2-2節
ビルへ行く前に、湊は持ち物を
ムトと会話していて思ったのだが、ムトの言葉遣いは少し難しいときがあり、話の流れやニュアンスで理解している部分があったため、知らない単語が出てきた際に辞書で調べられれば、と考えたのだ。もちろん、出てくる都度調べていては会話から置き去りにされてしまうので、わからない言葉を書き留めておき、後から調べる、といった形になる。
さすがに質問用に持っているメモ帳と併用するのは、スペースが足りないこともあって、整理しきれないので、新しいメモ帳が必要だった。自室の机の中を見てみたが、元素記号を書き連ねた使い古しのものしかない。幸い、駅前通りに文具店があったので、ムトに会う前に購入できた。こうした細々とした調査費用として、湊のおこづかいは減っていく。
昨日ビルの入口に先回りしていたゆかりはまだ来ておらず、先に行こうと十吾が何度も言ったが、ムトの部屋に行ける条件がまだ確定していないので、判明するまでは今まで通り四人で向かった方がいいだろうと湊がたしなめ、しぶしぶ了承した。
十分ほど遅れてやってきたゆかりは「ごめんなさい」とだけ言い、説明などはしなかった。ふんと鼻を鳴らし進んでいく十吾と、途端に負けん気を出してついていくゆかり。その後ろで吉男は湊に、自分が帰るとき、ゆかりがプリントの整理をしていたのを見た、きっとクラス委員の仕事が長引いたんだという話をこっそりした。言い訳をしなくて偉いのか、説明をしなくて不親切なのか、湊にはわからなかった。
やはり部屋にはムトの姿が見えず、保護色になっているらしかった。皆であちこちへ呼びかけると、エレベーターからほどなく近い場所に鎮座したムトが現れた。
「そんなところにいたのかよ」ちょっと面倒くさそうに十吾が言うと、「すまないな」と立ち上がりながらムトは答えた。「この方が良かったのだ」
良かったとは、気分みたいなものだろうか。それとも何か事情が。ムトの心の動きめいたものがちらつく度、湊は気になった。楽しいという感情があるなら、無表情から与えられる印象など関係なくずっと人間味があるかもしれず、感情を追うことは、動物とも人間とも思えないムトの生態を解き明かすにはきっと大事なことだと、湊は予感していた。
「今日は私から訊いてもいいか」
ゆっくりと皆に視線を送ってムトが言った。ムトからの質問は初めてだ。断る理由はない。どうぞ、とゆかりが言うと、ムトは頭を下げた。
「ありがとう。では、君達は瞑想するか?」
瞑想という言葉の意味を理解していたのは湊とゆかりのみであり、吉男は雰囲気だけをつかみ、十吾に至ってはまるで知らなかった。しかし、湊とゆかりにも質問の意図はわからない。とりあえず「あん?」と首を捻る十吾に訊かれて湊は説明した。
「どう言えばいいか僕にも少し難しいのだけれど、瞑想っていうのは、目を瞑ってじっとして心を静かに保つこと、だと思う」
「なんだそりゃ。目つぶったらねむくなるだけだろ」
いまいち把握しきれていないまま、十吾は興味を失う。たとえ理解していても十吾からは縁遠い言葉だろうが、成績の悪い理由の一端を、ゆかりは垣間見た気がした。
「では、しないのか」確認するムトに、湊が答える。
「する人はいると思うけど、僕たちはしないね。なんでそんなことを訊くんだい?」
「私は常にやっているからだ。君達はいつもこの時間に来るだろう? それまで何をしているのかが疑問なのだ」
「ちょっと待って。常にって、まさか休まずずっとではないよね?」
知りたての瞑想について吉男が訊ねる。
「君達が居ない時は常にやっている」
「えっ? いつ寝てるの?」
「私は睡眠をとらない」
「ええっ!」
吉男が驚くのも無理はなく、他の三人からしても信じられない話だった。では、昼も夜もなく、この発光した明るい部屋で心を落ち着かせることのみに没入しているのだろうか。想像して、吉男は少しさみしい気持ちになった。
しかし、ムトは人間ではないのだ。物事の優先順位や行動原理が異なるのは当然であり、価値観の
「なんで瞑想ばかりしてるの?」
「と言うより、他に該当する言葉を私が知らない故に、瞑想と置換しているのだ。誤解させたようならすまない。熟語でないならば、星との適合活動、とでも呼べるだろうか」
「なにそれ?」湊もゆかりも知らないようだ。
「私が生きる為には星と一体になる必要がある」
ますます意味がわからない。これ以上の混乱をきたす前にと、湊が言った。
「ムトはどうしてこの星に来たんだい? それからこの星で何をしてるの? 順を追って説明してくれないかな」
「この星に来たのは偶然だ。私は己の生命活動に最も適した星を探すため宇宙を漂流しており、その旅路の上でこの星へ入り込んだ」
「漂流って?」
