ぶんぶく狸
@tunetika
第1話
第一回
壱
飯田光太郎は自分の家の裏にある池で釣り糸をたれながら、池の表面できらきらと輝く太陽の光を見ていた。そのきらきらとした反射は光太郎の釣り竿のさきから池の中にたれている釣り糸にも発生していた。池と云っても底の深くない、沼のような水をたたえている。ときどき気泡が水の中から上昇して、水面に飛び出すと破裂して大気の中に同化していく。その気泡は魚が呼吸のために自分の肺から出しているのか、池の底の土中の微生物が化学作用によって発生させているのか、その成分がなんだかわからないと同様に光太郎にはわからなかった。彼の視界の中では間欠してその気泡が水面から出ていくのであった。しかしとにかく適当にある程度の水温がなければこんな気泡は水中から生じないだろう。
光太郎の使っている釣り竿はそこら辺にはえている竹のさきを切って作った二メートルほどの簡単なもので、そのさきに糸と十五センチほどの浮き、さらにそのさきには小魚をつかまえるための小さめな針がついていた。こんな簡単な道具だてでも魚はつかまった。それも食べることのできる魚がである。その魚をつかまえるために光太郎は柳の木の根本でじっと浮きの動くのを待っていたのである。春の光の中と云っても直射日光を浴びていれば頭が暑くなってしまうが光太郎の頭上には柳の葉の茂っているのが広がっている。つまり、光太郎は柳の木の根本で直接地面に腰掛けながら釣り糸をたれているのだった。下に茣蓙を敷いているので服が汚れる気遣いはない。光太郎は浮きを眺めながら足を前の方に延ばした。
光太郎の目のはるか先の方には蝦蟇の油売りの口上で有名な筑波山が見える。ここは千葉のある片田舎で昔は宿場町として知られていた。だからこの町を歩いていると田舎特有の匂いがしてきたりするのだ。枯れ草にまじって発生するあるにおいがである。それに牛を飼っている農家も近所にあった。くすんだ古材で建てられた掘っ建て小屋のようなものがあり、その壁の隙間から牛がじろりとこちらを睨んだりする。光太郎の裏庭にある池にもそれなりに履歴がある。ここに弘法大師が立ち寄ったとき田圃の水が干上がっているのをなげいて近隣の農民を動員してここにため池を作った。それからこのため池の北西の森の中に大きな岩が三つ、四つ、寄り添うように重なっている場所があって弘法大師がその場所に行き、密教の呪文を唱えると大きな岩が砕けてそこからわき水がちょろちょろとわき出したと伝えられている。その水には水路が作られていてため池に注ぐ仕組みになっている。雨水が絶えたとしてもこのわき水のおかげでため池の水は絶えることがないのだ。水が染み出したと云う森の中にはほこらが建てられて、そこには水神である竜の像がまつられていた。
最初はそこは田圃に水を引くためのため池だったが、近くに旧街道が走っている宿場町でもあったから、そのため池のはたに川魚を食べさせるための大きな料理屋が出来た。川魚の中にはすっぽんも含まれている。そしてその魚を養殖するためにたくさんの魚がそのため池に放されたのだ。だからその池は農業のためのため池からすっかりと魚が住むための池に変わってしまい、池のはたには蓮だとか浅い池で育つような水草が繁殖している。そのうちにその大きな料理屋は店をやめてしまって、ここら辺の土地をすべて所有している地主が住むようになった。この池を挟んで料理屋の対岸に地主は何軒かの家を建ててそのうちの一軒に飯田光太郎は住むことになった。だから家の裏には池があってごく簡単なつり道具で魚も釣れることが出来るのだ。夏は少し生臭いが池の表面を吹く風が家の中に吹き込んで来るので過ごしやすかった。冬は黒潮の流れる千葉の海岸のそばにあるのでそれほどの寒さも感じなかった。
光太郎が浮きを見つめていると浮きは大きく水中に沈んで浮き上がって来ない。少し淀んだ水の中で浮きが小刻みに揺れている。少し特徴のある浮きの動きだ。光太郎には思いあたるものがあった。浮きを引いているのはふつうの魚ではないと思った。案の定、竿を引いてみると引き方が持続した一定の力を有しているように思われる。釣り竿を引き上げて見ると糸のさきにはずんぐりむっくりとした小ぶりの天然のうなぎがかかっていた。空中に引き上げてもうなぎはつり上げられた事実を肯定していないのか身をよじらせて針からのがれようとしている。光太郎は自分のうしろの自分の家の方を見てほほえんだ。光太郎はうなぎを針からはずすと池の中に浸してあった生け簀の中にうなぎを滑り込ませ、そのまま生け簀を引き上げた。
光太郎の家の裏は池に面していて、家の裏には光太郎の家の台所がある。柳の木の下から台所の横の勝手口から台所に直接行くことが出来るようになっている。収穫した魚を下げて勝手口の中に入ると妻の飯田かおりが台所に立って夕飯の支度をしていた。
「飯田かおり、大漁だよ。それにうなぎもとれたのだ」
光太郎が獲物の入った生け簀を右手で持って掲げると妻の飯田かおりは米をとぐ手を止めて、こちら見て微笑んだ。光太郎が報告する必要もなく、台所の窓から妻の飯田かおりは光太郎が釣りをしている姿を見ていたのだ。
「じゃあ、今晩は天ぷらにする」
「そうだな」
光太郎は同意した。すると飯田かおりは魚をさばくための小さめの包丁を取り出した。
「じゃあ、たのむよ」
光太郎は魚の入っている生け簀を流しの中に置いて妻の後ろの板の間に腰をおろした。妻の飯田かおりのうしろ姿を見ながら光太郎は自分にはこれしか残っていないのだと思うと、飯田かおりの肩のあたりの丸みを帯びた線が特別なものに思えた。この特別な自分の家の立地条件から飯田かおりはいつの間にか、魚を自分の手でさばくことが出来るようになっていた。そのことがもちろん光太郎の家の家計を少しは助けていることは明らかだった。妻の飯田かおりは流しに置かれた生け簀から魚を取り出すと流しの水道から水を流してまな板を濡らした。魚の背骨のあたりに横に包丁を入れて胴から頭を切り離した。赤い血が切り口から染み出して来てまな板を汚したので飯田かおりはまた水道の水でその汚れを流した。台所の板の間に腰をおろして飯田かおりのうしろ姿を見ていた光太郎だったが、かつお節の削り器の横に置いてあるガラス製の筒をとり上げた。その中には水がいっぱいにつまっている。
「飯田かおり、これを見て御覧」
「なによ」
飯田かおりは台所に立ちながら、身体をひねってうしろを振り向いた。そこにはガラス製の筒を持った自分の夫の姿があった。
「これはおもしろいんだよ」
光太郎はそう言ってガラスの筒の上の方を押した。その筒の上の方は厚いゴムのふたがついていて押すとそのふたはへこむようになっている。水の入ったガラスの筒の向こうに妻の飯田かおりの姿が見える。そのガラスの筒の中には水だけではなく、宇宙人の乗った円盤が入っている。ゴムのふたを押す前はその円盤はガラスの筒の上方にとどまっていたのだが、ゴムのふたを押すと下の方に下がって行った。そしてふたを押す力をゆるめるとまた上方に上昇していくのだった。飯田かおりは手の甲あたりで口を押さえて笑った。しかしそれはなんの屈託もない笑いと云うわけではなかった。走っている列車が駅で小休止をしていると云う趣であった。なんの悩みもない若い頃を一時、思い出しながら、そのくせ現在からはすっかり解放されていないと云う感じだった。
「なによ。子どもみたいに」
「子どもがこれを見たら驚くよ。離れている円盤をふれずに浮かしたり、沈めたりしているんだよ」
「あなたが上についているゴムのふたを押したり、離したりしているからじゃないの」
「でも不思議だと思わないかい」
「そんなこと疑問にも思わないわ」
飯田かおりはまた台所の方に向いた。そのことが光太郎には多少不満のようだった。
「むかし、これと同じようなおもちゃを見たことがあったけど、とても不思議だったなあ。でも大人になってからこのおもちゃの仕掛けがわかったよ」
飯田かおりはまたまな板の上で魚を開いている手を休めて光太郎の方を見て微笑んだ。
「仕掛けってどんな仕掛けで動くの」
光太郎は飯田かおりが再び自分の相手をしてくれたことに喜んだ。
「ほら、この筒の中には水だけで全然空気が入っていないことは不思議じゃないかい。かと言ってこの筒の中は水だけと云うわけはないのさ。円盤が入っているだろう。この円盤は中が空洞になって見えない位置に小さな穴が開いているんだ。そしてちょうど沈むか沈まない状態で筒の中の水の浮力と釣り合っているんだ。それがこのゴムの蓋を押すと」
光太郎はそう言って目の前のガラスの筒を見ながらゴムの蓋を押すと筒の中の円盤は沈んでいった。
「ほら、円盤が沈んでいくだろう。円盤の浮力が円盤の自重に負けるからなんだ。つまり自重が増えたと云うことなんだよ。ゴムの蓋を押すだろう。すると中は水だけだから、空洞の円盤の中の空気に圧力が加わる、すると小さな穴から水が円盤の中に入って円盤の自重が増えるんだ。そして下の方に沈んでいくんだ」
