5.オネエ系男子の観覧車は止まらない

 男女の友情は存在する? って有名な質問、あたしはこう答える。

 あるよ。存在するに決まってる。

 相手が男だろうと女だろうと、普通の人でも変わった人でも。友情は成立する。


「ねえ、そう思うよね!?」


 ぐいぐいと相手の襟首を掴んで振ると、それに合わせて髪が揺れた。鎖骨まで伸ばして毛先だけ紫色に染めた髪。校則違反ど真ん中だけど、どれほど注意されてもこいつには響かな


 その揺れる紫色が悲鳴をあげた。


「もー、やめて。頭がグラグラする」

「そう思うよねって聞いてるの。で、あんたはどう思う!?」

「はいはい、成立します、人類みんなフレンド、仲良しこよし、人類皆兄弟――これでいい? そろそろ離して」


 投げやりぎみに言ったところは許さないけど。とりあえず解放。

 あたしが手を離すと、その男は毛先だけ紫の奇妙な髪をかき上げて、言う。


「……やだやだ、そうやって乱暴するのよくないと思うけど? それだからモテないのよ」


 文字だけ拾えば、女みたいな喋り方だけど。発している人の喉を見ればしっかりくっきりと喉仏が浮かんでいて。制服だってスカートじゃなくてスラックス。用を足すときは男子トイレに入る。

 そんなはあたしの親友。美術部部長の五十嵐いがらしひろ

 前は五十嵐って呼んでいたけれど、本人曰く『濁点付きのガ行がゴツい感じしてイヤ』だそうで。それならヒロの方が『ラ行が入っているから綺麗』らしい。そういうわけであたしは彼をヒロと呼んでいる。


 夏休みでも美術部は希望者のみ登校で、作品作りをしたいのために部員がいれば美術室を開けているらしい。といっても閑散としていて、美術室にはあたしとヒロしかいない。


「で。愚痴聞いてほしいんだけど」

「あんた、美術室を何だと思ってるの。ここはお悩み相談室じゃないから」

「いいじゃん。ちょっとぐらい聞いてよ」

「ヤだよ、あんたの愚痴想像つくもん。どうせ『バイトのかっこいい先輩にフラれた』でしょ?」

「えー。なんでわかったの、ヒロってエスパー?」


 机に広げたスケッチブックに視線を落としたまま、ヒロはこちらを見ることなく「そうよ。エスパーだから」と返す。感情はこめず淡々とした物言いから、あたしの話に興味なしってのが伝わってくる。


 冷ややかな態度を取るヒロに対し、あたしはムキになって声を荒げた。


「だって夏だよ? 高校生最後の夏。来年の今頃はあたしたち高校生じゃないんだよ」

「んなもん、カレンダー見りゃ誰だってわかる」

「じゃあカレンダーに書いておいて。夏休みといえばかっこいい彼氏! ロマンス! あたしは彼氏がほしいの、以上!」


 と叫んでもヒロの左手は色鉛筆を動かすのに忙しい。

 こいつ、あたしの話まともに聞いてないな。あたしの主張は、右耳から左耳への快速電車かっつーの。


 文句言ってやろうかと思ったけれど、ヒロが向き合っているスケッチブックが気になった。

 スケッチブックにいるのは女の子。ポーズから察するに何かを見上げているのかもしれないけど、顔はのっぺらぼうで真っ白。顔は輪郭しか書いていないくせに髪や足は丁寧に描きこんでいた。髪はポニーテールで、長いリボンがひらひらと揺れているし、足は実在していたら歩きづらそうな高めピンヒール。特にこだわって書き込んでいるのが女の子の着ているドレスだ。

 紺の色鉛筆は、ドレスを鮮やかに塗りかえるべく、しゃかしゃか軽快な音を立ててスケッチブックで踊る。


「……何描いてるの?」


 ヒロが夢中になって書いているそれが気になって聞いた。

 ヒロはこちらを一瞥もせず、相変わらず色鉛筆を握ったまま答える。


「夜景が似合う女の子。夜景に一番似合うドレスを考えてたの」

「ヒロの理想? これ着てみたいとか?」


 あたしの言葉にヒロは笑った。


「勘弁してよ。女になりたいわけじゃない、性自認は男」

「でもその言葉遣いじゃ誤解されるでしょ」

「周りに誤解されたって平気、好きに言ってくれて構わない。男らしくとか女らしくとかそういう古くさい考えが嫌いなの。私は私なりに綺麗なものを集めてる――この絵も、私が綺麗だなって思うものを描いてるだけ」