「文字通りだ。私には自在に宇宙を渡航する力が無いので、宇宙空間を流れ彷徨する中で、近くを通った星に引き寄せられるように体質変化を施す」
メモに「ほうこう」と書き、確認しながら湊は話を進める。
「ええと、宇宙空間を自由に動くことは出来ないから、星に引き寄せてもらえるように自分の身体を変える、ってことでいいのかな」
「そうだ。目的となる星が具体的に存在しているわけではなく、行きずりに出会った星に合わせている」
「だから偶然なんだね。じゃあ、生命活動に適したっていうのは?」
「例えば、君達は水中で生きていけないだろう。それは主に呼吸が出来ないからであり、地上で生きるのが適している。同じように、私にも自分に適した環境というのが存在する」
「なるほど。どういう場所が適してるの?」
「星に降り立ってすぐにはわからない。この星が自分に適しているかどうかの判定をする必要があり、その為に星と一体にならねばならない」
「さっきも言っていたけど、その、星と一体になるというのは具体的に何をするの?」
「星の鼓動……大気……息吹……のようなもの、を感じること、だ」
かなり感覚的な話らしく、ムトが言葉を探しているのがわかる。
「それらを感じ、吸収することで星との一体化が進み、適合判定が可能になる」
「じゃあ、今はまだ地球がムトに適合しているかわからないんだね。適合していないかもしれない星に居て平気なの?」
「いや、ごく僅かずつではあるが、私の命は蝕まれている。数値化できないほどの微量だがね」
見た目は平気そうだが急に心配になった。
「だが、適合は完全でなくてはならない。繊細微妙であり、ほんの些細な誤差も許されない。判定に要する時間分の滞在も致し方ないことなのだ。しかし、よほど合致していない星なら降り立つ前に分かる。つまり、地球には適合の可能性があるということだ」
自分たちのことを褒められたような気がして、少し嬉しくなった。だが、先の命が削られているという話の不安も、皆の中にまだよぎっていた。話の流れには沿っているが、決して興味本位ではなく、ムトの身を案じて吉男が訊ねた。
「判定には時間が掛かるの? ムトはいつから地球にいるの?」
「現時点で四十年ほど経過している」
「ええっ!」
皆の予想よりずっと長期間であり、驚愕した。まちまちではあったが、長くて湊が一年と踏んでいた程度だったからだ。
「へ、へーん。ムトってばおっさんじゃん」
途方もない数字の受け入れにくさのため、ひとまず十吾は茶化してみた。ところが横からゆかりが「違うわ。あくまで地球に来てから四十年だもの。これまでも色んな星を巡ってきたなら、ムトは私たちよりずっとおじいさんなはずだわ」と真面目に返すものだから、何とも言えず腹が立った。
「正確には四十一年と百六十九日だ。このビルも今では経年劣化しているが、私が来た頃はまだ新しかった」
「でもこの部屋はきれいよね。そうなると、やっぱりここは造りが違うのかしら?」
しばらく話の主導権を湊に譲っていたが、いつまでもそれに甘んじるゆかりではない。
「その通りだ。この部屋は、集中して瞑想すべく私が作成した」
「そうなのね。ここだけずいぶん様子が違うから、何かあるとは思っていたのだけれど。でも、作成ってどうやって?」
「星との不適合が判明した場合、その星を去るわけだが、途中まで適合を進めた際、私に蓄えられた星の力……エネルギー……を、次の星へ持ち越し、この部屋のような住処を作る為に使うのだ」
「なんとなく、わかるわ」
想像で補うしかないが、言っていることはわかった。にわかには信じがたく、すんなり受け入れられたわけではない。しかし、ムトの口振りから感じられる真実味のため、いくら壮大であろうとも真摯に向き合うべきだと思わせた。いずれ、この部屋もムト同様に特殊な動きを見せるかもしれないという、予感めいた期待も
「しかしよう、なんでここなんだ?」十吾が割って言った。
「それも偶然だ。我々一族にとって、適合し易い場所というのはそれぞれ違う。私は有機物と無機物が近くにあり、あまり騒がしくない所、が好ましい。このビルの地下は、たまたま条件を満たしていたというだけだ」
「ゆうき……?」
いまいち理解できていない十吾に、またしてもゆかりが口を出す。
「ビルみたいに生物じゃないものと、私たちみたいな生物が近くにいる場所が良いってことよ」
わからないなら黙っていなさいと言われた気がして、十吾は話半分にへそを曲げた。「ありがとうごぜえましたあ」
「でも、ただでさえ時間が掛かるのに、僕たちは瞑想の邪魔にならないのかい?」
また湊が訊ねた。彼に気を取られていたからだわ、とゆかりは十吾を睨む。
「その点は問題ない。星の生命体との接触も、一体化の一環になりうるからだ」
