第三章・海の輝き(その5)

 その翌朝、潮音が神戸に帰るために荷物をまとめようとしていると、智也が照れくさそうな顔で話しかけてきた。


「潮音姉ちゃん、帰るまでに近所の公園でちょっとだけキャッチボールしない?」


 そう言う智也は、すでに手にグローブを二つ持っていた。


 しかしその智也の提案には、智也の母親の睦美が難色を示した。


「ちょっと智也、あまり無茶言うんじゃないの。みんな帰る準備してるんだから」


 睦美がそのような態度を示したのは、潮音が半袖のブラウスに、花柄をあしらったフレアのロングスカートという、およそ運動には不向きな服装をしていたからだった。


 しかし潮音は、その智也の提案を快く受け入れた。


「いいよ。一緒に公園に行こうか」


 それには暁子も困惑の色を浮べた。


「ちょっと潮音、そのかっこでほんとに大丈夫なの?」


 それに対して潮音は笑顔で答えた。


「ちょっとキャッチボールをするくらいだから大丈夫だよ。いちいち着替えるのもめんどくさいしね」


 そのまま潮音は、智也と一緒にボールとグローブを持って近所の公園に向かうことにした。それには栄介も一緒について行くことになった。



 潮音は公園に着くと、さっそく左手にグローブをはめて智也とキャッチボールを始めた。潮音は智也とボールのやりとりをしながら、智也が所属している野球チームのことなどについて話をした。それによると、智也は相変らずなかなかレギュラーには手が届かないようだったが、それでも以前に比べて野球をやるのが楽しくなってきたと話していた。それを聞いて、潮音も嬉しそうな顔をした。


「確かにそうだよね。智也君は春休みにキャッチボールをしたときに比べて、投球のコントロールもだいぶ良くなっているような気がするよ」


 しかし智也は、潮音のような女の子とキャッチボールをするのは、日ごろの野球の練習とは勝手が違うようで、どこかまごまごしている様子は潮音の目にも明らかだった。特に智也は、潮音の胸元や揺れるスカートが気になっているようだった。


 潮音はそのような智也のそぶりが気になったので、智也にわざと意地悪っぽく声をかけてみた。


「智也君ってクラスにだれか好きな女の子とかいないの?」


 その潮音の問いかけには、智也だけでなくそばにいた栄介までもが赤面した。智也はキャッチボールの手を止めずに、決まりの悪そうな顔で口を開いた。


「そんなことどうだっていいでしょ」


 しかし潮音はそのような智也の様子を前にしても、笑顔を崩そうとしなかった。


「智也君だってそのうちにそういう女の子と出会うかもしれないよ」


 潮音に言われて、智也は照れくさそうにしていた。


 そこで潮音は、智也と交代して栄介とキャッチボールを行うことにした。しかし栄介は、智也以上に今の潮音の姿に戸惑っているように見えた。そのような栄介の態度に、潮音は少々じれったさを感じていた。


「栄介とこうやって一緒に遊ぶのは久しぶりだよね。ちっちゃな頃はそれこそこんな風にして、一緒にキャッチボールをしたこともあったじゃない。栄介も遠慮しないでもっと思いっきりボール投げてくればいいのに」


 潮音は栄介ともっと本気で話したかったが、智也が目の前にいる以上、あまり込み入った話をするのは憚られた。栄介はますます複雑そうな表情を浮べながら、黙々と言葉少なにボールを投げ続けていた。


 潮音は昨晩、栄介は一緒に海水浴や釣りをすることで、今の潮音の姿を受け入れられるようになったと口でこそ話していたものの、やはり心の中では自分自身の姿が変ってしまったことに対して戸惑いが抜けていないのかと思った。そう思うと潮音は気が重くならずにはいられなかったが、それでも潮音は栄介に対しては変に態度を以前と変えたり、壁を作ったりせずに、以前と同じように接するしかないと考えるほかはなかった。


──栄介にどのように思われても、そこで自分をごまかすような真似はしたくない。だって自分は自分なのだし、そんなことをしたらかえって栄介をバカにするような気がするから。


 潮音たちは一時間ほどでキャッチボールを切り上げると、一登の家に戻ることにした。その途中で栄介は、遠慮気味ながらこっそり潮音に話していた。


「今日は久しぶりに一緒にキャッチボールできて楽しかったよ。また一緒に遊べたらいいね」


「そりゃいつだって遊び相手になってあげてもいいけど…栄介は来年中三だろ。そろそろ高校受験のことも考えなくていいのかよ」


 潮音に受験の話を持ち出されると、栄介はいやそうな顔をした。そのような潮音と栄介の様子を見て、智也は思わず口を開いていた。


「なんか潮音姉ちゃんと栄介兄ちゃんって、どっちかというとお兄ちゃんと弟みたいな感じがするね。潮音姉ちゃんって話し方もちょっと男みたいだし」


 そこで潮音と栄介は互いに顔を見合せた。そう話すときの智也の無邪気な表情や口ぶりが、潮音と栄介をますますまごつかせていた。



 潮音たちは一登の家に戻ると、帰り支度の続きに取りかかった。そして昼前になって、一登の家の門の前でみんなで記念写真を撮ってから、潮音たちは一登の運転する車に乗りこんで家を後にした。智也はいつまでも祖父母の傍らで門の前に立って、潮音たちを乗せた車の影が小さくなるのを名残惜しそうに眺めていた。


