ペンキ絵師「菅野涼」1

「かなめちゃん。次はこっち頼むわぁ」

「わかりましたー!少々お待ちを!」


 顎を伝う汗を拭うことも出来ないまま、両手で握った手拭いを目の前の朱が差した皺交じりの背中へと擦り付けながら俺は大きな声で返事をする。


 ここはふじの湯。銭湯だ。頭にスーパーが付かない昔ながらの銭湯。サウナや電気風呂、バブルバスなんて洒落たものは残念ながら存在しないし、浴槽は男湯女湯共に一つだけだ。最近幅を利かせているスーパーが付いた銭湯と比べてしまうと残念ながら相手にすらなっていない気もするが、うちの浴槽の上に浮かぶ魂のこもった富士のペンキ絵を見ることは出来ないだろう。ふじの湯の一寸した自慢だ。


 そんなふじの湯では、今日は初雪が舞ったこともあり、急いで用意をした柚子を浮かべてみた。いわゆる変わり湯という奴だ。そのお陰か洗い場にはうっすらと柑橘の爽やかな香りが漂っている。ただ、その香りを俺が堪能する時間はまだ少し先の話だ。


 俺、大久保かなめはこのふじの湯で先代の跡を継いで三助という職業についている。三助については詳しい説明は省くことにするが、銭湯での全般的な業務を行いながら入浴者が希望すれば「流し」と呼ばれるサービスを提供する。その「流し」のサービスの一つには入浴者の体を洗う行為があるのだが、先代にはそれ以上の意味があるということを沢山教えて頂いた。残念なことに先代は鬼籍に入り二年ほどが経ったが、俺は未だあの先代の背中に一歩でも近づけたとは思えなかった。日々、精進をするしか無い訳だ。しっかりと汗を流しながら。


「そろそろ涼ちゃんが帰ってくる頃じゃないのかい?」


 俺に背中を向けたまま、たけしさんが話しかけてくる。湯気で曇った鏡はその表情をはっきりと映すことは事は無かったが、その輪郭線だけで薄っすらと笑っているのだけは理解できた。そこで俺は少しだけ手を止めると顎を伝って落ちる汗を掌で拭い去る。


「さてねぇ。あいつも売れっ子だから忙しいんじゃないでしょうか。師走の忙しいときにこっちに来ることも無いと思います」


 その笑いに気づいていない振りをしながら俺は悍さんの背中に浮かんだ垢を手桶のお湯で綺麗に流し落とし、首周りから肩甲骨周りにかけてのマッサージを始めると悍さんはわざとらしく溜息を吐いた。


「12月って言ったら師走じゃなくて若者ならクリスマスじゃないのかい?」


 まさか米寿を迎えた悍さんに記憶からすっかりと抜け落ちていたクリスマスを説かれるとは思ってもいなかった俺は、乾いた笑いを漏らしながらもマッサージの手を止めることを無かったことを少しだけ自慢したい。

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