5位から1位まで
時間の経つのは早いものですね。番組も後半に差し掛ってまいりました。“金曲排行傍”第5位にはどのような作品が入っているでしょう。
別後不知君遠近、触目凄涼多少悶。
斬行斬遠斬無書、水闊魚況何處問。
夜声風竹敲秋韻、万葉千声皆是恨。
故敧単枕夢中尋、夢又不成燈又燼。
(別れた後、君は何処に居るのか知らない、目に触れるのは寂しさと胸の痛み。次第に便りもないほど遠ざかっていき大海を泳ぐ魚に居所を聞きたい。夜に聞こえる風竹の音は秋の声、全ての音は皆恨みに聞こえる。それゆえ枕を傾け夢に尋ねてみたが、夢も叶わず燈
も尽きてしまった。)
玉楼春スタイルのこの詞は、一般の別れをテ-マとした韻文とは異なった趣きがあります。作者は唐宋八大家の一人でもある欧陽永叔先生、本名は欧陽修といいます。
― 永叔先生、ごきげんよう。
「你好!」
― 先生は文学の世界のみならず、政治の世界はもとより学術の分野でも素晴らしい業績を残されました。
「子瞻には及ばないよ。」
― 東坡先生ですね。
「彼の科挙試験の答案を見たとき、この青年が順調に出世して行けば、わしの出る幕もないと思ったものだ。」
― 欧陽先生が試験官をなさっていた時の受験生だったのですね、
東坡先生は。でも東坡先生の官僚生活は不遇で、その能力を十分に発揮できませんでした。
「惜しいことよ。」
― ところで先生は、貧しい御家庭の出身と伺っています。子供の頃は荻の茎で地面に字を書いて勉強なさったそうですね。
「わしのような貧しい人々が幸福になれるような世の中を作るために政治を志したのだ。そのために、いろいろ手を尽くしたのだが、それが気にいらないという者がいて地方に飛ばされたこともあったよ。」
― 最後には宰相になられましたね。
「一応、政治は安定させたと思っているよ。」
― ところで、先生の作品には、唐代の文人・韓愈の雰囲気が感じられるといわれていますが。
「幼い頃、よく近所の金持ちの家に遊びにいって、そこの書庫の本を見せて貰ったのだが、その中に韓退之先生の文集があったのだ。一読しただけで、すっかり気に入ってしまい何度も繰り返して読んだのだ。そして退之先生の文を手本にして勉強を続けたのだ。
― 永叔先生の文章は後世に大きな影響を及ぼしました。
「それは、退之先生が優れていたという証拠だろう。」
― いろいろお話し下さりありがとうございました。
次は4位ですね。10位に続いて女性の作品が入っています。
去年元夜時、花市燈如昼。
月上柳梢頭、人約黄昏後。
今年元夜時、月與燈依旧。
不見去年人、涙湿春衫袖。
(去年の元宵節の夜は、花市の彩燈は昼のようで、月は柳の枝先に掛かり、黄昏後会おうと約束しましたね。去年の元宵節の夜も、月と彩燈は去年と同じだけれど、会う人は無く、ただ春節の晴れ着を涙で湿らすだけ)
哀しい内容ですね。生査子スタイルのこの詞の作者は朱淑真さんで銭塔(杭州)の御出身です。
- 幽棲(淑真の雅号)さん、ようこそお越し下さいました。
「お招きいただき嬉しく思います。あの……私の詞が、こんな上位に入ったのですか……?!」
- そうですよ。
「李漱玉さんの間違いではないですか。世評では漱玉さんの作品の方が優れていると言われているのですよ。」
- 10位の聶さんも同じようなことをおっしゃっていましたけど、今回の排行傍の10位内には漱玉さんは入りませんでした。後世の人々は幽棲さんや聶さんの詞の方を好まれているようですよ。
「まぁ……。」
- さて幽棲さんの実家は桃村の名家だそうですね。少女時代から詩を嗜んでいらっしゃったとか。
「はい。子供の頃から読書や作詩が好きで、新作が出来るたびに自慢げに周囲の大人たちに見せたものです。」
- そのたびに誉められ頭を撫でて貰ったりしたのでしょう。
「(笑)……。でも、こうした楽しい日々も結婚と同時に終止符が打たれました。」
- 結婚生活はうまくいかなかった……。
