第10話・従兄弟の上杉長員について
客間には男が一人いた。鋭い目付きで睨み付けられて慌てて立ち上がって駆け寄る。
「なんだあ! お目付役って長員のこと!? はー、緊張して損した!!」
「損とは何やねん、こら! こっちは忙しい合間を縫って来とんのや。適当な対応すな!」
男は訛の強い言葉で捲し立てるようにそう言うと畳を強く叩いた。
仕方がないので僕は姿勢を但し、きちんと名を名乗ってから頭を下げた。上杉家の跡取りとして求められるであろう振る舞いはちゃんと心得ている。
しかし相手は名前なんてとっくの昔に知っているだろう、自分の従兄弟なんだけども。
「まったく……あのちんちくりんだったお前がもう江戸のお城へ出仕するような歳になったとは……」
長員は米沢で暮らしている父の姉の息子で、僕の従兄弟だよ。今は徳川の将軍様に仕えていると聞いている。
この従兄弟の存在を父から初めて紹介されたのは、僕が今の将軍――秀忠様にご挨拶をした後のことだった。
秀忠様がうちの江戸屋敷にやって来て僕はその時にご挨拶をし、秀忠様から《千徳》という名前を賜った。
実家の跡取り、つまり嫡男として認めてもらえたあの日のことは今でも少しも忘れていない。
それが丁度三年前のことになる。
はああ……と、長員は深くため息をついて目頭を押さえていた。
ため息を付きたいのはこっちだよ。誰とも知らない相手に客間に呼び出されて何が起こるのだろうと僕が期待に胸を膨らませていたことなんてまるで知らない長員は
「月日の経つのは早いもの……俺も歳をとるわけだ」
――なんて、よくあるおっさんの愚痴をこぼした。
「……長員ってそんなこと言うためにお城に来たの? もらっちゃうからね、これ!」
「んなわけあるかい!」
僕は長員の眼の前に置かれていたおまんじゅうをかっぱらった。客間係が学寮へやって来たお客に振る舞うお茶菓子だよ。長員は甘いものが好きじゃないってことを僕はよく知ってる。父上の一族ってのはみーんな酒飲みだ。
「俺は叔父上や米沢の母から江戸にいるお前のことは何かと面倒をみるよう頼まれておるのだ。顔を見に来るのは当然のこと」
長員は僕の身内だけど、上杉の家臣ではない。
若い頃にうちの家を出奔して、今は将軍さまの旗本として常陸の国に領地まで貰っていると聞く。
もっとも、長員は将軍様のお傍で働いているから貰った領地にいるということはほとんどなく、ずっと江戸で仕事をしているということだけれども。
「面倒を見てもらってるという実感は何もないけどなあ」
「そうだろうそうだろう……そこで、俺も色々と考えたのだ。せっかくお前がこうして江戸のお城へ出仕するようになったのだから、それを上手く使わぬ手はない」
「は?」
僕はもう一度おまんじゅうにかぶりつこうとして、止めた。
「どういうこと?」
長員が僕の顔を見つめている。
ひどく嫌な予感……長員が得意げな顔で僕を見つめているのがその証拠だよ。長員がこういう顔をするときって、大体ろくでもないことを考えているのだ。
「――お前には俺の手足となって働いてもらう」
ほうーらね、やっぱり!
嫌な予感がすると思ったよ!
「俺は将軍となられた秀忠公の家臣。学寮の《目付役》だ。良からぬことが起きぬよう学寮を常に監視している。そうして、不測の事態が起きた時にはその事態の収拾及び調査を行い、上様にご報告申し上げるのが俺の務めだ。その為に俺は学寮に出入りするのだからな」
僕はしばらく無言で長員の顔を見つめていたよ。そうして考えた。
「えーと……つまり、学寮で何かやばいことが起きたら、長員がそれをなんとかしたりするってこと?」
「その通り。だがその前に……そもそも、やばいことが起きぬようにすることこそが俺の務めだ。もし万が一にもやばいことが起きたらそれを将軍さまにご報告せねばならん。当然、やばいことをなんとかすることも俺の仕事に含まれる」
そう言うが早いか、長員は僕と向かい合う距離を縮めた。怖い顔で僕の顔を覗き込む。
「……お前、出仕早々毎日のように同寮の生徒とケンカしておるそうだな」
長員にきつく睨み付けられて、僕は視線を泳がせた。
「ええっと……違います。僕は総次郎や忠郷に売られたケンカを買ってるだけで……」
すると、長員はがっくりと項垂れて顔を掌で覆った。
「あかん……先が思いやられるわ」
「大丈夫だよ、長員。僕だってここへ来るにあたって色々なことを考え、想定しながら暮らしているんだからね。これ以上、上杉の家が傾くようなことは致しません」
「ドデカい青タン顔にこさえて、大丈夫も何もあるかい!」
長員は僕の顔を指して叫んだ。お説教はなおも続く。
