祖堂の喫茶店
――黒い群島と呼ばれるそこは、波に削られた断崖絶壁の孤島群である。堅牢な岩盤の表層に真っ黒くブヨブヨした奇妙な土がへばりついた島。それが数十ほどある。
島は互いに数キロほどしか離れておらず、互いのシルエットが肉眼で見えるほど近い。しかしなるほど空想の産物らしく、間を流れる茶色い海流は西から東へと一方向に、ジェット気流のような速さで流れており、当然、人の行き来は皆無である。
私はそのなかのひとつ
私は今、島の喫茶店に入って主人と話している。「見ない顔だけど、島に流れ着いた人かい?」と髭と眼鏡の主人が人懐こい笑みを浮かべる。渡されたメニューを見ながら「そうですね。そのようなものです」と言い、私は身柄を隠すべく自分の人物設定を考える。
流されてきた。
記憶喪失。
年齢は覚えている(三十三歳だ)。
おそらく近隣の島にいただろう。
文筆業。
長居するつもりはない。これくらいあれば十分、誤魔化せるだろう。ブレンド珈琲とチーズケーキを頼む。主人はこちらを疑う様子もなく「はいよ」といって準備に取り掛かる。島に流れ着く人は珍しくないのだろうか。
「しかしこんなに断崖絶壁の島なのに、街は現代的だし、珈琲もチーズケーキもあるんですね」と私がいうと「まぁ空想の島だからね」と主人が笑いながら謙遜する。まるでここは田舎だからと謙遜するみたいな言いかたである。
空想の島。
自分が不安定な雲の上で立ちあがってしまったような気分になる。
「君、流されてきたならわかると思うけれど、崖の上から海を見ただろう? 茶色く濁っていて恐ろしいほど海流が速い。万が一、飲み込まれればどこに流されるか、もう自分ではコントロールできない」
「そうですね。恐ろしい海でした」話を合わせておく。
主人は気にせず話を続ける。
「周囲に島はたくさんあるけれど、誰も島々を行き来したことがない。する方法がないからね。だけど年に二回か三回、流された人が漂着するから、上流の島のことはなんとなくわかる。自分たちとさして変わらぬ暮らしをしているらしいとかね」
「年に二、三回も人が流れてくるんですか」
「この島からもよく流されるよ」
「なぜ?」
「さあ。他人が何を考えているのかなんて、いちいちわからないよ」
主人が「だいたい君も流されてきたんだろう? 理由もわからず流されるものなのかい」と呆れた顔をする。
そうだった。「実は記憶がなくて」というと「そうか。あれだけ激しい濁流だ。無理もない」と主人は眉を下げた。「なぜ人は流されるのか」私が少し考え込もうとすると、その様子を察したらしき主人は「時に人は流されるべくして流されるのかもしれない」と淹れたての珈琲を差し出し、ついでに「その急流の恐ろしさに関わらず」と文句をつけたした。珈琲を受け取りながら私が「ニーチェですか?」と聞くと主人は首をふって「いやいやただの思いつきだよ」と笑った。
その急流の恐ろしさに関わらずというフレーズを私は妙に気に入った。
珈琲の砂糖とミルクを案内する主人に「ブラックで飲みますから」と伝える。カップを手元に引き寄せると珈琲の香ばしい匂いが深まる。匂いだけで店内が温まったような気分になる。私がカップに口をつけるのを見ながら「チーズケーキは冷やしてあるんだ。その方が美味しいから。今、出そうね」と主人は自慢げに言った。
――珈琲は美味しかった。
しばらく海のことを考えて「流された人はどこへ行くんでしょうね」と呟いてみた。主人は冷蔵庫から取り出したチーズケーキを私の前に置く。
「さあね。君のように運良く近くの島に流れ着くものもいるだろうし。でもほとんどの者は漂着することもなく遠くへ流されてしまうんだろうね。ここは激流が東に向けて一方向だから。流されて戻ってきた者はいない。東の果てに何があるか、島の僕らは誰も知らないよ」
「神のみぞ知る、ですね」
「そうだね。ここを想像した神は、気まぐれなんだろうね」
私は自分がその神であることを申し訳なく思う。気まぐれではなく想像力の不足なのだと謝罪したい気持ちになる。自分にもう少し品の良い想像力が備わっていれば、人は海流に流れないし、よしんば流されても果てのない虚無の向こうへ行かなくて済む。
Null という文字が頭に浮かぶ。チーズケーキを一口食べると、ひんやりとした甘みと同時に、チーズの心地よい熟れた香りが鼻へ抜ける。海流の向こうに消えてしまった人々を想像すべきなのか迷う。
窓の外では雨が降り続いている。「春なのに……」と私が呟くと主人は「はる?」と首を傾げる。ここには季節がないのだ。昼と夜。中立的な雨天と晴天だけが繰り返される。外には濁流。物資や人は豊かだが、一体それがどこから訪れ、どこへ消えていくのか、そういったものを誰もが知らず、誰もが疑問にも思わない。
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