 その後すぐに潮音たちは、島の名物のお好み焼き屋に立ち寄り昼食を済ませた。お好み焼きが鉄板の上で香ばしい香りを立てたときには一同は表情をほころばせたが、ボリュームのボリュームのあるお好み焼きには、特に優菜が満足そうにしていた。


 それから車は海峡に架かる橋を渡って、新幹線の新尾道駅に着いた。その駅前で、潮音たちは一登に別れの挨拶をした。


「この四日間お世話になって、ほんとに楽しかったです。どうもありがとうございました。みんなによろしくと言っておいてください」


 潮音が丁重に頭を下げると、一登も笑顔で車に乗り込みそのまま走り去った。


 潮音たちが新幹線に乗り込んで席につくと、さっそく優菜がスマホをチェックした。


「今年の高校総体は北海道であるみたいやけど、さっそく玲花からもう北海道に着いたと連絡が来とるわ」


「北海道か…涼しそうでいいなあ」


「でもマネージャーの仕事が大変やというとるよ。北海道には遊びや観光で行くんとちゃうんやから。椎名君の出場する大会は、あと三日後にあるみたいやで」


「あいつも練習頑張ってるだろうな」


 そこで潮音もスマホをチェックすると、紫からの連絡が入っていた。紫の通信には、信州で行われたバレエの合宿は練習がハードで大変だったが、それだけに学ぶことも多く、全国から集まった合宿の参加者とも仲良くなれてとても充実していたと書かれていた後で、「潮音も家に帰ったらバレエの練習頑張ろうね」と結ばれていた。


「みんな夏休みだからといってだらけずに頑張ってるよね。家に帰ったらさっさと宿題やらなきゃ」


 しかし潮音と暁子、優菜が親しげに話している中で、栄介一人がその輪に入れずにどこか不満そうな顔立ちをしていた。そこで暁子が、栄介をなだめるように言った。


「ごめん栄介…あんたのこと無視してあたしたちだけで話をして。でも栄介は、やっぱり潮音が自分から離れちゃったような気がしているの?」


 そこで栄介は首を振って言った。


「しょうがないよ…潮音兄ちゃんは女の子になって、今は姉ちゃんと同じ学校に通ってるんだから。今じゃむしろ、潮音兄ちゃんは女の子になってからも、うちの姉ちゃんとずっと仲良くしてほしいと思っている」


 そこで暁子は、ふと息をつきながら栄介に言った。


「栄介もやっと、今の潮音のことを受け入れられるようになったみたいね」


「栄介、オレに対して不満があるならはっきりそう言えばいい。オレはそれにはこたえられないかもしれないけれども、変に遠慮されるよりそっちの方がいいから」


 そこで栄介は、さっそく潮音に向かって口を開いた。


「潮音兄ちゃんのバカ。いきなり女の子になっちゃうなんて…それもこんなにかわいくなるなんてずるいよ」


 さすがにそれには、暁子が戸惑いの色を浮べた。


「ちょっと栄介、潮音だってなりたくてそうなったわけじゃないのよ」


 しかし潮音は首を振って言った。


「いいんだ。むしろ栄介がこうやってはっきり本音を言ってくれて、むしろほっとしてるよ」


 そこで栄介は、決まりが悪そうにぼそりと謝った。


「…ごめんなさい。でも『不満があるならはっきりそう言えばいい』なんて言うから…」


「そんなに謝らなくてもいいよ」


 しかし潮音と栄介のやりとりを眺めながら、優菜は少し考えていた。


──栄介ちゃんはもしかして、潮音のことを異性として意識し始めとるんやないやろか。そりゃ栄介ちゃんかて年頃の男の子なんやから、そうなるのはむしろ当然かもしれへんけど…。


 優菜が複雑な思いを抱えている間にも、新幹線は東に向かっていた。新幹線の窓から見える景色は、いつしか夏の陽が傾いて強い西日が照らしつけるようになっていたが、青々と茂った田んぼの稲穂も実りかけており、さらに青く澄んだ空の高みに浮かんでいるすじ雲が、夏も終りが近づいていることを示していた。

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