第4・鶴寮の若さまと主務、夜の世界へ誘われること
第24話・鍋島家の市姫、夜の世界へ誘われるの巻
佐賀藩・鍋島家の江戸屋敷は諸藩の大名屋敷が並ぶ江戸城は小田原口にほど近い場所にある。伊達や毛利家、上杉家などはご近所だ。特に近所付き合いをしたことはなさそうだけれども。
兄と学寮での面会を終えた市は、いつものように傅役の実家の家臣と二人で屋敷へ戻った。いつもよりずっと足取りは軽い。もっとも、面会した兄はいつもの調子であったけれども。
(それにしても……上杉家の若君がああいう方だったとは……)
市も人生のほぼ全てを江戸で暮らしているが、人付き合いはあまりしないこともあって近所の大名屋敷に暮らす人間についてもほとんど人と成りを知らなかった。
それにしても噂だけは聞いたことがある。確か、今の上杉家の当主というのは、相当に怖い人なのだという話ではなかったか。
とにかく無口で喋らない。
ニコリともせず、顔に表情が少しも表れないらしい。屈強で知られる謙信公以来の家臣たちも、御前に召されるだけで脂汗をかくとかなんとか……
(でも、彼は……ちっともそんな風ではなかったな。嫌な顔もせず楽しそうに、いろいろなことを話してくれたし……)
この呪いのことや、顔の傷についても彼は嫌な顔一つしなかった。母親も霊感があったといい、そればかりか、不思議な化け物まで傍にいるのである。
刹那、市は千徳の言葉を思い出した。
ーー何か方法がないか探してみよう!
みんなにも聞いてみると言っていた。何かわかることがあるかもしれない。出来ることも。
市は胸元をそっと抑えた。そこにはさっき千徳から貰ったものが入っている。紙に挟んだ、地獄の鬼だという化け物の長い金色の毛――魔除けのお守り。
これを貰った時から市は決めていた。
(これはお岩殿にあげよう。少しは具合がよくなるかもしれない)
お岩は市の父・鍋島勝茂の側室であり、兄の実の母親である。兄の他にも娘を数人生んでいるらしい。
猫又に取り憑かれ、昼も夜もなく屋敷の地下の座敷牢に囚われている憐れな女性。猫又が暴れぬようにするためだそうだが、命だけは助かり今も生きてはいるもののその毎日はあまりにも辛く苦しい。
それでも、これがどういうものか伝えたらきっと「母や弟に差し上げて」と言うに違いないだろう。彼女はそういう人だった。
もうあの事件から二年が経過した。
鍋島の家名に関わることとあって、当然公にはされていない。
市も直接この話をした相手は千徳が初めてである。
佐賀に暮らす祖父――鍋島直茂は事件以来龍造寺家の祟りを恐れ、占いにばかり傾倒しているらしいが、よい兆しが見えたという話は少しも聞かない。
二年前の事件のこと、未だ呪われている自分のことも祖父の気鬱の理由には当然あるだろうが、生まれたばかりの弟が死に、今では母まで具合が良くない事実は祖父の心を余計に深く苦しめているに違いない。
母は徳川の大御所様の養女であり、それが鍋島の家の呪いのせいで何かあったとあっては祖父も父も打つ手がない。
更に言えば、せっかく苦労の末に手に入れた徳川との縁によって出来た世継ぎの男児を、そういう理由のせいで死なせてしまったかもしれないのだから、いよいよ鍋島の家は呪われている。
(……これは主家をないがしろにして今の地位を得た鍋島の一族への報いかもしれぬ)
なんとかする方法などあるのか? 市には到底思いつかない。自分の呪いはともかく、母や鍋島の家はなんとか助けたい。今年生まれたばかりの弟も、今度こそ元気に育ってほしい。
いつものようにそんなことを鬱々と考えながら歩いていると、市は自分の屋敷の前に見慣れぬ人影があることに気がついた。
すぐに市は気が付いた。
頭巾で顔を隠していても肌に感じる、刺さるようなびりびりとした感覚。良くない邪悪な霊に違いない。
(……また屋敷の周囲をうろうろしておるのか、悪霊め!)
