第三十六話 仮面の裏側
田管の目の前で、孟桃は射抜かれた。他の部分であればまだ手当のしようもあろうが、頭部に矢が直撃して助かったためしなどはないであろう。
かつて自分を助けてくれた恩人の死。その事実が、田管の心に、まるで
「何だ、田管。何故そのような顔をする」
魏遼の、嘲笑混じりの声が、田管の耳を煩わせる。
「まるで家族を殺されたようじゃないか。あれはもしやお前の女か」
田管の、体に流れる血が、怒りの情念に熱せられてどんどん沸騰していく。だが、決して、田管はその怒りに呑まれなかった。
――目の前に許せない敵がいるというのに、どうして怒りに任せることなどできようか。
冷静さを失った時が、自らの敗北の時である。そう、田管は胸に刻んでいた。それ故に、田管は自らの憤激を押し殺し、沈着さを取り戻した。
田管は、静かに馬を走らせた。魏遼もまたそれに合わせて馬の腹を蹴る。戦場を疾駆しながら、再び矢の応酬が始まる。両者の残りの矢は、ほぼ同数であった。田管も、魏遼も、矢の残りを気にしてか、無駄打ちを避け、ここぞという時以外に矢を射ることはない。
田管の様子は、恐ろしく冷静であり、そのことが魏遼を驚かせた。先程額を射抜いて殺した女は、てっきり田管にとって大事な者なのかと思っていたが、もしやそうではないのかも知れない、と、魏遼は考え始めていた。
永遠に終わらないかに見える二人の戦闘。その行く末を分けたのは、皮肉にも、先程魏遼が虫けらのように殺した女であった。
「なっ――」
魏遼の乗る馬が、天を仰ぎながら倒れている孟桃の体につまずいたのだ。魏遼は固く手綱を握り、落馬こそしなかったものの、大きく体勢を崩した。
「もらった!」
死せる孟桃が、想い人のために敵に報いたのである。田管は、それを見逃さなかった。すかさず矢を引き絞って、その手から放った。矢は一直線に、魏遼の頭部へと飛んでいく。その矢は惜しくも直撃はしなかったが、魏遼の額、丁度黒い仮面に覆われた所をかすめていった。そして、その弾みで着けていた仮面が飛ばされたのである。
露わになった、魏遼の素顔。それは、この世の何処にも類を見ないような、絶世の美少年と言うより他はない玉貌であった。如何な傾城の美女であっても、彼を前にすれば裸足で逃げ出そうものである。田管も張舜も、その顔立ちの麗しさでは類い稀なものがあるが、魏遼のそれは、この二者と比して勝るとも劣らないものを持っている。
「俺の
顔を右手で押さえながら、普段の甲高い少年の美声とは違う、低く威圧的な声で魏遼は叫んだ。その手からは、血が溢れ出している。額の皮膚が裂かれて、そこから出血しているようだ。
一瞬、はっとした田管であったが、すぐにその意識は目の前の敵に対する殺意で上塗りされた。
「すぐにでも黄泉に送ってやろう」
孟桃がくれた好機を、逃す訳にはいかない。田管は静かに弓を構える。魏遼はそれに気づいて馬を蹴った。放たれた矢はすんでの所で魏遼の頭を貫くと思われたが、惜しくもそれは彼の
気づけば、日も沈みかける頃合いになっていた。日没までには、何としても奴を仕留めねば。田管は馬を走らせて、逃げる魏遼を追った。追いながら、矢を二発、立て続けに放った。一つは外したが、二度目の矢は魏遼の右肩に命中した。
――勝てる。
あと一射で、確実に仕留める。そう思って、田管は矢筒から矢を取り出そうとした。だが、その手が矢を掴むことはなかった。
「こんな時に矢が切れたか」
田管は舌打ちした。もう、矢筒に矢は残っていなかった。残された武器は腰に
今が真昼であれば、抜剣して尚も追い続けたであろう。だが、もう日は暮れかけている。剣で斬りかかれる間合いに入るまでには、空は暗くなってしまうだろう。
結局、田管は、それ以上に追撃を断念したのであった。
田管とその麾下は、輜重部隊の生き残りと共に、近くの農村で宿営した。
「本当に……本当に助かりました……恩に着ます……」
輜重部隊の隊長は、涙を流しながら田管に感謝の意を述べた。それもそうだ。田管たちの助けがなければ、彼らの殆どは殺戮されていたであろうから。
「……あ、ああ、諸君らが無事でよかった」
田管の返事は、何処か上の空というか、気が抜けている。というのも、この時の田管の頭の中では、孟桃の死という事実がぐるぐると巡っていたのである。
――結局自分は、恩人一人、助けられない男ではないか。
自分が、情けなかった。どう悔やんだとて、彼女にはもう、詫びの一つさえ入れることはできない。
「まるで家族を殺されたようじゃないか。あれはもしやお前の女か」
魏遼の、嘲りの声が、再び思い起こされる。
「私の……女……?」
孟桃は、自分のことを愛していた。田管と婚姻し、子をなして睦まじく暮らすという未来図を、彼女は描いていたのだろう。では、自分は彼女を愛していたのだろうか、と、田管は自問してみた。振り返れば、自分が彼女に対して抱いていた感情は、男が愛しい女に向けるような、そんな感情ではなかったように思えてくる。彼女に対して思っていたのは、恩人に対する報恩の義務感のみであった、愛だとか、そのようなものでは、決してなかった。
「すまぬ、孟桃殿」
夜空に向かって、田管はぼそりと呟いた。
――そうだ。私は、孟桃殿を愛してなどいなかった。
けれども、それと、恩義に報いねばならぬ、というのは、また別の問題だ。
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