#012 地下に潜む虎狼 Trial

 煌々と照明が差す地下の空間、冷たいコンクリートの柱とコンテナの密林にはえが犇めくような騒々しい空調機の音が充満している。


 様子からして調圧水槽にも見える。


「大麻はなさそうですわね」


「ああ、罠のもなさそう――」


 真上から降り注ぐ殺気にいち早く察知したセオリーと暁は反射的に身を翻した。


 殺気の正体は黒いレザースーツと黒いバイク用ヘルメットを被った女。身長は170cmを優に越えている。


 女の身体は見事に鍛え抜かれていて、張り詰めるレザースーツが精悍な肉体を艶かしく強調し、言葉を失うほどの筋肉美を作り出していた。


 着地して刹那、暁へ襲い掛かる。


「――っ!」


 隙を付かれ暁は愛銃マテバを蹴とばされた。


 驚く暇さえ与えず、女の蹴りの応酬を受け、瞬く間に暁は防戦へと立たされる。


「ぐっ――!!」


 女の上段回し蹴りが、ガードした右前腕に突き刺さり、暁は苦悶する。


「暁っ!」


 加勢しよう駆け寄るセオリーは突如背後に人間とは違う生き物の殺気を感じて、咄嗟に身を伏せた。


「誰ですのっ!?」


 眼前に現れたのは一匹の灰色狼。その全長2メートルは優に超えている。


 猛々しい鈍色の毛並み、警戒感を露にした鋭い金色の眼光がセオリーに容赦なく突き刺さる。


「シベリア狼ですわね」


 セオリーだけを一点見つめ猛然と灰色狼は唸り声を上げ威嚇してくる。彼女もまた狼だけを見つめて冷静に分析を開始する。


(これは恐怖から転じて来ているものですわね……)


 セオリーは物心ついた時からアフリカのサバンナの動物と触れ合ってきた野生児である。


 そのため彼女は動物の機微を直感的に感じ取ることが出来るようになっていた。

 

(でも何か妙ですわね? この子……なんというかとても人間っぽいですわね)


 狼の瞳をじっと観察したセオリーは恐怖に彩られているというより、恐怖を押し殺して立ち向かっているようなそんな人間味を感じてならなかった。


「よろしいですわ。一緒に遊びましょう?」


 徐に立ち上がったセオリーはまるで彼を抱き止めるかのように大きく両手を広げて、満面の笑みを向けた。


 無防備に首元を晒し、間髪入れず襲い掛かってくるだろうとセオリーは予期していたのだが、彼女の想像を超える出来事が起きた。


『遊ぶだとっ!? 貴様っ!? ふざけているのかっ!?』


「えっ!? 喋ったっ!?」


 どこからともなく聞こえてくる男の子の音声。一体どこからとセオリーは周囲を見渡すが、やはり自分と灰色狼しかいない。黒いレザースーツの女と格闘している暁は無論あり得ない。


(あの首輪もしかして……)


 セオリーは灰色狼の首に、鈍い銀色の首輪が煌いていることに気付く。その首元にはスピーカーのようなものが下がっているように見えた。


「まさか……今喋ったのはもしかして貴方?」


『そうだっ! 何か文句でもあるのかっ! 一体お前たち……は……」


 突如、灰色狼は唸るのをやめて、歯をむき出しにして怯えたように後ろへ後退あとずさる。


 その歩調に合わせるようにしてセオリーは段々と灰色狼へと近寄っていった。


『何だっ!? その顔はっ! やめろっ! こっちくんなよっ!」


 先ほどまで勇敢な男の子のようだった灰色狼の声は、まるで幽霊を見た子供のような怯えた声へと変わる。


 灰色狼が怯えるのも無理はない。セオリーの顔は猟奇的な微笑みを向けていたからだ。


「じ、実に興味深いですわっ! これを発明した人は天才ですわっ! 動物とお話しすることが子供の時からの夢でしたのっ! まるで6歳の時に読んだ『ドリトル先生アフリカゆき』のドリトル先生になった気分ですわっ!」


 死の恐怖とは異なる身の危険を感じた狼はセオリーから一目散に走って逃げた。


 映画の『Dr.ドリトル』ではなく原作をチョイスする当たり意外にもセオリーは本の虫だったりする。


「逃がしませんわっ! 貴方はわたくしの実験体二号にして差し上げますわっ!」


(ジーンオントロジー……瞬発力強化、乳酸代謝強化……アセチレーションっ!)