 ドレスは夜のような色をして。赤と白の光があちこちにある。夜景に似合うドレスよりも、このドレスに夜景を詰め込んだと言われた方が納得しちゃいそうだ。

 夜にきらめくドレス、歩きづらいピンヒール。これを現実にするのは難しいかもしれない。それを簡単にヒロが書いていく。


「この子の顔はまだ描かないの?」


 その質問は、軽やかに踊り続けていたヒロの手をとめる。色鉛筆はぴたりと止まって、ヒロの視線もスケッチブックから剥がれる。


とうカナデ」


 ヒロの唇がそう紡いだ。

 それはあたしの名前。どうしていま、あたしの名前を呼んだ。


 ヒロの瞳はすっと細くなる。

 瞳に反射しているわけじゃない、あたしはヒロじゃないから彼の視界はわからないけれど、でもそこに映っているのはあたしだって思った。そう思わせる、不思議な力を持った瞳。


「これ、後藤カナデってタイトル」

「は……なんで、あたし?」

「カナデを一番綺麗に魅せる服、一番綺麗な場所、一番綺麗な色。そういうのを書いてた」


 ヒロが真剣に言うものだからあたしまで緊張してしまって、ごくりと喉が鳴った。その音で我に返れば、ヒロはもう普段通りにしていて、それどころかあたしを見てカラカラと笑っていた。


「冗談。もう、なんて顔してんの」


 ほんの一瞬、ヒロがヒロでないような気がしてしまったけれど。冗談という言葉に安堵してほっと息をつく。


「ちょっと仕返ししてやろうと思っただけ。そんな顔されたらこっちまで困っちゃうからやめてよ」


 スケッチブックを閉じて、ヒロはこちらに向き直る。


 スラックスを履いて男子生徒のように見えるけれど、顔立ちは中性的で髪は長いし口調はこの通り。あたしの前にいるのは性別のわからない綺麗な何かだ。


「で。かっこいい先輩にフラれて落ちこんでるんだっけ?」

「そうなの。せっかくの夏だよ? あたしが高校生でいられる最後の夏なのに彼氏ナシって寂しいじゃん」

「夏だからって恋愛する必要ないでしょ。勉強でもしてれば。あんた成績悪いんだし」

「だから遊びたいの! 勉強漬けになる前に、ぱーっと夏を楽しみたかったの」

「はあ……口を開けば夏夏うるさい。あんたってミンミンゼミみたい」


 ヒロは呆れ口調で返し、スケッチブックの表紙をトントンと小気味よく叩く。その爪は前に会った時と違う紫色のネイルに変わっていた。


「……でも高校最後の夏って焦りはわからなくもない」


 規則正しい爪先リズムは途切れて、それから。

 バン、と手のひらでスケッチブックの表紙を叩く。ヒロは立ち上がって、にやりと笑った。


「明日空いてる?」

「ヒマだけど」

「決まりね。ここでウダウダ愚痴ってるぐらいなら気分転換に出かけましょ。ショッピングでもカラオケでも映画でも何でも付き合ってあげる」


 気持ちが滅入っている時に何が必要かわかっているのだと思う。親友ってありがたい存在だ。あたしは嬉しくなってヒロに抱きつく。


「ヒロ~~! ありがと~~!」

「ちょ、苦しい、ギブ、やめて」

「明日楽しみにしてる! ストレス発散ショッピングしよーね!」

「わかった。わかったから離してよ、暴力セミ女!」

「ミーンミン!」

「ああ、もう! 耳元で鳴かないで! うるさい!」


 ほんと、親友ってありがたい。


***


 翌日。

 ヒロと待ち合わせてショッピングへ。せっかくだから、電車に乗って少し離れた臨海地区へ行くことにした。そこは、ショッピングモールの他にも海沿いに続く大きな臨海公園や遊園地があるから、子供連れの家族や観光客が多い。当然、デート中のカップルもいるわけで。


