あるいは、あたしも

 おみやげの袋を片手に、真のアパートに着いたときには、まだ夕方の四時過ぎだった。合鍵を差し込むなんて簡単なことも、なんどか失敗した。



 あたしは、ふら、ふら、と短い廊下をふらつきながら歩いて、ワンルームの背の低いソファに、倒れ込んだ。


 まことはいない。いまはバイトの時間だ。六時過ぎには帰ってくるはずだけど。



 小さくてボロくて、あたしが片づけてあげないとゴミだらけで、真のにおいが染みついてるこの部屋。もう二年近くつきあってる彼氏の部屋だけど、あたしにはよそよそしかった。けどあたしは、はじめて、帰ってきた、と思った。


 電気をつけなくても、まだ明るい。ちら、ちら、と埃が舞っている。……こんなの、じっくりと見てみたこともなかったな。

 埃なのに、ちょっときれいかも。埃って、ひらがなにすれば誇りとおなじだけど、なんか関係はあるのかな。


 どうでもいいけど。




 ……なんだったんだろう。


 天王寺公子。嫌な同僚。

 公子さん。意外とひと懐っこいあのひと。

 そして――コロ?



 秘密、っていってもまだ、足りない気がする。

 あたしにわかることはそんなにない。あたしは、頭がそんなによくない。


 でも、感じることくらいならできるんだよ。

 公子さんには悪いと思うけど。




 ――気持ち悪かった。




 人間が犬のふりをするのは、だって、そう思っても仕方ないよ……。






 あたしは、ぐるぐるぐるぐると、さっきのことを、繰り返し頭のなかで再生した。なんど再生しても、気持ち悪さはなくなるどころか増えていく。



 ピーンポーンパーンポーン……。



 自宅の自治体とは違う五時のチャイムで、われに返った。


 ごはん……つくんなきゃ。真の家に来たときはあたしが料理をしなくちゃいけない。ちゃんとやらないと、真は怒る。暴れちゃうし、最後は光熱費とか水道代とかの話になっちゃう。あたしがお邪魔してるぶんそういう出費が増えるのに、あたしに要求しないんだから、家事くらいちゃんとやれって、いつもそう言う。

 あたしは廊下にくっついている台所に立って、料理をはじめる。ありあわせだけど、真はお肉を食べてればご機嫌だから……。



 ……真とあたしは、これからどうなるんだろう。


 あたしの収入なんてたいしたことないし、真は早いうちにもっと条件のいい仕事を探してフリーターやめるって言ってるけど、たぶんそれはつきあう前、真があたしを口説いていたころからそう言ってる。真は生活費のことを一円単位でいつもあたしに言うし、あたしは単純作業の単純労働をしてるから、稼いでいくのは難しいんだって。だから、家事をやれって。


 優しいときには、優しいんだけど。大好きだよって言って、髪も撫でてくれるし。……夜は、やることやり終わると背中向けてすぐに寝ちゃうけど。


 ……暴力、ってほどじゃないと思うんだけど、ときどき叩かれたりするし。



 あたしは、そんなに頭がよくないんだって真は言う。俺の言うことに従ってればぜんぶうまくいくんだって真は言う。




 シュウウウ……。




「あっ」




 お鍋が噴きこぼれていて、あわてて火を止めた。

 ……危ない。ふだんはさすがに、ここまで初歩的なミスはしないのに。



 そんな感じで、いつもよりもさらに不器用だったけど、どうにか、野菜炒めとお味噌汁を仕上げた。野菜炒め、っていっても肉ばかりだ。そういう料理ってなんていうんだろ。真に訊いたら、たぶんまた馬鹿にされるしなあ。


