冬の檻
コロは毎日、俺の部屋で起きて、俺の部屋で眠る。
ひとりで眠るには巨大すぎる馬鹿馬鹿しいような天蓋つきベッドと、壁、そのあいだに不自然なスペースを取って、そこにコロのケージが嵌まっているといった格好だ。
もう、二十年前のことだ。幼稚園児だったころに、ばあさんにしつこくペットをねだったことはよく覚えている。幼稚園の友だちがペットを飼っていてほしくなったとかペットのことを自慢していて悔しかったとか、まあ、もうはっきりと覚えてもいないような理由だった。
ばあさんは、あのころから厳しいひとだった。態度こそ柔らかいが、子どもだった俺にも容赦がなかった。面倒を俺が自分で見られるのかどうか、なんどもなんども、わざわざばあさんの暮らしている別館の和室で、面談までされた。俺は子どもなりに必死だったのだと思う。僕が面倒を見る、と言い張った。
四回めだか五回めだかの面接のとき、ばあさんはついに言った。
『……未来が真剣であれば、それもまたよろしいでしょう』
じゃあ、と顔を輝かせる俺に、たしかに、こう続けた。
『飽きたからって、ポン、と捨てるわけにはいかないのですよ。飼うというのはそういうことですればね。未来に飼われた子は、未来がすべてになるのです。……ちょっと考えてみますればわかりますでしょうね。ペットというのは主人を愛し、主人に尽くし、主人によってのみ生きるのです』
『よってのみ、って?』
『未来がいなければ、ペットは生きていけないということです。死んでしまうのですよ。たとえば未来が餌をあげなければ、その子は檻のなかで弱っていくだけの運命でありますれば。飼うというのはねえ、未来、つまりは鎖につなぎ檻に閉じ込め生活のすべてを管理するということです、ペットの生涯を所有するということ。……捉えかたによってはとても、残酷なこと。それでも……飼いたいですか?』
『だいじょうぶ。僕、責任くらい持てるよ』
『一生、あなたが面倒を見るのですよ』
『うん。一生だったら、ずっといっしょにいれて、楽しいよ』
するとばあさんは――ふっ、と柔らかく笑ったのだった。
俺はなんもわかっちゃいなかった。責任、なんてつるりと耳ざわりのいいだけの言葉、覚えたてで難しそうな言葉で使ったらばあさんが喜ぶかなってくらいの子どもらしい小ずるい心がけで、まあつまりは媚びたというだけであって、一生だなんて言葉の意味さえもわかっていたわけもない、俺はあのとき五年間も生きていなかったのだから。
ばあさんはそのあと、俺にいろんなことを約束させた。
約束には、具体的なことも精神論的なことも、いろんなことがあったけれど、俺の部屋にペットのケージを置くこともしっかり入っていた。
だから、ってわけでもないのだが……まあ。俺は、幼児のときに不用意にばあさんと交わした約束のせいにするしか、コロを、この部屋に置き続けることがうまく自分に言いわけできない。ばあさんとの約束だし、ということにはじまり、言いわけは、いくらでも続けることができる。コロも環境が変われば不安だろう。この部屋以外にコロの大きなケージを置く場所がうまく思いつかない。ほかの家族の部屋に置いたら申しわけないし。コロは俺のペットなのだし。
俺だってコロをこの部屋から追い出したいとは思えない。……それは、嫌なんだ、ほんとのことを言うのならば。
でもこうやって毎晩毎晩、おなじ部屋に寝起きするというのは、それはそれできついものがある。……ケージに入っているのはコロのほうであるはずなのに、俺は、まるで自分のほうが檻のなかに閉じ込めれているような気持ちにさえ、なる。
目をかすかに開ければ、オレンジがかった電球の色を受けて、ぼんやりとケージが浮かび上がってくる。
枕もとのデジタル時計を見れば、すでに日づけは越えている。深夜だ。
俺はもともと寝つきが悪い性質なのだが、このごろはとくにひどい。生活に差し支えるから、もっとちゃんと眠りたいのだが。
コロは寝返り以外は静かに眠るから、眠っているのかどうかいまここからではよくわからない。
俺は横になったままもぞもぞと右のほうに寄ると、手を伸ばした。
冬の夜の鉄格子の冷たさがひんやりと手のひらに染みる。……ほらやっぱり、俺は、自分のほうが閉じ込められていて、どうしようもなく鉄格子を掴んでいるような、そんな気さえもしてくるのだ。
「……なあ」
そう言って、鉄格子を軽く揺らす。
もぞり、と気配がした。
「……ん、んぅ……ご主人さま? ……どうしたんですか? また、眠れないんですか?」
どうやら寝ていたみたいだ。コロは起き抜けの声がいちばんしっとりしてる。……人間らしい、声をしている。それもまるで俺よりもお姉さんであるかのような声。……じっさい、おなじ年に生まれているが、俺は秋生まれで、コロは春生まれだ。……そんなことこの歳になって関係あるのかどうかもわからんが。
「……ん。なんか、目ぇ冴えちゃってさ」
「このごろ多いですねえ……ご主人さまは大変なのです」
