第三章・くるみ割り人形(その2)
クリスマスの直前の日曜日には、潮音も通っている森末バレエ教室のクリスマス会が行われた。教室に通っている子どもたちを集めて会が始まるのは昼過ぎからだったが、潮音はその少し前から教室に来て、室内の飾りつけなどを行って会の準備を手伝っていた。室内は色とりどりのモールなどで華やかに飾られていき、部屋の真ん中にはクリスマスツリーが設置された。
その一方で紫は、クリスマスイブに行われる発表会の「くるみ割り人形」の上演に向けて、最後の調整に余念がなかった。潮音はクリスマス会の準備の合間にレッスンルームをちらりとのぞくと、日曜の朝から教室に来て自主的に練習している紫の真剣な眼差しを目の当りにして、自らも身が引き締まるような思いがした。
そのとき潮音が背後に人の気配を感じたので振り向くと、そこに流風が立っていた。
「潮音、クリスマス会の準備サボってるんじゃないの」
「流風姉ちゃんは今度のクリスマスの『くるみ割り人形』の上演には出ないの?」
「イブの当日はうちの学校でクリスマスの礼拝があるからね」
「でも…ほんとにそれでいいの? 流風姉ちゃんは来年は受験だから、今のうちに悔いが残らないように何かやった方がいいんじゃないの」
そこで流風がふと息をつきながら言った。
「潮音ちゃんはいつもそうよね。そうやって人のことまで気を使ってくれるのはいいけど、大学受験があるからといってバレエができなくなるわけじゃないからね」
そうやって潮音と流風が話しているうちに、紫がレッスン室から上がってきた。そこで潮音は紫に飲み物を差し出した。
「レッスンお疲れ様。それにしても紫、ずいぶんレッスンにも熱が入るじゃん」
「私は今度の発表会の『くるみ割り人形』ではクララの役をやるからね。無様な演技は見せられないわ」
「紫のそういうところはやっぱりえらいよ…。ほかの子たちはクリスマスに何して遊ぼうとか、そういうことばかり考えてるのに」
潮音に言われて、紫は当惑したような表情を見せた。
「そんな…。そこまで大したものじゃないよ。私はただバレエが好きだからやってるだけなの」
そこで潮音は、少し意地悪な顔をして紫に尋ねてみた。
「紫ってクリスマスを一緒に過ごそうという彼氏いないの? 紫だったら彼氏なんかすぐできると思うけど。男のバレエダンサーで、かっこいいとか思う人いないのかよ」
潮音の茶化したような言葉に、紫はムッとした顔で答えた。
「余計なこと言わないでよ。クリスマスをどう過ごそうと人の勝手でしょ。今はそんな色恋沙汰にかまってる暇なんかないの」
その紫の反応を見ながら、潮音は内心で紫ほどの美少女に彼氏がいないのはもったいないと思うと同時に、もし紫に彼氏ができたらできたで複雑な気持ちになるのだろうなとも思っていた。
「でも紫はレッスンで疲れてるのに、その後クリスマス会に出るんだよな。あまり無茶しすぎない方がいいよ」
「クリスマス会だってうちのバレエ教室にとっては大切な行事なのよ。こうやって一人でも多くの子どもに、教室は楽しいと思ってバレエを好きになってもらわないとね。その中から未来のプリマドンナが生れるかもしれないよ」
「紫って本当にバレエが好きなんだね」
そこで流風が口を開いた。流風は先ほどから潮音と紫が話すのを見て、自然と笑みを浮べていた。
「峰山さんも潮音ちゃんと仲良くなってくれて何よりだわ。私もこの子が周りとちゃんとうまくやっていけるかちょっと心配だったんだけど」
流風は安堵したような口ぶりで話していたが、潮音は自分はただ学校で知り合った仲間と自然につき合いたいと思っているだけなのに、周囲からは心配な目で見られていることにいささか複雑な思いを抱いていた。潮音は暁子もこのように自分のことを心配しているということがわかっているだけに、あらためて暁子の表情を思い出して気が重くならざるを得なかった。
潮音たちが用意してきた弁当を食べて昼食を済ませた頃になって、バレエ教室にはクリスマス会に参加する子どもたちが集まってきた。その中には紫の双子の妹の萌葱と浅葱の姿もあった。
クリスマス会ではまず、子どもたちでツリーの飾りを作ることになった。潮音や流風は子どもたちの世話をする役になったが、潮音が目を配っていると、紫は子どもたちに対しても優しい態度で接しており、子どもたちも素直に紫の指示に従っていた。それを見て潮音は、紫の子どもに対する接し方のうまさに感心するだけでなく、子どもたちもバレエの巧みな紫に強く憧れていることをひしひしと感じていた。
やがて子どもたちの作った飾りをみんなでツリーに飾りつけてから、部屋を暗くしてツリーに取りつけた色とりどりの電球をともすと、子どもたちは歓声をあげた。潮音たちもそれを笑顔で眺めていた。
その後もみんなでケーキを食べたりゲームをしたりしたが、参加している子どもたちが皆楽しそうに和気あいあいとしていることに、潮音も紫も満足そうな表情をした。
やがて冬の陽が早くも西に傾きかけた頃になってクリスマス会はお開きとなり、潮音は流風や紫と一緒に後片付けにとりかかった。そこで潮音は手を動かしながら、ふと紫の方を向いて言った。
「紫はやっぱりすごいよ…。あのちびっ子たちを優しく丁寧にちゃんと世話するだけでなく、子どもたちもみんな紫になついているのだから。これってやっぱり、うちの教室の子たちはみんな紫に憧れてるってことだよ」