二年前に猫又の襲撃に遭って以来、実家の屋敷の周囲には人でない者共がうろつくようになった。自分も猫又の呪いのせいでそうしたものが見えるようになってしまった。
自分ではもちろん退治などすることは出来ないが、それでも負けたくないという気持ちはある。そのために武芸の腕を磨いている。
今日千徳と知り合って市には一つ光明が見えた。
例え地獄の鬼と言えど、傷を付け調伏させることが叶う名物があるのだ。
それならばきっと猫又をどうにか出来る人の武器があり、それを成し遂げることも出来るはずである。
(父上がお持ちの刀もいわく付きの名刀と聞くが……あれはどうだろう? 父や兄ほどの腕前なれば、こんどこそ猫の化け物を仕留めることが出来るはず。薙刀の名物などあればこの手でもどうにか出来るかもしれないのに)
非力な女子供ばかりを狙い、呪いと称してわけのわからない苦しみを与える化け物の思うがままにはしたくない。
もちろん、己自身の呪いについても諦めない。
市はぼんやりと屋敷の入り口に佇む邪霊を強く睨みつけた。
「鍋島の……おひいさまでいらっしゃいますね?」
人影が突然目の前に現れて市は息を呑んだ。まだずいぶん距離があったはずなのに、人影は地面を滑るように一瞬にしてそれを縮めたのだ。
おまけにこんな――話し掛けられたことなどこれまで一度もない。
市が驚いたのは、目の前にいる父の家臣が自分に背を向けたままピクリとも動かないことだ。見知らぬ人間が自分に近寄ることを許すような人間ではない。
「な、なんだ……これは……?」
不思議な違和感があって、市は周囲を見渡した。
ーー静かすぎる。音も声も、何もしない。風もない。
市が見上げた先には実家の屋敷の塀から木の枝が伸びていた。そこから今まさに飛び立った一羽の雀が宙に浮いたままピタリと止まったままでいる。目を凝らしても、少しも雀は羽ばたくことがない。
そこは、まるで時が止まったような世界――市は数歩後退して手に持っていた薙刀の木刀を構えた。
「……おのれ、おかしな術を使いおって……何が狙いだ!」
それは人の姿をした人成らざるものである。
姿形は若い男の姿をしていた。
髪を一つに束ね、両目の瞼の下には深い隈を刻んでいる。不健康そうな気だるそうな、線の細い男。
「驚かせてしまい申し訳ありません。お付きの方が警戒されていらっしゃるようでしたので、一時的に少しこちら側にお誘い申し上げました。なあに、用はすぐに済みます」
薄ら笑いを浮かべて彼は言った。ぺこぺこと頭を下げる物の怪は初めて見る。物の怪というのはこんなにも腰が低いものなのか?
「某はあれ、あそこ――上杉の家に仕える付喪神なのです。付喪神だからあなたに危害を加えるようなことなんて何も出来やしない。付喪神というのは持ち主である主人には逆らえんのです、絶対に。僕なんてただの下僕のようなものですからね」
付喪神、と名乗ったそいつは、申し訳なさそうな顔をして市の背後を指した。
小田原口から最も近い場所を陣取る一際大きな屋敷――それは今日出会った千徳の実家である。
「どうぞ、それを収めてくださいまし。某はただ、うちの偉い方々に頼まれて使いにやってきただけなんです」
「偉い方々……というのは、つまり千徳殿のお父上か? お前の持ち主?」
「いやあ……それがそうではないのですよねえ。それに手前の主人はただの陪臣ですよ。これでも僕はけっこうな名刀なのにさあ……」
付喪神はぶつぶつ文句を言いながら袖の袂から何かを取り出した。おそるおそる市が薙刀を下ろしてそれを受け取ると、付喪神は市の顔をじっと見つめて言った。
「あなたのその呪い、一刻も早く何とかした方が良いかと思いますよ。あなたは呪いのせいで人の倍以上の速さで歳を取っている」
それは和歌が記された短冊だった。なんの歌であるかはわからない。
それよりも何よりも、市は目の前の彼がどうして自分の秘密を知っているのかが分からず頭が上手く働かなかった。
「猫というのは人の倍早く歳を取ります。そうして人より遥かに早く死んでしまう……寿命が短いですからね。あなたは猫の呪いによって猫の妖力を備えるに至った。それゆえ猫のように人よりもずっと早く成長していらっしゃるんでしょう。本当のあなたは若さまよりもずっと年若い幼子であるはずなのに、あなたはどう若く見ても十四、五歳ですものね」
「……どうしてそれを知っている」
「わかりますよ。匂いが違いますもの」
