いつかは狭かった私たちの
体が消えた。温い風を顔に感じるのに首から下は何も感じない、拍動も温度も何もかも。
始めは体が浮かんでいくようで体重が消えていく感覚があった。今はそれさえない。昔どこかで読んだ小説で、首だけの男が出てきたのを思い出す。
「顔はどこだ?」
不安になってそう呟いたら、口から歯が零れてきた。
「うわあうわあ」
現実でこんなことを言うとは思わなかった。
「飴ですよこれ」
「え? ほんとだ」
妻が指差した方を見ると。溶けかけた白い飴が転がっていた。寝る前に舐めていたのか。
喉を痛めていたのを思い出すと、急に咳が込み上げてきた。
「お医者様に行かないからです」
「お前が居るから…」
「私は看護婦じゃありません。妻を前時代的な思想で扱わないでください」
ぴしゃりと言い切って妻は部屋を出ていく。
「どこにいくの?」
「自室です。うつされたくないので」
「ここワンルームだよ」
「知ってます」
妻が部屋を後にすると、この空間が元のだだっ広さを取り戻した。人がいるかいないかで、こんなにも印象が違うとは。
急にむせた。咳き込むのが落ち着くと、ある句を思い出した。
「咳をしても一人、か。誰が詠んだんだっけ、香苗」
「そんなこと知りません」と自分が答えていたのに気付いた。妻ならきっとこう答えていたから。
「咳をしても一人」
「咳をしても一人」
妻を探して、棚の上にいることを思い出した。古ぼけた写真の妻が、笑顔でどこかを見ている。
「なあ、誰が詠んだんだ」
部屋では知らない人の咳が聞こえる。
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