誰だって驚くだろうけどな」
「オドロカシェタマフィヌルヤ」
そのとき後ろから、あのお婆さんの声がした。
「今は戻って。あとで呼ぶから」
私はそれだけ隆浩に言うと、押し上げていた戸を下した。
「カウシアゲシャシェテン。ヤヤ!」
お婆さん、誰かを呼んでる。
そうしたら戸の外に何人もの人の足音がして、一方の壁の上半分が一斉に上に上げられた。
上げた所で、金具で固定するんだ。
部屋の中は一気に明るくなった。今度は窓のように開いたところに、内側から若い尼さんたちが一斉に簾を下す。そんなところから、やっぱここは京都なんだなという気がする。
本格的な京都のお寺だ。
昨日は暗くてよく分からなかったけど、自分が寝ていたところは個室じゃなくって、大広間の一角をいくつかのカーテンみたいな布が下がったパーテーションで仕切られていただけの部屋だったんだ。
目の前にはあのお婆さん……年とった尼さんが立って、私を見つめている。
そしてニッコリ笑う。人のいい、優しそうなお婆さんみたい。こんな状況じゃなかったら、親近感湧くんだけどなあ。
白髪頭でおかっぱというのも、お年よりにしてはかえって若々しく感じる。
「ウィシャシェタマフェ」
お婆さんが座るから、私だけ突っ立っているわけにもいかず、ゆっくりと板張りの上に座った。
「シャテコソ、イカナルオンカタニテオファシマシファベルヤ。ケフコソファモノノタマフェ。ナドカクファモダシタマフェル」
ゆっくり喋ってはくれているんだけど、やっぱり分からない。だから私は、黙っているしかない。
「ツレナウモ、ナモダシタマフィソ。コモ、ミフォトケノオンミチビキトコソオボユレバ、シャルベキチギリヲ、ナカナカナルコトニシェザランフォドニ、ファヤ」
何かしきりに、私に聞いている。でも、何て答えたらいいの? 人のよさそうな顔に困ったような表情が浮かぶから気の毒にもなってくるけど、困っているのはこっちだって同じよ。
「ワレファ、コノテラノアルジニテナン」
「ごめんなさい。言葉が分からないんですけど」
私の言葉を聞いて、またびっくりしたような顔でお婆さんは私を見る。
「私の言っていること、分かりますか?」
ますますお婆さん、首をかしげる。
標準語も通じないんだ。
京都がいくら古い都だからって、こんな人たちがまだいるなんて信じらんない。
これが本当の伝統的な京都弁? 山代さんがしゃべってた関西弁とはぜんぜん違う。それに、テレビで見た舞妓さんだって、こんな言葉はしゃべっていなかった。
とにかく、早くここを出るのがいちばんみたい。
でも、その前に……お腹すいたあ。昨日の夜から何も食べてないんだもん。
そうしたら、別の若い尼さんがお膳にのったお椀を持って来てくれた。
朝食を出してくれるみたい。お婆さんは一旦奥へと引っ込んだ。
だけど、なんでお粥? それにお椀も、これ、なんていうのほら、ジョーモン式土器っていうか、あるいはよく観光地で名前とか絵とか書かせてくれる素焼きのお椀じゃない。
それにお箸もどう見たって、そのへんの木の小枝を二本拾って来たとしか思えないやつ。
ま、とにかく、いいにして食べることにした。ここは一応お寺のようだからと思って手を合わせると、尼さんはそれが気に入ったみたいでニコニコ笑った。
食事が終わってしばらくすると、それよりももっと差し迫った重大な問題が私には起こっていた。
通じないだろうけれど一か八か……。
「あのう、お手洗い」
やっぱ、通じない。
「トイレ。便所」
いろいろ言ってみたけど、やっぱだめ。
しかたないから、おなかをポンポン叩いて、足踏みして見せた。そしたら、やっと分かってもらえたみたい。
でも、トイレに連れて行ってくれるのかと思ったら、お婆さんはパーテーションの向こうになんか叫んだだけ。
「シノファコ、マウィレ!」
するとすぐに若い尼さんが、博物館にでもありそうな奇麗なふたつきの、重箱のようなものを持って来た。お婆さんは、入れ替わりに出ていった。
「ツカウマツラメ」
――使うのを持っている――なんて言ってるのかなあ。
そう思っていると尼さん、人の肩を押して座らせようとして、そして袴の脇からふたを取った箱をお尻の方に入れようとする。
「ちょっと何すんのよ! やめてよ! 自分でできるよ! 子供の検便じゃあるまいし!」
あんまりイライラしてたので思わずものすごい剣幕で怒鳴ると、尼さんはびっくりして箱だけ置いて行ってしまった。
でも、もう限界。この箱って、携帯トイレ? つまり、おまるってこと? だってさっき、これにしろって感じだったもの。
この家って、トイレもないの? とにかくどうでもいい。もはや一刻の猶予もならぬ!