目が覚めるにつれ、犬らしい無邪気さとでもいうような声の明るさを取り戻してくるが、でも、それだってどれだけつくっているのかと――思う。たとえ、自覚していても無自覚であっても。
コロはまだとても幼いころは自分が犬だということを全身全霊、身体も心もすべて全力で、拒否していた。いつもいつも泣いていたし、わたしは人間です、といつも泣きじゃくって主張していた。いまよりも厳しいしつけで、食事を抜かれたり外に出されても、コロは泣いて泣いて泣きじゃくって、それでも人間であろうとしていた。
けれども何年か経つとだんだん落ち着いてきて、十歳を越えるころにはもう、犬らしいふるまいをするようになっていた。みずから、進んで。
そういうもん、なんだと。……ばあさんも使用人たちもみんな言うから、いや違う、コロがあまりにも自然に犬として成長していったから、俺は、犬というのも最初はペットであることに抵抗を示すのかなとか、動物にも反抗期みたいなのはあるんだなとか、そういうもんなんだと――思っていたのだけれど。
そういうことではなかったと知ったいま。
……それはいかほどの地獄であったのかと、いまになって思う。
思うことしか、できない……その内心に思いを馳せるには、俺にとってあまりにもあまりにも、恐ろしい事実だった。……勝手すぎるとは思う、けど。
そもそもどうしてこいつは俺のペットになったのか――俺のペットとして、生きることになったのか。俺が五歳の誕生日プレゼントとして予告もなく差し出されたのは、泣き疲れたようにすんすん鼻を鳴らした、首輪をつけた――五歳の、コロだったのだ。
……わからない。ほんとうに。俺には、わからないことが……多すぎる。
「……ご主人さま?」
カタン、と鉄格子が鳴る。コロはケージのなかで膝立ちしたらしく、その手が鉄格子に伸びている。ケージの高さはおとなの背丈になったコロが膝立ちすればめいっぱいだし、手には犬の前足を模したグローブが嵌められている。トントン、とその手で鉄格子を叩いた。
「ぎゅ、ってしてますよ。お顔」
コロは微笑んでくれる。おそらくは、俺が安心できるようにと。
顔はすぐそばに、あるんだ、……きっと鉄格子さえなければすぐにその頬にふれられるほど、なのに。
「眠れないなら、コロでよければ、コロと遊んでください。コロはご主人さまと遊ぶの、とっても好きで楽しくて、ふわふわしちゃうのですよ」
「……いや。やっぱ、いい」
俺はわざとぶっきらぼうに言うと、ごろりと背を向けた。
……遊びたく、というか、コロと過ごしたくないなんてわけない、俺がなんのために、外でのつきあいを必要最小限にしてるのかということだ。……コロといたい。それだけ、だ。
けれどもいまコロをケージから出したら、その頭でも首でもどこでもコロが犬らしく無防備に求めるがままにふれてしまったら、それこそ――俺はなにをしでかすか、わからない。
俺はなんども体勢を変える。
もそもそとケージからも気配がする。
ふとんも巻き込んで丸めた俺の背中に、声がかかる。
「……でも、ご主人さま、眠くないんですよね」
「眠くないんじゃない。寝られないんだ」
「おんなじじゃないんですか?」
「違う」
「……じゃあコロと遊ぶの、嫌になっちゃったんですか?」
「違う。断じて違う」
えへへっ、とコロの笑い声。ほんとうに嬉しそうな、笑い声。
「よかった。コロはご主人さまに嫌われたら、生きていけないですもん」
俺はがばりとおおげさに右がわを向いた。
コロはケージに両手を当てて、にこにこと俺を見つめていた。
――ああもうこいつはほんとにひとの気も知らないで。
「寝れないんだよ。……寝れないんだ」
俺は、自分が、情けないと思う。
コロの飼い主としてって、むかしは思い込んでいたけれど、いまはとても――男として、情けないなって……わかってる。わかってはいるんだよ。
じゃあ、じゃあ、だったらどうすればいいっていうんだ。
コロを連れて駆け落ちでもするか? 馬鹿らしい。俺は天王寺家の後継ぎであるからいまこの生活をしているわけで、この家を出て、ましてや俺は院生の身だ、コロとふたりでこの家を出て、どう暮らすというのだ。言うまでもないが、コロが昼間稼いでくる収入に頼るのはありえない。コロはじつはもろもろの能力がかなり高かったらしく、それなりに稼いでいるみたいではあるが、そういう問題ではない。
ばあさんに事情を説明して、わかってもらうか。無理だ。そんなこといままでだってなんどもやったし、そのたび俺は厳しく叱られて、食事抜きとか外に立たされると俺もかそういう体罰を食らった。でもそんなのコロのほうがもっとひどいことをもっとたくさんやられているはずなのに、やっと俺が家に入れてもらえたとき、コロはまっさきに勢いよく飛びついてきて、だいじょぶですかだいじょぶですかと言いながら、俺の手だの頬だの舐めていた。だからつまりばあさまに下手に逆らうと、コロがいちばん悲しむ結果を招きうる。
じゃあ、まずはコロ本人に話をするか。おまえは犬じゃないんだよって。ほんとうは人間なんだけど、なんの事情か知らないが、犬として育てられてしまっただけなんだよって。