光太郎は一度上方に上がって来た円盤をまたゴムのふたを押して下の方に沈めた。そんな子供のおもちゃのようなものをくだらないと言って無視することも飯田かおりには出来なかった。光太郎にとってはあまり金のかからないなぐさみであることがわかっていたからだ。今の光太郎にはそんなことぐらいしか楽しみはなかったのだ。あとは飯田かおりしか残っていなかった。
「どこでそれを買って来たの」
魚をさばく手を休めて飯田かおりが振り返った。「煙草屋のとなりの川端童心舎と云う会社があるだろう。あそこの店先で売っていたんだよ」
「いろいろな幼稚園に卸して余っている商品を売っているんだ」
「煙草屋って、あなたの話しによく出てくる煙草屋」
「そうだよ」
その煙草屋のことは飯田かおりも知っていた。その隣りに会社と呼ぶにはほど遠い、雑貨屋を少し大きくしたような建物があったことを覚えている。
「あっ。そうだ」
「どうしたの」
「毎月、二十六日に余った商品を売ると言っていたから、今日も軒先にそれを並べて売っているかも知れない」
「行ってくれば。ちょうど戻って来た頃に御飯の支度も出来ているから」
「そうかい」
光太郎は今いじっていた玩具を鰹節けずりの横に置くと立ち上がった。
「一時間ぐらいで帰って来てね」
「うん、ちょうど好い散歩コースだ」
光太郎は台所から居間兼寝室の横の廊下を抜けて玄関に出た。そこで履き古して底のすっかりと薄くなった革靴を履いて外に出た。玄関の引き戸を開けて外に出るとまだ舗装されていない道路に出る。光太郎の家の前は田圃の中の空き地になっていて手押し式のポンプの消防車の格納されている木造の小屋になっている。光太郎はその消防車が引き出されて勇ましく消防活動をしているのを見たことはまだなかった。その道を光太郎は左に曲がった。右の方には二十メートル間隔ぐらいで昔料理屋だった屋敷に住む地主の建てた家が二軒立っている。光太郎はその二軒の住人と面識はなかった。彼は田圃の中の車が一台通ればもうきゅうきゅうとなるような細道を歩いて行った。この道を百メートルほど歩くと旧街道に出るのだった。少し歩くと右手の方に荒れ果てた田圃に背の高い水草が生え放題にその葉をいろいろな方向に向けて生えている場所があり、その向こうのはるかかなたには折れ曲がった河が流れていた。その河へ行く途中に大きな煙突が立っていて、光太郎はそこがゴミの焼却場か何かだと思っていたのだがあとで誰かにそこは葬儀場だと云う話しを聞かされた。光太郎はそこまで行ったことはなかった。しかしそこに行く道は草原の中にあった。その道はもちろん舗装されていず土の上に石ころがごろごろしていた。その田圃の道には三十メートル間隔で木製の電柱が立っている。光太郎がその電柱の横腹を見ると誰か個人が印刷した紙が貼られている。光太郎は立ち止まってそこに書かれていることを読んでみた。最初の行には近所の住民に注意を喚起すると書かれていた。最近自分の自動車のタイヤをパンクさせられたと云うことが書かれていた。そこにはその自動車の車種、犯行のおこなわれた時刻、そのための損害額などが書かれていた。そして警察の予想する犯人の目星として素人の二十才前後の若者の犯行だと書かれている。そして近所の住民に注意するように書かれていた。光太郎にはある車種の映像が浮かんだがそれが当を得ているかどうかはわからなかった。その電柱のびらを読んでその電柱のさきを通り過ぎると左手には光太郎の裏庭に続いている大きな池が見える。最初は田圃の水を引くために弘法大師が開いたと云う池だ。その池の向こうには塀もなく大きな屋敷が見える。屋敷の手前には折れ曲がった松が数本植わっている庭を有している。光太郎の家もそこに住む地主が建てて売ったのだった。その屋敷は料理屋特有の変な屋根の曲がり方をしていた。外に面した廊下のすべてには引き戸がついているのだがその引き戸は上から下まですべて板ガラスがはめこまれている。その地主は夫妻と小さな女の子の四人家族で住んでいると云うことを聞いたことがあった。いくらなんでもあの大きな家に四人家族では寂しいし不用心だろうと光太郎は思った。そこが料理屋だったと云うことも不自然に思えるし、その地主がなんでわざわざその料理屋を自分の住まいにしたのかもわからなかった。そこが料理屋としてのピークを迎えたのは江戸時代の終わり頃だと聞いている。川魚のほかにすっぽん料理も名物として出していたそうだ。あの大きな家に住んでいて何の生活の不足も感じていないだろうその家主の生活は光太郎には想像も出来なかった。底が薄くなって今にも穴が開きそうになっている靴をだましだまし履いている自分にはである。
田圃の中の道を歩いて行くとやがて旧街道に出た。ここは昔、宿場町として参勤交代の大名が江戸に入る前に投宿した場所だったのでその時代の旅籠屋がまだその当時を伝えながらその姿をとどめている。光太郎が玩具を買った川端童心舎と云う会社はその旅籠屋にはさまれる形であった。光太郎がその会社の前に行くと五、六個のダンボールの箱が素のままに置かれていて、ビニールの袋に入った玩具がちらほらと入っている。この会社は幼稚園に毎月玩具を卸すことを仕事にしていた。しかし、注文の数と生産数が合わないので余った玩具をそこを通る人間に直接に売ることによって過剰生産の赤字を減らそうとしている。光太郎がダンボールの箱の中を見ると今月の余った玩具が底の方にちらほらと収まっている。それはすべて一種類のものだったが、光太郎が思ったよりも大きな玩具だった。それは弥次郎兵衛の真ん中に車輪がついていてその車輪にひもを通すようになっている。弥次郎兵衛が左右に振れることによってそれを動力に変えて車輪が回転してひもに沿って坂を上れるようになっている。その建物の奥の方では作業台が二つ置かれて、梱包用の道具が作業台の上に置かれている。その奥の方には事務机が置かれていてその席に全くの店番にならないようなこの会社の専務兼作業員が座って帳簿をつけていた。光太郎はその玩具を買うことをためらった。一つは自分の家でやってみるには大きさが大きすぎること、同じ原理で同じような動きをする玩具をすでに持っていること、そしてこれが最大の理由なのだがダンボールの箱の後ろの方にダンボールを切って売値が太いマジックで書かれていたがその値段が思ったよりも高かったからだった。光太郎はそのダンボールの箱から離れた。奥の方にいる事務員はまったく光太郎の存在を忖度していないようだった。光太郎はその会社を離れて隣りにある旅籠屋の方に足をすすめた。そもそもこの場所に興味を持ったのはその隣りの旅籠屋に興味を持ったのが最初だったからだ。その旅籠屋は江戸時代の頃は旅籠屋をやっていたが現在は一切の宿泊業には手を出していなかった。その代わり街道に面した外回りの一角を区切ってホーロー引きの看板をつるして煙草屋を営業していた。その煙草屋の店構えは外に面した平面から少し出っ張っていて風呂屋にあるようなエメラルド色のタイルが出っ張った出窓の下の方の全面に張られている。その上にガラス張りの棚があってそこによく売れる煙草の銘柄が置かれている。その上にガラスに上板があってその上にガラスの引き戸があって寒かったり風が強いとその戸が閉められるのだ。そしてさらにガラスの引き戸の上天井の方に白いガラスで中に蛍光灯が仕込まれているものが置かれていて、そこにアルファベットの赤いペンキで煙草と書かれている。田舎の煙草屋には珍しくハバナ産の葉巻なども出店の後ろの棚に備えられていたりする。そこに七十くらいの老婆がちょこんと座って店番をしているのだ。
しかし光太郎がその旅籠屋に興味を持ったのは異国情緒を醸し出すハバナの葉巻のパッケージからではない。江戸時代から続く旅籠やの店構えからでもない。煙草屋のショーウインドーの上にけやきを彫って作った布袋の像があったからだ。煙草を買いに来る客の店番のようにちょこんとその布袋の像がのっていた。その後ろに老婆が座っていた。さらに老婆の後ろの方には同じような布袋の像が何体も棚の中にしまわれて街道の方をみている。その布袋の像が江戸時代の奇僧として知られる宗源禅師が彫った布袋だと云うことを光太郎は知っていた。宗源禅師は日蓮宗の鋸南にある妙本寺に数年に渡って投宿したことが記録として残っている。そのとき仏像を彫らずに七福神のうちでも布袋を数十体彫ったと伝えられている。光太郎はその布袋を一目見たときそれが宗源禅師のそれだと云うことを一目見て直感した。そしてつくづくとその布袋を煙草も買わずに見ていると中からこの家の主人が出て来たのである。
「わかりますか」
主人は外に出てくると開口一番そう言った。「宗源禅師の布袋ですね」
「そうです」
