第四章・インビテーション(その2)

 潮音が暁子や優菜と一緒にテスト勉強をしようと決めた日曜日が来ると、潮音はさっそく自宅の隣にある暁子の家に足を向けた。服装も長袖のTシャツにハーフパンツというラフな装いで、暁子の家のインターホンを押すと、玄関口には暁子の姿があっただけでなく、優菜もすでに来ていた。


「暁子、一緒に勉強しようと誘ってくれて助かったよ。オレ一人だったら絶対ダレて勉強が手についてないと思うからね」


「勉強のことで困ってるのはみんな一緒だからね。その代わり今日はみっちりやるよ」


 暁子が玄関口で潮音を迎えると、優菜もさっそく潮音を居間へと通した。


「潮音も来たことやし、早よ勉強始めな」


 潮音たちは三人でさっそく居間のテーブルの上に問題集やノートを広げ、英語の問題を解き始めた。英単語の意味を答えたり、英文を読んで設問を解いたりしたが、答え合わせをしても潮音は暁子や優菜に比べて勉強の進み方が遅れていることは明らかだった。


 そうこうしているうちに時間は正午を過ぎて、暁子の母親の久美が作った昼食をみんなで食べる席についても、暁子の表情からは不安の色が抜けなかった。


「潮音、ほんとに大丈夫? そりゃあんたは入試の前に大変なことがあって受験だって苦労したし、高校になじむのもほかの子より大変だったことはわかるけど…」


 しかし潮音は、暁子に対してきっぱりと言った。


「暁子が心配してくれなくたって結構だよ。だからといってテストで手加減してもらえるわけじゃないし。それにうちの学校でみんなそれなりに頑張ってるのを見ると、オレだって負けてられないと思うんだ」


「…あんたのそういうところは好きだよ。中学のときから水泳部だって頑張ってたし、今だって峰山さんを見てバレエを始めたりもするし」


 暁子がしんみりとした顔で言うと、潮音は照れくさそうな表情をした。そこで久美が安堵したような表情を浮かべた。


「こういうとこ見てると、暁子と潮音ちゃんの関係は昔と全然変ってないわね。これからも潮音ちゃんはずっと暁子と友達でいてくれたらいいのに」


 久美にまでそのように言われて、潮音は気恥ずかしい思いがした。しかしそこで、暁子が口を開いた。


「でも潮音、こないだのゴールデンウィークにはおめかしして峰山さんと一緒に神戸の街にいってたんだって? あたしの知らないうちにそんなことするようになってたなんて」


 それを言うときの暁子は、どこか悔しそうな表情で唇を噛みしめているように見えた。


「オレが誰とどこ行こうと勝手だろ。もしかして妬いてるのかよ」


「そりゃ峰山さんは美人だし、勉強だってなんだって私なんかとてもかなわないのはわかるよ」


「そんなに気にすることないだろ。暁子は暁子なんだから」


 潮音がそう言って暁子をなだめると、ようやく暁子も落着きを取り戻したようだった。そこで優菜も口を開いた。


「あたしも潮音が松風みたいな女子校でちゃんとやっていけるか心配やったけど、思うたよりみんなとも仲良うしとるし、うまいことやっとるやん。潮音はもっと自分に自信持った方がええよ」


 優菜にまでそのように言われて、潮音の顔からは戸惑いの色が抜けなかった。


 昼食を済ませると、潮音たちは今度は数学の勉強を始めた。しかしそこでも潮音は、数学の公式を覚えたり問題を解いたりするのに苦労しているようだった。理科や社会でも、潮音は覚える事項の多さに戸惑っていた。そのたびに潮音は、暁子や優菜から勉強についてのアドバイスをもらうこともちょくちょくあった。


 やがて夕方になったので、潮音と優菜は勉強を切り上げてそれぞれの家に戻ることにした。


「暁子…今日はどうもありがとう。今日一日でだいぶ勉強はかどったよ」


 潮音にお礼を言われると、暁子も照れくさそうにしていた。


「潮音こそ何言ってるのよ。あたしだって勉強で困ってたんだから、お互い様じゃん。ほかにも勉強でわからないところがあれば聞きに来ればいいよ。あたしじゃあまり力になれないかもしれないけど」


 そのように言う暁子の傍らでは、久美がニコニコしながら二人のやりとりを見守っていた。


 潮音と優菜が暁子の家を後にしたところで、優菜はぼそりと潮音に口を開いた。


「アッコはどうも、潮音のこと気にしとるみたいやね」


 潮音はその優菜の言葉を聞いて、思わず優菜の顔を見返した。


「アッコはちっちゃい頃から潮音のこと一番わかっとったのは自分や、特に潮音が女の子になってしもてからは、自分がなんとかして潮音のこと支えたらなあかんと思っとったんとちゃうか。しかしそこに峰山さんが現れて、潮音が峰山さんと仲良うしおるの見て、アッコは焼きもち焼いとるのかもしれへんな」


「暁子のやつ…オレのこと心配するより先に自分のこと心配すればいいのに」


 潮音がため息混じりに言うのを聞いて、優菜はさらに言葉を継いだ。


「アッコは自分でも気いついとらへんのかもしれへんけど、もともと潮音が男の子の頃から、ちょっと潮音のこと好きやったんとちゃうかな。その潮音が女の子になってしもて、スカートかて普通にはいて周りの女の子とも仲良うしとるし、だんだん女の子の色に染まっていくのを見て、アッコは自分が今までよく知って仲ようしとった潮音が変っていくのに不安を感じとるのかもしれへんな」


「まさか…あいつがオレのことそんな風に思ってたなんて。じゃあオレはどうすりゃいいんだよ」


「潮音ってほんま鈍感やな。潮音はあまり気張らんと、自分のやりたいようにしていればええと思うよ。無理に女らしくする必要もないけど、自分はもともと男やったからといって、下手に男ぶることもないし。アッコにとっても、潮音が自分の選んだ道を進んで自分らしくして、幸せになるのがいっちゃん嬉しいはずやと思うよ。だけど潮音がしっかりせえへんと、アッコかて安心できへんから、そのことには気いつけるんやな」


 優菜がそう言って潮音の家の前で潮音と別れてからも、潮音は暁子のことがずっと頭から離れなかった。そして潮音は自分の部屋に戻ると、あらためて先ほどの優菜の言葉を思い出していた。


──「自分らしく」って何だよ…。暁子や優菜はオレのために気を使ってくれていることはわかるけど、オレはそれがわかんないから、こんなに悩んでいるのに。


 そして潮音は、自分が高校を受験する前に綾乃が言った言葉を思い出していた。


──その「ありのままの自分」であるってこと、そして「自分らしく生きる」ってことこそがね、本当は一番つらくて厳しい道なんだよ。


 そのとき潮音は、自分が中学の水泳部で浩三とともに水泳の練習に明け暮れていたときのこと、そしてバレエ教室でレッスンをしていたときの紫の真剣なまなざしを思い出していた。


──オレは水泳では椎名にとてもかなわなかったし、バレエでは峰山さんにかなうはずがない。でもそれでもオレは負けるわけにはいかない。そのためにも今のオレは前に進むしかないんだ。


 そして潮音は机に向かい直すと、あらためて問題集を広げてみた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る