第三部

第一章・夏への扉(その1)

 期末テストも終り、梅雨明けを控えて窓を照らす光も強さを増してくると、夏休みに向けて松風女子学園の教室内の雰囲気もいやおうなしに浮足立ってくる。生徒たちの話題も、夏休みの予定のことが中心になっていた。夏休み中も成績が今一つのために学校の補習に強制参加させられたり、部活の練習に明け暮れたりする生徒も少なくないが、受験のことなど気にせずに夏休みを満喫することができるのは今のうちということもあって、どの生徒の顔つきも自然と明るくなっていた。


 そのようなある日の休み時間、潮音は吹屋光瑠から声をかけられた。


「藤坂さんは夏休みはどうするの?」


 潮音は少しの間答えに窮した。


「ううん…水泳部に入ったしバレエの教室もあるからねえ。せめて一回くらいはどこか遊びに行けたらいいなって思ってるんだけど」


「あたしもこの夏はバスケ部の練習があるけどね。でもこの夏は家族で沖縄のリゾートホテルに行く予定にしてるんだ。今から沖縄の海で泳ぐのが楽しみだよ。今年はスキューバダイビングにも挑戦してみたいな」


 それを聞いた天野美鈴も羨ましそうな表情をした。


「沖縄か…ええなあ。うちは夏休みはいつも田舎のお祖父ちゃんの家に行っとるけど。空気もきれいで食べ物もおいしいで。特におじいちゃんの育てたトマトやキュウリやスイカを、田舎の澄んだ川の水で冷やして食べたら最高や。それに夜になったら星がめっちゃきれいやで」


 その傍らでキャサリンは、皆の夏休みの予定を興味深そうに聞いていた。そこで潮音はキャサリンに尋ねてみた。


「キャサリンはやっぱり夏休みにはイギリスに帰るの?」


 そこでキャサリンは笑顔で答えた。


「はい。でも八月のはじめにここで花火大会があると祖父から聞かされているので、それを見てからイギリスに帰ろうと思います。祖父は私のために、ちゃんと浴衣も用意してくれたのですよ」


 そう言ってキャサリンは、スマホをいじって金魚の柄が描かれたあでやかな色あいの浴衣の写真を潮音に見せた。潮音はキャサリンがこの金魚柄の浴衣を着ているところを想像して、思わず顔をほころばせた。


 いつしかキャサリンの前には、生徒たちが人だかりを作っていた。その中でも本好きの寺島琴絵は、キャサリンの話を聞いて憧れで目を輝かせていた。


「いいなあ…私もイギリス行きたいなあ。ロンドンの大英博物館にも行きたいし、シャーロックホームズやハリーポッターの聖地巡礼もしたいけど、ピーターラビットの舞台になった湖水地方に行ってみたいんだ」


「私はイギリスに行くなら、ビートルズとかクイーンとかのロックの聖地に行ってみたいわあ」


 そう答えたのは、ロックが好きで自らも校内でバンドを組んでギターを弾いている、能美千夏のうみちなつという少女だった。


「いつかみんなで一緒にイギリスに行けたらいいですね」


 キャサリンはニコニコしながらみんなの話を聞いていた。そこで潮音は琴絵と千夏にきいてみた。


「寺島さんや能美さんは夏休みはどうするの?」


「私は文化祭に向けてバンドの練習があるからね。いっぺんくらいライブに行きたいと思ってるんだけど」


 千夏が答えると、琴絵も口を開いた。


「私は東京のビッグサイトで開かれるコミケに行きたいと思ってるんだけど…。親戚の家に泊めてもらってね」


 潮音は「コミケ」の名は聞いていたので、そこで琴絵が同人誌などを買っている様子を思い浮べて変な気分になった。キャサリンも日本の漫画やアニメに興味をもっているだけに、「コミケ」という言葉を聞いたときにはわくわくしているようだった。


「私も秋葉原に行ってみたいです」


 そうやって話が盛り上がっていたところに、峰山紫の姿が現れた。


「峰山さんはこの夏休みはどうするの?」


 潮音は日ごろ紫と話すときは、フランクに「紫」と呼んでいたが、そばには紫に憧れている長束恭子の姿もあったため、あまりなれなれしく紫を名前で呼ぶことは憚られた。潮音に尋ねられると、紫は潮音を向き直して言った。


「私はこの夏は、信州で行われるバレエの合宿に参加するの。日本中からバレエを習っている子たちが集まってきて、高原のホテルでみっちり練習したり、バレエの歴史や技術について講義を受けたりするからね。一日レッスンを受けるとクタクタになるけど、日本だけでなく外国からも一流のバレエの指導者が来て指導してくれるし、同じ合宿をした子とも友達になれるから、とても充実してるよ」


 潮音は今の自分のバレエのレベルでは、とてもじゃないけどこの合宿にはついていけそうにないと思って、思わず身を引きそうになった。しかしこれを話すときの紫は、どこか寂しそうな様子だった。


「来年や再来年になると、受験に向けて勉強も大変になるだろうからね。悔いが残らないように今のうちにバレエに打ち込んでおきたいの」


 潮音は紫の話を聞いて、紫がすでに受験も視野に入れていることや、この夏休みの目標をきちんと立てていることに対して、いささかの気後れを感じずにはいられなかった。そこで紫のそばにいた恭子が声をかけた。