 ほかにも、食器洗ったり掃除機かけたりしているうちに、真が帰ってきた。あたしは、玄関で出迎える。


「おかえり」


 真はあたしにコートを渡しながら、お鍋のなかを覗き込むようにして背伸びする。


「おっ。うまそうじゃーん」


 あたしは、コートをハンガーにかけながら笑う。


「牛肉がたくさんあったから。もったいなかったし」

 コートをかけて、お料理を出す準備をしようと台所の前にもういちど立ったら、唐突に、後ろから抱きしめられる。

「疲れたよー、美姫みき


 声はとても近くて。

 ……あたしは、このひとのにおいが、嫌いじゃないけど。


 ぎゅっ、とその力は強まる。


「……いつも真はがんばってるもんね」

「そう言ってくれんのなんて美姫だけだ……みきぃー、好きだよー」

「あたしも、真のこと好き」

「ほんと?」

「ほんと」


 そのまま、すこしのあいだ、キスをした。

 そのあと、部屋に戻った真は、声を上げた。


「うーわっ、なんだよこれ。高級菓子じゃん」


 説明しないし、報告しないし、なにも悟らせない。

 ……秘密というにも、大きすぎることだから。


「うん、そうなの。友だちの家にちょっと行って」

「へーえ。金持ちな友だちがいるんだな」

「食べていいよ。あたし、どうせあんこそんな好きじゃないし」


 あたしは頭がよくないって真は言うし、じっさいそうだけど。

 でも、真は、あたしが隠しごとできるってこと知らないんだろうな、とも思う。

 あたしが料理をお皿に盛りつけているあいだ、部屋からはビリビリと包装紙を破る音がする。続いて、箱をパカリと開ける音――。



「えっ? はっ? う、うわっ、なんだ、なんだよこれっ……おい美姫、なんだよこれ! やべえんじゃないか、これ!」

「……え?」



 慌てて真のそばにしゃがみ込んでみれば、そこには、ぱっかりと開いた老舗和菓子店の大きな詰め合わせがあった。

 ただ、入っていたのはお菓子だけじゃなかった。

 札束。それも、ぎっしりと。



 あたしは思わず手で口を覆った。

 そっか。

 ――口止めってことだったんだ。



「な、なんだよこれ……い、いいのか? こ、これ、おまえのか、俺らのものなのかよ。ってかほんものか? 偽札じゃねえよな、こ、こういうのって透かしたほうがいいのか? やべえ金じゃねえだろな? 変なやつとつきあってねえよな?」

「違う……」


 変なやつ……だったけど。


「違うよ……そういうんじゃないよ。ねえ、真……」


 公子さんに舐められたあたしの素足。

 あのひとの舌、ぜんぜん、滑らかじゃなかった。

 そんなこと知って……どうなるっていうんだろう。あのひとは、あたしの……同僚、なのに。


「真、あのね……世のなかって、変なこと、たくさんあるの……」

「んなことよりさ、どうすんだこの金。自由に使っていいのか?」

「わかんない……」

「わかんない、じゃなくてさ! 頼むよ、だいじなときなんだからしっかりしろよ! これ何年遊んで暮らせんだよ? なあ! ……これさあ、数えてみていいか?」


 あたしがなにか言う前に、真は札束に飛びつくようにして手を伸ばした。

 あたしはそんな真を見て、思った。




 ……気持ち悪いなあ。


 公子さんも、そうだったけど。

 そっか、このひとも、そうなんだなあ……。




 あたしも、札束に手を伸ばす。ゆっくりと。



「おっ? なんだ? 俺たちの未来に貢献する気になったか?」



 あたしは、微笑んだ。

 そして――札束で、思いっきりその頬を叩いてやった。




 わかる。もう、わかってる。

 あたしはこのあと怒鳴られる。真の眉間は、すぐにぎゅっと歪むはず。

 情緒不安定とか、ヒステリーとか……なんだって、どうでも、いいんだけど……。



 自分のなかに涙の芽が生まれている。



 おかしいっていうけれど。


 真に、こんな男に、こんなところに、すがりつくしかないあたしだってきっとおかしいんだよね。




 だからもしかして、あたしも、気持ち悪いのかもしれないなって――あたしは、はじめてそう思った。

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