付喪神は市を指して言葉を続けた。こいつの前でこんなものはもう意味がないーー市は頭に被った頭巾を脱ぎ捨てる。
「あなたは《気》というものをご存知ですか? 遍くこの世の隅々にまで巡る命の源……龍脈の力のことですね。これは人の体内にも巡っていて、化け物達は人のそれを《匂い》なんて呼ぶんです。実った果実が次第に熟れてやがては腐ってしまうように、人の体内を巡る気の力も加齢に伴い、気配が次第に変わる。これは体内を巡る陰と陽との気の配合が加齢に伴い変化することによって起こるとされていますが……まあ要するに、あなたからは外見上の年齢にそぐわない匂いがするのです。青く瑞々しい少女の気配……本当のあなたはおそらく、生まれてよりまだ五、六歳……といったところでしょうね」
付喪神というのはこんなにもよく喋るのか? 市が一度だけ頷くと付喪神は満足したように再び口を開いた。
「これは単なる想像ですが……あなたは血の滲むような努力をされておいでのはずです。立ち振舞いや仕草、知識、武芸の腕前……あなたの正体が幼子であると不審に思われては、家中で起きた化け物騒動が知られてしまうかもしれませんからね。ですが、このまま無理を続けるのはよろしくありません」
まだ喋るのか――と、始めこそ脱力していた市だったが、付喪神の言葉をお終いまで聞いて血の気が引いた。
「何故そんなことまで知っているのかとーーあなたはそうお尋ねになるでしょうが、これは単に生きた年数の違いだと思いますよ。某は康永二年に造られました。ちょうど京の室町に足利さまの幕府が開かれた頃ですね。だから持ち主は変われども、かれこれ二百五十年以上は生きている。猫又のことも当然知っています」
付喪神は得意げに言葉を続ける。
「猫は忠誠心は薄いくせ情愛が深く、それゆえ長く生きて力を得た猫が時折妄執に近い情念で以て人間を縛ることがあるのです。それがよい力となって働いたり、逆に他者へ呪いとなって災いを成す場合がある。あなたの呪いはつまりそういうものです」
「……私は一体どうなる」
「このまま呪いを放置すれば、あなたは人の寿命の半分……いえ、もっとずっとずっと生きられない可能性が高い。あなたはまだまだ想像が足りないと思いますよ。このまま何の手も打たなかったら、あなたの身体は嫌でも勝手に女となり、あっという間に老いてしまう。本当はまだずっとお若いのに……あなたには抗う術がないのですよ」
市は胸に手をあてた。
そんなことは自分が一番よく分かっている。
身体に心が追いつかない不安。一晩眠ると数年が経過したような心持ちになる恐怖。
それがもう二年も続いた。
自分はあっという間に歳を取ったが、事態は少しも変わらない。焦る気持ちはあるのに、そうと気付かれてはいけない。
交流会で楽しげに笑う他家の姫君の様子を眺めるのが何より辛かった。
自然と不参加を願い出ている自分がいた。この二年で唯一、市が頑なに譲らなかったわがままだ。
「絶対に知られたくないあなたの秘密を上杉の御曹司が我らにばらしたと……どうかお思いにはならないでくださいまし。当家の御曹司はあなたの身の上を知って、なんとかあなたをお救いしたい一心で我らをお頼りくだされたのです。我ら、若さまの傍にいるけだものよりあなたの境遇を知りました。お喋りなけだものがあなたのことを我らの同胞にべらべら喋ってしまったことは謝ります。我らの同胞が半ば脅すようにして、根掘り葉掘りあなたのことを聞いてしまった……決して御曹司のせいではないんです」
付喪神は何度も頭を下げた。彼は腰に長い刀を差している。打刀と呼ぶにしてはかなり長い。
「三人寄れば文殊の知恵、と申します。当家には頭数だけは家来がいる……人もそうだし、刀の化身も大勢。我らこれでも人よりは長く生きていますからね、あなたをお救いする知恵が何かあるはずです。お可哀そうなおひいさまのため、我ら知恵を出し合おうということになりました。それに我ら、あなたのご実家からは妙に妖気が漏れてくるものだから、何かあるとずっと不思議でいたんですよ。ようやく合点がいきました」
「千徳殿の気持ちはありがたいが……憐れみなど不要。当家のことは当家で片を付ける」
「それはそうでしょう。ぜひそうなさった方がいい。ですが、我ら人助けが趣味ですから、どうぞお気遣いなく。御方もそういう方でした。ぜんっぜん歓迎されなくても勝手に戦に首を突っ込んであなたに要らぬ加勢をすると思いますよ。我ら皆々、そういうのが好きなんですね」
これは、そのための鍵です――と、付喪神は短冊を指して言った。
