第四章・人魚姫(その6)
ショッピングモールを後にして自宅まで戻る間も、潮音は暁子やほかの女の子たちも、みんな初めてブラをつけたときには同じように感じたのだろうかと考えると、周りの景色も目に入らなかった。
そして綾乃と潮音が家に着いたとき、家の前の道路を自動車が走ってきて、潮音の家の右隣の空家の前で停まった。そしてその自動車の中から、メガネをかけた潮音と同い年くらいの、長身ですらりとしたおとなしそうな少年と、その少年の母親らしい身なりもきちんとした温厚そうな女性が降りてきた。自動車を運転していた真面目そうな容貌の男性は、どうやら少年の父親のようだったが、自動車は二人を下ろすと近くの駐車場に向けて走り去った。
綾乃と潮音が誰だろうと思っていると、少年の母親が潮音に近づいてきて声をかけた。
「すいません。私たちは三月の末にこの家に引越すことになりました。これからよろしくお願いします」
少年は母親の傍らで、何やら気恥ずかしそうな表情をしている。潮音が対応の仕方に困っていると、潮音の家の中から則子が出てきた。則子が母親と二言三言会話をしていると、しばらくして少年の父親も駐車場から歩いてきた。
則子は一家を自宅に招き入れて居間に通すと、あらためて父親から名刺を受取った。
「湯川さんというのですね。もうすぐお隣さんになるけど、何かあったら遠慮なく聞きに来て下さいな」
しかし少年は両親が雄一や則子と話している間も、綾乃と潮音の姿を前にしながら、どこか緊張気味に落ち着かなさそうな態度を取っていた。そのような少年の姿を見て、母親が声をかけた。
「昇もきちんとあいさつしなさい」
そこでようやく、少年は緊張気味に口を開いた。
「はい…ぼくは湯川昇といいます。よろしくお願いします」
そこで綾乃も手軽に自己紹介を済ませると、潮音にもあいさつするように言った。潮音はもじもじしながら口を開いた。
「あの…私…は藤坂潮音といいます。今中学三年で、今度高校に入学する予定です」
「今度高校入るんだ。じゃあぼくと同い年だね」
昇が屈託のない表情で答えても、潮音は気恥ずかしそうな表情をして、それ以上会話が続かなかった。潮音はよりによって、下着を買いに行った帰りに男の子と会うなんてと、何とも言えない居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
綾乃はそのような潮音の様子を、じれったそうに見ていた。
「もっとほかに言うことはないの? 変に身構えることなんかないのに。ところで湯川君だっけ、潮音と同い年ということは、高校はどこ行くの?」
「…尚洋学園です」
その「尚洋学園」という言葉を聞いて、綾乃は目を丸くした。
「尚洋行ってるんだ。すごいじゃん。だったら高校受験なくてエスカレーターよね。私もバイトで家庭教師やってるけど、尚洋の入試って難しいわ。どうりで頭良さそうな顔してるじゃない」
潮音も尚洋学園の名は、東大や医学部にも毎年多数の進学者を出している私立の有名男子校として知っていた。潮音は自分には縁のない世界だと思っていた学校の名をこんな所で聞くなんてと思いながら、あらためて昇の顔を見返した。潮音は昇のいかにも秀才タイプといった感じの、柔和でおっとりした顔つきや、誠実で礼儀正しい落ち着いた態度は、自分がこれまで中学で一緒にバカ騒ぎしてきた悪友たちとは違うと直感的に感じていた。
そこで綾乃は、昇に声をかけた。
「この子は四月から松風女子学園に入学するの。これからもよろしくね」
「まあ。松風ってお嬢様学校じゃない。なかなかいいわね」
綾乃の言葉に反応したのは、むしろ昇の母親の方だった。則子は潮音の複雑な心中などそ知らぬかのように、すでに昇の母親とすっかり意気投合しておしゃべりに花を咲かせていた。
昇の一家が潮音の家を後にして、車が走り去った後、綾乃は潮音の方を向き直しながら言った。
「あの昇君…けっこうあんたのこと気にしてたじゃん。ちょっぴり内気で気が弱そうなところがあるけどなかなか優しそうで、あんたともいい友達になれそうね」