頭のすっかりとはげ上がった六十がらみの主人は内心喜びを隠せない表情で言った。自分の作った盆栽を褒められて喜ぶ人間の感情と同じかも知れない。それから主人は布袋の飾られている棚のところに光太郎を上げてお茶まで出してくれた。薄暗い棚の中でいくつも並んでいる布袋の像が瞳のない目をこちらに向けて微笑んでいた。主人はそれを手に入れた履歴を話した。光太郎の見たその布袋は見れば見るほど見事であった。主人がその講釈をしているあいだ光太郎はただ黙って聞いているだけであった。その間ふつうの人間ならそんな布袋の彫り物に興味を持つはずもないのに光太郎がなぜその布袋が特別なものかわかったかと云う点については主人はまったくの興味も持っていないようだった。そのことが却って気楽でもあったし、光太郎にとっては救われる思いもした。この家に上がるとき光太郎は一瞬躊躇したがそれは自分の過去の一端でも他人とかかわるときにつまびらかにしなければならないかも知れないと云うおそれがよぎったからだった。光太郎の過去と云うものはあからさまに人に語れるような春の日の中で微笑んでいるようなものではなかった。この家の主人は光太郎の過去を一切詮索しなかった。光太郎は自分の住まいが弘法池の端にあると云うことだけを教えたのだ。その家がここらへんで一番大きな地主が建てたものだと云うことは知っているらしかった。したがって光太郎の家族構成のことなどこの主人が知るわけもなかったのだが、それから数週間後にこの主人は光太郎の妻のことを知るのである。だいたい半分は老婆が煙草屋の店番につき、この主人が残りの半分を店番についていたのだが、たまたま、飯田かおりと並んで歩いているときこの店の主人のめざとい目にとまった。煙草屋の店の中から「三輪田さん」と声をかけられた。そこで光太郎は妻とともに煙草屋の方を振り向いたのだ。
幼児用の玩具を買うことをあきらめてその煙草屋の前に行くと光太郎はふたたび声をかけられた。例の主人だった。はげた頭が斜めに煙草屋のショーウィンドーの外に飛び出した。
「三輪田さん、お茶を飲んでいきませんか」「ええ」
光太郎は多少迷惑な表情をしたが主人はそんなことにおかまいなかった。
「上がらなくてもいいんです。靴を脱がなくても」
主人は手招きまでしている。
光太郎は無理矢理その旅籠屋の中に引き込まれた。昔の旅籠屋だったので上がり框は立派だった。昔の旅人はそこで草鞋のひもをほどいたのだろう。長年のすすとそれを雑巾掛けしたあとで黒光りしている。
「靴を脱ぐのは面倒でしょう。いい漬け物が出来たんですよ。今持って来ますから」
主人は上がり框に座布団を敷くとそこに光太郎を座らせた。光太郎は仕方ないのでその座布団に座ったが、主人から布袋に類した話しを聞きたい気もあった。やがて主人はお茶と自慢の漬け物を持って光太郎のところにやって来て光太郎のすわっている座布団の横に置いた。
「これがけっこういけるんですよ」
旅籠屋をやっている時代からこの家では漬け物を作っているらしかった。昔もこの漬け物をここに泊まった客に出したのかも知れない。主人は割り箸をさいて光太郎に渡した。「一つ、賞味してみてください」
光太郎は漬け物を一つ取って口の中に入れた。光太郎がその漬け物の一切れを口の中に放り込むことが主人が話し出す合図のようだった。
「この前、三輪田さんの奥さんを始めて知りましよ。一緒によくお出かけになられるんですか。きれいな人ですね」
「いや、そんなことはないですよ」
主人の口調にはいやらしい響きはなかった。「この前、駅で奥さんを見かけましたよ」
ここから一番近い、ここの住民が使う駅は文字通り田舎の駅だった。駅には二つの線路が走っている。駅舎の前には手動で線路のポイントを切り替える切り替え器のレバーが並んでいる。駅員はふたりしかいない。ここに停まる列車のドアは自動では開かなかった。停車した列車の外側にスイッチが附いていて乗客がいれば開く仕組みになっている。しかし朝の通勤の時間には駅のホームは人でいっぱいになる。電車は一時間に二本しかやって来ない。
「わたしもたまたま列車に乗ろうと思ってホームにいたんですよ。そうしたら三輪田さんの奥さんもホームの真ん中あたりにいたんです。奥さんの方は私には気付かないようでしたが、もちろん一度しか会っていないので気付かないのが当然なんですが、奥さんはどこかに行くみたいだったんですね。わたしは奥さんに挨拶をしようかどうしようかと思っていたんですけど、奥さんの後ろ姿をじっと見ている人間がいて話しかけるのをやめてしまったんです。その奥さんをじっと見ていたのが学生で遠くから見ていてもその姿は少し異常でしたよ。まるで何かに取り憑かれているみたいでした」
主人の話には飯田かおりが美人だから気をつけろと云うニュアンスがあった。光太郎はその学生がどんな人間なのかわからなかったが薄気味悪いものを感じた。
もと来た道を戻って光太郎が自分の家に戻ると飯田かおりは食事の支度をして待っていた。光太郎が弘法池でつり上げたウナギもぶつ切りにして焼かれていた。うなぎの蒲焼きなどはかなり洗練された料理法でそもそもうなぎを開くなどと云う高度な技術は素人ではおよびもつかないもので、地方ではぶつ切りにしてあぶり焼きにしていたに違いない。居間にひろげた卓の上に食事の支度はなされていた。
「川端童心舎で玩具を買って来たの」
「いいや、あまり気に入ったものがないから買って来なかった」
「そう」
飯田かおりの口調には期待も無関心もどちらの調子もなかった。光太郎は駅のホームで飯田かおりのことを異常とも云える調子で見つめていた学生がいたことを言おうかどうか迷った。主人は飯田かおりが美人だと言ったときその言葉を否定したが美人ではないが男を引きつける何かを持っていることは否定しようがなかった。そのために光太郎自身も飯田かおりと結婚したからだった。
「あまり遅くなったら外を出歩かない方がいいよ」
「どうして」
「田舎だからさ」
「田舎の方が安全なんじゃないの」
「ときと場合によるよ」
光太郎はこんな田舎では飯田かおりほどきれいな女はいないと言おうと思ったがなぜそんなことを言うのか聞かれたらなんと説明していいのかわからないので黙っていた。それになぜこんなに不安な感情に襲われるのか光太郎自身にもその理由がわからなかった。飯田かおりは自分の妻であるがそれでいていつか自分から離れていくのではないかと云う漠然とした不安がときとして心の片隅に浮かんでくることがあった。飯田かおりが自分からいなくなればもうすでに自分にはなにも残されていないと云う思いもあった。かすかな希望と幸福の領域に結びつく細い糸のような気がするのだった。
「昔は裏の池ですっぽんも捕れたらしいよ」
光太郎は話題を変えた。
「すっぽんが捕れたらどうする」
「いやだわ。すっぽんなんて気持ちが悪い」
「すっぽんが捕れたら料理屋に売るさ」
「あなたのあんな簡単なつり竿ですっぽんなんてつれるの」
「さあ」
「すっぽんって人に噛みついたら指ぐらいくいちぎっちゃうと云うじゃない。こわいわね」
「こわいさ」
「わたしむかしから亀ってなんかきらいなのよね。ふつうの亀だったら黒い色をしているからまだいいんだけど、すっぽんってなんで白っぽい色をしているんでしょう」
「さあ、なぜかな」
ふたりの会話はいっこうに進展しなかった。ふたりはお膳を向かい合わせに会話している。膳の上には裏の池で光太郎がつり上げて来たうなぎがのっている。光太郎は自分が左手で持った茶碗の中の御飯を右手に持ったはしでしきりに口の中に運んだ。その様子は表面的にはほとんど平穏と安寧におおわれているようにみえる。世の中のすべての争いも困難もないようにみえる。
「さっき、すっぽんも捕れたらしいってあなたは言ったわよね。あの池にはすっぽんが住んでいるわよ」
飯田かおりはうなぎをはしの先で一切れつまみながら光太郎の目を見つめた。光太郎が話しにのって来るかためしているようだった。
「裏庭で洗濯物を干していたらね。池の方で誰かがじっとこちらを見ているような気がするのよ。こわくてそっちの方を見たら水の上から頭だけだしてわたしのことをじっと見ているのよ。あのきせるの吸い口みたいなものが水の上に出ているのよ。そのきせるの根本の方にはふたつの目玉がついてじっとこちらの方を見ているんですからね」
「じゃあ、すっぽんもあの池の中には住んでいるんだ」
「そうよ。でも庭の方に上がってくるかしら。洗濯をしていたら上がって来て足もとにいたりしたなんてことになったらいやだわ」
「地面の上には上がって来ないだろう。飯田かおりはこわがりだな」
光太郎がただ黙々と飯を口に運んでいるのをやめて表情をくずしたことに飯田かおりは満足しているようだった。
「すっぽんが今もあの池で捕れると云うことは昔はあの料理屋さんでもすっぽん料理を出していたのかしら」
「あの料理屋さんって」
「この家を造って売ってくれた地主さんが住んでいるあの家のことよ」
「昔はずいぶんと流行った料理屋だったらしいよ。参勤交代で江戸に上がって来る大名があの料理屋で食事をしたらしいよ。それも江戸時代の末期のことらしいけど、伊達政宗の何代かあとのお殿様もあそこで食事をしたんだって。旅の疲れを癒すためにすっぽんを食べたかも知れない」
