みちのくニーベルング 奥州黄金奇譚

夢売吉次

序章「千代の過客」①

 二日、降り続いた雨で泥濘ぬかるんだ山道も、初夏のお日さまが顔を覗かせれば、たちまちにその硬さを取り戻した。

 日差しに燻られた湿り気が土のを包んで湧き上がる。森から吹き抜ける風には腐葉の淀みと、それを押しのけて育つ若葉の息吹が混ざり合う。

 土とて同じ土は無く、生い茂る草木にもその土地の香りがある。

 こんな当たり前のことも、草庵に籠もっていては気がつかぬものだ。

 旅は毎日が発見である。

 発見とは脳に注ぐいろどりであろう。

 全てが発見だった幼き日の景色は、いつまでも鮮やかな色で蘇る。

 草庵で過ごす日々は白髪のように彩が消え逝く。そこにもわびた美しさはあれど、野に咲く一輪にも及ぶまい。

 願わくば、どこかでのたれ死ぬまで、旅の中にありたいものだ。

 やれ馬の背に鼻息も荒く、漂泊の旅人は雨後の野を山をゆく。

 もし俳諧を知らねば、この胸の高揚もただの山彦となって山間に消えていったことだろう。

 快晴の空に杜鵑ほととぎすの鳴き声がよく響く。

 悔しいのか杜鵑、ならば芭蕉が代わりに一句詠もうぞ──。


 松尾まつお芭蕉ばしょうは江戸時代に活躍した俳諧師はいかいしである。

 寛永21年西暦1644年伊賀国現在の三重県西部で生まれた。

 19歳の時に京都で北村きたむら季吟きぎんに俳諧を学び、32歳で江戸に出て、35歳で弟子をとるまでに名をあげた。

 江戸では日本橋の喧騒を嫌い、郊外の深川で草庵を組み、隠者の生活を送っていたようである。

 心の平穏を望んだ芭蕉であったが、江戸は度々大火に見舞われ、自身の草庵も焼失の憂き目にう。

 世のはかなさと、ひとつところに留まることの虚しさを覚えた芭蕉は、次第に旅にはてる漂泊の想いを募らせていった。

 41歳の時に母の墓参りで故郷伊賀へ赴いたのが契機となり、芭蕉は旅の中で俳句を詠み、草庵で書にまとめる吟行ぎんこうのスタイルを確立していく。

 そして芭蕉46歳の時。

 元禄2年西暦1689年4月19日現在の暦で6月6日下野国現在の栃木県

 この日、芭蕉は那須岳の麓、那須湯本の湯泉ゆぜん神社へ参詣さんけいに訪れている。

 かねてより敬愛する平安末期の歌人西行さいぎょうの500周忌に、その歌枕をたどる旅の途上。

 弟子の河合かわい曾良そらを伴って、奥州平泉ひらいずみを当面の目標に、江戸を発つことまだ22日目。

 ちなみに、那須を治める黒羽藩の城代家老が芭蕉門弟であったこともあり、芭蕉はこの地で手厚くもてなされていた。

 那須入りが4月3日とあるので那須滞在はこの日の時点で16日に及ぶ。

 勇んで江戸を出て早々、白河の関も越えずに16日も足踏みとは悠長な旅である。

 かと思えば、ある日は名所に脇目も振らずただ駆け抜け、またある日は来た道を突然に引き返し、まるで何かを煙に巻くかのような行程が旅の記録からうかがえる。

 それ故に芭蕉は後世に様々な異説が唱えられた人物でもある。

 芭蕉隠密おんみつ説はその最たるものだろう。

 話を戻す。

 芭蕉はこの日、那須湯本の温泉神社に訪れている。

 ここは屋島の戦いで名を馳せた弓の名手那須与一なすのよいちゆかりの地、それともう一つ。

 鳥羽上皇をたぶらかし、保元・平治の乱を引き起こした伝説の妖怪九尾きゅうびのきつねむくろが石となった殺生石せっしょうせきの眠る場所である。


「お茶と団子を二つずつ」

 茶屋ののぼりに目を奪われていたところを曾良が気を利かせた。

 芭蕉達が温泉神社の門前町に着いたのは正午ごろ。すでに日は高く、汗ばむ陽気である。

 ふたりは茶屋の縁台に腰を下ろし往来を眺める。

 那須湯本は奥州街道の迂回路に位置する宿場町である。古くから時の権力者たちの湯治場として知られ、街道が整備された江戸時代になると庶民も気軽に足を運ぶようになった。

 どこからともなく硫黄の臭いが漂ってくる。

「帰りにひと風呂浴ていこうか」

「妙案ですな」

 曾良は芭蕉より5つほど若い。伊勢長島の武士であったが33歳の頃に藩職を辞し、江戸で研鑽を重ね深川の門を叩いた。

「して、腹の調子はもうよいのかね」

 4日前に曾良は体調を崩して宿で寝込んでいた。

「この通り」

 曾良は腹をさすると団子をぱくりとやる。

「あと何日こうしておればよいのだ」

「……ああ」

 曾良は茶をひと口すすって答える。

「ご心配なく、明日は白河の関でござる」