「冗談はよしてくれ」
「あまり変に気を使わないで、自然にしてりゃいいじゃん。そうすりゃきっと向こうだってわかってくれると思うから。でもさっき、あんたはあの男の子の前で変に身構えてたじゃない。それに自分のこと『オレ』じゃなくて、ちゃんと『私』って言ってたし」
「そんなことどうだっていいだろ」
「でも潮音、ちょうど女の子の服着てるときでタイミング良かったね。もし部屋着であの男の子に会ってたら、みっともないことになってたわ」
むっつりしている潮音を前にしても、綾乃はニコニコした表情をしていた。
潮音は自分の部屋のドアを閉めて一人になると、あらためて先ほどの昇の表情を思い出していた。そして潮音は、もう一度自分の姿を鏡で映してみた。春らしい軽快な色合いのブラウスとカーディガン、カラフルなスカートは、たしかに潮音の目にもかわいらしく映った。しかしだからこそ、潮音は昇が先ほど自分に向けていた視線が気になっていた。
昇は潮音が女だということに対して、何の疑いも持っていないに違いない。しかしだからこそ、潮音はもし自分がウィッグを外し、学生服を着て男子生徒として学校に通っているところを見られたら、昇は自分にどんな目を向けるだろうかと考えていた。
──姉ちゃんはあんな調子のいいこと言ってたけど、もしかして自分はあの男の子をだましていることになるんじゃ…。でも、ほんとの自分から逃げたくないと思ったからこそ、今日わざわざ下着まで買いに行ったんだろ?
そこで潮音は、意を決して袋の中から買ってきたばかりの下着を取り出した。そして潮音はスカートの裾から手を入れてボクサーショーツに手をかけ両足から引き抜くと、代わりにすべすべした生地でできた女物のショーツを手に取り、両足を通してスカートの下に潜らせるようにして腰まで引き上げた。
しかしスポーツブラを付け替えるためにはいったん上半身の服を全部脱がねばならない。潮音はめんどくさいのでスカートもいったん脱いでからブラに手をつけたが、また背後でホックを留めるのにも手間がかかった。
ようやくブラをつけ終わると、潮音はあらためてレースの刺繍をあしらった下着を身に着けた自分自身の姿を鏡に映してみた。潮音ははじめこそ気恥ずかしさのあまり、鏡の中の自分を直視することができなかったが、いざ下着をつけた自分の姿を見ても、その下着は体のラインにフィットしていてほとんど不自然さを感じさせなかった。
潮音は服を着直して身なりを整えても、周りの景色が明らかに変ったように感じていた。潮音はしばらくの間、両腕で胸を抱きしめたまま胸の動悸を抑えようとしていたが、やがて姿勢を正すとぐっと胸を張った。
ここで潮音は、あらためて先ほどの昇のまなざしを思い出していた。そこで潮音は、自分の頭を覆っているウィッグを外してみた。
潮音が今身にまとっているかわいらしい感じの服と、男の子のようなベリーショートヘアとは、いささかミスマッチに見えた。潮音は昇が今の自分の姿を見たらどんな顔をするかと、あらためて気にならずにはいられなかった。
ふとそこで、潮音が周囲を見渡すと、先日から部屋の隅に置かれたままの人魚姫の絵本の表紙がふと目にとまった。潮音はあらためて絵本を手に取ると、先日の流風の言葉を思い出していた。
──流風姉ちゃんもあれだけ悩みながら、それを誰にも伝えることができなかったのだろうか。でもオレだって、自分の気持ちをきちんと人に伝えられる言葉なんかないのかもしれない。…その点で人魚姫と一緒か。でもたとえ自分がどうなるとしても、そこから逃げたくはないから。どんな苦しいことがあっても、それに負けたくはないから。今はただ…この人魚姫のように、前に進んでいける勇気が欲しいから。
そこで潮音は口をきゅっと閉ざしながら、あらためて人魚姫の絵本を両手で抱きとめていた。
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