やばい話
駅に入って改札をくぐってホームに降りて、不自然でない程度の早足で。早く帰りたいのだ。それは天王寺さんもおなじだろうし、うん、だからこれでいいんだ、むしろこういうのも社会人の気づかいってやつで。
さっきのカフェおしゃれでしたねとかケーキおいしかったですねクリームたっぷりで、とか、生クリーム以上に甘いだけで生クリームよりも意味のない会話を、互いに曖昧な笑顔のままどこか必死で繰り返す。
真冬のころほど嫌じゃないけれど、それでも、春の夕方はひたひたと足もとから這い上がってくるような気がして、どうも苦手だ。この感覚を感じるといつも、帰ろう、と思ってしまう。
帰りの電車は天王寺さんとふたりだけになってしまった。同期のみなさんはお茶だけではなくこれから飲みに繰り出すそうで。元気なことだ。
べつに誘われなかったわけじゃない。行こうよ! とは言われたけれど、お断りした。べつに嫌われてるわけでもない、と思う。ハブらてるわけでもないだろうし。なんだけどあたしは、いまだに、どうしても馴染めない。同期だし、向こうはタメ語なのに、四月になればまるまる二年のつきあいだというのに、あたしは同期に対してもどうしても敬語が抜けない。……天王寺さんはもともとああいうキャラだからずっと敬語でもいいのかもしれないけど。
まあ。同期だから、ってわけでも、ないんだろうな。高校とか大学でも、ずっとこんな感じだった。あたしがどこかにうまく馴染めたためしなど、ない。
あたしと天王寺さんは、並んで電車を待っている。ピンク色の春の夕暮れ。
「電車」
言われて、ふっとその顔を見る。
「須藤さんは、電車、こっちでいいんですか?」
やっぱりすごい美人だなって思った。それなのにこうやって気をつかってくれるから、女性社員からもそんなには嫌われないんだろうな。
「……だいじょぶです。天王寺さんは」
「こっちの方面でだいじょうぶです。わたしはけっこう先まで乗りますが、須藤さんはどちらまでですか?」
「……あたしは、四駅乗れば乗り換えなんで」
そうですか、と天王寺さんが言う。そのときちょうど春の風がふうっと吹いて、天王寺さんの長い黒髪を揺らす。艶やかで嘘みたいにきれいな髪だと思うけど、その長さはちょっと異様でもある。腰のあたりまであるんだから。
社会人になれば、髪が長ければふつうは結ぶか切るかするものなのに、天王寺さんはいつも堂々とその髪を垂らしている。風が吹いても眩しそうに目を細めて、ついでのように頭にそっと手を添えるだけだ。……そのときの表情がなんかまたあたしは、気に食わなくて。なにさまだよって。そんなつもりはないんだろうけど、でも、風に吹かれて髪が乱れたらもっとちゃんと直そうとするもんじゃない?
「天王寺さんは、」
気がつけばあたしは言っていた。
「むかしからそんな、髪、長いんですか?」
「髪、ですか?」
きょとんとされた。
「そうです髪、きれいだから」
「ああうん、ありがとうございます。そうですね。切ったことはあまりないなあ。ずっとこのくらいの長さですね」
「なにかこだわりがあって?」
「いえ、わたしはべつにこだわらないんですけど。そういうことになってるんで」
「そういうことに、なってる?」
「うん。そうなんです。そういうことに、なってるんです」
アナウンス。まもなく二番線に、電車がまいります……
「それって……どういうことですか?」
「わたしにはご主人さまがいまして、」
がああっ、と電車が大きな音とともに、ホームに滑り込んでくる。
だからなにかの聞き間違いだと思った。
電車到着を知らせる能天気な音楽。到着した電車にふたりで乗り込む。ふたりで並んで座れる席も空いてはいたが、あたしたちは邪魔にならないように内がわに入りつつ、吊り革に掴まった。こうして並ぶと天王寺さんはそれなりに背が高い。女にしたってあたしが低すぎるということもあるのだけど、でも、天王寺さんはなんとなく小さいイメージがあったから意外だ。
ふたたびアナウンスがあり、扉が閉まる。電車が、動き出す。
よく見ればそれなりの大きさがある天王寺さんの胸の、ちょっと下あたりを眺めながら、あたしは言う。
「……ご主人さま、って、どゆことですか?」
「そのまんまの意味です。飼い主ってことですね」
「……飼い主?」
「そうです。わたし、飼っていただいてるんです」
なんか……すごい単語が出てきたけど。もうあたしも子どもじゃないし、つまりそれって、そういうこと、だよね……たぶん。
仕事のひとにだってプライベートはあるんだし、そういうのは個人の自由だとは思うけど。
「……そういうの、あんまり大きな声で言わないほうがいいんじゃないですか。ここ、電車だし。……っていうか、だいじょぶなんですかそれ?」
「だいじょうぶ、って……なにがですか?」
天王寺さんはほんとうにきょとんとしている。
「だって……」
――ぜったい怪しいやつじゃん、それ。そういう趣味ってこと……だよね、つまり。
天王寺さんはなにもかもを見透かしたみたいに微笑む。
「だいじょうぶです。いかがわしいことはなにもないです。捨てられるはずだけだったわたしを、ご主人さまが拾ってくれて、ここまで拾ってくれたので、犬のわたしはずっと忠誠を誓うという、それだけのことですよ」
「……彼氏、とか、ではなく?」
「犬は主人とはそういうおつきあいはできないのです。異種族間交流になっちゃうので」
やばい……やつだ。やばいやつだと思う。ぜったいに。
あたしもひとのこと言えないかもしれないけれど――でも。
「……あの。天王寺さん。立ち入ったことかもしれないんですけど」
「はい。なんでも」
「――暴力とか、受けては……ないですよね?」
すると天王寺さんは、当然ですよ、と言って大きくうなずいた。
「そりゃあ、わたしがいけないことをすれば罰はありますよ」
「……え?」
「え?」
沈黙。
――だってそれって。
仕事ができるくせに天然のふりをしている嫌なヤツ、というイメージは、このたった数分間でみごとに消えていった。……たぶん、このひとって、
ほんとのほんとに変なんだと思う。
「――天王寺さんっ」
あたしはその両肩をがしっと掴んだ。ぐわんぐわんと回す。あーあーあー、と天王寺さんは控えめな音量の声を上げて楽しんでいるようだが、これはそういうアトラクションではない。
「これからそのひとのところに帰るんですか……」
「うん。そうですよ。それは帰らなければです」
「駄目ですよっ」
あたしのほうこそ声が大きい。わかってはいるけども。
「そんなのは、駄目じゃないですか」
「……須藤さん?」
きょとんとした目があたしを見ている。
「駄目ですよ、」
あたしの頭には、いま――あいつの顔がある。
ふだんは優しいのに、ちょっとしたことで手を上げてしまうようになった――あたしの彼氏、あたしにとっての、いちばん好きなひと。
「暴力を受けてるのに、声を出さないなんて……あたし、あたしは、あたしだって」
気がつけば電車内のひとたちがあたしを睨んでいる。
はっとして、手を離した。
「……すみません。あたし」
引かれてしまっただろうかと思ったが、天王寺さんは、んー、と言いながら頬を掻いて視線を斜め下に落として、なにかを考えている。そういえばこのひとは仕事はきっちりこなすのに、こういった癖みたいなものがすこし幼いし、なんというか本能がそのまんまみたいな感じで、ときどきびっくりする。
そして、うん、とうなずくとこう言った。
「わたしの話。聴いてくれますか? たとえば来週、お時間があれば、お茶なんかいかがですか? ……誤解も解きたいのです」
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