「なんか、おかしいわ。お殿様がすっぽんを食べている図なんて」
飯田かおりは茶碗を持ったまま笑った。飯田かおりの視野の中には光太郎しか見えていなかった。そして光太郎の視野の中にも飯田かおりしか見えていなかった。その視野の範囲が空中の中で立体的に円錐として目に見えるならお互いから出ているその円錐はお互いの姿をぎりぎりの中で含んでいるのではないだろうか。しかしこうして表面的には幸福に包まれている夫婦のようだったが光太郎の心の中にはある抑圧された不安が隠されていた。道を歩いているときでも通りゆく人の後ろ姿からなにものかを連想したり、列車に乗っていて商店の上の看板から何かの啓示を読みとったりするのだった。そのたびに光太郎は自分の思い過ごしをいましめようとするのだがその日一日そのことが心の奥底の方に深く沈んで過ぎ去ったできごとが思い出されようとする。そして突然にあるところに来るとそれが突然の扉をしめられたように止まってしまう。巨大な鉄の扉の前でそれをあける方法も知らずにうろうろするばかりだった。
ふたりの夫婦は食事を終わらせて、飯田かおりは台所の流しで茶碗をかちゃかちゃいわせて洗い物をしている。その音を横で聞きながら光太郎は新聞を居間の畳の上に大きく広げてその上におおいかぶさるようにして文字をおっていた。新聞の下の方の死亡欄のところに外国のある喜劇俳優の名前が載っていた。その記事の横にはその俳優の顔写真が載っていた。その顔写真と云うのも世間の人が多く知っている若い頃のものではなく死ぬすぐ前の頃に撮られたような写真だった。
「飯田かおり、****が死んだよ」
「****って」
「イギリスの喜劇俳優だよ」
「そのことが特別な意味があるの」
「むかし****に会ったことがあるんだよ」
飯田光太郎はほんの小学生の頃にそのイギリスの喜劇俳優に会ったことがあった。その頃はもちろん父親も生きていて光太郎の家は経済的に隆盛を極めていたからその俳優が訪日したとき父親につれられてのりでごわごわになったような洋装をさせられて、あやつり人形のように父親に手を引かれて銀座のホテルでおこなわれた歓迎会に行ったことがあったのである。そのとき相手は光太郎の手を握りながらなにかわからない言葉で話しかけて来てにやにやと笑った。そのときの俳優の顔は赤ら顔と云ってもいいようなもので顔にも張りがあり、つやつやしていた。だからその俳優の名前から連想されるものはそのつやつやした肌だったが新聞に載っている顔は白髪頭だった。
「むかし会ったときはもっと油ぎった感じだったんだけどなあ」
「何年前に会ったの」
「うんじゅう年前だよ」
「だったら、白髪頭にでもなるでしょう」
台所に立っている飯田かおりは洗い物も終わっていた。張りのある腰のあたりがゆらゆらとゆれている。自分の手についた滴を払っているらしかった。光太郎が居間にかかっている植物のつるをデザインした針のついている柱時計を見ると六時を少し過ぎていた。
「あっ、もう六時を少し過ぎている。飯田かおり、用意をしないと、今晩は****市民会館にお笑いショーを見に行く予定だったじゃないか」
「あっ、そうだ。忘れていたわ」
飯田かおりはエプロンで濡れていた手を拭うと光太郎が置物の蝦蟇蛙のように座っていた居間を抜けて右手にあるふたりの寝室の方に入って行った。その寝室の中には鏡台があったからだ。飯田かおりはその鏡台の前に座って化粧を始めた。寝室に抜ける障子は完全に閉められていないので光太郎の座っている位置から飯田かおりが化粧をしているのが見える。さかんにはけのようなものを動かしていた。はけを動かしている手を休めずに飯田かおりは光太郎の方に話しかけた。
「その恰好で行くんじゃないでしょう」
蛙の置物の光太郎は立ち上がると壁にかけられていた少しだけおしゃれな洋服を手にとるとずぼんを脱いで履き替え始めた。ふたりが家の外に出ると外は昼と夜のちょうど中間ぐらいの明るさだった。ここが田舎だと云っても離ればなれについている電柱の上には街路灯がついている。この街のメインストリートからほんの少し離れた場所にあるからそれらがついているのだろう。光太郎の家のあたりがそのぎりぎりの限界かも知れない。光太郎と飯田かおりのふたりは田圃の前にあるまだ舗装されていない道を歩いた。昼間に光太郎が散歩をしたときに見た電柱にはまだ住民に喚起を促すと書かれたびらが張られていた。木造で大きなトタンの板の扉のついている手押し式の消防ポンプのしまわれている倉庫の前を通ると光太郎はそのトタン板の方をちらりと見た。
「この消防ポンプを見たことがあるかい。前に扉が開いていて、それを見たんだけど、ものすごくちゃちなんだよ」
今はそのトタン板の取っ手のところには鎖が通されて開かないようになっている。その鎖も少し錆びていていざ火事が起こったときどうなるのかと光太郎は少し心配になった。
「手押し式の消防ポンプのあんなもので火事が消せるのかなあ」
「それで火事が消せると云うものではないらしいわよ。火事が起きたときに消火活動している人たちに水を浴びせるそうよ。直接、燃えている場所に水をかけると云うのではないんですって」
光太郎は飯田かおりが意外なことを知っているので少し驚いた。しかしその知識をどこで手に入れたのか、飯田かおりに尋ねることはしなかった。
公民館の建物は小学校と大きな駐車場にはさまれて建っていた。駐車場と云ってもただの空き地を柵で囲んだだけの施設だったが。公民館の施設は敷地にぎりぎりいっぱいに建てられた施設だと云うわけではない。その敷地はまわりの道路より一段高くなっていて周りを大谷石の低い石垣で囲まれていた。敷地の中はところどころ雑草や苔が生えていて石垣になっている積み重なっている大谷石の隙間から生えている雑草が頭を下げている。公民館の建物自身の敷地は全体の四分の一もしめていないだろう。公民館の入り口はゆるいスロープになっていて入り口のところで卓が置かれていて役所の人間がそこに座ってチケットの確認のような仕事をしている。天井の高いところからつるされた蛍光灯が受け付けの人間にしらじらとした光を浴びせていた。光太郎も飯田かおりもともにその役所の人間に面識はなかった。そこで光太郎と飯田かおりのふたりはチケットを係員に渡すと靴を脱いでそこに備え付けのスリッパに履き替えた。一段高くなっているその玄関にはダンボールの箱が置かれていて小豆色のスリッパがたくさん投げ込まれている。公民館の中の木製の床は黒光りしていた。その奥の方に進んでいくと右手の方に大きなドアがついていてドアはあけはなれたままになっている。ふたりはその中に入って行った。座席の皮もあずき色をしていた。座席の骨組みは鋳物で作られていて舞台は九十センチぐらいの高さがあり、舞台の両側には緞帳が束ねられていない状態でだらりと下がっている。ふたりが席についてから十五分ぐらいしてテレビに出ている若手のお笑い芸人、落語家が出て来てそれぞれの持ちねたを披露した。光太郎は椅子の下に折り畳んだ足の膝小僧のさきが前後の椅子にふれたので座席が少し小さいような気がした。そのことを横に座っている飯田かおりに話そうと思ったが飯田かおりのみならずまわりに座っている観客が黙って舞台の方に注がれていてみんな黙っているので話しかけるのをやめた。つぎつぎに若手のお笑い芸人が出て来て身振りをまじえながらおもしろい話しをした。だいたい一時間半ぐらいで演目は終わった。ふたりは公民館を出た。最後の若手の落語家のした話しが抽象的で光太郎のいだいている江戸時代にできた落語と云うイメージにあわなかったので光太郎は最後の話しは比較的最近に出来た話しなんじゃないかと飯田かおりに言うと飯田かおりの方はもっとむかしからその話しを知っているらしく
「なにを言っているの。あれは有名な話しじゃないの。江戸時代に作られた話よ」
と公民館の建物を背景にして言った。消防ポンプのときと同様だった。飯田かおりのほうがなんでもないことを知っているのかも知れないと光太郎は思った。
この田舎の駅のそばに鉄道の会社が経営しているかまぼこのような形をしたまるで自衛隊の宿舎を大きくしたような食堂とも喫茶店とも云えない施設があった。どういう意図で作られたのかわからないが店の左半分が厨房になっていてその厨房は客席の大きさからすれば異常に大きい。厨房と客席の境には大きなステンレスで出来た配膳台のような台があって、できた料理はそのステンレスの台の上に置かれて、厨房の中のコックが何かを言う、すると白い割烹着と三角巾を頭にかぶったおばさんが二、三人アルミの盆の中にその料理を入れて客のいるテーブルに運ぶ。そのアルミの盆がその台の上と客のいるテーブルのあいだを往き来している。もしかしたらそこは光太郎がこの田舎に引っ越して来る前はこの田舎町に一軒だけあった映画館だったのかも知れない。そう考えればこの建物の不要に大きいことが証明されるのだ。しかしそれは光太郎の自分自身の思いつきに過ぎないし、この町に映画館が一軒もないかどうかと云うことは光太郎は知らなかった。客席の方はと云うとデコラ板の机が客席の方に並べられていて椅子もテーブルも黒い鉄パイプで作られている安物なのだがその数が多いので客が数百人は入ることが出来るだろう。なんでも昔は宿場町で田舎であってもおおいに栄えた町だと云うことだがこんな小さい田舎町にこんな大きな飲食施設がなぜあるのか光太郎にはやはりわからなかった。最初は他の施設だったのを流用したのかも知れない。そこで考えついたその一例と云うのが光太郎が自分で考え出した廃業した映画館だったと云うアイデアなのだがかまぼこ型の外観がその事実を物語っているような気がするのだ。出すものと云えばうどんやそば、カレーライスのようなものだったがプラスッチック製のうぐいす色の高坏のような容器に入れて小豆アイスを出したりしていた。光太郎はときどきそこで小豆アイスを食べることがあった。