だけど、袴が脱げない。どう脱いだらいいのか分からない。とくかくやたらめったら足踏みしながら紐をひっぱってたら、やっと脱げた。
こんな部屋の真ん中でとも思うし、誰かにのぞかれてたらって気にもなるけど、でももう恥も外聞も言ってられない。思いきり箱を使わせてもらった。
終わった。あっ! 紙がない! ところがすぐにパーテーションの後ろから、さっきの尼さんが入って来る。慌てて私、ぱんつをあげる。
すると尼さん、箱にふたをして、どっかに持っていこうとするじゃない。ただただ、アゼン!
それより、ぱんつ汚れる。汚なーい! 気持ち悪ーい!
とにかく、またあの尼さんが戻って来る前にここを逃げ出さないと……。
ちょうど人がいなくなった今がチャンス!
袴と昨日着ていた十二単は置いていこう。あとでお母さんに叱られるかもしれないけど、事情を話せばわかってくれると思う。それよりも今は、一刻も早くお母さんのところへ帰る方が先決。
「隆浩!」
そのへんにあった適当な草履をはいて、私は庭に出て呼んだ。隆浩はすぐに来た。
「逃げよう!」
「え? なんで? 何かあったのか?」
「いいから、早く!」
白い着物だけで、私は一目散に駆けた。そういえば、かつらはつけっばなし。でもとるのも面倒。隆浩も下人姿のままで、頭には変な帽子かぶってる。
しばらく森の中を走って、息が切れた。二人して土の道に座り込む。
「ねえ、朝ご飯、食べた?」
「ああ、お粥もらったよ」
隆浩も、肩で息をしている。
「それより、なんで逃げなきゃなんないんだよ」
「あそこの人たち、狂ってる。頭が変。言葉も通じないし。変態寺だよ、あそこ! それに……」
さすがにトイレのことは、隆浩には言えなかった。
「そうか。俺も変だなって思ってたんだよ。それよりここ、東山ホールからそう遠くはないぜ。ほら、あの山」
隆浩が指さした山は、たしかに東山ホールの入り口から見えていた山。とすると、おととい山代さんと車で登った山……
「東山ホール探そうぜ」
隆浩に言われてもまだ呼吸が整わずにいた私は、なかなか立ち上がれなかった。隆浩は私の手をひいて、立ち上がらせようとする。いつもなら「さわんないでよ!」とか言ってその手を払いのけるところだけど、今日は不思議と自分から手を出している。あ、トイレして洗ってない手……ま、いっか。
でも、どこ探しても東山ホールどころか、舗装している道や民家すら見当たらない。おかしいなあと思うけど、どこまで行っても森。
だんだん心細くなってきた。お母さん、心配してるだろうなあ。お母さん……!
とうとう私、泣き出して座りこんでしまった。隆浩が困ってる。それは分かるんだけど……。
「バカ、泣くな。山に登ってみようぜ。俺たちがだいたいどのへんにいるか分かるんじゃないか。京都にいることは、間違いないんだから」
泣きながら、私はうなずいていた。
だけど実際山に登るとなったら、私の方がお手のもの。
生物部の植物群生調査や昆虫の生態調査で、山登りは慣れてる。でも、着物と草履で登るのはやっぱつらい。裾をまくり上げて帯にはさんで、汗を袖でふいて登る。
そんなこんなで、やっと頂上。
そしてふりかえってみる。おとといと同じようにここから京都の町が一望……いちぼ……いち……え?
おととい見た京都の町じゃあなぁぁぁぁい!
同じなのは、町を囲む山の形だけ。これだけは間違いなくおとといに見た景色と同じ。そして川が、右の方から流れてくるのも同じ。
でも違う!