「……気分転換になるかと思ったのに、落ちこみそお」


 手を繋いで歩く幸せそうな恋人たちのおかげで気分は沈んでいく。カップルと通り過ぎるたびため息をつくあたしに対し、隣を歩くヒロは呆れていた。


「ヤダヤダ。辛気くさい顔しないでよ。こっちまで気が滅入る」

「なんで臨海地区にきちゃったんだろ……あたしもあんな風に彼氏とデートする予定だったのに」

「仕方ないでしょ、あんたがモテなかったんだから――ねえ、あれ見にいこ」


 ヒロはぐいぐいとあたしの手を引いて歩いて行く。向かったのはショッピングモールにあるコスメショップだった。入り口の棚に並んでいるのは、いま流行っているお花と宝石をモチーフにしたマニキュアシリーズだ。


 近くのショッピングモールでも販売されているけど人気商品だから品薄で、全色揃っているところなんて見たことない。特にコーラルやベージュ系といったナチュラルな色は入荷してもすぐに売り切れてしまう。


「全色揃ってるのはじめて見た! どれ買おうか迷っちゃう」


 パールの入ったシリーズもいいけどキラキラのラメも夏っぽい。でも普段使いするならナチュラルカラーの方がいいかなあ。

 可愛らしい瓶に入ったマニキュアたちを眺めていると、隣でするりと紫色のネイルが動いた。


「あんたに似合うのはこれ」


 ヒロが選んだのは、塗るには勇気が必要な濃い色。黒に近い紺色で、中に小さなシルバーのラメが入っている。その色は『ラピスラズリ』と書いてあった。


「これ、濃すぎない? あたしに似合う気がしないけど」

「大丈夫。私が言ってんだから信じなさいって」


 自分で選ぶ時は当たり障りないナチュラル系のカラーや柔らかい色を選んでしまう。派手な色を買ったことはなかった。だからためらってしまうけれど。


 買おうか迷っていた優しい色のマニキュアを指さしてヒロが言う。


「あんたの肌にこの色は似合わないの、印象がぼやけちゃう。パステルカラーも合わないね。それならはっきりと目立つ濃い色の方が似合うの、いっそ黒でもいい」

「黒のマニキュアって勇気いる」

「そうね。黒はちょっと極端な色だから、似合うといえど尖ったイメージになる――だからこの色がいい。あんたに似合うディープブルーのラピスラズリ」


 もう一度、そのマニキュアを見る。ラピスラズリって宝石の名前だっけ。もっと青い石だと思っていたのに、小瓶の中に入っているのは黒みたいな紺みたいな不思議な色。


「あとアイシャドウも。無難にブラウン系選べばオッケーなんて思ってるでしょ。無難なものを選んで失敗する癖、やめなさいよ?」

「な、なんでそれを知って……」

「あんたは流行りとか定番とか周りに流されがちだから」


 ずばずばとした物言いで、しかも当たっているから恐ろしい。今日つけている茶色のアイシャドウも雑誌に載っていたからという理由で買ったわけであって。

 ヒロ、恐るべし。


「あたし専属のファッションアドバイザーって感じ」


 感嘆をこめて呟くと、ヒロは得意げな顔をした。


「任せてよ。あんたより私の方が、あんたのことに詳しいから」

「あたしはそこまでヒロに詳しくないかも」

「そりゃ、あんたって周りをちゃんと見てないもん」

「ハイその通りです……」

「ほら、まだ見たいところあるんだから。さっさと次行くよ」


 ヒロが進めてくれたマニキュアは悩んだけれど、買わなかった。元の場所に戻して、先を歩いて行ったヒロを追いかける。



 あたしたちの買い物は続いて。

 コスメに服、かばん、靴――どれもヒロが一緒だと楽しい。的確なアドバイスをもらえるから、自分じゃ勇気のでないものだって買えてしまう。


 ずっと来たかった人気のドリンクショップに並んで、ミルクティーを二つ買う。それを持ってあたしたちは臨海公園に向かった。


 ベンチに腰掛けて休憩。夏はど真ん中で外に出ればうだるように暑いけれど、夕方の海風が心地いいから許される。買い物の疲れも飛んでいきそうだ。


 臨海公園から海が見えて、遊覧船の汽笛がかすかに聞こえた。視界の端には近くの遊園地の観覧車もある。


「やっぱ、ヒロと買い物にくるのが一番楽しい」

「何言ってんだか。あんた、友達多いんだから他の子とくればいいじゃない。西那さんと仲いいでしょ」

「ニナはカレピッピと仲良しだからねえ……最近忙しそうだし、誘いづらい」


 隣に座るヒロが「なるほどね」と相づちを打った。ヒロもニナのことは知っているけれど、仲がいいわけじゃない。ニナとか綾乃から見ればヒロはかなり不思議で変な生徒らしい。


