第二十一話 胡人と梁人
奇襲をかけた田管隊は、忽ち苦境に陥った。そも、五万の軍隊に数千で突っ込んだのだ。敵が反撃に出れば、当然ながらこちらが不利になる。
そして、この戦場において最も手強いのが、魏遼率いる騎兵隊である。まだ年若いながら、この夷狄の少年はその弓馬の技術と判断能力、そして度胸と冷静さによって部下の信頼を完璧に繋いでいる。
「貴様、
魏遼が目前の敵、田管に問いかける。胡というのは北方の異民族の総称であり、魏遼自身の出自でもある。彼は田管も同類だと思ったのだ。
「私は
田管は、魏遼の問いに否定の答えを示した。彼の母は確かに胡を出自とするが、父は梁人であり、田管自身も北方の異郷の地などに足を踏み入れたことはない。
魏遼と戦いながら、側面から迫る歩兵にも目を向けねばならない。骨が折れる戦いである。だが、それも、終わりが近づこうとしていた。
突如、司馬偃軍の陣地に、黒い雨が降り注いだ。
「な、何だ!?」
その正体は、大量の矢である。河岸の近くにいた司馬偃軍の兵士は、その雨を受けて次々と倒れ伏していく。
「あ、あれを見ろ!」
いつの間にか、河の向こう側の船団が、一斉に接岸していた。矢の雨に続いて、戟兵たちが下船し司馬偃軍に襲い掛かる。
「殺せ! 殺せ!」
ここまで苦しい戦いを続けていた張石軍は、怯える敵兵の姿を見て勢いづいた。敢然と敵に襲い掛かり、戟を振るって敵兵を打ち倒していく。
軍船から上陸した兵は、総勢七万であった。これだけですでに、司馬偃軍を呑んでしまっている。その上、指揮官たる司馬偃が退避してしまったせいで、兵たちの多くは指示のないまま右往左往しており、上陸した張石軍の餌食でしかない。この数の兵の上陸を許した時点で、司馬偃の敗北は決定事項であった。
自軍の不利を、魏遼はすぐに悟ったようであった。田管隊と対峙していた魏遼たちは突如、馬首を返して北の方角へ退却を始めた。
「待て!」
田管隊はすぐさまこれを追撃した。逃げる魏遼に、追う田管。そのような構図が出来上がった。
奴は、ここで仕留めておかねばならない。田管はそう思っている。今がその絶好の好機なのだ。どうしてみすみす逃せようか。
魏遼隊は、ひたすらに真っ直ぐ馬を走らせている。その後をなぞるように、田管隊も疾走していた。
その田管隊は、敵の突然の行動に泡を食った。
「何!?」
魏遼が何かを号令すると、彼らは馬首を翻して向き直ることもないまま、上体だけを捻って追手たる田管隊の方を向き、矢を放ってきたのである。
これは、騎馬民が得意としている、背面騎射と呼ばれる射術であった。北方の遊牧騎馬民は、敵に背を向けて退却しながら、突如追手に向かって体を捻り、矢を放って反撃するということをよく行う。敵が急な反撃に動揺して足を乱すのにつけこんで、再び馬首を返して正面攻撃に転じるといった戦法なのだ。田管は確かに騎射の名人ではあるが、北方で騎馬民と戦ったという経験はない。そういった若さ故の経験不足が、この美貌の武官の弱点であった。
田管は右の頬が痛むのを感じた。飛来した矢がかすめたようで、そこから血が垂れている。
「やはりお前は梁人だな」
背面騎射に面食らっている間に、魏遼は田管の方に向かってきていた。その言葉には、存分に侮蔑の意図が見て取れる。田管がいくら武を誇ろうともそれは軟弱な梁のもので、騎馬民の持つ純粋な武力の前には児戯に等しいと言わんばかりである。
魏遼の矢が放たれる。流石の田管も、今度ばかりは避けられそうにない。せめて致命傷を避けねば……そう思って体を捻り、甲冑の厚い部分を向けようとした、その時であった。
「田管さま!」
田管の部下の一人、
「ちぃ、邪魔者め」
魏遼は落馬する男を睨みながら舌打ちした。そのまま馬首を返して、再び逃走に戻ろうとする。
「逃がすものか……!」
田管は逃げる魏遼を追うために、再び馬を走らせようとした。
「お待ちください」
その田管を、味方が制止した。淳于椒と同じく普軍時代から付き従ってきた副官の
「もう、日が落ちます」
言われるまで、頭に血が上っていた田管は気づかなかった。もう、赤い太陽が、地平線の彼方へ没しようとしている。追いかけたとて、日没後に騎兵同士で騎射の戦闘など望むべくもない。
田管は、如何にも苦々しいといった表情をしながら、去っていく敵騎兵隊の背を睨みつけていた。
司馬偃軍は、ほぼ撃滅されたも同然であった。司馬偃軍は、魏遼隊を含む僅かな手勢と共に西の方角へ逃走した。
張石軍は大勝利に湧いたものの、結局南から輜重を運ばせねば進軍できないという状況は変わらず、猛追して司馬偃を捕らえることなどはできなかった。足の速い騎馬を出して速攻を仕掛けるという手もあるが、それをするには魏遼隊の存在が立ちはだかる。田管でさえ、彼には手を焼き続けているのだ。並の騎馬では返り討ちに遭おうものである。この戦いで魏遼を討ち取ることができなかったのは、田管のみならず張石張舜父子も悔やむ所であった。
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