湊はほっとした。吉男も同じだったようで、胸に手を当てている。調査の継続云々とは別に、ムト本人のことが気がかりになってきていた。ひとまず、言い直すべきことを湊が述べた。
「そういうことならさっきのは訂正しなきゃね。ムトが言う瞑想、星と一体になるなんて、多分やってる人間はいないんじゃないかな。いたとしてもごく少数で、それも出来ているか怪しいぐらいだと思う」
「了解した。瞑想はしないのだな。ならば、ここに来るまでに何をしている?」
言われて思い出し、皆が顔を見合わせて苦笑した。そういえばまともに回答していなかったのだ。
「ごめん。話がずいぶん脱線してしまったね。僕たちがここに来るまでだけど、みんな学校に行っているんだよ」
「学校、とは、主に成熟していない人間が通う場所だと聞いた。何をする所なのか」
「うーん、何をする所か」
一概には言えない気がして、湊は言葉を探した。ところが、約二名にとっては迷う理由がわからなかったらしい。
「学校ってのはあそぶところだよ」と十吾が言った。
「学校は勉強するところよ」とゆかりが言った。
ムトが首を傾げた。
「なんだよ。友だちとあそんでわいわいやるところじゃねえのかよ」
「いいえ。将来のために、先生に色んなことを教わるのよ」
「まあまあ落ち着いて」吉男がゆかりの飛び火をおそれながらも二人を宥めた。「ムトが困ってるよ」
「あっ……」
ムトへの影響に気づいて議論をやめることに納得はしたが、決着をつけたい二人はにらみ合う。
充満する対決の雰囲気など関係なさそうに、湊がムトに答えはじめた。
「僕は、十吾くんも上条さんも正しいと思うよ。実際どちらもやっているしね。友だちと遊んで、そりゃ喧嘩もあると思うけど関係が築かれていくし、世界や身の回りのことについて知識を蓄えておけば、いずれ役立つ時が来ると思う。基本は勉強をするところだけど、人間関係を作る場でもあるんじゃないかな」
判定員に恵まれ、稀有な引き分けに持ち込んだ十吾は腕を組み得意気にふんぞりかえった。しかしゆかりは眼中にない。初めて湊に名前を呼ばれ、どきりとした。白い肌が赤くなった。
「つまり……人間を育む場、ということか?」
「あ、そうだね。そうだと思う」
それなら一口に言えたのか。いや、どうだろう、とムトに感心しつつ湊は思案する。
「なるほど。納得した。ありがとうカセミナト、カミジョウユカリ、ヤマノジュウゴ」
ムトの首が元に戻った。しかし、十吾から物言い。
「それはいいけどよ、つーか前から思ってたんだけどよ、その、ヤマノジュウゴとかって長くねえか? なんで名前全部なんだよ」
「と、言うと?」
また首が曲がってきたムトに、湊が解説した。名前には姓と名があり、呼ぶときに全て言うのは稀だということ。堅苦しいということ。
「ミナト、ヨシオ、ユカリ、ジュウゴ。これでいいか」
「おう。ばっちりだぜ」親指を突き立て、十吾が笑った。
違う。ムトに下の名前で呼ばれても何も思わない。どうして? なぜか切迫した気持ちになる自分を、ゆかりはわからないでいた。
「今のが先生、というものか?」ムトが訊ねた。
「湊くんはそうかもね。十吾くんは……うーん」見ると、「センセイー、おれセンセイー」とすっかり十吾は浮かれていたので、吉男はムトに耳打ちした。「十吾くんは違うよ」
「でも、僕たちがムトに教わることも沢山あるよね。言葉遣いだって、僕らにとっては難しいものが多いし。ムトは一体どこで言葉を学んだんだい?」
湊が訊くと、ムトは上を指差した。
「この上にあるスナック、というものに夜が更けると人々が集うだろう。この部屋は音を通しにくいが、天井に身を届かせれば会話が聞こえるのだ」
「聞いて覚えたってこと?」
「そうだ。常連客の中に、大学の教授、という者がいるらしく、特にその者から吸収する。私の喋り口調とは、その大学教授や、他の客の真似事によってできている」
「教授かあ。どおりで大人っぽいわけだ」
白衣を着た中年男性がグラスを持って語らう姿を、ぼんやり吉男は想像した。
「日本語は難しいらしいけど、さすがに四十年も聞いてれば覚えるのかな」
湊が言うと、「そうなのか。こんなことも出来るが」とムトは居ずまいを正し、咳払いのような仕草をしてみせた。そして、歌いはじめた。
おそらくは、常連客のうちの誰かの十八番なのだろう。部屋中に響き渡るほどの声量であり、やけにこぶしが効いている。曇天を渡る海鳥の鳴く声が聞こえてきそうな物悲しいマイナーコード。目の前の少年から、哀愁漂う演歌が放たれていた。しかし、誰もその曲を知らなかった。まさか、宇宙人相手に世代の違いを感じるとは思わなかった。
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