お化けが、神様に恋をしてもいいですか?

ふじゆう

第1話 馬鹿馬鹿しい人生だった。

「お化けなんてないさ。お化けなんて嘘さ」

 カンカンカンカン。たいして高いヒールを履いている訳ではないけれど、小気味の良い音が鳴り響いている。上司に退職届を提出した足で、会社の鉄製の避難階段を上っている。雨曝しの為か、そこここに錆が浮き上がっていた。

 最後の一段を上りきると、殺風景なコンクリート打ちっぱなしの、屋上へと辿り着いた。ここへ来たのは、久し振りだ。四角く切り取られたような屋上には、古びた物干し台と物干し竿が、ポツンと佇んでいる。新人の頃、タオルなどを洗濯して、ここに干しに来ていた。ようやく新人が入社し、意味不明な任から解かれたかと思った矢先に、時代の流れに乗って、悪しき風習がなくなった。だから、数年振りの屋上だ。

 階段の傍で、屋上を眺めている本田公香ほんだきみかは、薄く笑みを浮かべた。

 この場所で告白され、あんな事やこんな事をしていた。

 五階建ての屋上には、太陽の光が斜めに降り注いでいる。空を見上げると、雲は一つもなく、嫌味なほどに美しいオレンジ色が広がっていた。

「寝ぼけた人が、見間違えたのさ」

 歩き出した公香は、四角く囲っている柵を掴んだ。胸の高さにある柵に両腕を組んで乗せ、体を預ける。一応、落下防止の為に、設置された柵なのだろう。柵にも錆が浮かんでおり、えぐられたように欠けている場所もある。危険予知意識が低いなと、嘆息を吐いた。しかし、それも仕方がない事だ。前例がないのだから。基本的に、事件や事故が発生してから、対策を練るものだ。

「私が前例を作ってあげるよ。感謝しな」

 公香は、柵の手すりを握り腕に力を込めた。両足が地面から離れ、体が浮き上がる。すると、肩にかけたカバンがずり落ちた。あまりにも間の抜けたタイミングで、吹き出してしまった。

「ああ! ほんと、馬鹿馬鹿しい人生だった!」

 まだ、地に足がついているにもかかわらず、走馬灯が巡ってきた。

 小学生の頃、クラスメイトの前で、お漏らしをしてしまった事。

 中学生の頃、仲の良かった友達から、突然無視された事。

 高校生の頃、憧れの先輩と付き合えたが、向こうは遊びで処女を喪失した事。その後遺症で、大学受験に失敗した事―――エトセトラ。

 今にして思えば、たかが知れている出来事であったが、当時は死にたいくらいに、追い詰められていた。

 まさか、こんな事になるくらいなら、あの時、あんなにも頑張る事なんてなかった。全てが無駄だったのだ。

 私の人生は、全てが無駄だったのだ。

 そう考えてしまうと、無意識の内に、公香の瞳にはジワリと涙が溜まってきた。カバンが肩からヅレ落ちて、地面に落下したタイミングで、『ライン!』という気の抜けた音声が届いた。なんだか、世界中から馬鹿にされている気持ちになって、公香は歯を食いしばった。手を伸ばすのも悔しかったのだが、公香はカバンの中からスマホを取り出した。画面を指でなぞると、妹のゆうからメッセージが届いていた。柵にもたれかかって、滲んだ画面を眺める。

『お姉ちゃん! 前に貸した小説呼んでくれた? 超お勧めだから、絶対読んでよ! 私の大好きな作家さんなの! 読んだら、今度こそ感想聞かせてよ!』

 本を借りていた事すら、忘れていた。優は大の本好きで、毎度毎度公香に本を貸している。そして、公香は毎度毎度、読まずに返していた。感想をせがまれるが、いつもはぐらかしていたのだ。公香は子供の頃から読書には興味がなく、体を動かす事の方が、性分に合っていた。

 鼻から息を漏らした公香は、カバンの中から一冊の小説を取り出した。要らないと拒絶したにも関わらず、強引にカバンに突っ込まれた本だ。公香は、渋々表紙を捲った。

 最後くらいは、妹の願いを聞いてあげよう。

 今すぐでも、数時間後でも、結果は同じだ。誤差の範囲内だ。

『ちょっと、お姉さん! そんなとこで死なれちゃ迷惑なんだけど?』

 台詞から始まる冒頭で、公香の心臓は激しく脈を打った。

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