#3 祝え、呪え Ⅳ

「いま一瞬の犠牲なんて些末なものじゃないか。フィーリクス、僕は言ったはずだ。好きなようにやるって」

 言い放つアルマスの手には、水で出来た剣が握られている。俺の方へ向けられた切っ先は、にわか雨を受けて波紋を描いていた。

「アルマス、その剣を下ろせ。俺はお前と戦いたくて来たわけではない」

「うん。僕も別に戦いたいわけではないよ」

 アルマスは淡々と答える。至って冷静ないつも通りの声色だ。その尋常でない様子に、道行く人々は恐怖の叫びを上げた。警官は受話器に向かって必死に語り掛け、野放図に走り出した人々の間で諍いが起きる。

 一歩、一歩と距離を詰めてくるアルマスを前に、ゆっくりと後退することしかできない。俺はただ彼に法の裁きを受けてほしいだけ、これ以上キエロを悲しませてほしくないだけだ。親友を攻撃するなんてとんでもない。

 それに、今の俺はまともな武器を持っていない。一応アルマスに俺を殺す気はないのだろう。彼がその気なら、俺は先ほどの殴打で死んでいる。しかし殺す気がないからといって、俺以外の人的被害を考慮しないとは言い難い。現にアルマスは、同僚を含む複数人を手にかけているのだ。通行人をアルマスから守れるのは俺しかいない。だが守りながら戦うには無理がある。

 親友としてはもちろん、感情を取り払った合理的な人間としても――ここでアルマスと戦いたくない。

 けれどアルマスは止まってくれないのだ。

「僕もフィーリクスと戦うのは嫌だ。でも、いま君に捕捉されてしまうわけにはいかない」

 低く腰を落とし、アルマスは剣を構える。引き絞るように右手を振り上げ――

「一番の強敵はフィーリクスだからね。少し消耗してもらうよ」

 雨粒の間隙を縫って剣が迫る。早くはない。だが余りにも重い。

「歪め!」

 いなすように空間をずらす。剣が空間に沿って曲がり、刃は何もない場所を突き刺した。まともに剣を受けていたらと思うと胆が冷える。

「すごいね。思ったよりは動けるみたいだ」

「お前もな。ひょろいくせして、やたらと力がある」

「それはどうも!」

 アルマスは俺が曲げた空間から強引に剣を引き抜いて、軽やかに身を翻す。上半身をひねり、一瞬、アルマスは俺と目を合わせた。眼前に振りかざされる足。

「クソっ」

 側頭部への直撃は避けるが、そのまま野次馬の間に突っ込むしかない。どこも折れてはいないようだ。けれどとにかく体が重い。格好をつけて肩を回そうとしただけで、鋭さと鈍さの混ざった痛みが走る。

「ごめんね、フィーリクス」

「まだそういう感情はあるんだな」

「当り前だよ。僕は別に誰かを傷つけたいわけじゃない。ただ単に、姉さんの優先度が高かっただけだ」

 アルマスは俺が肩を押さえているのを見て、少しだけ表情を曇らせる。だが攻撃をやめる気はないようだ。剣を片手にまっすぐ歩み寄ってくる。こうなってしまったら、出来る限り早くアルマスを無力化するより他ない。

 俺の足は竦んだままだ。

 アルマスを止められるのは、この場で唯一自分だけだ。そう頭で理解していても、足裏は地面から剝がれてくれない。まさか、キエロの心配事をこんなところで実感するとは思っていなかった。常に万全の状態で戦えるわけではないとか、アルマスが俺よりも強いとか、そんな上っ面の話をするほど彼女は短慮ではなかったのだ。

 俺自身が、アルマスと戦う気になれない。

 一方でアルマスは、目的のためなら何でもやってみせてしまうような、心の強い男だ。こんな調子でいては街を守るどころか、アルマスの凶行をやめさせることすらままならない。決意のできていない俺に、万が一にも勝てる見込みは無いのだ。キエロはそれを危惧していた。

「妻を心配してくれていることだけは、夫として有難く思う。だがアルマスの取った方法は余りにも愚かだ」

「僕も、良い方法を選べなかったことを不甲斐なく思っているよ」

 彼の動きは大体において緩慢だ。しかしそれは油断していい理由にはならない。遅くても反応は的確だ。もし馬鹿みたいな勢いで振られる剣を受け流せたとして、直後にもう一撃入れられたら――先程やられたように成す術もなく吹き飛ばされる。