広い河川敷を、流れが分かれてくねっている川になってる。川の向こうにも、ビルなんかない。昨日はほとんど見えなかったきれいな縦横の道がはっきりと見える。かなり広い道もあるのに、とにかく車が一台も走っていない。
御所の四角い森はなく、山代さんが二条城だって言っていたあたりにもっと何倍もの大きな四角い部分があって、その中には大きな屋根がいくつも並んでいるのも見えた。
私、おととい見た風景と比べてみようと思った。確か昨日撮った写真があるはず……って、スマホがない!
そうだ。着替える前にテーブルの上に置いたかばんの中だ!
「隆浩。スマホは?」
聞いたけど、隆浩は古都こちにかたまって景色を見てる。
「隆浩!」
私がもう一度呼んでも、隆浩の目は景色から離れない。
「まじかよ!」
それだけ言うと、隆浩は景色を見て完全にフリーズして立ちすくんでる。
「これ…………これ…………」
やっと震える声で。隆浩は言った。。
「これ、平安京だ! 日本史の教科書に載ってた平安京だ」
「平安京って、あの、昔の京都?」
「俺、おととい、ここから景色見てた時、今の京都はずいぶん昔の平安京とは違うんだなあって思ってた。でもこれ、教科書にあるとおりの平安京じゃんかよ」
隆浩の声は、まだ震えていた。
「あれが大内裏。そんでそこから横に出てる広い道が朱雀大路。ガチで昔の京都だ」
指さすその手さえ、震えていた。川よりこっち側には大きなお寺の屋根がたくさんあって、やたら目立ってるちょーでっかい塔もある。八角形で、九重くらいはあって、そんで屋根は全部茶色。でも……、おととい見た京都の景色には、こんなの絶対になかった。もしあったら、印象に残ってないわけがない。
「でも隆浩。昔の京都だなんて言ったって、あの塔、新しそうじゃん」
「バカ。だからこそ昔なんだよ。平安京なんだよ」
「え、ちょっと隆浩。それ、どういうこと? 何が言いたいの?」
それには答えずに隆浩は、マジな顔で景色を見ていた。それからあたりを見回しはじめた。
「おい、あれ!」
隆浩は急に彼は駆け出す。
「ちょっと来てみろ!」
「なに?」
そっちへ行ってみると、土がこんもりと盛られた塚があった。
「これ、おとといも見た将軍塚だろ」
囲いの柵も立て札もないけれど、隆浩に言われればたしかにおととい見たのと同じ塚のような気もする。塚の土台の石垣に見覚えがあるといえばある。でもその塚のほかは周りを見ても、あの時あったお寺の小さなお堂も抹茶席も今日はない。今はただ自然の中に、ぽつんと塚はある。それにあの時はけっこうたくさんの観光客が塚の周りにいた。今日はまだ朝早いからかもしれないけど、誰一人として人はいない。
「おい、なんか聞こえるぞ!」
「え、もしかして地鳴り?」
塚の下から聞こえてくるのは、ゴーッという音。
「車の音かなあ?」
もし本当にそうだったら、めっちゃ救われるけど。
「いや、
でも地震のような揺れはまったくない。隆浩も顔もこわばらせていた。そしてその顔をゆっくり上げて、マジな目つきで私を見た。
「おい、ミッコ。狂ってるのはあの尼さんたちじゃねえ。俺たちが狂っちまったんだよ」
「もうとっくに狂ってる! 十分、気が変になってるし」
「そういう意味じゃねえよ。いいか、俺たちがここにいるってこと、それ自体が狂ってんだよ」
「どういうこと?」
「俺たち……」
隆浩は、一瞬目を伏せた。
「タイムスリップしたんだよ」
「はあ? ばか! ふざけないでよ! こんな時に!」
「ふざけてなんかねえよ! じゃあ、この景色、どう説明すんだよ!」
たしかに何も反論できない。私は思わず、その場に座り込んだ。
「まじ最悪! どうしてこういうことになるかなあ! もう、信じらんない!」
「たしかに、信じらんないよ、俺も。でも、そうとしか考えられないじゃんかよ」
隆浩は興奮して怒鳴ってる。
私、座り込みながら地についた手の周りの草とか、土とかの感触を確かめたし、周りの木々を見上げても見た。
そう言ったものは全く普通で、異変は感じられない。狂っているのは山の下の景色だけ。
「とにかくあのお寺に帰ろう」
しばらく呆然としたあとに、隆浩が言った。私は顔をあげた。
「え? あんなとこに帰ってどうすんの?」
「とりあえず落ち着けるところは、あそこしかねえだろ。とにかく一度帰って、冷静になって、それから考えようぜ」
「とりまそうするしかないか」
こうなったら、隆浩の言うことを聞いた方が無難かもしれない。
もと来た道をしかたなく降りはじめる。その時……目の前を一匹の蝶が飛んだ。
「え? まじ? ちょっと待って! これ、オオムラサキ! めったに見られない日本の国蝶!」
登る時は必死だったので気にする余裕もなかったけど、とにかくここって自然の宝庫じゃない!