「ヒロは? せっかくの夏休みなのに、友達と遊んだりしないの?」

「友達ねぇ……」


 この風貌や口調もあってか、ヒロが他の生徒と仲良く話しているところはあまり見かけない。一歩引いて見ている生徒が多い。私が知る限り、ヒロの友達っぽい生徒は数人だけ。


やちまた会長と仲良く話してるじゃん。一緒にご飯食べたりしてるでしょ?」

「イヤ。あいつ変な人だから。休みの日まで八街に振り回されたくないの」

「あと……ほら美術部の二年生とか」

「四葉ちゃんのこと? ……あれも勘弁してほしいわ。あの子はボディーガードが多すぎなの。四葉ちゃん取り合っての兄弟喧嘩よ、美術室で昼ドラ見てる気分。私は穏やかに過ごしたいの」


 ぶつぶつと文句を言っているけれど、嫌っているわけではないと思う。ヒロはそういう性格で、表面は嫌そうに不満たれているけれど、八街のことを信頼しているし、二年生の美術部の子を可愛がっている。


「……ねえ。カナデ」


 気づくとヒロの表情に影が差していた。置いていかれた子供みたいに寂しそうな顔をして、こちらを見ている。


「私は一人でも平気だから、無理しなくていいの。あんたは、あんたの友達と遊べばいい」

「そう? あたしはヒロと遊ぶのが好きだよ」


 急に暗い顔をしたから何かと思えば、そんなことで落ちこんでいたなんて。あたしは笑ってヒロの背を叩く。


「オシャレの話も買い物も、価値観が一番似てる。頼れるお姉さんみたいな、最高の親友」

「ちょっと。私、女じゃないからね? 何度も言うけど男よ」

「わかってるわかってる。男だろうが女だろうがヒロはヒロだよ、あたしの親友」

「……あんた、はじめて話した時もそれ言ってたわね」

「言ったっけ?」

「言ってた。私ちゃんと覚えてる」


 数名高校に入ってあたしとヒロは出会った。一年生の時は同じクラスで、ヒロは教室の窓側、一番後ろの席に座っていた。

 その時からヒロはこの口調で、髪も長かった。まだ髪を染めてはいなかったけど、すでに独特の空気を纏っていたから、クラスのみんなは一歩引いて彼に接していた。

 私も最初は戸惑ったもんだ。制服と座る席の位置から男子なのはわかったけど、この口調だからオネエなのかもしれないって思っていた。


「放課後。教室は私以外誰もいなくなったから爪を塗っていたの。家だと色々言われて面倒だから学校でね。そこにあんたがやってきて、私に声をかけたのがはじまり」


 バイトまでの時間潰しのため教室に行ったら先客がいて、それも変人呼ばわりされていたヒロがいた。真剣にマニキュアを塗っているその横顔が綺麗すぎたから、釘付けになった。男も女でもどっちでもいいと思ってしまうぐらい、綺麗に見えた。


『ネイル上手じゃん。ねえ、あたしの爪にも塗ってよ』


 自然とその言葉が出ていた。ヒロは目を瞬かせて『私みたいなやつに?』『男がマニキュア塗ってるの変だと思わないの?』と言っていた。クラスのみんなからどんな風に扱われていたのか、ヒロなりに自覚していたんだと思う。