「ええ。実家とは、あまりにも違う婚家の生活に馴染めなかったのです。夫の価値観も理解できず、又、逆にこうした私を夫も婚家の人々も好ましくは思わなかったようです。」
- 鬱々とした日々を詩や詞を作ることで気を紛らわしていた…。
「はい。」
- こうした幽棲さんの作品に、同じような立場の女性たちからの申請(リクエスト)が数多く寄せられました……。朝鮮国の蘭雪軒(許楚姫)さんのものにはお手紙も添えられています。
「この方も不幸な結婚生活を送られたようですね。詩作だけが生活の唯一の糧なんて……。」
- 男女を問わず自分の意志で“結婚”出来るようになるまでには、まだ長い歳月が必要なんですね。
「でも、あなたの時代には、私たちのような女性はいないのでしょう?」
- はい。不幸な結婚生活を送り続けなくてはならないことは少なくなりました。
「いい時代になったのですね。」
- そうですね。ところで、幽棲さんの一族には、大学者の朱熹という方がいらっしゃるとか。
「遠縁にとても優秀で将来を嘱望されている少年がいるらしいのですが、その子のことかしら。」
- その少年が後日、中国だけでなく高麗や日本、安南(ベトナム)にまで影響を及ぼす偉人となるのですよ。
「まあ、そうですの? 一度会ってみたかったですわ(笑)」
- 今日はどうも有り難うございました。
「どういたしまして。」
さて、いよいよBest3の発表です。
寒蝉凄切、対長亭、驟雨初歇。
都門帳飲無緒、留恋處、蘭舟催発。
執手相看涙眼、竟無語凝噎。
念去去千里煙波、暮靄沈沈楚天闊。
多情自古傷離別、更那堪冷落清秋節。
今霄酒醒何處、楊柳岸、暁風残月。
此去経年、應是良辰好景虚設。
便縦有千種風情、更與何人説。
ひぐらしの声が切々とする長亭に、驟雨(ゆうだち)は止み、都の内で
「何ぃ~3位だって!! 新曲が出来るたびに教房の楽工たちがやってきては作詞を求めるこの柳永様が1位じゃないなんて何かの間違いじゃないのか!!」
― いいえ。ちゃんと申請(リクエスト)を集計した結果ですよ。
「ホントかよ。」
― これが集計表ですけど御覧になります?
「どれどれ。……この2人が1、2位か。これじゃ仕方ないな。」
― 納得いただけましたか?
「ああ。」
― では改めて御紹介しましょう。私たちが“相看涙眼”と呼んでいる雨淋鈴スタイルのこの詞の作者は、こちら柳耆卿さん。福建省崇安の出身で、最初は柳三変、あざなは景荘と名乗っていたそうですね。
「ああ。“三変”よりも“永”の方が格好いいだろう?」
― そうですね、音もいいですし。宋代№1作詞家の耆卿さんも当初は人並みに進士(科挙合格)を目指していたとか。
― うん。ちゃんと科挙も受けたんだぜ。だけど皇帝(仁宗)が儒雅を好まれたため、“作詞家”として有名になってしまった俺のことを嫌って落してしまったらしいんだ。あの時の答案、結構自信あったんだけどな。
― それを機に、もう二度と科挙を受けなくなったわけですか。
「まあね(笑)」
― 先程から官僚になられた方々のお話をいろいろ伺ってきましたが、苦労の連続だったようですよ。
「あちらはあちらで大変だったみたいだな。下手に官職に就くよりも一介の庶民として生きる方が考えようによっては良かったのかも知れないな。」
― 耆卿さんの詞は、宋国内ばかりでなく、西夏や金の人々にも広く口吟まれたと言うではありませんか。それゆえ、当時は一庶民に過ぎなかった耆卿さんの名前は後世にまで知られています。
「嬉しいような恥ずかしいような(笑)」
― 俗っぽい表現や言葉が多いため、士大夫層の支持は有りませんでしたけど内外の庶民層には人気がありましたよね。でも俗語を使いながらもそれなりの内容のものを作ることは難しいと思います。私たちの視点から見ると耆卿さんの作品は斬新さがあると思います。
「過分な評価だよ、それは。」
― いいえ。“詩は杜詩を学ぶべく、詞は柳詞を学ぶべし”と後日、評価されるのですよ。
