第2話

「うぬぬ…ぐむむむ」

 その島本さんは、とある古書店のテントの前でうめき声をあげている。午前の早い時間とあって人混みはまばらだ。各テントの前には二、三人が陣取って思い思いに本を物色している。

 このテントの古書店では、絶版の文庫本を目玉に、新旧様々な文庫本を取り扱っていた。国内外、ジャンルも多岐に渡っているが、海外のものが多いようだ。

 本の背を上にしてたくさんの文庫本が並べられているのは壮観だった。

 その中で島本さんは二冊がひもで括られてセットになっている本を手に持って悩んでいた。コルタサルの『石蹴り遊び』、集英社文庫の上下巻。パッと見で分かるほど焼けてしまっているし、カバーにも擦れがあるが、「3,000円」の値札が付いている。

 言っちゃ悪いが、小汚い文庫二冊に三千円はだいぶ高く感じる。それでも島本さんは他の本に目もくれず、一目散に飛びついては悩んでいる。

「三千円、うーん、三千円、三千円かぁ」

 小柄な体を前かがみして値段を繰り返していると、金の亡者のようだ。

 子どものときに、近所の神社のお祭りで設けられていたお化け屋敷を思い出す。お化け屋敷は、カーテンで通路を区切り途中で係員がワッと驚かしてくるだけのちゃちなものだった。案の定というか、子ども心にもお化け屋敷は怖くなかったのだが、その入り口で売上金を数えていたおばあさんの姿が異様に恐ろしく感じたことを覚えている。

「お嬢ちゃん、良い本を持ってるね。それ、ちょっと状態は悪いけど、だいぶ安いでしょ。どう?」

 島本さんは、店主の言葉に返答するでもなく、うーん、うーんとしばらく悩んでいたのだけれど、

「買います」

と意を決したように宣言し、お金を渡したのだった。

 島本さんが本を受け取ると、僕らは隣のテントへと歩き始めた。

「うーん」

と島本さんはお金を払って本を受け取った後も悩んでいるみたいだった。

「それ欲しい本だったの?」

「うん。ずっと欲しかったんだけど」

「高いってこと?」

「そんなことないよ。確かに状態はあんまり良くないけど、状態が良かったら五千円とか六千円とかするかもしれないし」

 そんなに高い本だったのかと僕は驚いた。パッと見は小汚い本にしか見えない。

「じゃあ、お買い得だったんじゃない?」

「でも、岩波文庫とか、光文社古典新訳文庫で復刊されるかもしれないんだよね。それなら今絶版の本を買わなくてもいいし」

「かもってことは、出る予定はないんでしょ?」

「ねー教えてくれればいいのに」

 歩きながら、島本さんは受け取った袋を鞄の中に仕舞っていた。

 その時だった、突然テントで本を見ていた女性が後ろへと離れ、島本さんとぶつかったのだ。島本さんは本を鞄にしまうためにちょうど視線を落としたタイミングだった。島本さんはバランスを崩し、口の空いた鞄から持ち物が足元へと落ちる。

「あっ」

「えっ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 ぶつかってきた女性が腰を屈めて荷物を拾う。島本さんより少し背は高いようだが、小柄で痩せた女性。長い黒髪に眼鏡をかけている。僕らと同じくらいの年齢だろうか。

 僕も荷物を拾おうと、手を伸ばしかけたのだが、その女性の「島本さんじゃないですか!」という声を耳にして、なんとなく手が引っ込んでしまった。

 その女性と島本さんは顔見知りであるようで、荷物を拾い終えるやいなや、話始めてしまった。僕は数歩だけ二人から遠ざかる。そして周囲に視線を向ける。

 女の子と一緒にいて、その女の子の知り合いとあったとき、どういう距離感でいればいいのか。これは難問だった。僕は答えを出そうと、何回も考えこんでみたものだ。

 まず考えられるのは、女の子の側にいて、知り合い?なんて話しかけるスタイルだ。スマートで好感度も高い。

 でも、それはコミュニケーションが得意なやつのすることだと僕は考えている。人間、向き不向きがある。僕みたいなやつがそんなことをしようとしたら、所在なさげに会釈して、ああどうも…とでも言わんばかりに、頭を下げられるのがオチだ。

 どうも、と頭を下げて、しばらくの間三人の間には気まずい空気が流れる。しばらくと言ってもほんの少しの間かもしれない。でもそれは、ああ、何か話題を見つけないとな、話しかけないとなということを考えるのには充分な時間だ。

 僕はそういうのが苦手だった。

 だから、僕は島本さんとその女の子が話始めたとき、なんでもないふうを装ってちょっとだけ離れたのだ。なるべく自然に見えるように、近くのテントに並べられている古書に視線を移したりした。その店に並べられているのは、美術、絵画、骨董などをまとめた大判の本で、僕には興味のないものばかりだった。本に興味を持っている様子を出すために、本を手に取ってページを見てみたり、値段を確認したりした。

 自分でもなんでこんな演技をしているか、今になってみれば不思議に思うけれど、当時は大まじめだったのだから苦笑いするしかない。僕はなんだか会話を盗み聞きするのも悪いような気がして、本を見ながらジリジリと二人から離れていた。その途中で島本さんの口から、彼氏という単語が聞こえてきた気がして、その時ばかりは反射的に聞き耳を立ててしまった。仕方のないことだと思う。きっと男子なら共感してくれるだろう。

 二、三分ほどすると女の子と話し終えた島本さんがこちらへとやって来た。

「ねぇ勝手にどこか行っちゃわないでよ」

「ごめん、ごめん。知り合いみたいだったから」

「そうだけど、でも、離れることはないんじゃない?立ってニコニコしてればいいのに」

 立ってニコニコというのが難しいんですよ、島本さん。僕はその言葉を飲み込んだ。

「荷物大丈夫?」

「うん、財布もあるし、ポーチもあるし。ねぇそんなことより」島本さんは困ったような表情だ。「『アメリカのヘンタイの本』ってなにか分かる?」

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