……言えない。そんなの言えるわけないじゃないか。
だって――コロはどれほどの思いをして、人間であることを、諦めたんだよ。
どうすれば、どれだけ過酷な思いをすれば、ただの人間がこんなにも、ただの犬みたいに――なれるというんだよ。
いまさら、気づかせてしまえば……そのこころさえも、壊れるのが、怖い。
いや。違う。
俺はずるい。
俺がコロにとってコロの飼い主でなくなったら、コロが、俺から――離れていってしまうんじゃないかって……怖いだけ。
コロはまったき被害者だが、俺は、被害者ではない。……ばあさんのせいになんか、できない、いや正直ばあさんのせいにしてしまうときもあるけれども、ほんとうはたぶん、コロにとっていちばんの加害者は、きっと間違いなく、俺だ。
コロをしつけたのは――しつけという言葉を武器にして、コロをいいように扱ってきたのは、俺。
俺はいままでなんど、なんどしつけと思ってしつけと言って、コロに暴力を振るった? 幼稚園のころの泣き喚くコロを、小学生のときの犬のふりがまだ下手だったコロを、中学高校の時代にもなれば犬らしくなってきたなどと思っていて、でもなんとなくかわいく育ちすぎたのが不満で、思春期の欲望も欲求もただの八つ当たり、お互い大学に進んだら、そしてコロが仕事をはじめたら、コロの帰りが遅いだのだれが人間ごっこさせてやってると思ってるなどと言って、なんど、なんど、俺よりもきっと、コロのほうが、そんなのは覚えているはずで……。
コロは俺を殺したいほど憎んでいても仕方ないのだ。……それほどの罪を俺は滑稽にも、ほかでもない自分の手で、この二十間せっせと積み上げたのだ。
いちばん、いちばん、慈しまなければいけなかったはずの相手をただ――傷つけ続けた。
そしていまもなお――俺は自分が嫌われたくないと、ただ、ただ、それだけのために、コロに真実を告げられない。
コロが真実に気づいて、俺に失望して、自分に絶望してしまうようなことがあったら、と。
二本足で人間としてぴんと立って、俺のもとから歩き去っていってしまうかもしれないと思うと――。
俺は、ただ、俺のエゴのためだけに……コロを、地獄から引きずり上げることができない。
気づけば俺は、こめかみに手を当てていた。
かしゃり、と、鉄格子なのに優しい音がする。
「……ご主人さま、コロを見てください」
俺は薄く目を開ける。
そのおもちゃみたいなグローブを嵌められているから鉄格子から指を出すことさえもかなわないのに、どうにかして俺にふれようとするかのように、かしゃりかしゃりと、手を当て続ける。
「ご主人さまはこのごろつらそうなのです」
どこかからかうような声で、でも、けっしてペットとしての一線は越えない声色。
「ご主人さまはきっとつらいこともたくさんあるのですね」
そんなの、そんなのは、――おまえほどじゃない、ぜったい、けっして……。
それに……おまえのほうが、大変なはずなんだよ、平日五日間、朝から夕方まで働いてるじゃないか、社会人として立派に。家ではいまだに犬として生きることを強いられているのに、ごっこだなんて言いながらも、きちんと社会人としての役割も果たしている。俺のほうがよっぽど苦労していないんだ。大学院に行くのは天王寺家の後継ぎとしてふさわしいだなんて、ばあさんの言うことをそういうことにしておいて、ただなんとなくで、院に行くのでもちゃんと目的意識があるやつらとは違って、ただそれなりにできるからというだけでそれなりに好きな研究をして、それだけの――俺とは。
「ねえ、ご主人さま、コロがいますよ。コロは犬だから、なにもできないですけど……でもコロは犬だから、コロは、ご主人さまが帰ってくるところに、いつもいますよ。ご主人さまに遊んでもらったり、なでなでしてもらったり、こうやっていっしょに過ごせるのが、とっても大好きなのです」
鉄格子のぎりぎりのところで、顔をくっつける。幼いころからたしかに顔立ちは整っていたけれど、……コロは信じられないほどの美人になった。
「ペットっていうのは、そういうものですよ。コロはご主人さまとこうやっていっしょにいられることだけが、いちばんの、たったひとつのしあわせなのです」
コロは、笑っている。きれいな顔をくしゃりとさせて。
俺はどうしようもなくて、撫でるだけ、ただひと撫でするだけだと――俺は、鉄格子の隙間に指を入れた。この鉄格子は、指が二本入るほどの隙間はある。……コロはその手を差し出すことができずとも、俺は、鉄格子越しにコロを撫でることができる。
コロは気持ちよさそうに目を細めて、えへへっ、とくすぐったそうに笑う。
ほんとうに、ほんとうに、嬉しそうで。
俺が、ほかでもない俺が地獄に突き落としたこのひとは、いつのまにか、こんなにも満ち足りたように笑うことを――覚えていた。
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