第2幕 NINPO映画騒動

   (1)


 京都東山山頂に、将軍塚と呼ばれる、お椀を伏せたような小高い山がある。

 すぐ隣には、東郷元帥のお手植えの松が一本そそり立っている。

 ここからは、京都市内が一望出来るために、恋人たちのデートスポットである。

 ここは、平安京を作った桓武天皇が、国家の安泰を願い、鎧、兜を埋めたと云われている。

 国家の一大事には、この山が鳴動すると云われている。

 昨年の五月に、竹松の清水社長が、泥酔して自宅に放火する騒ぎが起きた。

 通いのお手伝いの北野梅子が焼死する事件が起きた。

 梅子の墓は、この将軍塚のたもとにある。

 住職のお念仏を聞きながら白川は、今、竹松にも、鳴動が起きる胸騒ぎを感じていた。

 墓前には、白川を始め清水龍二、利之、嵐山、東山守、娘の桜子が参列していた。

 東山和夫は、「NINPО」の撮影のため、欠席していた。

 一同の周囲を五月の爽やかな風が、通り過ぎて行った。

 お経の後、一人ずつ墓前で手を合わせた。

 最後に、桜子がじっと長い間、手を合わせた。

 一同は、それを後ろから見守っていた。

 桜子が目を開けて、ゆっくりと立ち上がった。

「あれから一年かあ」

 と嵐山が呟いた。

「時の経つのは早いなあ」

 今度は東山が呟いた。

「皆さん、本日はお忙しい中、よく来て下さいました。本当に有難うございました」

 桜子は深々とお辞儀した。

「折角だから、見学しようか」

 嵐山の発案で、まず(将軍塚青龍殿)を見る。

 ここは、東山のふもとの、青蓮院の飛び地境内で、清水寺の十数倍はある、広い舞台が売り物であった。

「これはいい」

 眼下には、京都市内が見渡せた。

「梅子さんも、云い所で永遠の眠りについている」

 嵐山の言葉に、一同は、頷いた。

 次に、将軍塚の前に来た。

「国家の一大事には、ここが鳴動するって事か」

 リーフレットを読みながら、東山は云った。

「竹松の一大事には、どこも鳴動しなかったな」

 嵐山が一同を見渡しながら云った。

「きっと、それほどの一大事ではなかった事ですかな」

 東山は、そう云った後、桜子と視線が合い、

「こりゃあ、失言した。一人死んでいるのだから、大変な事でした」

 と慌てて、言葉を付け足した。

「本当にすまない」

 龍二は身体を震わせていた。

 見学後、嵐山と東山は、二人だけで話があると云って消えた。

 残った、白川、桜子、清水親子は、白川の別邸へ戻った。

 応接間で雑談したあと、茶室に席を移した。

 ここの茶室は、天井が電動式の開閉となっており、開くと、透明のボードで空が見える。

 広さは、六畳で、天井は網代で作られている。

 壁は、鶯色のモダンなものである。

 「わびさび」から、もう一歩近代化したものであった。

 桜子がお茶を立ててくれた。

「少しは、ここでの生活も慣れましたか」

 一口、お茶をすすった後、白川は、龍二に尋ねた。

「慣れるどころか、快適すぎるよ。京都でも、ここらは、別荘地が集積するいいところだしねえ」

 今日、初めて笑顔を見せた龍二だった。

「でもお父さん、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう」

 やんわりと息子の利之が横から口を出した。

「それもそうだな」

「そうですよ、お父さん。ここは白川さんの持ち物なんだから、おりを見て東京に戻らないと」

「いえ、私はいいんですよ。普段は使ってませんから」

「でも、御家族の方がお使いになるでしょう」

「妻子とは、別居してまして」

「それは知らなかった」

「別居の原因はなんですのん。白川さんの浮気ですか」

 桜子が、口元に笑みを浮かべて、ほほ笑んだ。

「いえ、そんなんじゃないですよ」

 この時、利之の携帯電話が鳴った。

「ちょっと失礼」

 と云ってその場で、携帯電話を取った。

「私だ。はい、はいわかった。とりあえずすぐに東京に戻ります」

 利之は、沈痛な表情で電話を切った。

「何かあったんですか」

 すぐに白川が聞いた。

「秘書からの電話で、東山和夫くんがすぐに話がしたいと云って来ました」

「用件は」

「NINPОの映画ですよ。鞍馬監督と揉めてるようですよ」

「でも、もう公開まであと一か月でしょう」

 と云いながら、白川は、あの竹松京都撮影所での二人の熾烈な言葉のやり取りを思い出していた。

「お父さんちょっと」

 利之は、龍二と二人で茶室を出た。

 茶室に、白川と桜子の二人だけになった。

「あのう、白川さんにお願いがあるんです」

「何でしょうか」

「ここの茶室、私の教室に使いたいんです」

「ええいいですけど、確か今は、京都御所の西側の府庁近くにお稽古場があるとお聞きしましたけど」

「ありますけど、断然こちらの方が、雰囲気があっていいんです。それに、今の稽古場は、茶室だけで、サロンのようなものがなくて不便してるんです」

「ああ、いいですけど」

「もちろん、月々の借り賃は、お支払いします」

「いえ、そんな家賃なんかいりませんよ」

「いえ、こう云う事は、きちんとしとかんとあきまへん」

「はあわかりました」

「そんなに気にいってくれましたか」

「ええ、夜、星空を見ながらお茶席出来るなんて、ロマンチックどす。今度、夜の茶会来ておくれやす」

「私も長い事、夜の茶会ここでやってないなあ」

 二人は同時に天井を見上げた。

 天井から、春の柔らかな日差しが、二人を包み込んでいた。

 次に二人は黙って見つめあった。

 桜子がにじりよった。

 その時、今度は白川の携帯電話が鳴った。

 慌てて桜子は、飛びのいた。

「はい白川です」

「朱雀です」

 白川は、どきっとした。

 透明のアクリル天井の上から下を覗く朱雀を想像したからだ。

「今、お話してもかまわないですか」

「ええ、いいですよ」

「何や、静かやのに、緊張しはった声出して。ひょっとして、昼間からおなごはんと密会ですか」

「そんなんじゃないですよ」

「そこ事務所と違うでしょう」

 鋭い朱雀の指摘に、白川は唾を呑みこんだ。

(どうしてわかったんだろう)

