1 白と黒だけの世界 ④
見えないのは信号機の色だけじゃない。この世界にあるすべての色が、私の目には映らない。
街ですれ違う人の服のボタニカルプリント。草花があしらわれている柄のはずなのに、私にはその葉っぱが黒く見えている。
商店街の果物屋さん。色とりどりの果物が並んでいるはずなのに、それらは私には灰色の塊にしか見えなくて、何だか美味しくなさそうだ。
花壇に咲いている花も同じで、まるで燃え尽きて、灰をかぶったように見える。秋が深まるにつれて鮮やかになっていくはずの紅葉も、私にとっては年中同じ色。
私の目には、そのすべてがモノクロになっていた。まるで私一人だけが、古臭い映画の中に取り残されてしまったみたいに。
十歳の時からこんな生活なので、時折不便に感じるけれど……今ではすっかり慣れてしまった。
ある一つのことを除いては。
「でもさ、ひどくない! 今の美術の先生ってば、本当に人の話を聞いてくれないの!」
「動いたらちゃんと診察できないから、お口チャックしてね、彩香ちゃん」
「……はぁい」
眼科にある薄暗い部屋の中で、私は網膜を検査するための機械を覗き込んでいた。機械を挟んで反対側から私の目を検査しているのは、眼科医の長谷川悦子先生。長谷川先生にそうたしなめられ、私はピタッと口を閉じる。長谷川先生とはそれこそ十歳の時からの付き合いになっているので、すっかり仲良しになっていた。先生は私のお母さんよりも少し年上だけど、私にとってまるで友達のような感覚に近い。
「はい、今回も異常なし。目の中は今日もきれいですね」
「あーあ、異常なしって良いのか悪いのかわからないや。悪いところが見つかれば、治すことだってできそうなのに」
私がため息をつくと、長谷川先生は機械から顔を外して困ったように息を漏らした。先生は袖机に置いてあるカルテに『異常なし』とスラスラと書き込んでいく。ずっと通っているので、私のカルテもすっかり厚くなってきた。長谷川先生が時計を見る、次に行われるMRIの検査まで時間が余ってしまっていた。くるりと椅子を回して私の方を向いた先生はどうやら、私の雑談に付き合ってくれるみたいだ。
「それで、その美術の先生がどうしたの?」
先生は腕を伸ばして部屋の電灯をつける。網膜の検査には瞳孔を広げる目薬を使っているせいで、ついたばかりの電灯が少しまぶしかった。私は顔をしかめて、光を遮る様に少しだけ俯いた。
「今までの美術の先生はね、診断書出したら課題だって絵を描くことからレポートに変えてくれたんです。だけど、今年の先生は全っ然ダメ! 私に配慮なんてしてくれないの!」
『色』が全く分からない私は、絵を描くことが大の苦手だった。
花や風景、それらの記憶をたどれば正しい色で描くことが可能かもしれない。けれど、完成した絵が本当に『正しい色』で描けているのか、他の人から見てちゃんとした絵に見えるのか。どうしても周りの目が気になり、どんどん怖くなってしまい、絵を描こうとすると体が動かなくなってしまう。そんな思いをするくらいなら、先生が指定した作品を見てその感想を書くだけの方がずっとましだ。だからこんな目になって以来、美術の授業ではそうしてもらうように歴代の先生方にお願いしてきた。
そう、今年の春、新学期が来るまでは。
話は、高校二年生に進級し、美術の担当が温厚なおじいちゃん先生から新しく赴任してきた伊沼先生に変わってしまったことから始まる。背が高くて、鼻筋が通っていて、前髪が少し長くて表情は読み取り辛いけれどその隙間から見える目がどこか涼し気で、着任式の時点で多くの女子のハートを鷲掴みしていた。どうやら、ファンクラブもあるらしい。絵の具がついた少し汚い白衣をいつも着ているからそれが欠点に見えそうだけど、伊沼先生のファンの女子生徒たちが言うには、そこもまた魅力的とのこと。私にはそれらが全く分からないけれど。
授業は座学と実技の繰り返し。教室で美術の歴史や画法、画家の名前、作品名を延々と覚えさせられて小テストが終わったと思えば、次は美術室で絵を描く。
その実技が問題なのだ。
伊沼先生は今までの先生たちとは違って、私の話を聞いてくれない。色が見えないから絵が描けないと言っても、今までの先生たちは絵を描く課題を他の課題に変えてくれたと言っても、まさに馬の耳に念仏。私の話を一切聞こうとせず、毎度同じことを言うのだ。
「俺は、三原が描いた絵が見たいんだ」
こればっかり。その私が、絵なんて描けないと何度も口を酸っぱくして言っているのにも関わらず、だ。そんなこんなで、私と伊沼先生の攻防は水彩画の課題が出た夏ごろから繰り返されている。いつしか空きも深まり冬が近くなってきているというのに、この問題は一向に解決する兆しはない。
「少しくらい配慮してくれたっていいのに!」
「あらあら。何か、若いわね~」
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