 でもそんなのどうでもよかった。その時塗っていたマニキュアがどんな色だったかは忘れた。放課後の夕焼けよりもヒロの方が綺麗だと思った。


「『男でも女でも、五十嵐は五十嵐でしょ』ってあんたが言ったの」

「言ったような……うーん、覚えてないかも。だって三年前だし」


 その後からあたしとヒロは仲良くなっていった。


 ヒロの美的感覚は優れていて、あたしに的確なアドバイスをしてくれる。似合う色やファッション、高校生になってから今日まであたしはいつもヒロに頼っていた。


「もう三年ねえ……」

「あたしたちが高校生でいられるのあと半年しかないよ。どうしよ」


 まだ夏、だけれど。あたしたちの時間は確実に減っていく。高校の制服は、静かにカウントダウンをはじめている。


「ヒロは卒業したらどうするの?」

「目指すはファッションデザインの専門学校。私、自分が着飾るんじゃなくて他の人を綺麗にするのが楽しいのよ。化粧もお洋服も、相手に似合うものを見つけたいし、私だけの綺麗を追求したい」

「うん。なんだかヒロらしいね」

「あんたは? カナデは進路どうするの?」


 話を振られて、でもあたしははっきりとした答えを持っていない。ヒロみたいにやりたいことも見つからない、ただ適当に。周りに流されて、とりあえず大学行こうかぐらいのゆるい考えで。


「たぶん、進学かな」

「じゃあ勉強しないとね。あんた頭悪いんだから」


 やりたいことは見つからない。大学に通っている自分の姿が想像できない。

 まだ、高校生でいたい。友達や親友と楽しく過ごす高校生活が来年も続いてほしい。


「ねー……来年もこうして遊ぼうよ」


 でもヒロはすぐ答えなかった。しばらく悩んで、それから。


「来年の夏こそは彼氏作らなくていいの?」

「彼氏と親友は別でしょ」

「……そう、ねえ」


 そこでヒロは話を打ち切ってため息をつく。ミルクティーは手中で温められていて、氷が溶けている。それでもヒロは飲もうとしなかった。


 無言が続いて、それが少しだけ気まずい。


「ヒロこそどうなの? 前に好きな人いるって言ってたけど、進展は?」

「振り向きそうにないねぇ」

「相手は女の子でしょ、いつになったら紹介してくれるの?」


 独特な生き方をしているヒロが好きになる人ってのは気になるもので。いったいどんな子を好きになったのだろう。紹介してよと何度もせがんでいるけれど、ヒロはいつも渋る。


「そのうちね」


 いつもと同じかわし方をして、ヒロは切なく微笑む。


「じゃあさ。あたしたちが卒業して、お互い彼氏彼女いなかったらルームシェアしようよ」

「なんであんたと一緒に住まなきゃいけないのよ」

「いいじゃん。あたしたち気が合うからいけるって」


 卒業したら、こんな風に顔を合わせることはできなくなる。それが寂しくてルームシェアを提案したけれど、ヒロはあまり乗り気ではないようだった。


 そうして話しているうちに日が沈んでいく。オレンジ色の夕日が海に反射して眩しい。


「ヒロ?」

「……なあに」

「急に喋らなくなったから」

「……ちょっと考え事してただけ」


 ヒロは頬に手を当てて何やら考えこんでいる。いつ見てもその紫色の爪は綺麗だ。

 日が沈んで夜になったら。その爪みたいな紫色の夜になったら、家に帰る。楽しかった夏休みの一日が終わっちゃう。夏休みはまだまだ残っているくせに、急に寂しくなった。


「ねえ。観覧車乗ろ」


 気は進まないらしいヒロの手を引いて歩き出す。男のくせに細い指をしていると思ったけれど、触れてみれば熱い。ヒロらしくない温度だと思った。


***


「あたしさ、観覧車ってもっとのんびりしたものだと思ってた」

「のんびりしてるじゃない」

「でも乗る時焦るじゃん? ゴンドラは動いたまんまだから慌てる」

「ふ、なにそれ。あんただけでしょ」


 あたしの話を聞いてヒロが吹き出して笑う。

 扉は閉まって、狭いゴンドラに二人だけ。

 彼氏ができたら一緒にくるはずだった観覧車。予定では臨海地区の夜景を観覧車から見る予定で、でもまだ夜景というほど暗くはない。あたりは夕方の赤い空気に包まれているから。