 アルマスは静かに息を吐き体を沈める。剣を低く構えると、ばねの様に飛び出した。

「すまないアルマス」

 瞬間、小石を投擲する。昔よくやった手法だ。無理やり空間を跨がせて、投げた小石をアルマスの目の前に出現させる。

 アルマスは咄嗟に避けようとして重心をずらす。だが、投げ込まれた小石は余りにも近すぎた。

「……っ」

 抑え込むような悲鳴を上げて尚、アルマスは当てずっぽうに剣を振る。切っ先はかなり逸れて空を切った。同時に、地面に不自然なほど鋭い切れ込みが入る。

「フィーリクスは容赦ないね」

 痛みに顔をしかめてアルマスは言う。左目に添えられた手の隙間からは、銅色の血が滴り落ちた。雨が流してつけたシャツの染みは金色に近い。

「この程度で止められるとは思っていないからな。アルマスってのは我が儘な奴なんだ。だからこそ強い。軍人でもないのによくやるよ」

「もしあと一年早く生まれていれば、僕もフィーリクスに負けないくらい強い兵士になれたと思うよ。でも……フィーリクスは買い被りすぎだ。我が儘であることは確かだけれど、僕は弱いんだよ。だから、選べる手段はそう多くない」

「手段の多寡にかかわらず、お前はやってはいけないことをした。言い訳はしないんじゃなかったか?」

 彼は恐る恐る手をどけて、小石で傷つけられた目をあらわにする。出血量が増える様子は無くて、どうやらもう治ってしまったようだった。アルマスは、頬を伝う血を雨粒ごと拭う。その表情はどこか自嘲しているようにさえ思えた。

「本当にフィーリクスは容赦がないね。立ち止まるつもりはないけれど、それなりに心に刺さるよ」

 何度かまばたきをして、アルマスは静かに目を閉じる。ぱち、ぱちとどこからかスパークが飛ぶ音がした――と悠長に考えている暇はない。

 アルマスは左手を伏せる様に差し出す。徐に持ち上げられた瞼の向こうで、彼の虹彩はひときわ暴力的な輝きを見せた。

「止められるものならやってみせてよ、フィーリクス」

 アルマスが手を横薙ぎに払う。そして古めかしい呪文を叫んだ。

「ああウッコ、雷霆らいていの使い手よ! 至高の神よ!」

 歌に呼応して小さな雷光が大量に伸び、まるで波のように押し寄せてくる。

「俺を殺す気か……!」

 空間が不気味に青白く照らされる。吹き飛ばされそうなほどの圧だ。魔法で空間を切り貼りして盾にするが――アルマスの起こしたエネルギーが強大すぎる。空間の歪みを維持し続けるのが辛い。

「いや、フィーリクスは死なないでしょう? 現に、こうして僕の攻撃を受け流せている」

「俺が何とか踏ん張っているからだろう!」

「それが狙いだからね」

 アルマスは俺の魔法を蹂躙せんとばかりに、雷撃の出力を上げる。魔素の消費が激しくなって、急に吐き気が込み上げてきた。

「僕は『呪い』を使い、フィーリクスは『魔法』を使う。それでいくらか君の魔素を削れれば、大規模障壁の構築に邪魔は入らないでしょう?」

「もう充分魔素を持って行かれたぞ……!」

「いやまだだね。まあ、フィーリクスが降参して一ヶ月大人しくしていてくれるなら、僕はそれでも構わないけれど」

「なっ――」

 アルマスは唐突に雷撃を消してしまう。抗うように力を注いでいたせいで、圧力の下がった空間へ一気に魔素が流れた。慌てて空間の歪みを元に戻すが――過剰に魔素が消費されたからだろう、虚脱感に襲われる。

「嫌らしい手を使うじゃないか」

「こういう意地の悪いやり方を教えてくれたのは、フィーリクスだった気がするけど」

 思わず膝をつく。立ち上がるが、膝はがくがくと笑う。まったく酷い有様だ。軍にいたころはこんな手に引っかからなかった。戦いから離れて久しいためか、それとも相手がアルマスだからか。どうにも調子が上がらない。