おとといのような人工の植林の森じゃなくって、完璧に手つかずの自然の森って感じ。
「ちょっと、待って待って!」
私はひとりで、その森の中に入っていく。
「あーっ! アカタテハの幼虫! 間違いない! 図鑑にあったとおり。本物見るのはじめて!」
「おい、おめえなあ」
隆浩はあきれ顔で、そんな私を立ち止まって見てた。
「あそこ飛んでるの、アオスジアゲハ。すごい! やっぱここ、少なくとも現代の京都じゃないよ!」
「あのなあ、こんな時に、なに急に生き生きしてんだよ。早く行こうぜ」
「分かった、分かった」
それでも私の胸は、ときめいていた。こんな非常事態だっていうのに……。生物部の部長としての血が騒ぐ。でも隆浩は、どんどんと先に降りて行った。
お寺が近くなるにつれて、やっぱどうしようと思ってしまう。この異常な状況……。蝶の幼虫の宝庫である自然の山があるのはうれしいけど、せめてこんな時じゃなかったら……。
だからいざお寺の門を入る時は、マジ緊張。まくり上げていた裾も、もとに戻す。
「アナ、イミジヤ!」
私たちを見つけた尼さんが、大声を出した。すぐにあの、お婆さんの尼さんが出て来た。
「イト、ユユシキコト! ヤンゴトナキフィメノ、ウタテ、カヤウナル、アシャマシキオンカタチニテ……。トク、イラシェタマフェ。ファカマナンドモ!」
私の姿を見て、目を覆ってあわてふためいているみたい。白い着物ってそんなにはしたない姿なのかなあ。
そうだ。隆浩が言っていたことが本当なら、この人たちは現代人じゃあないってことになる。その人たちの前で現代の常識を押し通そうとしたら、今度はこっちが狂人扱いされてしまう。
でもまだ半信半疑だけど。
私が縁側に上がるとすぐに部屋の中に引っ張り入れられて、たちまち二、三人の若い尼さんが、私に袴をはかせようとする。ちょうど昨日のショーの前の着付けの要領で、私はするようにさせた。
袴をはき、薄黒い着物をその上に羽織って座った。
「隆浩、来て!」
私が呼んだので隆浩が縁側から上がろうとすると、若い尼さんたちが慌ててそれをとめた。
「コファアマデラゾ。イカニオントモナレド、ゲラウノアガルベキモノカファ!」
隆浩ったら下人の格好なんかしてるから、上げてもらえないみたい。そうだ、実験! 隆浩が言っていたことがほんとうかどうか、とにかく実験!
「苦しうない!」
思いきって私は、叫んでみた。時代劇のお姫様言葉を、しかも山代さんのような関西弁のアクセントで。
すると若い尼さんたち、一斉に隆浩をとめるのをやめて、私の方に向かって頭を下げたじゃない。通じたんだ! はじめて通じたんだ! でも、でもってことは……!?
隆浩は堂々と上がってきて、私の隣に座った。お婆さんの尼さんとは、向かい合って座るかたちだ。お婆さん、いくぶん顔が強ばっている。
それにしても、いくらお婆さんでも女性なんだからちゃんと正座したらいいのにと思う。
って、逆に私や隆浩が正座しているのを、なんか目をひんむいて見てるよ。
「ナド、テラヨリイデタマフィタルヤ。イドゥカタニカ、オファシャントスラン。カク、ラウガファシキイマノヨナレバ、ヤマノナカナンドファ、イミジキモノノココラコモリウォリタルニ、イトアヤフキコトニテナン。トラファレモコソスレ」
何だか説教されてるみたい。もちろん、言ってる内容は分からないけど。
その時隆浩が、前かがみに手をついて話しはじめた。
「拙者ども、東の方より流れ来たる者にて、仔細分からずこの地に倒れし者にてござる。願わくは、ここがいずこかお教え願いたい」
立派な時代劇言葉。こいつ、時代劇よく見てたな。
ところが……。
さっきの私のは通じだけど、隆浩が言うのはぜんぜん通じてないじゃない。
お婆さんたち、また首をかしげてるよ。
でも、私は知りたい。ここはどこ? そして本当にここは昔? だったら、何時代?