 対面に座るヒロは外の景色をじっと見ていた。細い指は顎に添えられ、紫色の爪が光を浴びて輝いている。


「そのネイル、綺麗だよね。ヒロって紫色が似合う」


 ヒロはこちらを見て微笑んだ。


「ヘリオトロープ」

「ヘリオ……なにそれ」

「この色の名前。ヘリオトロープって花の色からつけたんだってさ」


 そういえば。二人でマニキュアを見ていた時に、この色があった。どうして覚えているのかというと、ヒロが選んでくれたラピスラズリの隣にこれが置いてあったから。


「似合えばいいなと思って買ったけど、冒険するのも案外悪くないね」

「そうなの? 気に入って買ったのかと思った」

「……買ったのは、自分でも呆れるぐらいくだらない理由よ」

「えー。なにそれ、気になる。花言葉で選んだとか?」

「やだー少女漫画って感じ。そんな可愛いものじゃないからこの話はおしまい」


 観覧車はぐんぐんと上って、臨海地区の景色が離れていく。もう少し時間が遅かったら、臨海地区のビルがライトアップされて綺麗だったことだろう。


「いつか彼氏ができたらこの観覧車に乗ろうと思ってた」

「定番ね」

「隣に彼氏が座って、臨海地区の夜景を眺めて。風が吹いて観覧車が止まったり、プレゼントをもらったり。あー、でも頂上で告白されるってのもいいかも。なんかロマンチックじゃない?」

「話聞いてるだけで胃もたれしそう。夢見すぎ」


 あたしはいたって真面目に話しているんだけど、ヒロは呆れ顔で、とどめにため息のオプション付き。


 恋愛なんて無関係ですって態度をとっているくせに、ヒロには好きな子がいる。だからヒロだって夢を見ればいい。あたしはずいと身を乗り出して聞いた。


「そういうヒロこそ、好きな子とデートしたらどこに行こうとか考えなかったの?」

「考えたとしても言わないわよ、そういうの」

「えー。どうして。親友でしょ、ちょっとぐらい話してくれたっていいじゃん」

「いや。言わない」

「教えてくれないと観覧車揺らす」

「サイテー」


 聞き出そうとしてもヒロの態度は頑なで、視線はあたしではなく窓の外。

 ゴンドラを揺らしてやろうかと思ったけれど、この高さでぐらぐら揺れるのはちょっと怖い。諦めて大人しく座る。



 しばしの無言が続いて、それから。


「……さきのこと覚えてる?」


 ヒロが切り出した。

 三崎ってのは、数名高校の三年生。一年生の時はあたしとヒロと同じクラスだった。でも色々あったらしくて、一時期学校に来なくなった。登校はしていたのかもしれないけど授業に出てこない。たまに姿を見れば、前とは印象ががらりと変わって髪は金髪。不良になっちゃったのかなと思っていたけれど。


「確か、ヒロと仲良かったよね――はっ、まさかヒロは三崎のことが好きとか……?」

「性自認は男って何回言えばわかるのよ。恋愛対象は野郎じゃなくて女の子よ」

「じゃあ、なんで三崎の話を?」


 するとヒロは俯いた。ヒロにとってあまりよくない話なのだろうかと思ったけれど、その声音は予想と違っていて寂しそうだった。


「あの子、彼女と別れてから荒んじゃったでしょ。不良落ちっていうか」

「うん。すごい髪色になったよね。退学するのかなって思ってた」

「髪を染めるの私が手伝ったの、綺麗な金色だったでしょ。本当はだめなことだけど止められなかった。このままテンプレ通りの非行少年になるのかと心配だった――でもあの子、変わったの」


 そう言われてもピンとこないのはあたしが三崎に会っていないから。記憶の中の三崎は授業をサボってどこかへ消えるようなやつだった。どう変わったのか想像つかなくて息を呑む。


「こないだ会って、あの子の髪を黒く染めた。理由を聞いたら『好きな子がいるからちゃんとするんだ』ですって。だから秋からちゃんと学校に来ると思う」

「よかったじゃん。いい話なのにどうしてヒロは喜ばないの?」

「……怖いと思った。恋愛は簡単に人を変える。黒から金色に。いいことも悪いことも、何でも簡単に壊せちゃう」


 ぐ、とヒロの手に力がこもる。紫の爪は手のひらに隠されて見えなくなっていた。


「……簡単に壊せるから、怖い」


 ヒロは恋愛が怖いと言うけれど。あたしはそう思わなくて。

 好きな人に想いを伝えないままでいる方が、もどかしくてたまらない。好きだと思ったら言えばいい。だって動かないと、進展なんて起こらないんだから。


「壊してもいいって、思うけど」

「そう?」

「だって気持ちを伝えない方がいやでしょ。じれったいもん。壊したってその後作り直せばいいんだよ。三崎だって壊した後、新しい好きな人をみつけて、新しい形になろうとしてるんだから」