「それより、用件は何ですか」

 これ以上、話し続けたら全てばれてしまう気がして、白川は、本題に戻した。

「実は、東山和夫プロデュースのカブク。あれ、撮影が延期になってしもたんです」

「どうしてですか」

「和夫プロデューサーから連絡があって、NINPОの出来上がりが伸びてて、どうする事も出来ないて」

「何かあったのかなあ」

「さあ、そこまで私も知りませんけど」

「延期であって中止じゃないと和夫プロデューサーは云ってました」

「わかりました」

 もう少し聞きたかったが、桜子の手前、電話を切った。

「何や、お忙しいですなあ」

 龍二が茶室に戻って来た。

「息子の奴、ばたばたと帰って行きました。白川さんによろしくとの事でした」

「わかりました」

 晩御お飯を御馳走になり、白川は、桂の自宅に戻った。


   (2)


 翌朝、都座の事務所にいる時だった。

 東山和夫から再び電話が入った。

「はい白川です」

「和夫です」

「ああ、東山さん、どうしたんですか」

「折角、朱雀さんを紹介してくれたのに、まだ撮影が入れないし、記者製作発表も出来なくてすみません」

「何かあったんですか」

「NINPОですよ」

「えっ、NINPОがどうかしたんですか」

「今日、午後二時から緊急記者会見します。テレビのワイドショーも生中継しますし、ネットでも中継するから見て下さい」

「何があったんですか」

「今は申し上げられません。でも記者会見で全てお話します」

「そうですかあ」

 白川は、少し落胆した。

 わざわざ電話して来たのだから、自分だけには、云ってくれる気がしたのだ。

「白川さん、僕はねえ、今真剣に怒ってます。それから、朱雀さんの監督・主演映画、(カブク)必ずやりますから」

「ええお願いしますよ」

「じゃあ午後二時。テレビで会いましょう」

 そう云って電話が切れた。

 続けて、竹松東京本社からメールが届いた。

 さらに嵐山からも電話があった。

「和夫の奴、緊急記者会見を竹松の東京本社でやるんだ」

「東京本社でやるんですか!」

「何だお前、知らなかったのか」

 呆れたように嵐山は云った。

「今、映画部の連中は、廊下走り回ってるよ。ほら聞こえるだろう」

「いえ、聞こえません」

 白川は真面目に答えた。

「それもそうだな」

「嵐山副社長は、記者会見の内容ご存じなのですか」

「まあな。だいたいな」

「何を喋るんですか」

「まあ、テレビを見ろ」

「教えてくれないんですか」

「お前まだ役員になってないだろう。役員には、役員の守秘義務があるんだ。知りたかったら、お前も早く役員になれ!」

「お願いします」

「じゃあもっと、俺にゴマをすれ!まあ楽しみだな。対岸の火事は、大きければ大きいほど面白い」

 とここまで云って嵐山は、大笑いして電話が切られた。

 午後二時。

 東京製作のワイドショー各局は、どれも、申し合わせたかのように、竹松の東山和夫緊急記者会見を報道した。

 同時にネットでも生中継していた。

 東京本社一八階の大会議室が、記者会見場となっていた。

 会見には、和夫、守、顧問弁護士の千本、清水利之社長代行が出席。嵐山の姿は見られなかった。

 和夫が記者会見場に姿を見せると、一斉にフラッシュがたかれて、画面が真っ白になった。

 白川らは、事務所のテレビをつけながら、手元のパソコンは、フレフレ動画を見ていた。

 ネットでは、すぐに、これを見ている全国の、いや全世界の人からのメールが上部に書きこまれていた。

(竹松のお家騒動か?)

(昨年は、社長の放火!今年は、和夫が何かやらかしたのか!)

「本日は、お忙しい中、お集まり戴き有難うございます」

 和夫の第一声は、落ち着いていた。

「私がプロデュースしている、近日公開予定のNINPОの映画ですが、今からお話する事件で、公開を延期する事になりました」

(何だ、修学院有子との結婚話じゃないのか)

(早く、本題喋れよ)

「この映画は、私が鞍馬監督に依頼して製作してまいりましたが、ラストシーンの撮影、シナリオ等の事に関しまして、意見が対立しました。

 私と鞍馬監督は、何度も話し合いを持ちましたが、どちらも、双方譲らず、今日にいたりました。

 私としましては、このまま鞍馬監督のNINPОをお蔵入りさせるのは、プロデューサーの責務として全うしておりません。

 しかしながら、私の主張するNINPОのストーリーをも、世間の人に見てもらいたい。

 そこで、急遽、私がメガホンを取り、私が監督のNINPО東山バージョンを製作。鞍馬監督のNINPОも同時に公開する事にいたしました」

 ここで、和夫は、言葉を切り、父親の守を見た。

「この件に関しましては、副社長の私は了承済みです」

「今回NINPОの映画を二つ作る事について、鞍馬監督の了承は得ておられるのですか」

 記者会見場の記者が聞いた。

「もちろん、了承いただいております」

「じゃあどうして今日、記者会見場に来てないのは、何故ですか」

「NINPОの映画の編集に立ちあうためです」

(嘘つけーー!)

(お前の顔を見たくないからだよ)

「具体的に、鞍馬監督との意見の食い違いと云うのは、どの場面なんですか」

「えー映画がまだ公開されていませんので、はっきりとここではお答え出来ません」

「プロデューサーならシナリオの段階で、その意見調整が出来たはずじゃないですか」

「映画と云うのは、シナリオ決定稿があっても、現場で変更は、しょっちゅうある事なんですよ」


 会見生中継したフレフレ動画サイトには、同時に一般視聴者からのメッセージが画面に横書きでスクロールされながら書き込まれた。


(だったら、最初から、お前が作れよ!)

(この時点で、この映画OUTです!)

(はい、またまた竹松映画こけました)

(竹松映画って、最近こけてばっかりじゃねえの!)

(こけて、這いつくばってます)

(百億円、目の前に積まれても絶対に見たくねえなあ)

(プロデューサー失格だな)

(最近この和夫のお陰で、竹松の映画どれもこれも、しょぼいもんばっかし!)

