1 白と黒だけの世界 ⑥

「おかあさんって、そんな『色』だったっけ?」


 私のその言葉を聞いたお母さんはびっくりしたのか、喜びに満ちた表情をゆがませて、小さく悲鳴をあげていた。


 私がそんな事を言っていたならば、真っ先に目の検査をするのだろう。けれど、その時は私の体の治療をするのが最優先だった。お母さんもお父さんもお医者さんに診てくれるように何度もお願いしていたみたい。けれど、目の事はどんどん後回しにされた。


 目の検査ができるようになったのは骨折もある程度治って、車いすで移動できるようになってから。お医者さんたちとたくさん話をして、その時になってようやっと、私の視界が白と黒だけになってしまったという事が判明した。


 私の目の異常が分かってから眼科でいくつもの複雑な検査をたくさん受けたけれど、そこでは異常なしと言われ、念のため脳の検査をしてもらったけれど……そちらでも結局、どこにも異常はないと言われてしまった。最終的に私が嘘をついているとまで言われてしまって、虚言癖を治すために精神科への受診も勧められた。でもそれは両親が反対したのと、長谷川先生の鶴の一声のおかげで立ち消えになった。


「彩香ちゃんが嘘ついてるなんて、私はそうは思えない。私たち医者がこれからも彼女を診ていって、原因を探り、変化を見守ってしていくことが重要なんじゃない?」


 それからずっと、私は定期的に長谷川先生の診察を受けている。しかし、今に至るまでちっとも変化はないし、色が見えなくなった原因も分からないまま。一生このままなのかな、と最近では少し諦め始めている。心配してくれている両親や親身になってくれる長谷川先生や友達には、口が裂けてもこんなことは言えないけれど。


 生きていることだけでも奇跡なのに、私の怪我は数か月入院している間にすっかり治り無事に病院を退院することができた。丈夫な体に産んでくれた両親に感謝しながら、私はようやっと小学校に再び通うことができるようになった


 退院後初めての登校にはお母さんも付いてきて、担任の先生とこれからのこと(大部分が、私の『目の見え方』)についての話し合いが行われた。


 例えば黒板の板書の事。


 今の私には他の色と白いチョークの区別なんてつかないから、授業に出てくる大切な語句は四角や丸で囲むなど色つきのチョークを使う以外の方法で強調してほしいこと。他にも、色を使った班分けは、私には見分けがつかないからしないで欲しいということ。


 ベテランの先生はにこやかに笑いながら、お母さんとの話を頷いて聞いていた。それを見ていると、少しだけ不安だった私の気持ちも次第に和らいでいくのを感じていた。


 話を終えたお母さんは授業が始まる前に帰ってしまって、私は先生と一緒に教室に向かった。教室に入ると友達が私の周りを取り囲むように近寄ってきて、私が退院したことを口々に祝ってくれた。そして、口々に、私がいなかった間に起きた出来事を教えてくれる。ドッジボール大会でクラスが優勝したことや、、クラスメイトの笹山くんと緑ちゃんが付き合っていること、そして、近くの公園にいたはずの野良猫が最近姿を見せなくなったこと。


 学校に行けなかった時間が長かった分、みんなに忘れられているんじゃないだろうか。そんな不安を抱いていたけれど、何事もなくクラスに馴染んでいくことにほっと安心した。私は久しぶりに自分の席に着き、時間割を確認すると、一時間目は社会の授業だった。


「……あれ?」


 授業が始まって少し経つころ、私はふと、とある違和感に気づいた。それは、先生がいつも通り黒板を書き始めたことに対してだった。重要そうな言葉を違うチョークを持ち換えて書いていくけれど、私にはそれが、他の文字と同じ色に見えている。周りを見ると、みんな鉛筆からペンに持ち替えて、黒板の内容をノートに書きこんでいく。私だけがじっと鉛筆を握ったままおいてけぼりになっているうちに、授業がどんどん進んでいった。


 お母さんがあれだけお願いしてくれたのに、先生はにこやかに笑うだけで何も聞いていなかったんだと、この時の私はひどく愕然としていたのを覚えている。足元からどんどん冷たくなっていて、体はまるで凍り付いたように動かない。吐き出す息も、何だかひんやりとしていた。


「あの、先生!」


 私の体を取り囲むように広がるその氷を砕くことができるのは、私しかいない。大きな声を出して、まっすぐ手をあげたとき、先生は「まずい」と言わんばかりに眉をひそめていることに気づいた。その顔を見て私は、まるで言いつけを守らなかくて叱られる子どもみたいだと思った。


「それだと私には見えないので、大切な言葉は四角とか丸で囲ってください!」


 私がハキハキとした声でそう言うと、みんなひそひそと顔を見合わせたり、私を見たりしながら何かを話しているのが分かった。先生はぎこちなく口角をもちあげて「そうね、そうだったね」と言って、その言葉の周りに大きく四角を書いた。手に力が入り過ぎていたのか、黒板を擦る様にキーッと耳障りな音が教室中に響いた。

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