4-4節
研究は進んでいた。形態変化の性質を記録したり、ムトの記憶を旅したり、互いの生活や世界についてよく語り合った。知識に対して貪欲だというのもあるが、自分が持っている図鑑や教科書などの書物、あるいは口頭の解説によって伝えられる情報をムトが欲してくれているのは、湊にとっても喜ばしいことだった。
ただ、時々ムトの気持ちが分からない時がある。記憶の映像を見て、こちらは楽しくも寂しいような感覚になったり起伏があるが、ムトはどうなんだろうか。けれどそれは人間相手でも同じだ。たとえば過去にあった事件に対し、現在の十吾くんがどう考えているのか分からない。上条さんの仕事が多い時に手伝うべきか悩むことは未だにあるし、吉男くんだってこの前授業に遅れてきたあれは何かあったのかもしれない。
その辺りで悩むようになったのは、主にムトの研究を始めて、ムトの感情を追うようになってからだ。ムトが無表情でしかも淡々と話すので、実際のところ、本当の気持ちを計りかねるときがあるのだ。いかに自分が、今まで顔や語り口だけで感情を推察してきたかがよく分かった。けれど肝心の感情は掴みきれない。本を読めば知識は蓄えられる。でも、それ以外の部分は考えないと分かり得ないことで、それこそが真に知らなければいけないことなのではないだろうか。あるいは僕が鈍いのかもしれない。考えて答えが出るものではないのかもしれない。だとしても、人の気持ちが分からなくても、せめて人の痛みを分かる人間でいたいと思う。分かりたいと思っていたい。
僕に何かできることはないのだろうか。色々考えたが、直接的な解決には繋がらないにせよ、今の自分が役立ちそうなのはムトについての研究を進めることだ。ムトも含めてみんながそれで楽しんでくれれば、気分が上昇して抱えている問題への活力に変わる可能性はある。僕が考えはじめたようにみんなにも、なんておこがましいことかもしれないけれど、悪い事態は好転してくれればと思う。
メモ帳を使い切った。文字を教えることもあるし、今度はもう少し上等で幅広の手帳タイプにしよう。
湊は文房具屋に寄っている間、吉男たちには先に行ってもらうことにした。すぐ選ぶつもりだったが、用途や汎用性の微妙な違いと、種類の意外な豊富さに迷いはじめた。
ところが吉男たち三人がビルへ入ろうとすると、野太い声に呼び止められた。
「ちょっとあんたら、何してるんじゃ」
老人が咎めるように言った。「探検ごっこも結構じゃが、こんなところに子供だけで危ないじゃろう。帰りなさい」
今まで気をつけていたつもりだったが、とうとう大人に注意されてしまった。最悪の場合、親や学校にも知られてしまう。そうなればもう、ここには来られないかもしれない。どうしよう、と三人は焦った。湊が来る様子はない。
吉男は早くも体格の良い老人に圧倒されつつあり、下手に怒りを買って杖を振り上げられたらどうしようという妄想すらしていた。十吾は上手な言い訳が思いつかず、とりあえず苦笑いで取りなそうとするもうまくいかない。
まごつく一同を不審な目で見て、老人が手を払い促した。「さあ、暗くならないうちに帰りなさい」
自分がどうにかしなければ、とゆかりは思った。一歩前に出ながら、クラス委員としてではない、ただの使命感に駆られていた。保身や体裁などの細々した一切は考えていない。話し出す瞬間においても言うべき言葉は持っていなかった。
「違うんです。おじいさん」
「何が違うんじゃ」
苦しまぎれの訴えなど即座に棄却すると決めたような面持ちで老人はゆかりを睨んだ。怯みそうになる心をゆかりは必死に抑えた。
「あたしたち、ここに用があるんです」
「用? こんなぼろっちいビルにあんたらみたいな子供が何の用があるんじゃ。さっきも言ったが探検ごっこは他所でやりなさい」
「いいえ。大事な用ですわ」
何か一つ、何か一つこの場を切り抜けられるものをと、ゆかりは振り返りビルを仰ぎ見た。ほとんど賭けだったがゆえに疑われている前提は微かに気を楽にしたが、切迫した状況はそれを許さない。無味乾燥とした外観から唯一色づく看板が飛び込んできた時、胸がざわついた。
「あたしたち、英会話教室に通っていますの」
「英会話じゃと」
老人の表情が少し和らいだが、追求は止まらない。
「こんなところに英会話教室があるのか」
「ええ。確かに見栄えは良くないですけれど」
先ほどより軟化した老人を見て生まれた僅かな余裕を持って、ゆかりは自嘲気味に笑ってみせた。
「こんな田舎ですから、贅沢は言ってられません。あたしたち、中学を受験するんです」
「ほう。受験とな」
目を丸くした老人に気取られぬよう、ゆかりはさりげなく十吾を視界に入れないよう身体をずらした。吉男はまだ真面目な学生として通用するが、という判断だ。
再びじいっとゆかりの瞳に探りを入れてから、老人が言った。
「そうか、若いのに偉いことだ。疑ってすまんかった。精進なさい」
老人が去ってからゆかりは大きく息を吐き、胸に手を当てた。緊張感はなかなか抜けず、しばらく
吉男が駆け寄ってきた。
「すごいね上条さん。ありがとう。ぼく、もうだめかと思ったよ」
泣き笑いに近い顔で安堵と謝辞を告げる吉男に、ゆかりは驚いてしまった。いや、流れからすれば礼を言われるのは当然かもしれないが、そんなことは全く意識していなかったのだ。自分はただ必死で、がむしゃらにやっただけだ。急に面映ゆい気持ちが湧いてきて、喋りにくい。
「ど、どういたしまして」
でも悪い気分じゃなかった。むしろ身を委ねるべき心地良さにすら思えた。十吾は礼を言わず「もうちょっとでおれの秘密の作戦がでるとこだったんだが」などと言っているが、それとて腹は立たず、微笑ましくさえある。普段、委員の仕事をしていて先生に労われることはあるけれど、それとは違う。
ここで湊がやってきた。吉男が事情を説明するのを、気恥ずかしい思いで聞いていたゆかりは、湊が近づいてきたので身を引きかけた。でも引かなかった。
「ありがとう上条さん」
心からの感謝だった。ゆかりはうれしかった。どうしようもなく、うれしかった。そして気がついた。今まで自分はきっと気を張っていた。張りすぎていたのだと。綻びを感じることで自覚できた。二転三転する自分の心は嫌だけれど、真実の前では何もかも霞んでいくのかもしれない。
以前ムトが言っていた。
何かを捨てるのは簡単ではない。どれほど要らないと思っても、また、大事だと思っても、捨てる瞬間は必ず直視しなければならないからだ。しかし、手放すことで得られるものもある。自らの意思で選び取ることが出来たなら、いつか無二の価値を見出せることもあるかもしれない。少なくとも結果だけを見て良し悪しを断ずるなど出来ないはずだ、と。
何年も心を通わせた星を去るのはムトにとっても平気じゃない。でもどこかで折り合いをつけて前に進んでいる。必要に迫られたことが必ずしも正しいとは限らないとしてもだ。
一つの考えに固執するのが間違いというわけではないと思う。それによってのみ見られる景色もある。けれど知ってしまった。向こう側を垣間見てしまった。あたしは選ぶことができるのだ。
でも、それらしい答えがあったからといって飛びついてしまうのは良くない。もう少しだけきちんと見極めてみよう。考えて決めるんだ。そうでなければ、自分を許せそうにないから。
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