「飯田かおり、小豆アイスを食べて行かないか」
経済的には裕福だとは云えないふたりの夫婦だったがそのくらいの余裕はあった。裏町でこっそりと息をひそめてくらしている生活にほんの少しあかりと暖かい風を吹かせるくらいの余裕はである。店の中に入ると厨房の奥の方でコックがさかんに鍋の底を洗っている。ふたりが卓につくと白い割烹着を着たおばさんが注文を取りに来た。
「小豆アイスふたつ」
コップに入った水を置くとおばさんは手に持っていた注文票にその品物を書いて厨房の方に行った。ふたりの座った位置からは厨房が見える。後ろの方は道に面していて道をはさんで向こうの方には大きな食料品店があったがすでに夜になっていたので店は閉まっている。やがてままごとのおもちゃの高坏のような入れ物に入って小豆アイスがふたつ運ばれて来た。いれものの中にはアイスの半球が二個入っている。アイスを食べるとき特有の四角なスコップのような形をしたスプーンが添えられていた。アイスの横にはウエハーがついている。ふたりがアイスにスプーンを突き立てると小豆アイスの中の薄紫色の中にきらりと光るものがあった。小さな氷のつぶが中に入っているらしかった。きっとアイスクリームを作る段階で水の小さなつぶが入って凍ってしまったのかも知れない。
「失礼でがすが、弘法池のほとりの建て売りに住んでいる方でござんすよね」
四つずつ相対して並んでいる椅子の一つに勝手に味のなくなったたくあんのような老人が椅子を引いて座るとテーブルの上に肘をのせて身体を変なふうにひねってふたりの方を見た。光太郎と飯田かおりは卓の一番はじのところに相対して座っていたので飯田かおりのとなりのとなり、つまりふたつの椅子を離して座ったということである。老人はしなびたうりのような頭をしていて頭には毛が一本もなかった。
「失礼でがすが、わたしは決して怪しいものではないでござんす。弘法池のほとりに住んでいる方ですよね。いくらで家をお買いになすった」
老人はまた同じ質問を繰り返した。
あまりの突然の質問に光太郎も飯田かおりもなにも答えられなかった。光太郎は内心で自分は怪しい物ではないと言う人間こそが怪しいのだとつぶやいた。
「あなたは」
少し迷惑そうな顔をして光太郎はその老人に尋ねた。急に声をかけられて自分の住んでいる家をいくらで買ったかと訊かれればそう答えるしか選択の余地はないだろう。
「あなたたちがあの家を出入りしているのをよく見ていたでござんすよ」
老人はふたりがこの老人をどう見ているのか全く頓着していないようだった。
「あの池のあの地主の前の持ち主でござんすよ」
「前の持ち主と云うと」
飯田かおりは全く黙ってふたりの話しを聞いていたが目には驚いた表情が宿っている。
「あそこに料理屋があるのを知っているでござんすね。今は料理屋ではなく人の住まいになってしまっているでござんすけどね。あの料理屋の主人なんでござんす」
「料理屋と云うと今の地主さんが住んでいるあの建物ですか」
光太郎はあの家の庭にある池の向こう側に見える変なかたちをした松の姿が目に浮かんだ。
「ずいぶんと流行った店でござんしたよ。なにしろ江戸時代から続いていた店でござんしたからね」
「じゃあ、あの店のご主人だったんですか」そこへ白い割烹着を着たまかないのおばさんがアルミ製のお盆を下げたまま、そばにやって来た。
「いやだね。また安さん、ここに来てむかしの話しをしているの。お客さんに迷惑だからやめなさいよ。この人あの千亀亭の主人でね。よく昔話しをするんですよ。もう過ぎた昔だと云うのにね。わたしが子供の頃は本当に千亀亭はよく流行っていたわ。でも安さん、そんな話はやめなさいよ。安さん、自分が悲しくなるだけじゃないかい」
むかしからここに住んでいるらしいおばさんはなかば自分の若い頃の懐かしい映像が思いだされているのかも知れなかった。
「いや、別に迷惑じゃありませんよ」
光太郎はほおっておくとくどくどとしゃべりそうなこの老人があの料理屋の昔の主人だと聞いて興味を引かれて彼の話を少し聞く気持ちになっていた。
「あの料理屋さんは千亀亭と言ったのですか」
光太郎はそんなことも知らなかった。
「あの池でいろんな魚が捕れたのでござんすよ。それで江戸時代から続いているこのへんでは有名な料理屋でござんしたよ。そのいろいろな魚が捕れると云うのもみんなわしのご先祖さんがあの池にいろいろな魚を放したからでござんすよ」
「弘法池と云う名前は弘法大師が開いた池だと云うことを聞きましたが」
「そうですよ。最初は大昔に田圃の水が干上がっちまわないようにと弘法大師がため池を作ったのが最初でござんした」
「大昔と云うとどのくらいむかしのことなんですか」
店の外の方からつむじ風が吹いて来て店の中に貼ってあったポスターのすみをぶるりと揺らした。
「弘法大師さまがここに来たのは平安時代のことでござんしたな」
「弘法大師がこんなところまで来たんですか。ここは関東でしょう。弘法大師はおもに四国あたりでため池を掘ったと聞いていますが」「弘法大師さまはここにも来たんでござんす。あの池の水が涸れないのも弘法大師さまが霊力を持ってあの池の北西にある森の中からわき水をわかせたからでござんすよ」
その話しを聞いていた飯田かおりはその森に興味を持ったのか
「その森の名前はなんと云うんですか」
とふだんは知らない人間とはあまりしゃべらない彼女がしなびたへちまのような老人に話しかけた。
「なんと云う名前か忘れてしまったでござんす。そんなことよりあの地主からいくらで家を買ったでござんすか」
このぶんでいくとあの池のほとりに住んでいる住人のすべてに同じ質問をしているのかも知れない。そんな質問をさえぎることは光太郎には出来たのだが、その老人があの料理屋のむかしの主人であること、その老人がすっかりと落ちぶれてしまって見るのも痛々しいくらい弱っている様子、その一方で自分のむかしの家に対するなみなみならない執念のようなものを感じて老人との対話を断ち切る気にはならなかった。
「わたしがいくらであの家を買ったと聞きたいと云うことは、つまりあなたが不当な売値で自分の料亭を売ったと云うことを意味しているのでしょうか」
「あんた達はあいつに会ったかな」
光太郎も飯田かおりも自分たちの家を売った地主には会ったことがなかった。家の売買の交渉はすべてある人物を介して、と云うよりその人物が取り仕切っておこなわれたのである。その物件を見付けたのも買値を決めたのもである。飯田かおりが横から口を出した。
「会ったことはありませんわ」
「あいつは詐欺師じゃ」
老人は憎々しげにつぶやいた。
「あいつは詐欺師じゃ」
二度目にそうつぶやいた老人のはきすてられた言葉には最初のときのような力はなかった。アルミのお盆を持ったまかないのおばさんはいつものことが始まったと云う調子でもうその場から離れていた。
「詐欺師と云うことはあなたは地主に騙されてあの料亭を取り上げられたと云うことですか。それなら警察にでも裁判所にでも訴えて家を取り戻せばいいじゃないんですか」
「それが出来れば苦労はないわい」
それで老人は家の売買においてその地主が不当な利益をあげていることを知ってあらためてその地主が悪者だと云うことを確認して自分の心の落ち着くさきを見付けようとしているのだろうか。
「あいつにわしは騙されたのですじゃ」
「騙されたとはどういうふうにして」
光太郎は目の前に置かれていた小豆アイスを食べ終わっていた。
「あいつに変な女を紹介されたのだ」
そんな言葉の二、三の断片を言われても光太郎にも飯田かおりにも理解出来なかった。
「あいつはいたち柱が欲しいのじゃ」
「いたち柱」
老人の話はますます飛躍した。そして光太郎にはますます理解できなかった。