 あたしが言うと、ヒロは顔をあげた。

 気が抜けたようにふっと笑って「あんたらしいね」と呟く。


 窓の外を見れば、あたしたちのゴンドラはかなりの高さまで上がっていた。さっきは観覧車が止まったらなんて話したけれど、この高さで止まったらちょっと怖い。もう少し下で止まった方が嬉しいかも。


「ここらへんが頂上かなあ」


 前のゴンドラは下降しはじめたところだし、頂上はあたしたちのゴンドラだと思う、たぶん。自信がなくてヒロに聞いてみたけれど。


「――ねえ」


 がたん、と揺れる。

 風が吹いたらなんて話していたから、本当に強い風が吹いたのかと思った。


 でもそうじゃない。視界にいるその人物が、ゆらりと立ち上がっていたから。ゴンドラは狭いのにどこに行くの。その疑問は浮かぶと同時に、泡のように消えた。


 紫色の毛先がすぐ近くにいた。ヒロはじっとこちらを見つめていて、でもあたしたちの距離は三年間一緒にいても味わったことのない至近距離。


 距離は詰まって、紫色の爪が視界を通り過ぎる。頬を撫でるようにかすめて、髪を揺らし、耳を通り過ぎて。真後ろにある窓ガラスで手をつく。逃げ道は塞がれ、追い詰められている気がした。