(頼むから、東山和夫の暴走を止めてくれよ)

(そういやあ、演劇の嵐山副社長の姿がないなあ)

(嵐山さんは、演劇担当だから、関係ないんだよ)

(竹松って変な会社)

(あー、こんな事ばっかりしているから、西宝の独断場になってしまうんだなあ)


「東山プロデューサーがお作りになるNINPОは、いつ頃完成ですか」

「出来るだけ早くとしか、申し上げられません」

「基本的には、鞍馬監督の映画と同じと云う事ですね」

「そうです」

「何割ぐらい違うんですか」

「まだ、僕が監督してないんで、何とも申し上げられません」

「鞍馬監督のNINPОと同時公開で、どちらが入ると思ってますか」

「そりゃあ、お互い自分だと思うでしょう」

 和夫が苦笑いすると、再びフラッシュの閃光が、会見場を覆い尽くした。

 この後、和夫はプロデューサーの職務について語り出した。

「皆さんが一流のレストランで食事をされたとしましょう。

 高いお金を出して来たのに、まずいものを出されたら、怒るでしょう。映画も同じですよ。わざわざ、時間を作って、映画館まで、交通費払って見に来てつまらない映画だったら、いやでしょう」


 辛辣なコメントはまだまだネット画面を覆う。

(じゃあ、今までのお前の作ったつまらない映画を見た人間はどうなるんだ)

(東山和夫の勘違いプロデューサーは、直ってないな)

(竹松は、一体いつまでこいつを野放しにさせておくのか)

(親父さんが、副社長だから、当分続くと思うよ)


「プロデューサーの責務として、監督に意見したまでです」

「今後、鞍馬監督とは、もう仕事はなさらないのですか」

「どうして、そう僕と鞍馬監督を喧嘩させようとするんですか」

「実質、仲違いしてますよね」

「いや、お互い方向性は同じですよ」

「何が同じなんですか」

「自分が持つ最高のものの映画を作る。それですよ」

「東山さんは、過去に映画監督をなされた事あるんですか」

「大学時代、映画部で作りました」

「その内容は」

「いや、お恥ずかしい内容だからやめときます」

「それで、今回初めて映画監督するのは、かなりの冒険ですよね」

「冒険も冒険。大冒険ですよ」

 再び和夫は、笑った。

(この人は、笑顔が似合う)

 と白川はテレビに映る和夫を見て思った。

「大丈夫ですか」

「大丈夫です。大丈夫じゃなかったら、こんな事しませんよ」

「じゃあNINPОが、東山さんの映画監督としての、第一作ですよね」

「いや、それは違うなあ。NINPОの何割かは、鞍馬監督が撮ったものです。僕は、重ねて申し上げますが、鞍馬監督が作ったものを全部否定するつもりは、ありませんから」

「じゃあ、クレジットタイトルに監督の名前は、どうするんですか」

「そこは、東山監督です」

 記者団から、どっと笑いが起きた。

 その笑いに誘われて、和夫の顔にも、頬笑みがうっすら、ほんのり浮んで来た。

「題名はどうなるんですか。同時公開なら、同じタイトルなら具合悪いですよね」

「もちろん、そうです。今考えているのは、鞍馬監督がお作りになった方は、(NINPО)。僕の方は、(NINPО・東山バージョン)かなあ」

「それって、少し題名が長いですね」

「じゃあ他に何か云い名前があるの?教えてよ」


 和夫は、少し尖った固い声で、云い返した記者を見据えて云った。

(すぐ、ふくれる東山!)

(これで、竹松の映画部門の赤字も膨れる!)


 生中継が終わると、白川は、事務所のテレビを、都座の舞台が映るモニター画面に切り替えた。

 白川と一緒に、和夫の記者会見生中継を見ていた、縄手は深いため息をついた。

「どうしましたか、縄手副支配人」

「うちの映画部門、いつまでこんなごたごた続くんですかね」

「さあ、当分続くだろうねえ」

「白川支配人は、東山和夫専務取締役と同期入社ですから、あまり敵対心は抱かないでしょうねえ」

「敵対心?何ですかそれは」

「私から云わせると、今の映画部門は、竹松のごく潰しそのものですよ」

「おやおや、珍しく縄手副支配人云いますね」

「だってそうでしょう。演劇部門は、江戸歌舞伎座が全面建て替えられて、高稼働して稼いでいます。その稼ぎを赤字垂れ流しの映画部門に行ってますからね」

「確かにそうです」

「もうこの際、竹松も、演劇と映画の二つの会社にしたらいいんです」

「そんな事したら、たちまち、映画部門は、倒産、潰れますよ」

「東山の作る映画なんか瞑れたらいいんだ」

「縄手副支配人、言葉が過ぎますぞ」

 珍しく白川は、声を荒げた。

「あっ、どうもすみません」

 縄手副支配人は、そう云って、一礼して事務所を出て行った。

「映画と演劇かあ」

 白川は、ひとり呟いた。


   (3)