「その短冊を今夜枕元に置いて寝てください。そうすればあなたを幽世へお招き出来ます。我ら御方ご所有の皆々、残らずあなたのお力になると思いますよ。そういうのが性分なのです」
「かくりよ?」
「はい。現世でもないあの世でもない特別な場所。今、あなたは足を半分そこへ突っ込んでいるので、このようにまるで時が止まったようになっているのです」
付喪神が天を仰いで雲に隠れた太陽を指した。
「普通の付喪神はね、こんなふうに日中に表を歩いたりは出来んのです。付喪神というのは月の光の加護を受けているもんだから」
「じゃあ、お前は……」
「ああ、僕なんかは例外なんですね。だからこうして日中も人に付喪神にとこき使われっぱなし。ああ、そうだ。まだ仕事がありますので急がなければ……写本をね、作る手伝いをしないといけませんので。まったく、御方が生きていらしたことは絶対になかったんですけれども……」
「おんかた、というのは一体なんのことだ?」
市が首をかしげると、付喪神はうやうやしく腰を折った。
「我ら上杉の刀剣、残らず皆々軍神の名物……弱き者をお助けするのは当然の務めです。我らの主……謙信公への供養にもなります」
付喪神はそう言うとくたびれたように笑い、もう一度深く頭を下げた。
柏手が二つ、辺りに響き渡ると世界は再び音を立てて動き出した。雲がゆっくりと空を流れ、実家の庭の木々のざわめきと雀の鳴き声が聞こえてくる。
「ひいさま、如何されましたか」
振り返った家臣の顔を見て、市は付喪神の言葉を思い出していた。
世界が再び動き出す刹那、どこからともなく聞こえてきたそれを。
ーー某は上杉家の大名物・長船兼光の太刀の化身です。
素性がご心配とお思いなら、うちの屋敷の家人にでもお尋ねください。
誰でもわかると思いますよ。僕は上杉の領内ではそれなりに名のしれた刀ですからね。
なにせ《水神切り》なんて号を賜った、ひどく可哀想そうな名刀だもんで。
市は屋敷へ戻ると早速この不思議な付喪神について調べてもらうことにした。上杉家の上屋敷は目と鼻の先である。
市は自分の侍女に頼んで上杉の屋敷で働く人間に聞いて貰うことにした。
自分の侍女ーー涼が話を持ち帰って来たのは、市が眠る支度を始めた頃になってのことだった。本当に枕元にこれを置くべきかどうか、短冊を見つめながら考えていた矢先のことである。
「確かに、姫様が仰る通りでした。《水神切り》というのは上杉の執政ーー直江山城守の刀だそうですよ」
「執政? 謙信公の刀ではないのか?」
「ええ、そもそもは謙信公の刀だったようです。今の殿様から直江山城守に下賜されたようですね。龍神殺しの大名物ということで《水神切り》の名が付いたようです」
「龍神殺し?」
「なんでも、龍の姿をした水神さまをその刀で斬り伏せたとかで……ご領内では有名だとその家人も言っていましたが……」
さすが、落ちぶれても上杉は尚武の名家である。
水神を斬り伏せた名刀の化身ーーそんなものすごい大名物なら、たしかに猫又など容易く一刀両断出来そうである。おまけにその生態についても詳しいのだから、これが味方というならなんとも心強い。
「なんでも……その家人の話では、今の上杉の殿様という方がものすごく刀がお好きなのだそうです。そもそもは前の上杉のご当主……上杉謙信公が数百振りにも及ぶ刀を越後へ集め置いたことにより、とにかくお家には刀刀、刀がそりゃあもう沢山あるとのことでしたよ」
市は心を決めてそれを枕元に置いた。
短冊に書かれていたのは、万葉集にあるという古の歌人が詠んだ歌である。
ーー月読つくよみの 光に来ませ あしひきの 山き隔へなりて 遠からなくに
月の光を頼りに会いに来てほしい、そう遠くはないのだからーーという歌だった。
そう言えばあの付喪神は言っていたっけ。付喪神は月の光の加護を受けているのだ、と。
今夜は月が出ているか、と市はお涼へ尋ねた。きれいな満月ですよ、とお涼が言う。
市は胸元に手をあてて床に就いた。
夜は嫌いだ。猫のように神経が研ぎ澄まされ、いろんな音や気配を拾ってしまう。気分が高揚して中々寝付けない。
けれども今日は違った。いつもよりもずっと心が穏やかでいられる。
千徳から貰ったお守りはお岩殿にあげてしまったが、けれども市は確かに何か特別な力で以て自分の心が守られているのを感じていた。
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