「お前なあ……ケンカは売っても、買ってもあかん! そないなことしよるから上杉の家かてド貧乏になってしもたんやないか。関ヶ原の戦の前、叔父上が家康さまにケンカ売ったり買ったりしくさったのを、よもや忘れたとは言わさへんど!」
長員はひざを立てて中腰の体勢で僕に叫ぶように言った。
長員は怒ると我を忘れて出奔してから身を寄せていた河内の国の訛りが出る。出奔については僕が産まれた頃になってようやく父上に許してもらったらしいけど、言葉はどうにもならないらしい。
「叔父上もワシみたく東軍へお味方しとればよかったんや……せめて加賀の前田家みたく素直に最初っから家康さまに頭を下げとったら、上杉の家もこない貧乏にならんと済んだかもしらんど、千徳。人間、素直さが一番大事なんや」
「じゃあ父上には長員がそう言ってたって報告しておいてあげるね」
僕が冷たくそう言うと、途端長員は目を見開いて
「やめんか、ゴラあ!!」
と叫んで僕の頭をひっぱたいた。咄嗟のことで僕も避けるのが遅れてしまったよ。
「あかん!! あかんぞ、そんなことは! 絶対にあかん!」
長員は父上には頭が上がらない。上杉の家を出奔したくせに、未だに《上杉》なんて姓を名乗れるのもつまりそういうことだ。賢そうにしているくせ、父上の名を出すだけで冷や汗かいて身体を硬直させるのだからてんでおかしい。
僕は長員とは七歳で顔合わせを済ませて以来、実家のみんなに隠れて江戸で何度も会っているから知っている。兄弟のいない僕にとって従兄弟は数少ない身内なのだ。
「ええか、千徳! お前が学寮で揉め事を起こしたら、わしが叔父上に説明せなあかんやないか!」
「ええ? なんで? 別にそんなこといちいちしなくていいよ」
「お前の面倒を見ろと言われとんのやから、ええわけないやろ。ただでさえ叔父上は戦ものうなって暇にしとんのや。こまいこといちいち突いてきよるねん! わしの仕事を増やすな!」
別にこっちだって長員の手を煩わせようと思ってやっているわけではないけれども……とりあえず、僕は不承不承頷いた。
「学寮の奴らとは仲良うやれと言うとんのや、わしは。そうやなくたって、学寮で何かあれば目付役のわしがいちいち生徒に事情を聞いたり、報告書を作ったりせなあかんっちゅうのに……」
長員はわりといつも小言が多いけれども、今日はいつもの三倍くらい多い。
「ええ? 長員ってそんな仕事もしてるの?」
うわー、面倒くせえ!
僕は密かに「こりゃあ大変なことになった」と思った。学寮で僕が良からぬことをすると、まずこの従兄弟に話が行ってしまう。
「俺かて、そんなどうでもええことするために学寮におるわけやない。せやから、そういうどうでもええ仕事させられる代わりに、お前のこともこき使ったろうと決めたんやないか」
「うええええええ……なんだいそれ」
長員は再び腰を下ろすと、ため息を付いて首を何度も振った。
「……いいか? 俺は学寮中で起きた《事件》を解決することが仕事なのだ。学寮で事件が起これば問答無用で介入し、その解決に当たる。だが……事件にもならぬ些細な事柄……例えばそう、《噂》のようなものは全く手出しが出来ん」
「うわさ?」
長員は頷いた。
「事件になれば俺は動ける。だが……裏を返せば、事件にならねば動けない。それも相当な事件だ。学寮の上役共は俺のような秀忠公の家臣が学寮に介入することを快くは思わぬ」
「どういうこと?」
「学寮の中では日々色々なことが起きており、当然それらは目付役である俺のところへ報告が入る。だが……俺が学寮へ介入することが出来るような酷い事件などはほぼ皆無。お前らの喧嘩のようにどうでもいい些細な揉め事やわけのわからん噂話は山程寄越されるが、そもそも俺にはそうしたものの虚実を明らかにする術や権限がない。おまけに時間もな。なにせ、学寮のえらい奴らや教師どもは、秀忠公のご家来である俺が学寮の生徒と直接関わることにはいい顔をしないのだ」
「……長員って、もしかして学寮の先生たちに嫌われてるの?」
僕は目を細めてじっと長員の顔を見つめたよ。自分の考えを心の中で自画自賛していた。
「まあ……そういうこっちゃ。学寮のおエラいさんは大御所さまのご家来が多い。そもそも学寮を拵えたんが大御所さまやからな。俺は将軍さまのご家来やから、またすこーし派閥が違うんや」
派閥ね……派閥。大人の世界は色々と複雑だ。
そもそもそんなものがあったせいで、大阪の豊臣家は内部の対立が起きて斜陽になったのだろうに、こうして天下を治めることになった徳川の家の中にもそうしたものがあるなんてね。
「お前は学寮の中にいるのだから、学寮の中を好きに見聞き出来るだろう。おまけに学寮の生徒でもあるのだから、生徒にも色々な話が聞けるはず。学寮の中で伝え広まるよからぬ《噂》の虚実を明らかにして欲しいのだ」