 記者会見騒動から一週間後、和夫から、

(今回の騒動について、少しお話したい事があります。会って下さい)のメールが、白川に届いた。

 白川は、和夫に会うことにした。

 竹松の京都撮影所で和夫と落ち合って、タクシーに乗った。

「お忙しいのに、すみません」

 と和夫が頭を下げた。

「とんでもないです。東山さんの方が、お忙しいでしょう」

 白川が、即座に答えた。

 タクシーは、嵐山の渡月橋へ向かった。

「今夜の会合は、祇園にしようかと、一瞬思いましたが、やめました」

「どうしてですか」

「白川さんは、京都人だからご存じでしょう。京都は狭い街だから、鉢合わせがよくあるんですよね」

「ありますね」

「祇園なら、さらに鉢合わせする確率高いでしょう」

「ええ、でも私とあなたが一緒にいても、別に誰かと鉢合わせしても構わないと思いますが」

「僕が困るんですよ」

 和夫が苦笑いした。

 渡月橋で、川の舟付き場に行った。

 いっそうの舟が、待っていた。

 船頭と和夫は知り合いらしく、

「じゃあ頼むよ」

 と和夫が声を掛けると、

「若旦那、承知いたしました」

 と船頭は答えると、長い竹の棒を操り、見る見る内に、船を川の中央に進めて、北上した。

「この川の流れに逆らって北上するのは、大変な技術と感がいるんですよ」

 和夫がうんちくを述べた。

「さすがは、若旦那。よくご存じで」

「あんたの、長説教、随分聞いたから、わかってるよ」

「お客さん、このわしが、竹の棒をもし落としたらどうなると思いますか」

 船頭が白川に声を掛けた。

「さあ、また代わりの棒を持って来る」

「この狭い舟の中に、代わりの棒がありますか」

「ないなあ」

 白川が、船の底を見ながら答えた。

「この川はねえ、浅瀬と深みが混在しているんですよ」

「それは知りませんでした」

「この竹の棒が、川底に届く所を行かないと舟は進みません。特に流れに逆らう時は、大変なんです」

「この暗がりで、よくわかるねえ」

 感心したように白川が云った。

「長年の感ですよ」

「流れに逆らうのは、大変ですか」

「そりゃあ、世間と同じ。流れに逆らうのは、それだけ、多くの敵を作る羽目になる」

「流れに逆らうのが、いかに大変か思い知りました」

 和夫が叫んだ。

「若旦那、決して負けては駄目ですよ」

「わかってるよ」

 舟が岩肌を切り取った船着き場に着く。

 着物を着た仲居が、提灯を持って現れた。

「ごつごつした、岩がありますから、 気いつけて下さい」

 二人の仲居の案内で、白川と和夫は、歩を進めた。

 山沿いの坂道を暫く歩く。

(嵐徳館)と墨文字の達筆な文字で描かれた、見事門が、待ち構えていた。

「これから暫くは、ここを根城にして撮影所通いです」

 大きな旅館ではなくて一件ずつのコテージ風であった。

 まさに贅沢な作りだ。

 行く道では、大きな松明がたかれていた。

 都会の水銀灯に囲まれた生活の中で、こんな大きな炎をまじかに見る機会が皆無だったので、白川は、新鮮に感じた。

 家の中に入ると、仲居が、

「お連れさん、御到着です」と叫んだ。

 白川は、部屋の中へ視線を移す。

 一人の和服姿の女性が座っていた。

「若女将さんですか」

 白川が尋ねた。

「違うよ。僕らと同じ竹松の社員ですよ」

 笑いながら和夫が云った。

「白川支配人、私、秘書室のチーフ、下鴨弥生です」

「白川です」

 和夫には、常時、三人の秘書をはべらせていると聞いた。

「今後とも、東山和夫をよろしくお願いいたします」

 仲居が、夕食を準備する。

 弥生は、仲居がいなくなると、その代わりを務めた。

「まずは、乾杯と行きますか」

 弥生が、二人のコップにビールを注ぐ。

 続いて和夫が、弥生のコップにビールを注いだ。

「では、NINPО東山バージョン成功並びに大入りを祈願して乾杯!」

 と和夫が一人、喋って始まった。

「僕は今回自分が取った行動をどうしても、白川さんに説明しておきたかったんだ」

「何でしょうか」

「鞍馬監督の行動、許せなかったんだ」

「そうですねえ」

 弥生は、料理の準備と火加減を忙しくなりながらも、和夫の演説に相槌を打つ。

 さすがは、秘書チーフ、きちんと和夫の言葉に対して、的確に返事をしていた。

「白川さんにも、聞いて欲しいんです」

「何でしょうか」

「大体、日本の映画界は、どうして監督中心主義なんですか。監督が、絶対的権力を握っている。おかしいじゃないですか」

「演劇畑の白川支配人にそんな事云っても仕方ないでしょう」

 弥生は、和夫の暴走を止めようとした。

「でも、おかしいものは、おかしい。ハリウッドでは、プロデューサーが一番偉い。大体映画監督って輩(やから)は、映画製作の予算管理なんかやらないでしょう。自分勝手に映画を作る。それが間違っている。

 僕はねえ、白川さん。この間違った古臭い、日本映画界の因習を打破したいんだ」

 和夫は、竹松映画に君臨する、蹴上監督を揶揄していた。

 蹴上は、人気シリーズ「ライト男」をコンスタントにヒットを重ねていた。

 竹松映画部内では、蹴上の事を、「蹴上天皇」と呼んでいた。

 蹴上は、竹松から映画を撮る、撮らないに関わらず、年間三億円もの法外な報酬を貰っていた。

 和夫は、それに義憤を覚えていたのだ。

「でも、ここは日本ですよ」

「だからこそ、プロデューサーシステムを構築したいんですよ」

 和夫は、まだ、ビールをそんなに飲んでいないのに、たらふく飲んだかの様な口調だった。

「わかりました」

「わかってくれましたか」

「はい」

「本当かなあ。京都人は、言葉とこころの中は、正反対だとよく聞くけど」

「そんな事ないですよ」

「じゃあ、鞍馬監督の映画の撮り直しの件は、間違ってませんよね」

「個人の意見としては、それもありきだと。でも竹松の映画部の代表としては、ちょっとどうかなあ」

 冷静に白川は、返答した。

「白川さんもネット等で、僕が叩かれているのを見ていますね。あいつら、自分の意見に責任持たないから、好き放題云ってる。あーあ、ネットのない社会に戻りたいなあ」

 そこまで云うと、和夫は、ビールを一気飲みした。

「あまり飲まない方がいいと思うけど」

 心配そうに弥生が声を出した。

 今夜の和夫は、迷走していた。

「なあに大丈夫ですよ」

「大丈夫じゃないでしょう。明日は朝、五時から大覚寺で撮影ですよ」

「東山監督、お酒はほどほどに」

「白川支配人、どうぞ」

 弥生はビールを注ぐ。

 その手元に白さに、白川はドギマギした。

「ちょっとお手洗い」

 和夫は、ふらふらと立ち上がると部屋を出た。

「東山和夫専務には、私を含めて四人の秘書がいるんです」

「三人じゃなかったんですか」

「数日前から一人増えました」

「そんなにいるのかあ」

「白川支配人には、何人の秘書がいるんですか」

「劇場の支配人には、一人もいませんよ」

「じゃあ私なろうかなあ」

「東京じゃあ無理でしょう」

「私、当分京都住まいなんです。東山監督が、NINPОの撮り直しのために、暫く竹松の京都撮影所通いのためです。その次の作品、朱雀主演の映画も、京都で撮るから暫く、京都なんです」