 セオリーは脳裏に符牒を刻む。左腕に輝く赤い輝線は両脚へと延びて、そして一気に地面を蹴った。


 巻き上がる粉塵。短距離走のトップアスリート顔負けの疾走を見せるセオリー――否、寧ろそれ以上だった。


 狼の全速力の疾走は凡そ時速40kmから50km。20mぐらい離れていた距離から物の数秒で追いついた。


「つっかまえたっ!」


 満面の笑みでセオリーは灰色狼に飛びつき、マウントをとる。その手際の速さは最早神業だった。


「よーし、よーし、よし、Goodboyいい子 Goodboyいい子、ん? ここが気持ちいいの?」


『やめっ! やめろっ! 放せっ!』


 子供のような笑みでセオリーは吠え暴れる灰色狼を巧みに押さえつけ、お腹を優しく撫でて始める。


 セオリーの行動には甘やかす他にも自分が優位であることを知らしめることもあった。いくら人語を理解するとはいえ、理性的に未熟かつ遺伝子に刻まれた本能は人間の様に逆らえない。


 クーン、クーンと、甘えるような微かに細く高い鼻声で鳴いて、おなかを天井に向ける服従のポーズをセオリーに向ける。


「貴方、お名前はありますの?」


『せ、刹那……博士が付けてくれて……』


「刹那っ! 良い名前ですわねっ!」


 遺伝学のみならず、動物行動学や進化学を修めたセオリーの溢れんばかりの動物愛とテクニックに灰色狼はあっさりと陥落した。



 あっさりとセオリーが狼を手懐けた一方――


 暁はレザースーツの女に苦戦を強いられていた。


 肝臓や腎臓、肋骨などを的確に急所を狙ってくるシンプルで効果的な技で構築された技術体系は見事としか言いようがない。


(こいつ……一体何者だ)


 その正確性は一般人ではあり得ない、訓練を積んだ者だと暁は直に分かった。


 暁もまた同様の訓練を受けていて、毎日の反復訓練も欠かさなかったが、女の動きはそれを上回るものだった。


「お前、自衛軍の兵士かっ!?」


 暁の問いに女は答えない。


 同様の訓練を受けていて露骨に差が出るという事は実戦経験の差と訓練に費やした時間の差以外に考えられない。


(さて、どうする?)


 あともう一つ違いを上げるとすれば、相手は殺傷を目的としているのに対し、警察のそれは制圧・逮捕を目的としている点。


 このままで同様の格闘術を使っていては不利だと判断する暁。形勢逆転の気を伺い、神経が研ぎ澄ましていくと――


(なんだ? 急に奴の動きがスローに――)


 女から放たれた正拳がまるでスローモーションの様に単調な動きへと変わり、暁は腕を掴んで取り押さえる。


(さては……あのマッドサイエンティスト、何かしやがったな……)


 スローモーションに見えた原因は間違いなくセオリーの仕業だ。一言言いたい暁ではあったが今はそれどころではない。


 ともあれ、その能力と咄嗟に逮捕術へ切り替えたことで、運よく女の不意を突くことが出来た。


「貴様一体何者だっ!? なぜ白髪の男を追っているっ!?」


 相手は軍人。女だろうと隙を見せてはこっちがやられると判断した暁は全体重をかけて押さえつけにかかった。


「……わ、私は元自衛軍情報保全隊所属、如月凰華きさらぎおうか。階級は三尉だった……」


「それでっ!? 俺達を襲ったのは何故だっ!?」


 答えようとしない凰華に対して、暁は下手に暴れれば押え付けている腕が折れる程度に力を込める。


 自白するには脅しが弱すぎるのだろうと、骨の一本折ってやればと思った矢先――


「そこまでですわっ!」


 灰色狼を傍に連れたセオリーが現れる。


「……あかつき、もういいですわ。大丈夫です。この方々は敵じゃありません」


 彼女は組み伏せられた凰華の前に膝を付いて「しょうがない人達ですわね」と言って微笑を浮かべる。


「放してあげてくださいな。もう彼女は危害を加える意志はありません。そうですわよね? ミス凰華?」


 俄かには信じられない暁であったが、セオリーが現れたことで無意識のうちに自分の力が緩んでいた事に気付く。


「本当だ。君たちに危害を加えるつもりは無かった」


「どの口が言うっ!?」


 と暁は言葉にしてみるものの、拘束の手が緩んでいるにもかかわらず、凰華が暴れていないのも可笑しかった。


 セオリーの言う通り交戦の意志は感じられないのも確かだ。


「この方々も暁と同じく白髪の男に因縁があるようです。一度お話をうかがってみては如何いかがかしら?」


 暁は渋々拘束を解いていく。


 痛めつけられた肩をかばいがら凰華は立ち上がる。


「いや、すまない。どうしても君たちの実力を知りたくて試してしまった」


 最初に襲ってきたような敵意や殺気を感じられないが、暁はまだ気を許すことが出来ない。


「そんなに警戒をしないでくれ、赤髪の御仁を抑えられなかった時点で私達の勝ち目はないだろう?」


「そういう事ですわ」


「そうは言うが、素顔を見せられない人間を俄かに信用できると思うか?」


「強情ですわね」


 話は分かるが、暁は相手が何者なのか分からないままで安易に警戒を緩める訳にもいかなかい。


 凰華は「分かった」と言って、徐にヘルメットを脱いで素顔を晒した。


「これでよろしいか?」


 汗を振り払いながら露になる凰華の素顔。ふわりと靡く亜麻色の長髪、眉目秀麗びもくしゅうれいで凛とした端整な顔立ち。


 綺麗と言うよりは凛々しく男前という表現が似合う女だった。


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