ふと私は思い出した。言葉が通じなかった時の記憶。去年、中国の上海に行った時、言葉が通じなくても紙に漢字を書いたら通じたっけ。
「あのう、紙と筆」
また関西弁のアクセントで言って、手でものを書くまねをしたら、硯と筆はすぐに来た。
「カミファ、イマファ」
そう言って若い尼さんが首を横に振り、扇をくれた。開けば白いだけの扇。紙はないからここに書けっていうのかなあ。
とにかく筆談してみようと、筆ペンではない本物の毛筆に私は墨をつけた。こんなの、中学校の書道の時間以来だよ。
「ここはどこか」
うまく書けない。ああ、こんな時に、書道四段のナギがいたらなあ。お婆さんは難しい顔をして、扇をのぞきこんでる。
「ここ、ここ」
私はそう言いながら、この場所を指さした。
「ココカ?」
あ、またもや通じたみたい。
「ミヤコノ、フィンガシヤマニテナン」
「ミヤコ?」
「シャナリ」
ミヤコ……もしかして、都? 京都を都というのは、やはり……。
「京都」
私はそう書いてみた。そのとたんに、居合わせた若い尼さんたちがまた目をむく。
「アナ、マナ、カキタマフヤ。ザエファベルオンカタニテ、オファシマシュカナ」
この人たちが何言ってるかは分からないけど、とにかくもう一度「京都」という文字を指さしてから、この場所を示してみる。そうしたら、お婆さんはゆっくりとうなずいた。今度は私、自分と隆浩を指さしてから、「東京」と書いてみた。
「ちょっと貸せ」
隆浩が扇と筆を奪う。
「我等自東京来」
さすが漢文が入試に必要な隆浩。でも、尼さんたち、首かしげてるよ。
「フィンガシノキャウトヤ」
「ニシノキャウコショシリタマフレ、フィンガシノキャウトファ、イカニヤイカニ」
「フィンガシヤマナラバ、ココナレド」
尼さんたち、訳の分からない言葉で口々に何かを言い合っている。それにしても、ずいぶんゆっくりと話す人たち!
隆浩は今度は「東京」を消して、「江戸」と書き直して尼さんたちに見せた。ますます尼さんたちは、首をかしげる。そこでその次に彼が書いたのは、「武蔵」という字だった。
「アナヤ、ムシャシヨリ、オファシマシヌルニヤ。イトトフォキミチヲ、トモフィトリバカリウィテ、モノシタマフェルカ。ズリャウナンドノオンムスメニテ、オファシマスルヤ。ナド、ノボリオファシェタル。ウディファナゾ。オンチチファタゾ」
私に向かってお婆さんはしきりに何か聞いてるみたいだけど、とにかく何を言っているか分からないから答えようがない。
「都ノウチニ、シルフィトノファベルカ。ユンベファ、ナド、モ・カラギヌマウィリテ、フシェタマフィヌルヤ」
分からない、分からない、分からない!
だんだんイライラしてきた。
通訳がほしい。
ああ、タイムスリップなんてSF映画や小説の中の空想の出来事だと思ってたのに、これガチでリアルなの? だったら、もっと古文、まじめに勉強しておけばよかった。
でもこの人たちの言葉、学校の教科書にあった古文とはなんか違う気がする。発音が違うし、だいいちアクセントが違う。
でも、英語なら英会話やリスニングやあるけど、古文には古会話とかリスニングとかなかったし。たとえ一所懸命勉強してたとしても、この状況じゃあ……。
だいいち、受験科目に古文がある隆浩でさえ、たじたじになってるじゃない。
「もう、やだあ!」
とうとう私、泣き出した。今度は、尼さんたちは慌ててる。
「ナナイタマフィショ。クェシャウモゾクドゥルル。チチノオンナダニ、エオボシイデザランファ、モノノクェナンゾノワザニテコショ。スファフナンドモ、トクシェシャシェタテマツリナントオモウタマフルフォドニ、ココロトキテココニオファシェ」
私の肩に手をおいて、優しく諭すようにお婆さんは言ってくれる。そのあとすぐに、尼さんたちはみんないなくなった。
「いい人たちなんだな」
と、隆浩がつぶやいた。私は黙ってうなずいた。
「ガチで心配してくれてるぜ。きっと、ここに住めって、そう言ってくれたんだと思うよ」
「そうなの?」
「たぶん」
なんかあてにならないけど……。
「本当にそういうことだったら、そうするか?」
私はまだ、涙がひかない。
「私、家に帰りたい。お母さん……」