 この状態で目の前にヒロがいる。親友であってもこの近さは緊張する。身動きどころか呼吸さえためらうほどの。


「……好きだ、って言ったら壊れる?」

「は――ヒロ、なに言って」

「頂上で告白されるのが理想でしょ? だから、」


 すっと短く息を吸いこむ音。ヒロの体重がこちら側にあるからゴンドラは傾いている。それでも観覧車は止まらず、下降していく。


「三年間、あんたのことが好きだったの。親友だって思ってたのは、あんただけよ」


 下降していく。少しずつ落ちていく。

 心臓が急いた理由が何かわからない。でも観覧車は確かに動いている。あたしの視界で、紫色の髪が揺れている。


 好きってなに。親友だと思っていたのはあたしだけ。

 なにそれ。

 理解できない。この距離も発言もぜんぶ、意味がわからない。


 大混乱の中で一つだけ、わかることがあって。

 この近さで見るヒロはとても綺麗で、紛うことなき『おとこのひと』だと思った。

 細身であるけれどその腕は、捕まったら振りほどけない。きっと。


「……手、出して」


 この場で誰が逆らえるか。ぽかんとしながらも手を差し出すと、紫の爪が動く。濃紺の小瓶をあたしの手のひらに残して――それからヒロが戻っていった。


 傾いたゴンドラは落ち着きを取り戻して元に戻り、何事もなかったように対面にヒロが座る。

 こっちは混乱しているというのに、ヒロは憑き物落ちたかのようにすっきりとした顔でくつくつと笑っていた。


「あんた、なんて顔してんの」

「は……だって、いま、え? なに?」

「これ、壁ドンってやつでしょ。そんなんじゃ観覧車が止まっても夢見るロマンス展開にはならないでしょうね」

「ってか、今のって! 親友だと思ってたのはあたしだけってそれ――」


 からかっているんだよね、きっと。

 いつもみたいに『冗談』と笑うんだ。そう思って聞いたのに、ヒロは吹っ切れたようにさらりと言う。


「本気よ。だから私は、あんたとルームシェアしたくない」

「……じゃあ、ヒロの好きな人って」


 そしてヒロはそっぽを向いてしまった。暗くなっていく外を眺めて、頬に手を当てているから表情はわからない。


 あたしは手中の小瓶を見る。

 『ラピスラズリ』と書いてあるマニキュア。昼間にヒロがオススメしてくれたやつ。


 確か。その隣に並んでいたのが、『ヘリオトロープ』のマニキュア。

 ヒロは『買ったのは、自分でも呆れるぐらいくだらない理由』と言っていたけれど。


「……あたしに似合うと思った色の、隣」


 呟くと、対面のヒロが笑った。


「そうね。くだらない理由でしょ、呆れていいよ」


 その後は魔法が溶けていくみたいに。地面が近づいて夢のような空中散歩の時間が終わる。

 けれど無言の空気が、頂上での出来事は嘘じゃなかったんだと告げていた。


***


「さーて。帰りましょうか」


 ゴンドラを降りると、ヒロの様子は前と同じに戻っていた。その表情に気まずさはなく、もしかすると気まずさから目をそらして無理しているのかもしれないけど。


「夜になっても暑いって勘弁してほしい。いつになったら涼しくなるのよ」


 そう言って前を歩く。隣じゃなくてあたしの前を。

 普段通りに振る舞っているけれど、ここで帰ってしまったら何も残らない気がする。

 手中にあるラピスラズリのマニキュアは、夜みたいな紺色をしていた。きらきらしたラメは夜景の明かりみたいに。


 やっと街は電気が点き始めた頃だった。まだかすかに明るい空の、夜の訪れを待っているかのようなビル群の明かり。


「ねえヒロ。夜景見てから帰ろうよ」


 あたしの提案に、ヒロは「やだ」と言って振り返りもしない。


「それは彼氏の役目でしょ。いつか素敵な彼氏に連れてきてもらいなさいよ」


 観覧車であんな風に言ったくせに、なかったことにして振るまって。あたしの返答を聞かず、反応だけを見て勝手に判断する。


「待って」


 先を歩いて行こうとするヒロの腕を掴んで、引き止める。

 あたしよりも少し大きな手のひらに、ラピスラズリのマニキュアを乗せる。


「……なに。いらないから返すってわけ?」


 戸惑い混じりの声がして、あたしは首を横に振る。


「違う。あたしじゃうまく塗れないから、ヒロに手伝ってほしい」

「……それって、どう受け止めたらいいのよ。こっちは本気で言ったんだけど」


 ヒロは呆れているようで、でも怖がっているようにも見えた。


 あたしのうぬぼれかもしれないけど。ヒロは、好きな子に似合いそうな色の隣にあるってだけで紫色のマニキュアを買ってしまうような、三年間を送ってきたんだと思う。その子に親友だと連呼されていたわけで。

 それを壊して一歩踏み出すのは勇気がいる。気持ちを伝えて壊した後は新しい形を作らないといけない。


 だからあたしも、正面からぶつかろうと思った。


「あたしはヒロのこと親友だと思ってたから、まだ整理できていないけど――観覧車でのヒロは『男の人』だと思った」

「はあ? 何回言えばわかるのよ、私は男だってば」

「言ってたけど! 言ってたけど……」


 ヒロの手を掴んで、離さない。ぐっと力を込めるけど、折れることはない。こいつの腕は男の腕なんだって観覧車で学んだから、たぶん大丈夫。


「もっかい観覧車に乗ろう。夜景見よう。今度は観覧車が止まってくれるかもしれないし」


 言い終えると、ヒロが笑い出した。吹っ切れた笑いだけどどこか嬉しそうにしていて。


「……観覧車が止まってほしい女ってどうかと思うわ」

「それはほら。やっぱり夢見ちゃうじゃない?」

「止まる確率って相当低いよ」

「じゃあラッキーじゃん。ねえ行こうよ、夜景見よう」

「わかった、わかったから手を離して。力込めすぎ。痛いのよ」


 力を緩めるとするりとヒロの手は逃げていって、それから。


「あんたって手を繋ぐこともできないの?」


 指と指が絡んで、紫色の爪が見える。触れてみればやっぱり熱いてのひら。


「ほら、行きましょ。たぶん夜景が綺麗よ」


 次に乗る時は観覧車が止まればいい。確率は低いって言われても、やっぱり願っちゃう。

 恋愛が男女の友情を壊したとしても、壊した後に新しいものができればいい。別の形になればいい。


 だから男女の友情は存在する。成立するに決まってる。たまに進化して別の形になることもあるけれど。

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