拝啓スノードロップ
梨乃実
未だ明けぬ夜は
やまない雪が、いつまでもこの場所を冬に閉じ込めている。
街の中心を少し外れた場所、森とアスファルトの境界で、スノードロップの白い花が群れて咲いている。今年もいよいよ春が訪れるのだ。けれど少し先に目をやるとそこは銀世界で、樅の木が立ち枯れたまま凍り付いていた。そちらには少しの緑色もなくて、雪の隙間から顔を出す葉も、耳飾りのように揺れる白い花びらもない。
それは邪悪な黒いドラゴンの嫌がらせだ。封印されたからといって森を独り占めにして、誰も入れないようにしている。おとぎ話の中でも悪さをしていた彼のことを、誰かが懲らしめてやらないといけない。いかにも子どもが考えそうなことだ。
幼い頃の私は、ドラゴンを退治するためにこの場所へ来た。雪片が風に乗って舞う真っ白な森。それが『彼の者の領域』だ。気を抜けば霜柱に足を取られて転んだし、進めば進むほどひどく吹雪いた。
けれど私は無謀にも進み続けた。奥へ行けばドラゴンの住処がある。退治するにはそこにたどり着かなければいけない。
「これは私にあたえられた試練、だれがやってもいいのなら私がやる」
そんな言葉を繰り返して、白だけの景色に押しつぶされそうな自分を励ましていた気がする。しかしこの森は、子どもが耐えられるような環境ではなかった。自分がどちらを向いているのかわからないほどの白銀の世界。やがて、寒いのか暑いのかも分からなくなっていく。
つまづいて立ち上がれなくなってからは、母が読み聞かせてくれるあの声をひたすら反芻していたように思う。
邪悪なドラゴンが呪いで困らせている。人の姿をして街の人々を騙し、殺してしまう。私も呪いで殺されてしまうのかもしれない。怖くて仕方がなかった。
けれど私は殺されたりしなかった。あの極寒の森で倒れたのにもかかわらず凍死さえしていない。
「――君、しっかり!」
男の人の声が聞こえて、少しだけ温かくなる。そのときの私は眠くて何も答えられなかったけれど、男の人はずっと何か喋りかけてくれていた。気づいたら私は病院のベッドの上で、母は金色の血が付いたハンカチを握りしめていた。私を抱き上げてくれた彼の銀髪も、全てを癒すことができる金色の血も、おとぎ話の邪悪なドラゴンと同じ。
つまり私を助けたのは、おとぎ話には記されていない、彼の優しさだった。
それからずっと、私は疑問を忘れられずにいる。二千年前に邪悪なドラゴンとして名を轟かせ、今も世界中で疎まれ続けている彼は、一体何者なのか。こんな場所に追いやられて、邪悪なドラゴンと呼ばれて、彼はどんな気持ちでいるのだろう。
「――っと、ルミサタマ裏通り駅、七時二分発のバスが……うわ、礼拝に遅れる」
命を助けてくれた彼の名は、アルマス・ヴァルコイネン。
あの優しい邪悪なドラゴンを救うのは、私だ。
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