「う~ん。」
― 又、民間でも清明節になると弔柳会のような催物が行なわれて耆卿さんのことを偲んだそうですよ。
「へぇ~。今日は嬉しい話たくさん聴かせてくれて有り難うな。」
― こちらこそ、わざわざお越しいただき感謝しています。
「金曲排行傍」残すところあと僅かになりました。それでは2位にまいりましょう。
無言独上西楼、月如鈎。
寂寞梧桐、深院鎖清秋。
剪不断、理還乱、是離愁。
別有一般滋味在心頭。
(黙って一人西楼に上ると、月は鈎のよう。寂しげな梧桐<あおぎり>が奥の庭に立つ姿は清らかな秋を閉じ込めているようようだ。断ち切ろうとしても切れない、整えても乱れてしまうのは別れの愁い。また一種の深い味わいが心に沸いてくる)
何と宋代以前の作品が入りました。「独上西楼」と後世名付けられた相見歓スタイルのこの詞の作者は李重光、本名は李煜という“南唐の後主”と呼ばれている方です。今回のBest10に入った中では一番身分の尊い方と言えるでしょう、何しろ廃されたとはいえ“皇帝”だったのですから。“南唐”という国名を聞いてもピンと来ない方も多いと思います。907年唐が滅びたのちの、いわゆる五代十国の中の政権の一つで、937年李冕によって建国されました。李後主はこの年生まれました。こうしてみますと李後主の生涯は、そのまま南唐(当時は大唐国と称していた)の興亡と背中合わせになっていたと言えるでしょう。後主の父親である中主(李璟)は政治面は今一つでしたが、容姿端麗で文学の才があり心優しい人物だったそうです。後主は、こうした父親の良い面、悪い面すべてを受け継いだようで、政治能力は皆無だったようですが、芸術方面には素晴らしい才能を見せました文学面に限っても宋代に盛んになり完成度を見せる“詞”の下地を築いたといっても過言でないでしょう。
そのためでしょうか、この作品以外の詞についてもたくさんのリクエストが寄せられ、20位内に2曲も入っています。複数の作品に、これだけ多くのリクエストが集まったのは李後主だけです。他の方々同様、後主にもこの場に御出で頂き、お話を伺いたかったのですが断られてしまいました。“亡国の君主”の負い目ゆえかも知れません。ただ歴史の記述とは往々にして勝者の視点からなされがちです。敗者の側にも言い分はあります。そうしたものは民間伝承や野史あるいは李後主のように文学作品として後世に伝えられて行くのでしょう。出演交渉をしたスタッフによりますと、自身の作品が時空を越えて人々に愛唱されていることに対し後主は驚かれましたが、すぐに喜ばれたそうです。
さて、いよいよ一位の発表です。栄光のこの座を得たのは、この作品です。
明月幾時有、把酒問青天。
不知天上宮闕、今夕是何年。
我欲乗風帰去、唯恐瓊楼玉宇、高處不勝寒。
起舞弄清影、何似在人間。
転朱閣、低綺戸、照無眠。
不応有恨、何事長向別時円。
人有悲歓離合、月有陰晴円欠、此事古難全。
但願人長久、千里共嬋娟。
(明月は何時から有る? 酒杯を把って青空に問うてみる。天上の宮殿は今宵は何年なのかは知らないけれど。私は風に乗って帰りたいけれど玉の屋根の瓊の楼は高い場所にあって寒くて堪らないだろう。私は立ち上がって舞う、その影は人間世界とは思えない。月の光は朱閣に移り綺戸に差し込み眠りを妨げる。月に悪意は無いだろうけれど、どうして別れの時ばかりに丸いのだろう。人には悲しみ歓び別れと出会いがあり、月にも満ち欠けがあって、昔から両者が合うことは難しい。ただ願うのは親しい人が元気でいることと千里彼方にいてもこの美しい月を共に愛でていることだけ)
私たちが「但願人長久」と呼ぶ水調歌頭スタイルのこの詞の作者は宋代いや中国史上最高の万能才人・蘇東坡先生です。本名を蘇軾とおっしゃる東坡先生については、皆さんよく御存知のことと思いますので、それらは省略してさっそくお話を伺ってみることにしましょう。
― 蘇東坡先生、您好!