「俺とお前が協力すれば、街の人を犠牲にする以外の方法を見つけられたんじゃないか? この街を、キエロを守るための別の道を探し出せたはずだ」

 アルマスは見たこともないような厳しい顔を見せ、深呼吸をし――いつもの困った笑みを作った。

「そうかもしれないね。対話を怠った僕の怠慢だ」

 あしらうような態度に、自分でも驚くほど怒りが湧く。自分が思っていた以上にするすると、彼を追求する言葉が口から出た。

「なあアルマス。もう少しキエロと交渉できたんじゃないか?」

「ああ、フィーリクスはなかなか酷なことを言うね」

「酷かもしれないが、キエロとアルマスは姉弟なんだ。それくらいの」

 それくらいのこと、お互い理解し合っている二人なら造作もないはずだ。言いかけて――遮られる。

「僕の話なんて誰も聞いてくれないんだよ」

 アルマスは目を伏せて微笑む。

「そんなことはない! 俺はいつもお前の話を聞いていただろう!」

 そんなはずはなかった。キエロは何も言わず突き放したが、俺はつい最近まで彼と仲良くしていた。親友として、愚痴も悩みも全て語らってきたはずだ。

「フィーリクスは――君は確かに肯定的な返事をしてくれるよ。いつもね。でも、僕の話を本当に聞いてくれていたのかな」

「当り前だろう」

「なら、何で僕の知らないことで姉さんと言い争っていたの? この街から追い出すだの、ベルリンに逃がすだの」

 アルマスは剣をきつく握りしめる。声には徐々に震えが混じっていった。俺の答えを待たず、彼は泣きそうな声で続ける。

「前からずっとそうだ。この街を守る障壁の構想も、僕自身の暴走の危険も……今後のことも、僕は全部包み隠さず話した。北のイナリまで行って、そこで一から始めようと思うって。それだけじゃ安心できないだろうから、僕が戻ってきても何もできない様に障壁を作るって。フィーリクスはどう思う、って」

 確かに聞いた。そして俺はキエロに伝えた。伝えただけだった。キエロに態度を変えるよう言った覚えもないし、信じてやってくれと懇願したこともない。キエロがどれほどドラゴンを怖がっているかもろくに理解せず、姉弟なのだから大丈夫と介入しなかった。

 果たして、アルマスだけが怠慢だったのだろうか。

「どうせ元より、僕の提案を聞き入れるつもりなんて無かったんだよね。フィーリクスの中で、僕を救うための道筋は決まっていた」

 アルマスは剣を高く掲げて力任せに振り下ろす。周囲の雨粒が凍り、弾丸のように飛んできた。慌てて身を守るが、アルマスは魔法に乗じて距離を詰めてきている。彼は走りながら剣を投げ捨て、拳を構えた。魔法を補強して守りを固めたいところだが、いよいよ魔素が尽きたためか、捻じ曲げた空間を上手く維持できない。

 今にも霧散しそうな魔法が、真正面からアルマスの拳を受ける。魔力を帯びていない純粋な攻撃だが、俺の魔法は打ち砕かれ、衝撃で足が浮く。頬に痛みが走り、視界が揺れた。

 諦念の篭った一撃は、今までに受けたどんな攻撃よりも重かった。

 叩きつける雨を全身に浴び、泥水に浸かって寝そべる。そうするしかなかった。魔素が使えないのでほとんど目が見えなくなってしまったし、身体の中全体が押しつぶされるように痛む。立ち上がろうにも力が入らず、気力も湧いてこなかった。

 全く、魔法も決意も中途半端で笑えてくる。ここぞというときにガタついて、容易く砕け散るものに何の意味がある。

 俺はこれまで何もしてこなかった。アルマスが最善を尽くそうと努力してきたことに気づきもせず、のうのうと日常を送ってきたのだ。こうして打ち負かされることに不思議はない。

 アルマスを苦しめていたのは、ドラゴンの強大な力でも、キエロによる拒絶でもなかった。俺の浅はかな考えがアルマスを追い詰めたのだ。

 水を跳ね上げる足音が、顔のすぐそばをゆっくりと通り過ぎていく。勘を頼りに手を伸ばすと、ズボンの裾と思しき布が引っかかる。足音は少しの間だけそこにいて、俺の手を振り切ってまた歩き出した。

「アルマス、すまなかった」

 氷雨が景色を黒く濡らしていく。

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