「紫もさすがやな。うちもこの夏休みはテニス部の練習があるし、テニス部かて合宿はあるけど」


「テニス部の合宿って何やるんだよ」


 潮音にきかれて、恭子はいやそうに答えた。


「そりやテニスの練習に決まっとるやろ。夜になると消灯時間までみんなで花火やゲームをやったりもするけど…。ところで藤坂さん、四月にうちと対戦してから、ちょっとはテニスの練習したん? 藤坂さんさえ良かったら、いつでも相手になったるで」


「悪いけど私だって峰山さんと一緒にバレエの教室に通ってるし、それに水泳部にも入ったからね」


「へえ。藤坂さんもけっこう頑張っとるね。でも勉強は大丈夫なん。言うとくけど宿題もけっこう出とるで」


 そこで潮音が痛いところを突かれたとでも言わんばかりに、ぎくりとした表情を浮べると、恭子はふとため息をついた。


「図星やったみたいやな」


「ああ。さすがに強制補習はなかったけど、この成績じゃ夏休み中も何週間かは補習に行かされそうだよ」


「…まあがんばりや」


 そう言うときの恭子の表情は、さすがに潮音に少し同情しているようだった。


 そのように夏休みの話題で教室はにぎやかになっていたが、その中で潮音は榎並愛里紗のことが気になっていた。家計が裕福ではない愛里紗は、夏休みだからといって浮かれて遊んでいていいのだろうかと思ったからだったが、わざわざ楓組の教室まで出かけて行って愛里紗にそれを聞くことに対しては、どうも後ろめたい思いが抜けなかった。


 その日の放課後になって、潮音が帰宅しようとしていると、ばったり体操部の練習に向かう途中の愛里紗に出会った。潮音は気後れする気持ちを抑えて、思いきって愛里紗にきいてみた。


「あの…榎並さんって夏休みはどうするの」


「体操部のほかは学校の補習と塾の夏期講習に出るからね。私は夏休みだからといって浮かれて遊んでる余裕なんかないの」


 つれない態度を取る愛里紗に、潮音はさらに聞いてみた。


「お金ないならバイトしたら…」


「その分の時間と手間をかけて今勉強したら、将来もっとたくさんお金がもらえるようになるでしょ。だいたい、バイトするにしたってそのお金を何に使うのか、何のためにバイトするかよく考えないと、そんなお金すぐにむだづかいしてなくなっちゃうよ」


 潮音はそれを聞いて、みんなやりたいことや将来のことについて考えてるのだなと思ったが,それにひきかえ自分は何をやっているのかと自問せずにはいられなかった。自分なりにバレエや水泳もやってきたし、勉強にも遅れないように必死でついてきたつもりだったが、それが成果をあげているのかと問われると、潮音も自信がなかった。


 そこで潮音は、浩三や昇のことを思い浮べていた。浩三はこの夏は高校総体に向けて水泳の練習と筋トレに明け暮れているだろうし、昇だって一流の大学に入って弁護士になるという目標のために、この夏休みも学校の補習に出たり、場合によっては塾や予備校の夏期講習に参加したりしているのだろうなと思うと、自分も夏休みだからといって呑気に遊んでばかりはいられないということを感じ取っていた。


 そのようなことを考えながら潮音がちょうど玄関で靴をはきかえようとしたとき、潮音を呼び止める声があった。その声の主は石川暁子と塩原優菜だった。


 潮音は暁子や優菜と一緒に駅までの道を歩きながら、その二人にも夏休みの予定について話を聞いてみた。


「あたしは手芸部にちょくちょく出るかな。文化祭のバザーにどんなものを出すかという話し合いもあるし。でも潮音、宿題もけっこう出てるよ。あまり夏休みだからといって遊んでばかりいちゃだめだよ」


 暁子に言われると、優菜もいやそうな顔をした。


「アッコ、せっかくの夏休みなのに宿題の話なんかせんといてよ。でも潮音、水泳部に入ったからにはちゃんと練習にも来なければあかんで」


「オレはバレエもあるんだけど…」


 潮音が当惑気味の表情を浮べると、優菜は潮音をなだめた。


「だからそんなに根詰めて無理することないやん。たまには楽しいこともせなあかんで」


 そして優菜は暁子を向き直して言った。


「アッコはこの夏、やっぱあの島にあるおじいちゃんの所に行くん?」


「ああ。また行けたらいいなと思ってるんだけど」


「春休みに潮音と一緒に尾道やアッコの実家に行ったときはほんまに楽しかったよ。この夏も一緒に行けたらええのにな」


 そのように春休みの旅行のことを話すときの優菜は、本当に楽しそうだった。潮音も内心では、この夏に島に行けたら楽しそうだなと思っていた。


 そこで優菜は、潮音と暁子に提案した。


「夏休みになったら一緒に水着選びに行かへん? まだあの島行くかどうかはわからへんけど、この夏は海かプールにいくことあるやろ」


 その優菜の提案には、潮音と暁子も思わず顔を赤らめていた。潮音は自分が女になって初めて迎えるこの夏休みこそ、いろいろ騒がしくて大変なものになりそうだなと直感せずにはいられなかった。

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