「你好! まずは一杯召し上がりなさい。茶を飲みながら話そうじゃないか。」
― 東坡先生にお茶を煎れて頂くなんて、もったいないことです。
「そんなに硬くならんでも(笑)。味は如何かな?」
― 美味しいです。
「それはよかった。今回、わしの詩餘(詞)が光栄にも1位になったとか……。」
― はい、こんなにたくさんの申請(リクエスト)が寄せられているのですよ。この中には、高麗、安南、日本からのものも含まれています。
「ほぉ~、海の向こうの日本からも……。」
― ええ、彼の地でも先生の作品は人気があります。ただ、言葉の問題があるためか詞よりも詩の方が親しまれているようです。
「まぁ~詞は“詩の余り”というように、文学というよりは君たちの時代でいう“流行歌”みたいなものだからな。」
― でも先生は、こうした大衆文化を文学のレベルにまで高めたではないでいすか。その功績は大きいと思います。
「そうかな(笑)」
― ところで今回1位になった作品は内容から見ますと中秋節に作られたもののように見受けられますが?
「その通り。煕寧9年(1076年)、密州に赴任したときのことだ。中秋(旧8月15日)の夜、友人、知人を集めて宴会を開いたんだ。知っての通り、中秋の月は一年で一番明るく艶やかだろう?
― はい。
「その月を愛でながら酒を酌み交わして楽しく過ごしたのだが、時が経つにつれて弟・子由(蘇轍)のことが脳裏に浮かんできて……斉州にいる子由も同じように、この月を眺めているのかと思って、この詞を作ったのだ。」
― この詞の内容を見ますと李太白先生の詩世界を彷彿させるのですけれど……。
「最初の二句は、太白先生の“把酒問天”という詩の“青天有月来幾時、我欲停杯一問之”の部分を拝借し“起舞弄清影”の句も“月下独酌”を踏まえたものだ。」
― そして太白先生は謫仙(天上界から人間界に流された仙人)なので“我、風に乗りて帰り去るを欲するを”ということになるのですね。
「そういうことだ。」
― 前半は日本の和歌で言う“本歌取り”の手法を使われたわけですね。しかし後半になると先生の独自性が見事に発揮されますね。特に“何事長向別時円”以下の表現には深みが感じられます。この作品が発表された後からは、他の中秋を主題とした詞は全て廃ってしまい、先生の作品のみが長く歌われたといいます。
「王摩詰先生の陽関曲のようになったわけか……。」
― はい。これは先生よりも後の時代のことになりますが、“水滸伝”という長編物語が登場するのですが、その中にも先生のこの詞が歌われる場面があるそうです。
「わしは音楽が苦手で詞はそれほど巧いとは思わないのだが……。そういえば、以前、わしが翰林学士の職に就いていた頃、幕士に歌の上手なやつがいてな、ある日そいつに、こう聞いてみたんだ。わしの詞は柳七(柳永)の詞と比べてどうだと。すると“柳さんの詞は17~8の娘がか細い声で歌うのが相応しく、先生の詞は大男が太いダミ声で歌うのが相応しいです”と答えたんだ。あの時は大笑いしたものだ(笑)。」
― それは先生の作品が柳さんの詞と比べ豪放だということではありませんか? 念奴橋スタイルの“赤壁懐古”などは、これまでの詞には見られない内容で、優美主流の詞の世界に新風を吹き込んだと言っても過言ではないでしょう。
「それは少し大げさではないか。」
― いいえ。先生のお弟子の履常(陳師道)さんは“詩を以て詞となした”評価していますし、文譛(張耒)さんも“先生の詞は詩に似たり”と言っています。
「今度、彼らに会ったら御馳走しなければならないな(笑)。」
― まだまだ伺いたいことは山ほどあるのですが、残り時間が無くなってしまいましたので、残念ですが今日はこのへんで失礼しなくてはなりません。先生、今日は楽しいお話しを聞かせて戴き有り難うございました。
「礼には及ばぬよ。」
宋代のヒット曲を満載した今日の「金曲排行傍」お楽しみ頂けましたか?
次回は朝鮮国漢陽よりお送りする予定です。リクエストの方も引き続き受け付けておりますので、どしどしお寄せ下さいね。
それでは皆様ごきげんよう、再見!
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