「わしの家の何代も前の言い伝えじゃ。そもそもあの料理屋が生まれるきっかけは徳川家光公が東北を歴訪するさい、江戸から出て最初の宿としてこの地を選んだことに始まるのじゃ。家光公つまり徳川幕府の怒りを買わないため、地元の殿様は素晴らしい料理屋を建てなければならなかった。そこでこの地の当主はここにいる名人と呼ばれる大工を集めてあの料理屋を建てたのじゃ。しかし最初の設計のときと違ってあの料理屋の柱は一本だけ多かったのじゃ。しかしどの柱が余計な柱なのか大工たちはいくら頭をひねっても分からなかった。そのうちわしの祖先がそこに住み込み料理屋を始めた。しかし毎晩用意した料理の一人分がなくなった。奉公人を調べてもその料理を食べたと云う人間はいなかった。しかし毎晩必ず一人分の料理がなくなるのじゃ。しかしある日こんなことが起こったのじゃ。あの料理屋の中の若夫婦の部屋に生まれたばかりの赤ん坊をひとりで寝かせていたとき、その部屋に火事が起きたのじゃ。赤ん坊が火事で焼き殺されると誰もが思った。みんな絶望した気持でその火事の炎を見ていたのじゃ。すると火事の炎の中からなにかが急に飛び出した。それは赤ん坊をくわえたいたちだった。いたちは赤ん坊を外に置くとまた料理屋の中に飛び込んで行った。外に置かれた赤ん坊は泣き叫んでいたが母親がその赤ん坊を抱き上げた。そこにいたみんなはいたちが火事の炎の中で死んでしまったと思ったのじゃ。しかし夜の空の雲行きはおかしくなった。そして急に滝のような雨が降り始めて料理屋の火事は消えてしまったのだ。それから誰言うこともなく、千亀亭の柱の一本はいたちが姿を変えていると言われるようになった。しかしその何代かあとその言い伝えを知らない嫁が千亀亭に嫁いで来たのじゃ。ある日裏庭でいたちが店の料理をあさるように食っているのを見かけたのじゃ。嫁は怒って犬をつれて来て何日も待ち伏せしていた。そしていたちが店の中の料理を持って来て食っている。嫁は犬を放した。いたちは首のあたりから血を流しながら千亀亭の中に逃げ込んでいった。すると千亀亭の柱のすべてに赤い血のようなしみが出来たのじゃ。それから千亀亭で飯を食った客が食中毒になったり、いろいろな祟りが続いた。それで真言密教をよくする坊主をつれて来て祈祷して柱のしみがなくなると同時に千亀亭にもわざわいがなくなった。それから代々、千亀亭の主人は犬年生まれの女とは交わってはいけないと云う家訓が出来たのじゃ。しかしあいつがわしに犬年生まれの女を紹介したのじゃ」
老人はその話しを何度もしているらしく話によどみはなかった。
光太郎はふたつ並べた寝床の中でうつぶせになりながら枕元にあるスタンドの明かりで本を読んでいた。隣りの寝床で上を向きながら目をつぶっていた飯田かおりが枕の上に乗っている頭を光太郎の方に向けた。
「まだ、寝ないんですか」
「うん」
「何を調べているの」
「本当に弘法大師が千葉のこんな田舎にやって来たかとうかと云うことを調べているんだ」
「昼間のおじいさんの話を気にしているんですか」
「気にするって、どこを」
「この家を売った地主が因業だと云うこと」
「そんなことではないよ」
「じゃあ」
そう言ったまま、飯田かおりは形の良い鼻を向こうに向けてしまった。
若い頃から光太郎は迷信や伝説と云うものを信じなかった。わからないことがあると何かに落ち着いて取り組むと云うことが出来なかった。すべてのことは割り切っていなければ我慢が出来なかったのである。もちろんそんな若い頃でも自分の思考の限界と云うものはもちろん認めていた。しかし思考の限界内で起こる割り切れないものは認めたことがなかった。そしてその一見不思議なことが起こる現象を筋道をたてて説明しなければいられなかった。しかし最近はそんなせっかちな光太郎の性情はすっかりと影を潜めていたのである。それがなにを意味しているのか光太郎にはさっぱりとわからなかった。調べなければならないことが、わからないことが多すぎるのか、そういった意欲が摩耗してしまったのか、ずっと昔に存在した弘法大師が現在の光太郎の生活にどういうように作用していると云うのだろうか。光太郎はスタンドに照らされている一般向けの歴史解説書を開いてみた。弘法大師のページを見ると次のページにわたっているようなので次のページをめくってみると、もうそこには別の人物のことが書かれている。そこで光太郎はまたページをもとに戻した。
弘法大師、空海、平安時代の人。讃岐多度郡生まれ。延暦二十三年、最澄とともに入唐、恵果につき密教の奥義を究める。帰国後、真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を創立する。のち京都の東寺を密教の根本道場とし、東大寺別当を兼ね、書においては三筆の一人である。
と、とおりいっぺんのことが書かれている。そして解説文の下の方にはたこ入道のような空海の一筆書きのような肖像画が載っている。光太郎はその絵を見て何故だかある相撲取りを思い出した。書かれていることはきわめて簡単だった。たんに一般的なよく知られているすべての歴史上の人物を網羅して書かれている本であるから当然のことと云えば云えた。手元の電気スタンドに照らされたそのページから目を離して妻の飯田かおりの方を見るとふとんを被って向こうを向いている。光太郎には自分が空海のことを調べていることが妻の飯田かおりを傷つけていると云うことがわかった。昼間の小豆アイスをふたりで食べているとき千亀亭のもとの主人が自分たちのテーブルに寄って来ていたち柱などと云うわけのわからない話しをしたとき、その話しの内容のあるくだりに光太郎が興味を持ったと云うことが妻の飯田かおりを傷つける原因になっていると云うことはわかっていた。しかし光太郎は空海が本当に弘法池に来たかどうと云うことを知りたかった。もっとも空海のことを専門に調べている歴史書でもないかぎりそのことは肯定も否定も立証することは出来ないだろう。
妻の飯田かおりは美人ではなかったが、どことなく男を引きつけて放さない何かを持っていた。そのために飯田光太郎は飯田かおりと結婚したのである。それは神秘的な言葉を使わなければ性的魅力と云ってもいいだろう。いろいろな理由から相手を求める理由があるだろうが、まず性的なものに重点を置くものもいるだろう。そして生活のための同伴者としての資質を重視するものもいる。それにはお互いに信頼しあえるか、価値観が同じと云うことが第一に来る。そこからさらに発展して自分の妻を宗教的に崇拝するものもいる。その宗教的な崇拝のうちにも二種類ある。全くの現世的な利益を求めず、自分の妻をただ崇拝して奉仕する対象だと思い続け、そのように行動するもの。つまり信心の対象だと考えるのである。そしてもう一つが宗教的な崇拝の対象であるが、その妻が自分にどういう現世的な利益を与えてくれるかと云うことをいつも考えているものもいる。つまり世に言う、あげまん、さげまんと妻の分類を行うものである。
精神年齢による成熟度と云う観点からは性的な魅力によって相手を選んでいると云うのはもっとも若者らしく、本能に近いとも云える。光太郎はある時期ある場所でこれに束縛されて飯田かおりを獲得したのだった。しかし、宗教的理由と現世的利益を自分の中で折り合いをつけている輩からすれば、妻の飯田かおりはさげまんと云えた。飯田かおりと結婚してからの光太郎の生活はあきらかに下降線を辿っていたのである。そのことは妻の飯田かおりも知っていた。だから昼間のいたち柱の伝説の妻をめとらばと云うところに光太郎はひっかかっていると云うことを妻の飯田かおりもわかっていたので向こうを向いてふとんを被ってしまつたのだ。飯田かおりの目は涙でうるんでいたのかも知れない。しかし飯田かおりも知らない体験を光太郎はしていたのだ。そのために世捨て人のように飯田かおりを自分のすべての世界として弘法池のほとりに住んでいなければならなかったのだ。
自分のとなりに寝ている妻の飯田かおりの丸い姿を見ると、その性的な魅力と自分の運を食いつぶしているのではないかと云う複雑な感情が光太郎の心のある部分をしめた。
「あなた、わたしのことを疫病神だと思っているでしょう」
ふとんに丸まって向こうを向いたまま妻の飯田かおりはつぶやいた。
「そんなことは思っていない」
「だったら、なんで弘法大師のことなんか調べていらっしゃるの」
「昼間、変なじいさんがいたち柱なんて云う変な柱があると云ったからだよ」
「なんで、いたち柱に興味を持ったんですの。千亀亭の変な家訓に興味を持ったからでしょう。千亀亭の人間は特定の年回りの女と結婚すると不幸になると云う」
「そんなことはないよ」
「うそよ」
光太郎はなんと言ったらいいかわからなかった。光太郎は自分の右手に川端童心舎で買ったおもちゃがあることを思い出した。そして右手の方に手を伸ばした。そこには万年たますだれにラッパと管のついたようなおもちゃが置かれていた。ラッパはたますだれの両端についている。光太郎はたますだれの片方の端を持ってすだれの二つの棒を縮めるとたますだれは伸びて云って、飯田かおりのふとんの中にすべり込んだ。これは幼稚園児の使う糸電話の一種でふたつの糸電話の距離をどういうふうにも変えられるおもちゃだった。ラッパの片方は飯田かおりの頭のそばに辿り着いた。