「もう泣くなよ。俺だって泣きてえんだよ。でも今はここにいるしかねえよな。間違ってこの世界に来ちまったんなら、間違って帰れるってこともきっとあるよ。運命を信じようぜ」
「格好つけたことばっかし、言ってないでよ!」
「ここでおめえとけんかしたって、しょうがねえだろ。とにかくまず、溶け込んじまおうぜ。それと、言葉覚えようぜ。俺、思ったんだけどよ、さっきの人たち、歴史的仮名遣いのままに喋ってたよな」
「何、それ?」
「古文の時間に、習っただろ」
「そんなもん、習ったっけ?」
「これだからもう、理系はなあ」
隆浩は少し、あきれた顔をした。
「いいか、古文の文章って、書いてあるとおりに読まねえだろ。でもここの人たちは古文の文章の、書いてあるとおりに発音してたぜ。しかも『ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ』は『ファ・フィ・フ・フェ・フォ』、『サ・シ・ス・セ・ソ』は『シャ・シ・シュ・シェ・ショ』って言ってた」
「よくそんなこと分かったね」
「じっと聞いてたんだよ。とにかく言葉を覚えて、それからいつの時代かってことも調べなきゃな。江戸を知らねえんだから、室町時代より前だな」
「室町時代っていつ? 鎌倉時代の前?」
「話になんねえ。これだから理系は」
「そんな二回も言って鼻で笑わなくったっていいでしょ! もう、まじムカつく。こんな最悪の状況の時に!」
すると急に、隆浩は立ち上がった。
「どこ、行くの?」
「ここではおめえは貴族のお姫様、俺はお付きの下人ってことになってるらしいからな。下人がいつまでもお姫様のそばにいちゃへんに思われるだろ。小屋に戻ってるから」
「え、ひとりにしないで」
「呼んだら、すぐ来てやっからよ」
そう言って、隆浩は行ってしまった。
その日は一日じゅう、私はボーッとしてた。
食事は朝のお粥以来、そろそろお昼だというのに出てきそうもない。お腹へった。
そしてまたトイレ。我慢に我慢は重ねるけど、いつまでも我慢できるものじゃない。あまりうろうろ歩きまわると、なんだかとがめられているような若い尼さんたちの視線がとんでくるし、トイレも探しようがない。やっぱトイレなんてないのかも。
部屋の隅には、例の箱が置いてある。みんなこんな箱にしてるのかなあ。それとも適当に森の中に入って? ――おそらく隆浩なんかは、そうしているんだろうけど――こんな箱が、貴族のお姫様用なの? とにかく限界になったら、これを使うしかない。
でも、使った後、紙もないから拭けない。手も洗えない……
――もう、イヤ!
だいいち部屋の中なんかに置いておいたら、臭いじゃない。でもすぐに若い尼さんが、使ったという気配を感じてか、どこかに持って行って処理してきてくれるけど、やっぱやだよ。たとえ同じ女性だとしても、自分の排泄物を他人に見られるなんて……。
これも貴族のお姫様の宿命? ま、すべては慣れかも。
さすがに「大」の時は木のへらのようなものをくれたけど、これで拭けっていうの? それより、ぱんつが気持ち悪い! ぱんつ替えたい! たぶんかなり汚れてるだろうな。
思い切って私、ぱんつ脱いじゃった。やっぱ汚い! 捨てるしかないと思って、縁側に出て縁の下に放りこんだ。それからしばらくしゃがんで庭を見てたら、若い尼さんがひとり、近づいてきた。
「ヤンゴトナキフィメギミノ、カクファシチカニ、イデタマフベキモノカファ」
また何か意見してるみたい。そのまま私の背を軽く押して、部屋の中に戻そうとする。縁側にさえ出ちゃいけないの? お姫様って、思ったより窮屈なんだ。
とにかく、何もすることがない。
今のうちに頭の中を整理しておかないと……。このままだと頭がこんがらがって、気が狂いそう。時間が分からないっていうのも、イライラする原因のひとつ。ショーの前に、時計ははずさせられたから。
そしてスマホも、東山ホールの更衣室のロッカーのカバンの中。
もっとも、持って来ててもどうせ圏外に決まってる。充電もできないから、バッテリー落ちたらただの板だし。
そうこうしているうちに、あれほどお腹がへっていたのも通り越した頃になって、やっと食事が来た。だいぶ日も傾いているようだけど、まだ明るい。昼ご飯? それとも夕食? もし夕食だとしたら、こんなに早く。しかも、お昼はぬきってこと?