「やっぱり、朱雀の映画は撮るんだ」

「ええ、ここへ連絡頂戴」

 弥生は、ピンクの角が丸い、個人の名刺を白川に渡した。

 白川は、ちらっと見るとすぐにポケットに入れた。

「白川さんは、生粋の京都人ですよね」

「はいそうですけど」

「今度、京都を案内して下さい」

「ええいいですよ。でも撮影に入ると忙しいでしょう」

「それが、撮影に入ったら案外暇なんです。細かい事は、太秦さんがやってくれますから」

「あの人も大変ですね」

「本当。二四時間付き人みたいな生活ですから、夜中でもおかまいなく電話してくるから」

 和夫が戻って来た。

「白川さんを口説いていたのか」

「大当たり。さあ食べて飲みましょう」

「疲れているのかなあ。今夜は少し飲んだだけなのに、酔いが回る」

「顔色よくないですよ」

「大丈夫。白川さん、朱雀さんに云っといて下さい。必ず映画は撮りますから」

「わかりました」

「朱雀さんの今後のスケジュール教えて下さい」

「あの人、いつも八月は、お休み戴いて、海外へ行くようです」

「その一か月、撮影に当てたいなあ」

「本人に聞いてみます」

「有難う」

「映画も大変ですねえ」

「昔は、娯楽と云えば、映画しかなかったもんなあ。ねえ白川くん」

「そうです。今は、ゲーム、ネット、スマホに、カラオケに、お手軽海外旅行」

「それに、映画が、公開されても、すぐにビデオ化される。だからわざわざ映画館へ足を運ばない」

 と和夫は愚痴った。

「でも昨年の西宝の映画興行収入が史上最高の金額でした」

「世間の人達は、西宝のシネコンでかかる映画は、西宝が製作していると思っている。とんでもない。西宝は映画を他の業種に作らせて、配給だけやってるだけなんだ」

「へえそうだったんですか。全然知りませんでした」

 と弥生は、素直な意見を云った。

「西宝は、活動屋じゃなくて、西宝不動産会社だよ」

「東京や大阪の大都市の駅前に、莫大な利益を生む土地、建物を所有してますからね」

「映画全盛時代、西宝の創業者、松林重蔵は、100館主義を唱えたんだ。つまり映画で設けた金で、駅前に100の映画館を百作ると」

「でも竹松も同じ様に、当時は儲けたんでしょう」と弥生は聞いた。

「ああ儲かった。けど社員にボーナス三回出したりしただけだった。西宝のように、未来へ向けての先行投資を怠ったんだ」

「もったいない」

「竹松は、家族主義で社員を大切にする気風があるんだ」

 東山の愚痴は、延々続きそうだった。

「でもねえ、白川さん。どんなに、スマホでパソコンで、気軽に映画が見られるようになっても、映画はなくらない。いい映画を作れば、必ずお客様は来てくれる。僕はそう信じていますから」

 白川は、頃合いを見計らって、出た。

「弥生さんは、まだ東山さんとおつきあいがあるんですね」

「明日の撮影の打ち合わせ」

「今夜はどこにお泊りですか」

「遅いからここに泊まります」

「ここですか!」

「ああ、勘違いしないでね。もちろん、東山とは、別棟の所です」

 それを聞いて、白川は、何故かほっとした。


    (4)