「ふむ…… ようやくかね」

 芭蕉は空を見上げて大きく息を吸い込んだ。

「──西行さまも呑気な旅だとあきれていらっしゃるであろう」

 ここ数日は、芭蕉の名を伝え聞いた土地の名士が宿に詰めかけて対応に追われる日が続いていた。

 持てはやされて悪い気はしなかったが、さすがに芭蕉も飽き飽きしていた。

「宗匠のはやる気持ちは重々承知、なれどこれより先はつてもなく、根回しは必要にござる」

「隠密とやらも大変だのう」

「なんのことやら」

 しばらく向き合うと、ふたりで乾いた笑い声を上げた。

 団子を頬張りながら通り向かいの小物屋をなんとはなしに眺める。好みの手鏡を探す母娘の姿が微笑ましい。吊り下げられた風鈴達は澄んだ音色を奏でていた。

「根回しなど江戸で済ませておけばよいものを」

「奥州と人の行き来がある那須でしか知り得ぬことも多く、えてのことでござる」

「あるいは、敢えて奥州に知られる必要があった、か」

 先ほどまでとは打って変わり、ふたりの声色には鋭さが潜む。

「宗匠は察しが良すぎますな」

「伊賀者のさがよ」

 伊賀といえば忍者の里で有名だが、芭蕉が忍者だったという記録は残念ながら残っていない。

 しかし凶暴な猪を一刀で斬り伏せたという逸話や、旅先で見せる異常な健脚を考えれば、芭蕉が伊賀でなんらかの訓練を受けていたことは想像に難くない。

「他言はせぬ、申してみよ」

「なりませんな」

 頑として聞かぬ曾良の返答は芭蕉が言い切るより速かった。

「黙って片棒を担がせるより、その方がお互い楽であろうに」

「宗匠は俳諧に専念させよ、というのがさる御方のお言付けにござる」

 ならばもっと上手くやれい、と舌打ちして芭蕉は茶をすする。

 時折、真上の太陽を照り返して母娘の手鏡がキラキラと輝く。目が合った娘がニコリと笑うので芭蕉も表情が緩んだ。

「ふむ…… さる御方が誰であれ、旅はよいものよ」

 この時代に限った話ではないが、文や絵のような芸術の世界で成功を納めるには経済的な支援者パトロンの存在が不可欠である。

 そして名声を得たあかつきには「誰々だれだれさんのおかげです」と公表し、間接的に支援者の名も世に知らしめるものだ。

 あるいは支援者の名を伏せたまま、成功で得た権威で便宜を働く。

 芭蕉も多くの支援者の力を借りて今日まで生きてきた。

 しかし今回の旅の支援者に限ってはいささか勝手が違った。

 元々、奥州への旅は芭蕉が兼ねてより計画していたものである。当初は流れ者の弟子路通ろつうを連れての、食うや食わぬや、野垂れ死を覚悟した旅となるはずであった。

 そこにズッシリと金子きんすの詰まった巾着と書簡を携えた曾良が同行を申し出た。

 書状に名はなく、何も言わずにこの金で曾良と奥州に向かって欲しい、とだけ書いてある。

 曾良に問い正しても、宗匠の名を聞き及んださる御方、としか答えない。さてどうしたものか。

 いぶかしくは思えども、この金子があれば旅先で路頭に迷うことはないだろう。生きて帰ればまた世に本を残すこともできる。

 芭蕉も欲には勝てず、かくして曾良を連れての出発と相成った。

 金を受け取った以上は、曾良の怪しげな行動には目を瞑る。ままならない旅の日程にも口出しはしない。

「しかし気にするなというのは、無理な話だ」

「決して、やましい目的があっての差し金ではござらん」

 曾良が語気を強めて言い切る。芭蕉もそれは疑ってはいない。

 実のところ、芭蕉には最初から裏で糸を引く人物の見当がついていた。

 まるで当ててみよと揶揄からかうような趣向には、過去にも覚えがあった。

 そろそろ、はっきりさせる必要があると芭蕉は考えた。

「──ここの温泉も那珂川なかがわに流れつくのであろうか」

「は…… おそらくは」

 掛け流しの湯が、町中を走る堀からモクモクと湯気を出していた。那珂川はここより西を流れる那須の大河である。

あゆの塩焼きは絶品であったな」

「ああ、思い返すとよだれが出ますな」

 曾良が屈託なく笑う。つい先日に那珂川で釣れた鮎をご馳走になったばかりであった。

「しかしあの鮎は水戸の鮎だったのかも知れん」

 曾良の表情がピタリと固まる。

「ほれ、那珂川は那須から水戸につながっておるからな」

「……はは、たしかに」

「今は鮎の旬だが、那珂川と言えば冬のさけよ。水戸は鮭漁が盛んと聞く」

「江戸でも水戸の鮭は高値で取引されておりますからな……」