「アマデラナレバ、コファイフィファアラザルニ、ユルシャシェタマフェ」
持ってきた若い尼さん、また何か言ってる。例によって分からないけれど、見てみるとけっこうまともなご飯とおかず。食器は相変わらずの土器だけど、おかずは納豆のような豆、焼き魚とお吸い物、あとはお漬物が少し。お寺なんだから、お肉がないのはしかたないかも。
それにしても仏壇のお供えじゃあるまいし、なんで山盛りについでくるのさ――と、思ったけど、お寺なんだからかなと納得。
でも丸く山盛りならまだしも、円筒形に山盛りで上を平らに盛るなんて……。
おかずに味はほとんどなくて、小皿に塩と酢と、あと何だかよく分からないけど味噌のような調味料が盛られてて、匙までついている。これで自分で味付けしろってこと?
で、なんとか食べ終わった頃に、ようやく西日がさしてきた。
今日は月曜日。ほんとうなら昨日の夜には東京に帰って、今日は学校に行っているはず。突然いなくなって、みんな大騒ぎしてるだろうなあ。携帯も連絡つかないし、私が行方不明ってことで、お母さんも心配してるよねえ。そう考えたら、また悲しくなる。
「ナギ……、ルンちゃん……、チーちゃん……、カヨちゃん……」
友達の名前をひとりひとり呼んでいるうちに、涙が出てきた。
夜になっても、電気もない。水道もない。明かりといえば、小さなお皿の油にひたした芯に、火がともってるだけ。誕生日のケーキのろうそくの方がまだ明るいよ。
着いた日は京都って都会だなあって思ったはずなのに、なんだかものすごいド田舎に来ちゃったって感じ。
すでに下ろされた窓を押し上げて、私は暗闇に向かって隆浩を呼んだ。
別に用はなかったけど、ただ淋しかったから。
「すげえ、すげえ」
と言って、隆浩は庭の方に来た。
「何がすごいのさ」
「ちょっと来いよ」
尼さんたちも寝静まっているようなので、私は窓を下ろして、足元を立てないようにして縁側に出た。
真っ暗で草履をさがすのも面倒だったから、長袴のまま降りて、声だけを頼りに隆浩のそばに行った。
「空、見てみろ」
言われるとおり、見上げてみる。
「うわっ!」
私は思わず、声を上げていた。まるでプラネタリウム! こんな空一面に星があるなんて。しかも、はっきりと天の川が見える。前に合宿で信州に行った時、ぼんやりとなら見たことがあったけど、こんなにはっきりとした天の川なんてこれまで見たことない。
「それから、あれ」
暗闇にもだいぶ目が慣れた。それでも隆浩の顔も見えないくらいに真っ暗。
でも隆浩は山の上の方を指さしたみたいなので見てると、尾を長くひいた慧星があった。
画像とかでなら何度も見たことあるけれど、実物見るのは初めて。
「あれ、なんて慧星?」
「さあ、もしかして何々慧星って名前がつく前に、俺たちはあの慧星を見てるのかもな」
「じゃあ、コジマ慧星だ。と、思ったけど、そういう慧星ってもうあったような気もするから、ミッコ慧星にしよう」
「勝手に言ってろよ」
暗闇の中から、隆浩の笑い声だけが聞こえて来た。
そのまま、十日ほどがたった。
環境順応能力は隆浩だけでなく、私にも十分に備わっていたみたい。生活にもだいぶ慣れてきた。
なんと尼さんたちの言葉が少しずつだけど、私にも分かるようになってきたのだ。べつに勉強したわけじゃない。それなのに言っていることの十分の三、いや、二かな――くらいは分かるようになった。いわゆる、勘ってやつ。語学は習うより慣れろっていうよね。でも、もっと大事なのは勘でしょ。勘と度胸よ。
慣れたといっても、やっぱ私は現代人。夜になったら毎晩のように、悲しくなる。
現代に帰りたい! 家に帰りたい! テレビ見たい! お父さんとお母さんに会いたい! 友達にも会いたい……無理ならせめてLINEで連絡取りたい。ネット見たい! SNSで呟きたい! ゲームやりたい!