「もしもし、飯田かおりさんですか」
「・・・・・・・」
「今晩は素晴らしいことがありますよ」
「・・・・・・・・・」
「ラジオを聞いていたら、知ったことなんですが、ロシアが飛ばした人工衛星があと十五分でこの家の頭上を通過します」
「それ、本当」
飯田かおりは枕の上に載せた頭をこちらに向けた。飯田かおりの睫毛のあたりはやはり濡れているようだった。
「本当だよ」
光太郎の家のはるか上空をロシアが飛ばした気象衛星が一周り半、地球の上を回転してだいたい光太郎の家の真上を十五分後に通過すると云うことは事実だった。
「なんでそんなものがわたしの家の上空を飛ぶんですか」
「気象衛星だよ。気象観測をするんだよ」
「でもなぜ」
「大きな国は農業なんかでつねに自分の国の気象条件を正確に把握しておかなければならないんだ。それでその情報をもとに計画的に農作物なんかを作らなければならないんだ。ちょうど昨日の夜明け方にロシアがロケットを飛ばして衛星を打ち上げたんだ」
「あと十五分ぐらいでわたしたちの家の頭上に来るんですか」
この平屋建ての家のはるか上空、宇宙空間の中に人工衛星が飛んでいると云うことは飯田かおりにとっても不思議な気分がしたのかも知れない。飯田かおりの頭の中には自分の家の屋根と人工衛星の奇妙な形が同時に存在しているらしかった。
「だから」
「だから、なんですか」
「飯田かおりが変なことにこだわって変な顔をしていたら人工衛星から見たら、人工衛星が変な気持ちになるよ」
「へえ、人工衛星がわたしの家の上を通るんだ。こう話している間にも時間が経っていくから、あと十分くらいで真上に来るかな」
「来るさ。明日は休みだから気持ち好い気分で寝ようね。飯田かおり」
「うん」
次の日は光太郎の休みの日だった。廊下を突き当たったところにある洗面所に立って隅のところの水銀が少しはげている鏡に自分の顔を映してみるとすっきりした顔をしている。昨晩はぐっすりと寝られたようだった。白い陶器の洗面台の左隅にふせられているガラスのコップをとって水を注ぐとコップの中には透明な水と空気の粟粒が入っていった。そこに少し毛先のなまったはぶらしをつけてそのさきに歯磨き粉をつけた。それを口の中に入れる。歯ブラシを歯につけて動かすと歯のぬめりがとれた。縁側の向こうにいつも見える大きく滑らかな稜線を見せている山、筑波山が見える。遠くから朝刊を配達する五十シーシーのオートバイの音が聞こえる。家の前の舗装されていない道を走ってくるようだった。玄関の引き戸をがらがらと開ける音がして新聞が玄関に投げ込まれた音が聞こえた。
歯を磨いて冷たい水に顔をさらしてタオルで顔をふくと飯田かおりが卓を出している六畳の部屋から呼ぶ声が聞こえた。その部屋は台所につながっていて台所で作った料理を卓の上に運ぶようになっていた。卓の上には御飯とみそ汁が載っていてた。醤油の瓶と海苔、小皿も用意されていた。光太郎が卓の前に座ると飯田かおりは玄関に投げ込まれた朝刊を取りに行っていた。
「見て、見て」
飯田かおりが女子学生のような声をあげながら新聞を持って廊下を小走りに走って来る。
「飯田かおり、どうしたの」
「光太郎さん、見てよ」
そう言って飯田かおりは光太郎にこの千葉県の特定の地域にしか出されていない新聞を箸を持っている光太郎に渡して自分は光太郎の横に平行に座ってその新聞の内容をのぞき見ている。
「見て、見て」
そう言って飯田かおりは新聞を開いてその地方版のその地方のことだけを取り扱っている部分を指さした。その記事の見出しは驚くべきものだった。
れんげ平にユーフォー飛着か。
昨晩の十一時半にロシアの飛ばした気象衛星がこの町の頭上を通過したが、と同時に思いがけない訪問者がこの町にやって来た模様である。それがロシアの飛ばした人工衛星となんらかの関係があるのかどうかはわからない。しかし複数の目撃者の証言によると同時刻にこの町の南西に位置しているれんげ平に同時刻、光る飛行物体が飛来して来て着陸、およそ十分後にまた空中に上昇して北東の方向に飛び去った複数の付近の住民が証言している。これが未確認飛行物体か。
「ほら、すごいじゃない。私たちが糸電話で話しているとき、ユーフォーがこの町に飛んで来ているのよ」
「本当かな」
「でも新聞にはそう書いてあるじゃない」
光太郎はその新聞の日付を確認した。しかし四月一日にはなっていなかった。そして妻の飯田かおりがこんな記事でなぜ喜んでいるのかも理解出来なかった。時代を飛び越えるような画期的な新たな推進装置や空中浮遊機構が開発されたとしても光太郎の生活には直接にはなんの影響ももたらさない気がしたからだ。それよりもそんなことで喜んでいる妻の顔を見ているほうがおもしろかった。
その記事を読んでいる光太郎の横で飯田かおりは言った。
「ねえ、光太郎さん、今日はれんげ平に行ったらよろしいんじゃないでしょうか」
妻の口調は学校を卒業していない女子学生のようだった。光太郎はしばらく考えながらそうするかと言った。少しその記事に興味もあったからである。光太郎はここに引っ越して来てから休みになるとこの町のいろいろな場所を歩くことを趣味にしている。別にとりたてて奇岩絶景があると云う景色ではなかったが、まだここに越して来てからそれほどの年月も経っていなかったので休みのごとに訪れる景色は新鮮に映った。特別とりたててどういうこともない景色なのだが、さいふの底の薄い身にはちょうど好い道楽だったのかも知れない。もし光太郎にもっと経済的余裕があったのなら、この片田舎から銀座にでも乗り出して一貫何千円もする寿司を食ったり、大きなクルーザーを買って千葉の海を釣りをするために乗り出したかも知れない。しかしそう考えたときにある悲しみとも不安とも知れない感情がわき起こってくるのだった。それは現実問題としてさいふの中に金がないと云う不安や悲しみとも違っているような気もするのだった。そういった感情が子供のときから光太郎にあったとは考えられない。子供のときはいつも新しい太陽が朝になれば上がってくるし、どこへ行ってもふかふかの御飯が盛られたお膳はついてまわってくると思っていた。そして今となって太陽は上がって来ることを確認したし、お膳を探し出すやりくりはなんとかたっている。しかし、しかしである。その太陽はあの鮮やかな色を失っていたし、ふかふかの御飯に味や香りを意識せずに口から胃の中に飲み込むがむしゃらな食欲もなくなっていたのだ。もしかしたら歴史を変えるような大きな事件に係わっていたり、人間の生活を少しでも変えるような発見をすればこの気持ちは変わっているかも知れない。しかしそんなことの出来るのも遠い昔のことのような気がするのだ。さいふの底が薄いと云うこと、それは一方にはすべての空虚さにもつながっている。有ってもいい場所に何もないと云う感覚だった。そしてもう一つが自分の周囲をある障壁が囲んでいてそこから飛び出すことが出来ないと云う圧迫感だった。それから逃れるためにこうやって限られた金の中で近所を散歩したり、妻の飯田かおりの笑顔の中になぐさみを求めたりしているのかも知れない。しかしこの自虐的な心情の中にねぐらを見付けている光太郎の内面を飯田かおりはどこまで理解しているのだろうか。しかも飯田かおりの知らない自分の過去もある。
玄関を出て散歩に行こうとしている光太郎を飯田かおりは追って来た。飯田かおりはこの遠足で光太郎の昼飯に塩と胡麻だけの簡単なむすび飯を握って横にたくわんを三切れほど添えたものを竹のこおりの弁当入れに入れて光太郎に持たせた。
「行ってらっしゃい」
「行って来るよ」
光太郎が玄関の引き戸を開けると向こうの方からきゃはきゃはと笑う笑い声が聞こえる。揃いの帽子を被った六才と十歳の姉妹らしい女の子が向こうから歩いて来てぺこりと頭を下げた。ふたりとも可愛らしい女の子だったが森の中に住む下品な妖精のような感じがした。自分の座っている前に果物や木の実をたくさん置いてあぐらを組みながらむさぼり食っているイメージである。光太郎も思わず頭をぺこりと下げた。そのふたりが通り過ぎてから光太郎は飯田かおりの方を振り返って聞いた。
「飯田かおり、あの僕らにぺこりと挨拶をしたのは誰なんだい」
「あら、光太郎さん、知らなかったの。あれがわたしたちにこの家を売ってくれた地主の下平さんのふたりの娘さんじゃないの」
下平と云うのは光太郎の住んでいる家を建て、千亀亭と弘法池を買いとり、千亀亭をだまし取ったともとの千亀亭の主人が酔っぱらいながら話したその人物である。光太郎が道に出て振り返るとそのふたりの娘はすたすたと向こうの方に行ってしまっていた。
れんげ平はこの町の南西にあった。その名前のとおり春になるとそこにはれんげの花が咲き誇った。しかしただのれんげ畑ではなかった。どういう自然現象かわからなかったがれんげの花のあいだあいだに地中から飛び出した一メートルほどの高さの蟻塚のようなものが数え切れないほど立っており、それは石灰質で出来ていてその蟻塚それぞれに野球のボールほどの穴がたくさん開いていてそれが地下に続いているのだった。