 白川の別邸を桜子のお茶稽古教室に貸し出す事が決まった。

 お茶会が開かれる度に、白川は、誘われたが、用事があるため断っていた。

 ある日の夜、やっと身体が空いて、別邸を訪問した。

 庭も、玄関も広間も掃除が行きとどいていた。

「人が住むと、家も生き返りますね」

「そうですね。毎日空気の入れ替えしますから、新しい気が入って来ますからね」

「清水龍二さんは」

「今日は疲れたとかで、寝てます」

「どこか、お体でも悪いんですか」

「昼間、あちこち京都観光されてたみたいです。と云ってもこの近辺の南禅寺界隈ですけど」

 応接間で少し話した後、お茶室に移動した。

 白川が、夜にこの茶室に入るのは、何年ぶりだろうか。

 まだ結婚していた時だ。

 スイッチを押して天窓を開けた。

 透明のアクリル窓から月光が降り注いだ。

「素敵な茶室」

 桜子も天井を眺めた。

「この度は、こんな素敵なお茶室の稽古場を提供して戴きまして有難うございます」

「評判はどうですか」

「ええ、もう皆さん気にいっておられます」

「それは、よかった」

 お茶を立てる音。

 桜子の、着物と畳が擦れる音。

 静寂の中では、普段聞こえない小さな物音が耳に入って来る。

「月光を楽しみましょう」

 そう云って、桜子は茶室の電気を落とした。

 月の光は、女性を美しく際立たせる。妖艶な感じは、桜子の特性かそれとも、光と影のコントラストなのだろうかと、白川は思った。

「何を考えておられるんですか」

「今夜の桜子さんは、一段と綺麗だと思ってました」

「まあお上手やねえ」

 桜子は、おうすを白川の前に置いた。

 すっと顔を上げた。

 いつもは、うしろ髪を下げているのに、今夜はアップにしていた。

 うなじから、肩にかけて白いやわ肌が見られた。

「いつも私の茶会は、昼間にやっているんで、こうして夜の茶会は、ここは初めてどす」

「夜も気兼ねなく使って戴いてもいいですよ」

「ええ、でも清水はんは、早く寝る時があるんで、やはり気兼ねします」

「清水さんも稽古に参加したらいいのに」

「それが、もう参加されてます」

「それは、よかった」

「いつも云ってます」

「何と?」

「白川さんには、迷惑かけて申し訳ない。一日でも早くここを出ないと」

「私は、別に構わないと云っているのに」

「それが、かえって負担になっているのかも」

「それと、やはり京都はいいなあと。私も京都に別荘を持ちたいと云っておられました」

 ここで、再び会話が途切れた。

 桜子の視線が、天窓から再び白川に注がれた。

 白川は、緊張しながら、再びおうすのお茶を呑む。

 自分でも驚くぐらいごくりと飲み込む音が響いていた。

「白川さんは、御結婚は」

「一度しましたが、つい最近別れました」

「原因は」

「まあ色々ありまして」

「きっと浮気でしょう」

「それは、ないです」

「白川はんは、おもてにならはるさかいやわあ」

「そんな事ないです」

 桜子が、ぐっとさらに顔を近づけた。

 どちらともなく口付けを交した。

 桜子は、積極的に白川の口の中に、舌を差しいれて来た。

 まるで、金魚がはねるかのように、白川の口の中を泳いでいた。

 その時、茶室の前の廊下を歩く足跡が聞こえた。

 桜子は、慌てて、白川のそばを離れた。

 ゆっくりと戸が開き、龍二が顔を覗かせた。

「ああ、白川さんおいででしたか」

「ええ。お休みになってたので、起こしませんでした。お邪魔しています」

「お邪魔しているのは、私の方だよ。少しいいかな」

「ええ、どうぞ」

 龍二は、白川の隣に腰を下ろした。

「さっきまで、清水さんの事お話してたんですよ」

 桜子は、何事もなかったかのように話した。

「いつまでもいて下さいよ」

 続いて白川が話しかけた。

「まあ今年はともかく、来年早々には、東京に戻らないとね」

「もう仕事は、忘れてのんびりしたらどうですか」

「もう仕事はやらないよ。箱根か京都で余生を暮らすよ」

「そうでしたか」

「それにしても京都はいいよな」

「そうですか。僕は箱根の方がいいと思いますが」

「ほどよい、都会がいいね」

「これで、夏の暑さと冬の寒さがほどよくならば申し分ないのですが」

「そんなに暑いのかね」

「今は六月でまだそんなに暑くないのですが、七月八月は、灼熱地獄ですよ」

「まあ、京都の暑さは昔から古典にも出て来るくらいだからな」

「冬も厳しいです。底冷えですね。ここは、四条河原町と比べて気温が三度くらい違いますから」

「同じ京都市内でもそんなに違うのかね」

「狭い盆地ですけど、山々に囲まれてますから」

 桜子が龍二にお茶を入れた。

「竹松も、演劇が順調だけど、映画が最悪だね」

「和夫さんが、NINPОを撮り直してますね」

「まもなくアップするとか」

 NINPОが竹松系の映画館で同時上映される事が決まった。

「あんな事許していて大丈夫なのか」

 龍二の眉間に深い皺が刻まれた。

「記者会見には、お父さんも出てました」

「組織上やむおえないからね。でも内心父上は、賛成してない」

「東山副社長と話されたんですか」

「ああ、電話で話した。ここにいる事も話したよ」

「大丈夫ですか」

「なあに、構わないよ。どうせ、その内ばれる事だし」

「何か云ってましたか」

「別に。私の居場所を知りたかっただけでしょう」

「竹松も色々あるんですね」

 桜子が呟いた。

「竹松と云う一つの会社に映画と演劇と云う二つの組織があるからな」

「一つに出来ないんですか」

 素朴な質問を白川は、龍二にぶつけた。

「映画と演劇、歌舞伎の二つの知識を持つスーパー経営者が出て来ればの話。しかし現実問題として無理だな」

「確かに歌舞伎の奥役と映画のプロデューサーは、根本的に違いますからね」

「奥役って何ですか」

 桜子が聞いた。

「ひらたく云えば、演劇プロデューサーの事で、おさめやくでもあるんだ」

「何をおさめるんですか」

「歌舞伎役者ですよ。色々あるんですよ。役の事とか、人間関係とか」

「外から見ていると、華やかな世界で憧れもありますけど。中に入ると色々ありますね」

「それは、お茶の世界でも同じ様な事があるでしょう」

「ええ、あります。けど私の世界は狭いもんですよ」

「竹松も考えたら狭い世界ですよ」

「確かにな。今の世の中、グローバル社会で、どの業種も世界展開しているのに、映画、演劇は相変わらず、日本の中でだけだもんな」

 ようやく、西宝歌劇団が台湾、中国公演を昨年から始めたばかりである。

 また月の光りが出て来た。

 三人の会話の時、雲の中に隠れていた月は、今出て来た。

「輝く月の光の様に、竹松も輝いて欲しいなあ」

 三人は、暫く天窓から降り注ぐ月の光を見つめていた。


   (5)


 ようやく、「NINPО・東山和夫バージョン」が完成した。

 完成披露試写会が、シネコンではなくて、京都都座で開催された。

 たまたま六月は、一か月公演がなくて、単発公演ばかりで、試写の日は、完全休館日であった。

 一応白川は、嵐山に了解を求めた。

「都座の支配人は、お前だろう。お前がいいと思うならやったらいいんだ。いちいち俺に聞いて来るなよ」

 余程嵐山は、機嫌が悪かったのか、それだけ云うと一方的に電話が切れた。

 白川の耳元に電話のガチャンの無機質の音がまとわりついていた。

 東山和夫は、どこで手を回したのか、都座の前の四条通りを完全

 封鎖して、八坂神社から都座の前まで、レッドカーペットを敷きつめた。

 八坂神社の石段を出発して、お披露目を行った。

 これに参加したのは、主演俳優である神宮道武、共演女優の宝が池道子、修学院有子、今出川恵美、忍者姿の役者らである。

 パレードの先頭が、東山和夫だった。

 和夫は、自分が主演俳優かのように、先頭を歩き、沿道の観衆に向かって笑顔を向けた。

 上空には、67台のドローンカメラが、獲物を狙うトンビ、鷹のように、和夫の周りを何度も旋回撮影を始めていた。

 両側のビルから、華吹雪が舞った。

 これは、祇園商店街の全面協力の下で生まれた。

 都座前では、白川、東山守、清水利之、太秦常務らが出迎えた。

 さすがに、喧嘩対立の鞍馬監督の姿はなかった。

 その代わりに、竹松の専属監督で、人気シリーズ(ライト男)が有名である蹴上洋三が駆り出されていた。

 竹松では、(蹴上天皇)と呼ばれ年間三億円を得ていた。

 両サイドには、京都五花街(祇園、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)の舞妓がずらりと並んでいた。

