4-2節
住処でムトと話しているとき、吉男がナップサックから漢字ドリルを出した。
「おいよしお、何してんだよ」十吾が近寄ってくる。「そんなの持ってきて」
「宿題だよ」吉男はちょっと嫌そうな顔をした。「ここに来るたび未確認ノートに書くことが増えるから、時間なくて大変なんだよね」
「今日は宿題多いからなあ」湊が言った。「僕は帰ったらやる」
「湊くんは早いもの」
ふと見回せばゆかりも早そうで、しかし十吾は、と。吉男はため息を吐いた。
「おい、なんだよ」不満げに驚いてみせる十吾。「やらないと思ってるだろ」
「うん」
「おいおいなめんなよ。おれには他のやつに写させてもらうっていう奥の手があるんだからな」
「いつもやってるじゃないか」
また吉男がため息を吐くと、ゆかりも呆れたようにゆっくりかぶりを振った。
「嘆かわしいわね。宿題の意味がないわ」
「うるせえな。わかんねえんだからしょうがねえだろ」
これで話は終わりだというふうに、十吾がそっぽを向いた。
わからないから仕方がないなんて、それでいいはずない。そんなものは逃げだ、とゆかりは思った。真実は明らかにしなければ。それも自分の手で。ただし、湊に直接関わるのは控えようと決めていた。下手に関わったところで、心がひどくかき乱されるだけだと思ったからだ。もう少し概要を掴んでからでも切り込むのは遅くない。あくまで冷静に事を運び、正確に見極めるのだ。ゆかりは意思を強固にするため、心中で上塗りを繰り返した。
「宿題とは、なんだ?」ムトがドリルを俯瞰しながら、首を傾げた。
気を取り直し、ゆかりが答える。「学校でやっている勉強を家でもやるようにと、先生から出される課題のことよ。次の日に提出して、やってきたかをチェックするの」
ゆかりはけっこうムトが好きだった。目的意識がはっきりしているし、それに向かってぶれずに邁進しているからだ。物の価値観や尺度が違うという点はむしろ話しやすかった。
「ほう。ということは、これが君達がいつも勉強しているものなのか」
吉男が悪戦苦闘しながら漢字を埋めていく様を、ムトはじっと眺めた。鉛筆が走り、文字が形つくられ、誤りを消しゴムが消す。相変わらずムトは表情がないが、つくづくと見ている姿が気になり湊がたずねた。
「ひょっとして興味あるのかい?」
視線を外さずムトが言う。「我々には文字という文化が無いので、そうだな興味がある。物珍しいとも言うのかもしれないが」
「あ、だったら」ぱっと思いついて湊が提案した。「文字、教えようか?」
ムトが湊を見る。「いいのか?」
「うん、いいよ。ムトにはいつも色んな話をしてもらったりして世話になってるし、お返しがしたいと思ってたんだ」
「話をすることで私が何か代償を払うということは無い。故に世話をしたつもりもなければ礼を言われる理由も無い」
「ムトにはなくてもこっちは助かってるんだよ。だから、まあ、無理にとは言わないけど」
「しかし」
「ふふ」吉男が笑って二人を仰ぎ見た。だが、湊としてはいまいち心当たりがない。
「どうかしたの?」
「いや、なんていうか」吉男はまだくつくつ笑っている。「宇宙人同士が気をつかいあってるのが、なんだかおかしくて」
そういえばムトは宇宙人だった。そしてムトからすれば自分たちもそうなのだ。最初から気は遣っていたが、種類が違ってきている。いつしか人間と話すのと同じように、対等に会話していた。種族の違いに優劣はない。ゆえに当然のことなのだが、確かにあらためて言われると、変なおかしさがある。気恥ずかしさに近いものを感じ、湊は優しく微笑した。「ほんとだね」
ムトは吉男と湊の話がよくわからないらしく首を捻っている。「どういうことだ?」
「いいんだよ細かいことは」十吾がうれしそうにムトの肩に手を置いた。「もうおれらに気をつかわなくていいってことだ。その代わり、おれらもムトには遠慮しねえ。そんでいいんだよ」
まだ少し納得がいかない部分もありそうだが、勢い込む十吾に押されたのか、やがてムトは折れた。
「わかった。では、文字を教えてほしい」
「おう、まかせとけ。だいたいそれならおれにもできるんだからな」十吾はどんと自身の胸を叩いた。「みなと、なんか紙と書くもん貸してくれよ」
「いいよ」メモ帳から一枚ちぎってペンと共に十吾に渡した。「吉男くん、とりあえず五十音順に平仮名を書こうと思うんだけど、このメモじゃ幅が足りないんだ。それで悪いんだけど、ノートから一枚貰えないかな」
「もちろん」吉男は二つ返事で未確認ノートの真っ白なページを破りとった。「ごめんね。まだ宿題終わらなくて」
「かまわないさ。ゆっくりやりなよ」そう言って湊は紙に書き連ねていった。
「よし、いいか。これが『あ』だ」向こうでは十吾がさっそく授業をはじめている。「ほら、書いてみろよ」
十吾からペンを受け取ったムトは、しかしすぐには書きはじめず、湊の方を覗いて言った。「ジュウゴのものとは随分形が違うようだが」
見ると、線は細いが湊の字は乱れなく綺麗にまとまっており、対して十吾の字はがさつで均整が取れていない。
十吾が顔を赤くした。「ムトおめー、おれの字がきたないってのか」
「そうではない。しかし、随分違う」ムトが両者の字を指差す。「本当に同じ字か?」
そんなつもりはないだろうが、ムトの無礼な言い方に、湊も吉男もつい吹き出してしまう。「ちょっと、ムトったら」
「ばか、書くやつによって味が出てくるからこれでいいんだよ。ほら、いいから早く書いてみろって」わざと怒りっぽく言って、十吾はムトを促した。
ペンの持ち方もままならないムトが書いた字は、かなり歪だった。印刷した字のような正確極まりないものを想像していた湊は意外に思ったが、より親近感はわいた。
「なんだよ、おめえも下手くそじゃねえか」と十吾が手の甲でムトをぐいと押した。
「でも十吾くんよりはましだよ」吉男が見比べて言った。
「そうだね。字として成立してる」湊もしげしげと眺めて同意する。
「おいみなと、おめーあんがい言いやがるな」
話の流れは分からないが、三人が笑いあうのを、ムトは微笑ましく見ていた。しかしゆかりだけは、輪に入れないでいた。入りたい気持ちもないではない。字なら自分にだって教えられる。そう切り出せば。だが、どうにもできなかった。心を許すのが嫌だった、というより、心を許したと思われるのが嫌だったのだ。
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