その言葉を聞いて、紫は照れくさそうな顔をした。
「紫はあれだけ子どもの世話もうまくやってのけるのだから、その気になれば保育士にだってなれるんじゃないか」
そこで紫は手を横に振った。
「保育園に集まってくる子は、うちの教室に通っているようないい子ばかりじゃないよ。うちの学校では中等部のときに保育園で実習をやるんだけど、あのときはほんとに大変だったんだから。…それに子どもの世話だったら、流風先輩だって上手じゃない」
潮音は先ほどのクリスマス会で、流風も子どもたちを優しく上手にあやしていたことに気がついた。潮音はそれはやはり、モニカから受け継いだ素質なのかもしれないと考えていた。
しかしそこで、紫が急に神妙な面持ちになって流風にたずねた。
「流風先輩って来年は高三で大学受験ですよね。そしたらバレエはやめるのですか?」
紫の問いかけに、流風も少し困惑したようだった。
「たしかに来年になったら受験のためにレッスンには来られなくなるけど…別にバレエをやめるわけじゃないよ」
「でも流風先輩はやはり東京の大学に行くのですか? そしたら流風先輩とはいっしょにバレエをできなくなりますね」
「そんな寂しそうな顔しないでよ。私だってまだ東京に行くかも決めてないし、それに私と別れることになってもバレエは続けられるでしょ。むしろ峰山さんこそ、来年一年間は教室の中心になってみんなの面倒を見てあげないとね。それに峰山さんの妹の萌葱ちゃんと浅葱ちゃんだって、来年は小学六年生でしょ? やはり中学は私立を受験するわけ?」
「萌葱も浅葱も、私立に行きたいとか言いながら遊んでばかりいるけどね」
紫はため息混じりに言った。そこで潮音も紫に尋ねてみた。
「紫こそ、大学どうするんだよ。そりゃ紫くらいの成績だったらオレなんかよりずっといい大学行けそうだし、紫こそ東京行ってもいいんじゃないか? オレは知らないけど、東京だっていいバレエの教室はいっぱいありそうだし」
「…そうは言っても、東京の大学行って下宿とかしたらお金かかるからバレエを続けられるのかな。練習が大変でバイトもできないかもしれないし」
紫が顔を曇らせると、流風が紫をなだめるように言った。
「あまり考えすぎない方がいいよ。楽しみながらバレエを続けられたらいいじゃない」
その流風の優しげな言葉を聞いても、紫の表情はどこか浮かなかった。
そうしているうちにクリスマス会の後片付けも一段落し、帰宅する間際になって紫が潮音を呼びとめた。そのとき紫が手にしていたものは、クリスマスイブの日に行われる、「くるみ割り人形」の発表会のチケットだった。
「潮音にもこれを分けてあげる。二枚あるから、残りの一枚で家族でも友達でもいいから誰か誘っていいよ」
そのとき潮音は、優菜から昇をバレエの発表会に誘ってみてはと言われたことを思い出して、少し気恥ずかしくなった。
潮音は発表会に誰を誘うべきか、もやもやした気持ちを抱えたまま帰途に就いたが、自宅に着く頃には冬の陽は早くも暮れかけていた。しかしそこで、潮音を呼び止める声がした。
「藤坂さんじゃない。どこに行ってたの?」
その声の主は昇だった。潮音はよりによってこんなときに昇に出会うなんてと思わずにはいられなかった。
「今日は私の行ってるバレエ教室のクリスマス会だったんだ。…それにこの前の期末テストのときは勉強教えてくれてありがとう。おかげでテストは助かったよ」
昇は潮音の心の動揺には気づかないかのように、笑顔で答えた。
「そんなに気を使ってくれなくたっていいよ。勉強でわかならいことがあったら、いつでも僕のところに聞きに来ればいいから。ところで藤坂さんはクリスマスはどうするの?」
そこで潮音は、深く息を吸い込んで心の迷いを抑え、覚悟を決めると昇に向かってはっきりと口を開いた。
「あの…私の通っている森末バレエ教室では、イブの日に『くるみ割り人形』の公演をするのです。もしその日空いていたら、見に来てくれませんか。私が案内するから」
そして潮音は、昇にチケットを示した。潮音は昇がこの誘いを承諾するかどうか、胸を高鳴らせながら緊張気味に回答を待った。
ほんの数秒の沈黙の後で、昇はおもむろに口を開いた。
「…いいよ。イブの日なら空いてるから」
昇のその回答を聞いたとき、潮音は一気に体中の緊張が解きほぐされたような気がして、思わず表情をほころばせていた。
「え、ほんとにいいの?」
「ああ。イブの日に女の子から誘われたら、断るわけにはいかないじゃん」
その昇の言葉には、潮音はますます赤面せざるを得なかった。
当日の待ち合わせの時間を決めて昇と別れたときには、もはや夕焼けも消えかけて西の空も明るさを失い、冬の宵闇が辺りに漂っていた。寒さが身にしみるようになったので潮音はあわてて自宅に戻ったが、その後も潮音の心からは迷いが消えなかった。実際潮音は、なぜ先ほど自分自身が昇をバレエの発表会に誘ったりしたのか、自分自身わからなかった。それに自分が昇とつき合っていることを知ったら暁子はどんな顔をするかという戸惑いも心から消えなかったが、潮音はいずれにせよここまで来た以上もう後には退き返せないと覚悟を決めるしかなかった。
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