 館前で、お披露目挨拶が行われた。

 まず和夫が、

「皆さん、こんなに沢山お集まり戴き、誠に有難うございます。ようやく、ようやく、ようやくNINPО・東山バージョンが完成しました」と声を張り上げる。

 周りから、おざなりの拍手が起こる。

 警備に関西の竹松のシネコンの支配人、関西支社映画宣伝は、もちろんの事、竹松の映画部のほとんどが駆り出されていた。

 もちろん、この時間帯に、各シネコンも営業しているわけで、その営業が無事に行われているのが、白川には不思議に映った。

「自分で云うのも何ですが、素晴らしい出来栄えです。今年の竹松の最大の自信作です。どうか、皆さんぜひぜひ、見て下さい。有難うございました」

 続いて女優陣が挨拶した。

「皆さま、宝が池道子です。東山監督第一作の作品に出演出来てこんな光栄な事はありません。ぜひぜひ、見て下さいね」

 道子が挨拶している間、ずっと和夫はにやけていた。

 道子は、和夫の彼女である。

 一方、蹴上天皇は、終始むっつりとしていた。

「皆さま修学院有子です。私も宝が池さんと同じ気持ちです。東山監督のたぐいまれな才能に惚れました」

 白川は、東山守を見た。

 有子は、守の彼女である。

 守は、俯いていて、時折、上を見ていた。

「皆さま今出川恵美です」

 最後に挨拶したのは、清水利之社長代行の彼女であった。

 背後にいる利之は、冷静さを保っていた。

 一年前の父、龍二の自宅への放火は、利之と恵美との結婚話だと、世間では、盛んに噂されていた。

 前列には、マスコミ関係のカメラ、ビデオが百台以上並んでいた。

 放火事件以来、事件関係者がこうして一同に会するのは、初めてである。

 だから、集まって来たのだ。

 和夫ら関係者は、二階席の最前列に座った。

 都座は、芝居小屋であり、シネコンの様に、映画用に設計されていなかった。

 映画が始まる直前、舞台上部の破風から、忍者三人がワイヤーを使って降りて来た。巻物を広げると、

「NINPО・東山バージョン」と達筆な墨文字で横書きされていた。

 続いて、三人の忍者が、振り返り、後ろの黒幕に、手裏剣を投げつけた。

 瞬間、黒幕が振り落とされて、スクリーンが観客の前に出て来た。

 この演出も和夫のアイデアである。

「せっかく都座で試写やるんだから、何かやろうよ」の言葉で始まった。

 振り落としのアイデアは、白川の助言である。

 和夫は、一度も歌舞伎を見たことがない。

 映画一筋である。

 それでも専務取締役になれるのだ。

 不思議な会社だ。

 式典の時は、あんなに晴れていたのに、いざ映画が始まると大雨が降り出した。

 今回の上映は、デジタルではなくて、フィルムでの上映である。

 これは、蹴上天皇の助言だった。

 さすがの和夫も蹴上天皇には、逆らう事は出来ない。

 だから、今回のために、わざわざフィルムに焼き直したのだ。

 白川の隣りは、蹴上天皇が座った。

「僕はねえ、白川くん、今のデジタル版が大嫌いなんだ」

「でも綺麗ですよ」

「その綺麗さがいやなんだ」

「シネコンの拡大と比例して、デジタルも急速に普及しましたね」

「皆、フィルムは、ぼやけてて、デジタルははっきりして綺麗だと

 云うけど、そのぼやけ具合がいいんだな」

「でも、デジタルは、フィルムの様に切れませんから」

「切れて、上映を待つ。それもまた映画館の楽しみなんだよ」

「そんなもんですか」

「そうだよ。おそらく大劇場でフィルム上映は、今回が最初で最後だろうなあ」

 蹴上天皇は、ひとりごちた。

 何でもはっきり、くっきりを追い求める世の中である。

 テレビにしたって、ブラウン管から、液晶テレビへ急速に変化して、鮮やかな画面になった。

 それを見慣れている若者がフィルム映画を見たら、

(何だ、このピンボケは!)と思うかもしれない。

 そう白川は思った。

「ご来場の皆さま、まもなくNINPО・東山バージョンを上映いたします。今回、デジタル版ではなく、昭和の時代のフィルム版で上映いたします。

 デジタルでは、表現出来ない、フィルム版の緩やかな、奥ゆかしい画質をご堪能下さいませ」と場内アナウンスが流れた。

 客席電気が、静かに落とされて、場内は、漆黒の闇に包まれる。

 現実の世界から、架空の世界へのつなぎ目があり、場内の観客は(東山ワールド)に突入した。

 白川にとって、久しぶりの、映画鑑賞でもあった。

 学生時代は、沢山の映画を見て来たが、竹松に入社してからは、演劇部門に配属された関係で、映画を映画館で見る習慣がなくなっていた。

 NINPОとNINPО・東山バージョンは、基本的には同じで、ラスト三十分の取り扱いが違っていると云う噂である。

 現段階では、白川を始め、マスコミ関係者も、両者の映画のどこが違うのか、わからなかった。

 東山バージョンは、一般上映より前に、札幌、仙台、東京、名古屋、京都、大阪、広島、福岡の八大都市で、プレミアム上映を敢行。

 率先してマスコミ取材を受けた。

 もちろん、和夫が陣頭指揮を取り、インタビューに答えた。

 と同時に、(NINPО・東山バージョンフェイスブック)と東山和夫ブログ、ツイッターを立ち上げた。

 竹松の公式動画サイトの映画部門は、もちろん(東山バージョン)のみの宣伝だった。

 映画が始まって三十分も経過してないのに、白川は、映画の世界から、眠りの世界へ旅立っていた。

 いつのまにか、自分は月の世界にいた。

 何故か、桜子と二人で、月の表面をぴょんぴょん跳ねながら、歩いている。

 二人ともにこやかに笑っていた。

 突然、二人の行くてに、ごろんと月の石が転がり落ちて来た。

 桜子は、ひらりと空中大きく舞い上がり、その石を避けた。

 白川も同じように、舞いあがろうとするが、何故か、足が上がらない。

 大きな石が自分目掛けて落ちて来る。

 辛うじて身をかわすが、左肩に大きくのしかかる。

 必死でどけようとするが全然動かない。

 桜子に、必死で助けを求めようとしているのに、桜子は、自分を指さして笑っている。

 大きな岩から、ぬっと和夫が顔を出して笑っている。

(おおい、助けてくれえ)

(桜子、白川さんが助けてくれって、どうする)

(また、冗談でしょう)

(だよねえ、さあ、酸素が残り少ないから基地へ帰ろう)

 にこやかに笑いながら桜子と和夫が去って行く。

(おーい助けてくれい!)

 大声で叫んでいるのに、全然声が届かない。

 そうこうしているうちに、どんどん、左肩に、石がのめり込む。

(痛い!どけてくれ、月の石!)

