第十八話 新将軍・孟錯

 王敖が本国に送られ、代わりに孟錯なる男が将軍に就任したとの報は、程なくして張石の本営にもたらされた。それを聞いた張舜は、密かに笑みを浮かべた。

 これも、全ては張舜の仕掛けた謀略であった。

 「王敖将軍が独立して王になろうとしている」といった旨の噂は、張石軍が放った間者の流したものであった。行商人に扮した間者を、武陽に向けて何人も送り込んで、彼らに流布させたのである。

 張舜がこの離間計を考案するにあたって力になってくれたのが、捕虜となって留め置かれている公孫業であった。彼は中央の武官であった故に、帝室の事情に詳しかった。

「普の帝室は腐りきっている。李建なる君側の奸が皇帝を操り、全てを意のままに操っている」

 公孫業は張石軍の尋問に対して、まずこのように言い放ったのだ。彼は李建の為人ひととなりについても、詳しく話した。臆病で疑り深く、それ故に情け容赦ない。そんな人物だという。彼が帝室に粛清の嵐を巻き起こし、自分と対立した者を次々と刑死させていったとのことや、現状維持を望んで宮廷にもたらされた反乱の情報を握り潰し、結果として反乱への対処を送らせてしまったことなども語ってくれた。

「私の戦いは何だったんだろうな」

 公孫業の話を聞いた田管は、かつて自分が普軍を率いて戦っていた時のことを思い出した。あの頃は、遅滞戦術を行って敵を足止めしつつ、中央の援軍を待ち望んでいた。だが、中央に送った使者は一人たりとも戻っては来なかった。この捕虜の語った話を聞けば、その理由はおのずと分かる。きっと使者は李建が情報を握りつぶすために斬られたか、それとも抑留でもされたのだろう。遣る瀬無い話である。

 田管はより一層、帝室打倒の意志を固くしたのであった。


 王敖軍改め孟錯軍は、早速動き出した。張石は自ら軍を率いてこれを迎え撃ち、程不ていふという場所で野戦を挑んだが、すぐに後退し、自軍の背後に以前築いていた砦に十二万の兵と共に立て籠もった。それを見た孟錯は、忽ち三十万の軍隊でこれを包囲した。

「孟錯なる男は功を焦っている」

 馬鄧の本営で、張舜はそう断定した。孟錯は将軍後退の動揺や兵の疲れも省みずに、急いで軍を動かしたのである。彼は新しく将軍に就任したばかりで、加えて前任者の王敖が名声のある人物であったため、早期に目立つ功績を挙げなければ将兵の心は掴めない。であるから、彼は功を焦らざるを得ないだろう。そういった事情を、張舜は鑑みたのである。

 田管の助言により築いた砦は、非常に堅牢なものであった。今の孟錯軍は、前述した通り、王敖に付き従って北方の騎馬民を相手に戦ってきた軍隊であり、野戦での強さは折り紙付きであるが、一方で攻城戦の経験には乏しい。故に、孟錯の三十万は、闇雲に攻撃を仕掛けては、城内からの反撃で戦力を摩耗させるばかりであった。

 ただでさえ突然の将軍交代劇で浮足立っていた孟錯軍は、砦の攻略に手間取ったことで士気が下がってしまっていた。孟錯は自軍の兵士のそういった様子を、全く測量することのできない将であった。彼はただ、兵士の尻を叩いて突撃させることしか頭にないようで、攻めよ、攻めよ、と怒号を発するのみである。

 そうして、悪戯に時間ばかりが過ぎていった。


 その夜は、乾いた風が吹いていた。中天には、丸い月が懸かっている。

 野営する孟錯軍の兵士たちは、皆一様に沈んだ顔をしている。「こんなことがいつまで続くんだ」と、そのまま顔に書いてあるかのようだ。

 孟錯軍の兵士で、この新しい将軍に不満のない者など、誰一人いなかったと言ってもよい。後方任務しか経験のない若い武官であると聞いた時には将も卒も不安がったものだが、それでも同じような背景を持ちながら呉子明の大軍を追い返した公孫業という前例がある。が、着任した孟錯なる将軍は、はっきり言ってその公孫業の足元にも及ばない凡将であったと言うより他はない。そも、意外な将才を見せた公孫業すら、結局は兵を失って虜囚の身となったのである。それよりも凡愚な将の下にいて、どうして満足に戦えようか。

 そのような不満を心の内にくすぶらせながら、歩哨ほしょう以外の兵たちは眠りに就こうとしていた。

 その時のことであった。

「おい、何か匂うぞ……?」

 一人の兵士が、何か妙な臭いがすることに気がついた。まるで、魚が焦げるような……

「見ろ! あれ!」

 その臭いの正体に気づいたのは、近くにいたもう一人の兵であった。指差す方を見た兵は、言葉を失ってしまった。

 辺り一面に、火の手が上がっていたのである。

「うわあああ!」

「や、焼かれる! 焼かれる!」

 火を見たことで、兵士たちは混乱をきたし始めた。とにかく、このままでいたら焼き殺されてしまうし、そうでなくても煙を吸い込めば命に関わる。その場を離れるために、兵たちはばらばらに逃げ出し始めた。

 その兵士たちの耳が、今度は妙な音を拾った。

 どん、どん、どん、どん、

 どん、どん、どん、どん、

 太鼓の音が、三方向から聞こえてくる。一瞬、兵士たちは立ち止まった。嫌な予感が、その場の兵士たちの頭をよぎる。火の手が上がっているということは、それを放った者が近くにいるはずなのである。ということは……

 次の瞬間、大量の矢が、孟錯軍の宿営地目掛けて飛来した。

「て、敵襲! 敵襲!」

 孟錯軍の兵士の動揺は、最高潮に達した。もう、我先にと逃げ出すのみである。敵の姿を見ようにも、暗闇の向こう側とあっては、はっきりと捉えるのは不可能である。対して相手側は、火のある方に矢を射かければそれで良いのである。

 張石軍は、砦に立て籠もっている十二万の兵の他、野外にも、左右にそれぞれ三万ずつの兵を埋伏させていた。そして、頃合いを見計らって合図を送り、孟錯軍の陣地に接近させ放火させた上で、矢による攻撃を仕掛けさせたのである。

「な、何だ! 敵か! 火を放たれただと!?」

 総大将である孟錯も、どうしていいか分からなかった。将が混乱しているのに、兵が冷静でいられるはずもない。三十万の兵は、まさしく狂騒の坩堝るつぼの中にあった。

 この中にあって、将よりも冷静さを保っている者がいた。

「敵の兵は案外多くはない……抜けられるだろう」

 その男は、沈着冷静に周囲の状況を観察し、取るべき行動を判断した。その目元は黒い仮面に覆われている。魏遼だ。

「よし、我に続け! 武器は使うな!」

 暗闇の中で下手に武器を振るえば同士討ちの危険がある。魏遼は愛馬に跨がると、部下を引き連れて疾駆した。

 彼の進む方角からは、矢は全く飛んでこなかった。魏遼の騎兵隊は、この混乱渦巻く陣地を、難なく脱出することが出来たのである。

 上手く離脱に成功した魏遼は、上空を見上げた。空気が乾燥していて、夜空にきらめく星々がよく見える。その夜空を見て、魏遼は方角を把握した。

「こっちだ。ついてこい」

 魏遼は騎兵を引き連れて、夜闇の中を突き進んでいった。

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