どうして私だけ、こんな目に遭わなければならないの! 私、何か悪いことした?
そんなことを考えて、思わず膝をかかえて泣いた日も……。
そしてもうひとつ……いや、もうひとつどころか、何よりも今一番したいこと――お風呂に入りたい――
頭かゆい。頭洗いたい。十日もお風呂に入っていないし、もう限界!
髪の毛も臭いんじゃないかなと思う。
だけど部屋には、いつもお香がたかれてる。私の着物にも、私が寝ている間に香がたきこめられていて、それが香水のように香って臭いをごまかしてるのが現状。
トイレがないんだから、お風呂なんて期待する方が悪いのかもしれないけど、ここの人たちは一生お風呂に入らないのかななんて心配してしまう――不潔! これじゃあ、長生きしないよ!
でもそんな私の現代への思いを、ちょっとでも忘れさせてくれる楽しみもここにはあるんだ、実は……。
現代には、特に都会にはない大自然があるってこと。
今までは願ってもかなえられなかった思いが、ここではかなえられる。
尼さんたちに小さな籠をたくさんもらって、その中に蝶の幼虫を入れて飼うんだ。山に行かなくたって、庭の木々に十分幼虫はいる。
私は庭にさえ出られないのだから隆浩に集めさせると、最初はいやがってたけれど、私の「男でしょ!」のひとことで、彼も協力するようになった。
理系オンチの隆浩のこと、蝶の幼虫も蛾の幼虫も区別がつかずに持ってくるから、まずは分類が最初の仕事。私にとっては、そんなのお手のものだけどね。
幼虫を素手で持っているのを見て、若い尼さんなんかは悲鳴あげてた。
「など騒ぐ?」
私も少し覚えた言葉で言った。
「などとのたまふも、それこそ、など、かふぁ虫なんど……」
どうして毛虫なんかをってか。
「これ、もと。蝶のもと」
「チョー?」
あ、「ちょう」じゃ通じないんだ。そうそう、なんとかって書いてちょうって読むんだったなあ。エット、なんだっけ……? そう、テフよ、テフ!
「これ、テフテフのもと。これ、テフテフになる」
「げに、さこそふぁあれども、
つべこべ言わないでよ! これがなかったらこんな世界で、気が狂わないで私が生きていかれるはずないじゃない!
「もとを知る。大事。テフテフになるところを見る、大事なり」
私はそう言ったけど、尼さんはいやそうな顔をしてあとずさりしていった。
とにかくやっとこれで、夢が実現するんだ。現代では採集するのさえ難しいギフチョウやジャノメチョウの幼虫の、羽化が観察できるんだから。
それに私の研究テーマのアカタテハの幼虫もしっかりと籠の中にいるし、なんと隆浩ったらオオムラサキの幼虫までつかまえてきてくれた。山崎先生なんか、腰ぬかすだろうなあ。
ただ、どうしても何の幼虫か分からないのもいる。私の勉強不足かもしれないけど、もしかしたら現代では絶滅した
ある日このお寺でいちばん偉い、あのお婆さんの尼さんも様子を見に来た。若い尼さんをひとり連れてる。その若い尼さんが、お婆さんになんか話し掛けた。
「なふぉ、もののわざにこそふぁべれ」
お婆さんは、静かに首を横にふっていた。
「ふぁちかふも、虫めどぅるも、おなじきことにてなん」
私を見てのお互いの会話。意味はまだよく分からないけれど、なぜかそのひとことが私の心の中に残った。
そしてその翌日だ。
一日二回だけの食事のうち、最初の食事のお粥――朝と昼の間の「あひるご飯」を食べ終わった頃、山の中からすごい声が聞こえてきた。
男の声。何と言っているのかはよく分からない。ただ大声で唄うように延々と続き、しかもそれはだんだん近づいてくる。
「だいーなうーごんどのー、わたらしぇーたまふー」
何だかそう言ってるみたい。それが繰り返される。お寺の尼さんたちは、とたんにあたふたと何かの準備をしてるみたいで、歩きまわりはじめた。
なんか売りに来たのかなあ? いったい何がはじまるのだろうと思って簾の中から外を見ていると、お寺の門の方に行列が近づいてきた。
ちょうど今の隆浩と同じような格好をしたたくさんの人たちや、馬に乗った人、そして牛が引く御所車っていうの? そんなのがゆっくりとお寺の門の中に入って来た。
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