「水戸屋敷で馳走になった昼飯を思い出すよ」

 曾良がハッと芭蕉の顔を覗き込む。

「まさか宗匠…… すでに定府じょうふ殿に御目通りを!?」

 芭蕉はハハと笑う。

「まあ、あの頃はただの人夫であったが」

 延宝5年西暦1677年に芭蕉は水戸屋敷の水路工事に従事している。

「やはり光圀様であったか」

「……」

 曾良が見事な「あっ!」とした顔を見せたので芭蕉は腹を抱えて笑った。

 徳川とくがわ光圀みつくに水戸徳川藩現在の茨城県の2代目藩主である。水戸藩主は江戸に常駐し将軍家を補佐する立場から定府殿と呼ばれた。

 光圀は水戸黄門の名でも有名だが、黄門様と呼ばれるようになるのはこの芭蕉の旅の翌年、元禄3年西暦1690年に隠居して中納言の官位を授かってからのことだ。

「定府殿と宗匠が旧知の仲とは聞き及んでおらなんだ……」

 いつも澄ました顔の曾良が珍しく狼狽ろうばいしているので芭蕉は愉快で仕方がない。

「ワシが探り当てるのを楽しんでおられるのだ。酔狂なお方よ」

「どのような間柄で」

「うむ…… まだ若いころ、日銭を稼ごうと神田川から武家屋敷に水を引く穴掘りをしていたのだが」

 指先でちょちょいと、筆を走らせる仕草を見せる。

「帳簿の落書きを、水戸藩の役人に見つかってしまってな」

 芭蕉は読み書きに秀でていたため、現場の人夫ではなく裏方で帳簿書きなどの事務作業を任されていたようである。

「それは…… 俳諧師のさがですな」

 いかにもと芭蕉はうなずく。

 欲しかった言葉は突然に降りてくる。見つけた瞬間に消えてしまうこともある。入れたままでは形も変わる。脳とはなかなか困った入れ物なので何かに書き写すに越したことはない。

「その日は不届き者と怒鳴られたのだが、次の日には座敷に通されて茶を出された」

「なんと」

「座敷の主が誰かも知らずに、落書きの句を褒められて舞い上がったよ」

 知らぬとは恐ろしい、と呟いて曾良が冷や汗を拭う。若さとは恐ろしいな、と芭蕉も笑う。

「あの日、いずれ能因のういん法師や西行さまのように奥州を旅してみたいと、定府殿にのたもうた気がする」

「……それは、しかし、粋な計らいですな」

「わずかな間であったが、ずいぶんと可愛がってもらったものだよ」

 ひと息ついて、芭蕉はぬるくなったお茶を飲み干した。

「今のワシがあるのも、陰ながら定府殿の後押しがあったから、やも知れぬ」

「それはどうでござろうか」

 落ち着きを取り戻した曾良がキッパリと言い放つ。

「後押しなど無くとも宗匠は紛れもなく稀代の俳諧師にござる」

 旅に出て以降、余所余所しい素振りだった曾良が久しぶりに可愛げのある弟子の姿を見せる。

「ふむ…… 俳諧師の河合曾良はちゃんといるようだ」

「宗匠の元で俳諧を学んだ日々は嘘ではござらん」

 曾良とはもう長い付き合いである。共に旅をするのも今回が初ではない。

「だが、弟子となってワシに近付いたのは定府殿の目論見もくろみであろう」

「……できれば、宗匠には何も知られることなく仕えていたかったのですが」

 薄々、何か裏があるとは思っていても、はっきりとしてしまうとやはり複雑な思いが胸に去来する。

 思えば曾良は出来の良すぎる弟子であった。なにかと問題児の多い芭蕉の深川門下では異端の存在である。

 なぜこんな男が素浪人になってまで、食うも困る俳諧師を目指しているのか、疑問を口に出す者もいたが、曾良は多くは語らなかった。

 曾良が続けて口を開くのをしばらく待ってみたが、風鈴の涼しげな音だけが耳に届いた。

「目がチカチカとするわ」

「……ああ、手鏡にござるか」

 向かいの小物屋では、やっと好みの手鏡を決めた母娘が代金を払うところである。

「あれはなにかの合図かね」

「さすが、伊賀者ですな」

 参りました、と呟いて曾良は頭を下げた。

「で、手鏡はなんと」

「黒い脛巾はばきが動き出した、と」

 曾良はすくと立ち上がった。

「込み入った話は歩きながらでも」

「ふむ…… ではそろそろ参ろうか」

 察して芭蕉も立ち上がった。

 脛巾とはこの時代のすね当てに相当する物だ。脚絆きゃはんとも言う。やぶで足を切ることが多かった時代の必需品である。

 しかし黒い脛巾には別の意味もある。伊賀生まれの芭蕉が知らぬはずも無かった。

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