 しかし、桜子も和夫もなお笑ったままで助けようとしてくれなかった。

 はっとして、びくっと身体を震わせて目が覚めた。

 一瞬、今、自分がどこにいるのか、何をしていたのか皆目見当がつかなかった。

 しかし、自分の左肩に、蹴上天皇の頭が寄りかかっているのを見て全てを把握した。

 蹴上天皇は、白川と同じ様に、身体を震わせて目を開けた。

 スクリーンを見て、

「何だまだ終わってないのか」と呟く。

「白川くん、終わる直前に起こしてくれよ」

「わかりました」

「寝てもいいけど、僕より寝込むなよ」

 蹴上天皇は、白川に釘を刺した。

 それから、白川は起きて映画を見た。

 一方の蹴上天皇は、終わる直前まで寝ていた。


    (6)


 試写が終り、蹴上天皇の周りに、多くのマスコミ関係者が押しかけた。

「蹴上監督、NINPОの映画ご覧になってどうでしたか」

「デジタル版より、フィルム版での一夜限りの上映会よかったよ」

「NINPО・東山バージョンをご覧なっての感想を一言お願いします」

「忍者の生活風景が、デジタルではなくて、フィルムでの収録がよかったかなあ」

 どこまでも、フィルム上映に拘る蹴上であった。

「あとねえ、キャメラワークがよかったかなあ。これは斬新な忍者映画になるなあ」

 蹴上天皇は、和夫を完全に持ち上げていた。

 その言葉を詰めかけた報道陣は、必死でメモして、アイシーレコーダーで記録していた。

 その背後で白川は、必死で笑いを堪えた。

 上映中、蹴上天皇は確かに殆ど寝ていた。

 正論からすれば、見てないのだから映画の批評をするのは、よくない。

 しかし蹴上天皇は、堂々と取材陣の質問に対して、的確に答えていた。

「今の映画は、何だか、オチャラケで撮っているムービーが多いわなあ」

 と現代の映画作りにも、矛先が向けられた。

「では、NINPО・東山バージョンは大ヒット間違いなしですね」

 記者団の質問に対して、

「映画の出来と、客入りは、また違うものだよねえ。テレビドラマの延長のような映画でも、お客さんは入るしね」

 と少し今の映画の現状を皮肉った。

 和夫は、次の大阪での先行お披露目のために、女優陣達と、移動した。

「じゃあ、白川支配人また会いましょう」

「お疲れ様でした」

「蹴上監督、有難うございました」

 和夫は、深々と頭を下げた。

 白川は、和夫が頭を下げる所を初めて見た。

 いつもは、ふんっぞり返っているが、蹴上天皇の前では、さすがにそうはいかないんだ。

「白川支配人ちょっとお話があるんですが」

 和夫を見送ってから蹴上が声を掛けて来た。

「何でしょうか」

 蹴上は、地下事務所の人の視線を気にしていた。

 地下事務所にも、応接間があるが、白川は、気づかって貴賓室を案内した。

 都座の貴賓室は、一階東側階段と二階東側階段の間にあった。

 広さは、三畳くらいで、二人で丁度と云う感じだ。

 ドアを閉めて席につくと

「あのドラ息子、また赤字大量生産を始めやがって」

 開口一番、蹴上は顔全体をしかめて呟く。

「蹴上監督は、寝てて全然見てなかったじゃないですか」

 白川は、少し意地悪く意見を云ってみた。

「見なくてもわかるよ」

「すごい才能ですよ」

「誰が?和夫か」

「いえ、蹴上監督ですよ。寝てても映像が頭の中に入っているんですから」

「完全に寝てたわけじゃない。時折目を開けてた。それにしても、酷い作品だ」

「鞍馬監督の作品がベースになっているそうですよ」

「らしいねえ。そっちはまだ見てないけど。いくらプロデューサーだと云っても監督が作った作品にいちゃもんつけて撮り直すなんて、前代未聞の話だな。

 もし僕が鞍馬くんの立場だったら、公開中止するねえ。監督が心血注いで作り上げた映画作品を、勝手にやり直すなんて。狂気の沙汰だね」

「いちゃもんですか」

「そう、いちゃもんだよ。鞍馬君に大いに同情するよ。同じ監督のよしみとしてね」

「それだけ、本気だって事ですよ」

「いやに、奴の肩を持つなあ。やはり同期入社のよしみかい」

「いえ、そんな事はないですよ」

「次から次へと、よくもまあ、あれだけ当たらない映画企画を作り出すなあ。あれも一種の才能だね」

「それだけ、嫌なプロデューサーなら、今日の出席も断ればよかったのに」

「和夫から要請があれば、もちろん断っていたさ。親父さんから直接出席してくれと云われたんだ」

 和夫の父、東山守は、竹松の映画部門の副社長である。

「親父さんも、嘆いていたぞ。最近の和夫は、暴走し過ぎだと。アクセル踏みっぱなしだって」

「あの熱血は誰にも止められませんよ」

 わざわざ、和夫の悪口を云うために、話をしに来たわけじゃないだろう。

 白川は、蹴上が、本題を切り出すのを待った。

「さて、本題に入ろうか」

 蹴上の言葉で、白川は姿勢を正した。

「実は、次の(ライト男(まん))は、京都を舞台にして撮ろうと思うんだけど、都座を中心にしてね」

 ライト男(まん)は、蹴上監督の作品で、今回で59作めとなる人気シリーズ映画である。

 低調を続ける竹松映画で、唯一興行収入十五億円から二十億円を稼ぎ出す映画でもあった。

 主人公のウシオは、照明センタースポットマンで、全国のホール、会館を渡り歩く風来坊である。

 毎回、現地で、女性と恋をするが、振られて去って行くのである。

 一時は、夏と冬の二回公開されていたが、現在は、年一回、お正月に公開されている。

「都座は、三十五作めで、登場してますね」

「改装前の昭和時代の話だろう」

 都座は、平成三年と三十年の二回、外観はそのままに、内部を大幅に改装している。

「外観は、そのままですよ」

「都座は、絵になるんだなあ。私もライト男(まん)で全国のホール、会館を渡り歩いているけど、都座は、品格があっていいよ」

 蹴上は、白川の言葉を無視して、話し出した。

「それは、役者さんからもさんからも、よく云われます」

 白川は、蹴上の話に乗った。

「ウシオを再び都座の舞台に立たせたいんだよ」

「マドンナは、誰なんですか」

「まだ決まってないんだ」

「わかりました。撮影許可します」

「有難う白川くん。で、都座はいつ空いているの」

「七月後半の一五日から、八月一五日まで空いてます」

「丁度いいねえ。祇園祭も撮れるし」

 蹴上の顔から、この日初めて笑顔が浮かんだ。

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