光太郎の家からそのれんげ平までは歩いて一時間ほどかかった。春の光と田舎のにおいにつつまれて光太郎は歩いた。その道の途中には壊れて動かなくなった大八車がうち捨てられていた。
光太郎がそのれんげ平に着くと十時になっていた。青空にはひばりが弧を描いている。その弧がもっと大きくて後ろから飛行機雲が流れていたら光太郎はそれをジェット機だと思ったかも知れない。れんげの花のあいだから子供たちの歓声が聞こえ、色とりどりの運動会で使うような帽子がれんげの花のあいだに見え隠れした。ゴムボウルを投げている子供、鬼ごっこをしている子供といろいろだった。光太郎はその蟻塚のひとつの根本のところに腰をおろして一時間歩いて来た休息をとっていた。すると笛をピーと吹く音が聞こえて
「みなさん集まって下さい」
と子供たちの中で一人だけ背の高い大人が声を発した。来ているのは小学校の低学年の子供たちだったからその大人は子供たちを引率してきた先生だったに違いない。その声に散らばっていた子供たちはひとつの場所に集まって来た。たくさんの子供たちみんなに聞こえるようにつづみのようなかたちをしたメガホンでその教師は話していたから聞く気もなかった光太郎の耳にもその声は聞こえた。
「みなさん、今日の遠足はなぜここに来たかわかりますか」
すると元気のよい生徒が手を挙げて答えた。「はい、先生。ここに昨日、ユーフォーが降り立ったとお父ちゃんが言っていました。そのユーフォーを捜すためです」
「ユーフォーがここに降り立ったと云う記事は先生も知っています。雨田くんはそれをお父さんから聞きましたか。でもそのために来たのではありません」
「先生、ではなんでここに遠足に来たんですか」
雨田と呼ばれる生徒の横に座っていた生徒が問いかけた。
「みなさんがこの町の歴史を勉強するためです」
「先生、じゃあ、ここがこの町の歴史に重要な場所だと言うんですか」
このクラスの学級委員が尋ねた。
「うちの父ちゃんは役場の許可を貰っているからあと一週間もするとここに牛を連れて入って来るんだよ。れんげ草は花が落ちると牛のよい餌になるんだ」
ここのそばで牛を飼っているうちの子供が答えた。
「ここに来るのはユーフォーを捜すためでも牛の餌を集めるためでもありませんよ。この町の歴史を勉強するためです」
と言って教師はれんげの花のあいだに立っている無数の蟻塚を眺めた。
「この蟻塚がどんなものだかわかりますか」
すると子供達は一斉に声を揃えて答えた。
「わかりません」
「これは蟻塚に見えますが蟻が建てたものではありません」
その話しを聞いていた光太郎はでは誰が建てたんだと心の中でつぶやいた。
「実はこの蟻塚のように見えるものはもぐらが建てたんです。この地中にはもぐら神と云うものがいてもぐら神がもぐらに命令して建てさせたのです。この町がまだ宿場町だった頃に悪い代官がやって来ました。代官と云うものがなんだかみなさんにはわからないかも知れません。徳川幕府の下で許可されて大名と云うさむらいがそれぞれの地方を政治的、経済的に治めていました。大名からさらに命令されて大名の部下の代官と云うものが税金を取り立てたり、いろいろなその地方の政治行政司法の実務を取り扱っていました。だから公正な人間がその役をやればいいのですが悪代官がこの町にやって来ました。まだその頃はこの町のほとんど多くの住民は田圃や畑を耕したり、牛や馬を飼って生活していたのです。みんなは年貢と呼ばれる税金を払っていました。しかし、悪代官は私服を肥やすために不当に多くの税金を取りました。そこでお百姓さんたちはもぐら神に頼みました。するともぐら神はこのれんげ平にもぐらたちに命令してこの蟻塚のようなものを建てさせました。そして住民たちを集めてゴムボールより小さくしてしまったのです。そしてこの蟻塚のそれぞれは地下のもぐら王国につながっていたのです。そこでこの町の住民は一斉に地下の中に潜ってしまったのです。悪代官は税金が取れなくなって大名に切腹を命じられて死んでしまったのです。だからこの蟻塚のいくつもある穴のどれかは地下のもぐら王国に繋がっているんです」
その話しを聞きながら光太郎は苦笑いをした。それでも幼い小学生たちは教師の話を本当だと思って聞いている。光太郎が苦笑いをしたわけと云うのが彼が同じ年頃の頃、親戚の大人からある木の枝を折って机の引きだしの中に入れて置き、一週間そのままにしておくとチョコレートに変わると言われたのを本気にしていてそのとおりにしていたことがあったからだ。もちろんそれが作り話だと云うことはあきらかでその木の枝はチョコレートには変わらなかった。それでもやはり小学生たちは教師の話を信じているようにじっと教師の顔を瞳を大きくして見つめている。
「これからお昼の時間です。みんなお弁当を持って来ましたね。十二時半までお弁当の時間です。お弁当を食べ終わったら自由時間です。三時まで自由時間ですからみんな自由にここで遊んでください」
そう言われて小学生たちは自分のリュクが置かれている場所までちりぢりに離れて行った。光太郎も飯田かおりから持たされた竹の行李のにぎりめしがあることを思い出してそれを取り出してぱくついていた。そのうち光太郎は春の日差しがぽかぽかと暖かく居眠りを始めた。この小学生の集団は光太郎がそこにいることもまったく問題にしていないように光太郎の前や後ろを走り抜けながら遊んでいる。
光太郎が春の日差しの中で居眠りをしていたあいだに数時間が経ったらしかった。目が覚めると小学生たちがやたら騒いでいる。
「孝典ちゃん」
「孝典くん」
つれの教師も大きな声を立てて受け持ちの生徒の名前を呼んでいる。どうやら引率してきた生徒の一人が行方不明になってしまったようだった。れんげの花のあいだを生徒や教師が動き回っている。光太郎もこの事態に少し心配になった。このれんげ平のそばには小さな山があって切り立った崖のようなものがあったのである。光太郎はその教師のそばに行った。
「どうかしたのですか」
「受け持ちの生徒のひとりが見つからないのです」
「わたしも捜しましょう」
「お願いします。孝典くんと言う名前なんです」
光太郎が「孝典くん」と叫んで走りだそうとした矢先だった。
「先生、先生、孝典くんが見つかりました」生徒たちが三、四人、教師のところに走り寄って来て口々に叫んだ。
「こっちだよ。こっちだよ」
生徒たちが教師の手を引く。教師は生徒たちに先導されて走り出した。光太郎もそのあとをついて行くことにした。不吉なことだったが光太郎の頭の中には子供の死体の映像が浮かんだ。光太郎の想像ではこの近所にある崖から転落して子供は死んでいるはずだった。しかし事実は違った。小学生たちが囲んでいる場所はやはりれんげ平の中だった。無数にある蟻塚のひとつのまわりを小学生たちが取り囲んでいる。教師や光太郎たちがその場所に行くと蟻塚の根もとでひとりの小学生が眠り込んでいる。教師はその小学生のそばにかがみ込むと声をかけた。ここでも光太郎はこの小学生が不慮の事故で死んでいるのではないかと思った。
「孝典くん」
少し間をおいて教師は小学生に話しかけた。「孝典くん」
すると小学生は目を開けた。
「先生、ここに座っていたら、穴の中から暖かい風が吹いて来て、白いひげだらけのこびとのおじいさんが出て来て手招きをするんです。それから眠たくなって寝てしまったんです」
するとそこにいた小学生たちはもちろん教師もその小学生を囲んで一斉に手を叩いた。
「おめでとう、孝典くん、君が会ったのはもぐら神です。ここはもぐら王国の入り口です」
光太郎はばかばかしくなった。たとえそこが本当にもぐら王国の入り口だとしても小学生にはその穴の中に入って調べる方法はないからだ。しかしその小学生が死んでいるとどうして思ったのだろうか。もしかしたらそういう否定的な結論を自分は望んでいたのかも知れないと思った。小学生が仰向けに死んでいる映像がまざまざと浮かんだのだ。小学生が死ぬことを望んでいたのだろうか。さもなければ死と云うものをそれ自身を考えることを自分自身抑圧していたので、その反動として無意識として死と云うものが現実味を帯びた映像として浮かんだのかも知れないと思った。光太郎には微かな罪の意識が浮かんだ。幸福そうな小学生たちのすがたを見て嫉妬したのだろうか。それとも死と云う言葉に何かの魔力があるのだろうか。光太郎の過去には封印して置かなければならない死と云うものが置き去りにされていた。その死の原因も光太郎には少しもわからなかった。れんげ畑の中の蟻塚と云うものも見ようによっては墓石に見えないこともない。そこでいつも気になっていながら実行していない責務が光太郎の頭の中で束縛をされずに浮かんで来た。この町に引っ越して来てから一度も行っていなかった。
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