「噂ねえ……噂を確かめるの? 僕が?」
僕は長員の話を聞きながら、思い切り大きな口でおまんじゅうにかぶりついた。
「いいか? 千徳。大火を防ぐにはまず小さな火事を起こさぬようにすることが重要なのだ。そのためには、火の気配に敏感でなければいけない。噂がただのどうでもいい与太話であればそれに越したことはないが、何か大きな事件の前触れということもある。耐火を防ぐには、まず小さな火種を確実に潰さねば」
「つまり、それを……僕がやるわけ? 事件になりそうな揉め事を潰すってこと?」
ようやく完全におまんじゅうを食べ終えて、僕は言葉を続けたよ。
「まあね……僕は上杉の若さまだからさ? 困って頼ってくる人間を見捨ててはおけないって気持ちは、もちろんあるけど……」
確かにその通りだよ。
謙信公は困っている人の為に戦ったりすることを《義》とする人だったのさ。
だけど、なーんか僕はスッキリしなかった。たぶん長員の奴がずうっとニヤニヤと笑っているせいだろうと思う。
「そうだろうそうだろう。さすがお前は上杉家の若さま。叔父上にも、将軍さまにもそうと認められただけのことはある」
長員は楽しそうに目を細めて、手に持った扇子で畳をたたいた。
「さて、困った俺のためにぞんぶんに働いてくれ。何せ学寮の生徒どもはウワサ好きと見えて、よからぬ話がゴロゴロしているからな! もちろん、どうでもいいようなくだらない揉め事はお前が適当に解決してくれても構わんぞ」
結局、長員のために働くことになるんじゃないか!
僕はもうおまんじゅうは全部食べてやることに決めて、最後の一つも口に運んだ。
「どうでもいいけどさあ、こき使うだけこき使っておいて、まさかタダ働きってことはないだろうね? 僕は謙信公じゃあないんだから、そういうのはキッチリするよ。なにせ今の上杉家はちょー貧乏なんだからね! どこかの誰かさんが言う通り、うちの家は大御所様にケンカ売ったせいですっかり斜陽なんだから!」
僕は「ちょー」の部分に特に力を込めた。
本当だよ……今の上杉家は……とにかく、ちょーーーーー貧乏なのだ!
たぶん、謙信公が生きてたら目ん玉が飛び出るくらいに!
それはまあ、つまり……長員が言うように、僕の父上が家康さまにケンカ売ったり買ったりしたのが原因だけれども。
「……はいはいはいはい、けち臭い奴め。謙信公はなあ、私利私欲のためには戦なんぞせんかったんやぞ。戦働きに見返りなんぞ求めんかったわい」
「私利私欲のためじゃないじゃん! 僕は長員のために手伝うんじゃん! ばかじゃないの!? 僕が仕事をしたらそのたびに長員には報告を入れて、きっちり見返りをもらうから! 絶対に!」
長員は金にがめつい守銭奴だと父上がいつだったか僕に言っていた。損か得かで物事を考える人間なんだって。そんなんだから上杉の家とは合わなくて出奔したんだよねえ、きっと。
そういう奴にはタダ働きなんて絶対してはいけないのさ。奴隷のようにこき使われるに決まってるもん!
「噂、か……よし、これは大変なことになったぞ!」
争いはどこにでもある――学寮へ来る時、父上が僕にそう言った。
争いはどこにでもある。
人と人との間に、己と自分との間にも。
そうしたものを火事と長員が呼ぶのなら、確かに火消しが必要だろう。
争いが大きくなって、すわまた戦――なんてことになったら大変だもの。
暇を持て余しているらしい父上には悪いけど、なにせ今の上杉家は超が付くほどに貧乏なのだ。矢銭に回す金があるとは思えないので、戦なんてとんでもない。
戦ってむちゃくちゃ金が掛かるんだから!
僕は何度も「仕事をしたらお駄賃は絶対もらう!」という念を推して長員を見送った。本当は紙に念書でも書かせかったくらいだけど、それはさすがに許してあげた。あれでもいちおう従兄弟だからね。
「ふうーん……噂ねえ。そういやさっき、おいら客間の外で聞いちゃったよ」
長員を見送った帰り道、僕が長員とのやり取りを一通り教えてあげると火車が驚くようなことを言った。
「聞いたって、何を?」
「何をって、噂さ。そういうものを調べるんだろ、お前。さっき客間の庭の外で普段はここじゃ見たこともない姫さまたちがやいのやいの騒いでいたよ。女ってのはほんと姦しいよな。お前のかーちゃんもすげーお喋りだったぞ」
姫様――その言葉に僕は我に返った。
大変だよ! 今日の午後は大事な授業の日だった。慌てて僕は西の丸の大庭へ急ぐ。
大事な授業――それは近い将来、藩主となった僕らが嫁を娶って上手くやれるようにおなごと仲良くなるという名目で行われるもので、《交流会》なんて呼ばれていた。
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