第52話 ゴールキーパー

明日、ラナンタータに口紅を買う。

もし誘拐されたら

国際駅の男子トイレの鏡に

いや、どこの鏡でも

口紅メッセージ。

そういう約束だ。


ラナンタータの考えは読める。

危険を侵しても

イサドラと契約を結ぶ気だ。

僕はどう動くべきか。

協力を要請されているが応じたくない。

寧ろ閉じ込めておきたい。

守りたい。

そして先回りして

アントローサ警部に

イサドラを逮捕してもらう。


もし出遅れたら……

国際駅だけじゃなく

此の国の全ての男子トイレの鏡を

見て回らなければ……

眩暈がする……

眠れない。


もしもの場合だけれど

ラナンタータがイサドラと

何処かで落ち合うことになるなら……

アントローサ総監がラナンタータに

張り込み易い場所を

示唆しておく必要がある。


しかし、イサドラもバカではない。

簡単に捕まるようなヘマをするだろうか。

嫌な予感が……




ラナンタータはこっそり抜け出してデカタンス・ジョークに向かった。八時には商店街も閉まる。夜九時半の街はすっかり人気もなくて少し積もった雪がクリスマスの近いことを知らせている。


ガラシュリッヒ・シュロスの近くでルノーを拾った。お金は少し余裕がある。青と黒の中をガス灯が走り去る車窓に、一抹の寂しさが張り付いている。



お父さん、ラルポア、ごめんなさい。

私はもう子供じゃない。

少しだけ冒険させて。

明日、イサドラから連絡が来る。

デカタンス・ジョークの論客たちは

イサドラについて何を語るかな。



ラナンタータの目に四頭立てのあし毛の馬車が映る。



ローラン・タワンセブが来ている。

いろいろ話したい。

そして、明日はイサドラと契約する。

もう、心が決まった。



ラナンタータはルノーから下りた。



シャンタンの事務所のソファーを陣取って、カナンデラは会社の構想を展開していた。マフィアのあぶれ者を警察官並みに教育してSPと警備員にするという、ラナンタータのアイデアだ。


ガラシュリッヒ・シュロスには世界各国からVIPが護衛付きでやって来る。其の上を行く警護のプロを養成して貸し出すのが、カナンデラの会社だ。


VIP警護のSPは警備員のエリートとして、今の階級とは無関係に出世できる。社会の闇に安住していた輩が人生を百八十度転換して正義の側に立つのだ。


マフィアの使い走りになるしかなかった若者に希望を与え、自分の人生を正しい方法で切り開ける社会作り。それがマイノリティとして生きてきた十九才のアルビノの、世界を変える第一段階だ。


ツェルシュは密かに奮えた。

カナンデラ・ザカリーが男色探偵で十八才のいたいけなシャンタン会長を食い物にしているジゴロだろうが、ヒモだろうが、金食い虫だろうが、世界を変えるという志と実現可能なアイデアに痺れた。



必ず実現させて成功しましょう、必ず……




デカタンス・ジョークは熱気が籠っていた。ラ・メール・ユウコがラナンタータをカウンターに案内して、ホットぜんざいを勧める。



「ローラン・タワンセブが来ているわよ。夕べ、顔見知りになったわよね。あら、噂をすればなんとやら、向こうの方から来たわ」



振り返ったラナンタータに、金髪の甘いマスクが微笑む。



「やあ、今夜は一人かい」



こっくり頷く。微笑みたいけど遠慮した。笑顔に自信がなく、ブスになると思っている。


そして、甘いマスクはラルポアで見慣れているから絶対に陥落したりはしないもんと、恋愛感情を意識した。既にローランを見る目は輝いている。



「此処に座ってもいい」


「嬉しい。お話し、したかったの。いろいろ」



カナンデラとラルポアが聞いたらひっくり返りそうな愛らしい声が出た。



「でも、あの賢いゴールキーパーが怖いな。君に近づくどんなボールも弾き返されるって聞いているから。殿下はプロのボディーガードなんだよね」


「ゴールキーパー……」



1904年にフランスで国際サッカー協会が設立され、その四年後にはオリンピック正式種目になったサッカーは、此の国でも労働者の楽しみとなって広まっていた。 



「ラルポア・ミジェール。デカタンス・ジョークのレジェンド」


「レジェンド……ラルポアが……」


「五年前は此の店の過激な論客だったんだ。僕ら後輩の憧れさ」



あのラルポアが……

同姓同名の人違いでは……



「どんなことを論じていたの」


「そうだなぁ、一番記憶に残っているのはお金の話だった。お金は幻想だ、幻想に縛られて犯罪に走らされる社会を打ち砕き、お金の幻想から自由になろうという話は半年は盛り上がった。どのように幻想社会を打ち砕くか、新社会の基盤はどのように構築するかとか。今でも話題に上るよ」


「信じられない。普段はそんなこと話さないから」


「ラナンタータお嬢様、良ければ」


「ラナンタータでいいわ。私たちはお友達になれるでしょ」


「嬉しいよ、ラナンタータ。君のような聡明な友達ができて。どう、これから僕の別荘に」



ローランの言葉が遮られた。



「駄目だよ、ラナンタータ」



ラルポアが割り込む。



「おお、ゴールキーパーのお出ましだ」


「悪いね」



ラナンタータの身体を肩に担ぎ上げて、ラルポアは出口に進む。



「オールボワール、ローラン」



ラナンタータは手を振った。

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