第一章・鏡(その2)

 日曜日。秋も終りの澄みきった青空からはぽかぽかとした陽光が降り注いでいるものの、風が当たるとすでに肌寒さを感じる季節になっている。潮音は黒い詰襟の学生服に身を固めて両親や綾乃と一緒に、海の近くの街道沿いの古びた家並の一角にある、どっしりとした屋敷の門の前に立っていた。この屋敷こそが都市化が進む前、この一帯が街道沿いの漁師町だったころから続く旧家だった潮音の実家だった。その屋敷のすぐ近くでは、海の神をまつった神社も社殿を構えていた。


 潮音の一家が門の前に着くと、すぐに屋敷の門の中からぱっちりとした大きな目の、彫りの深い顔をした一人の女性が現れた。彼女は黒い喪服を身にまとっているにもかかわらず、陽気で明るい性格でややオーバーアクション気味に潮音たちを迎えてくれた。そして玄関先では紺色のジャンパースカートという、シックな高校の制服を身にまとった、潮音よりほんの少しだけ年上に見える少女が控えていた。


 潮音とその実家の家族との間には、少々複雑な関係があった。潮音の祖父の敦義あつよしの先妻、つまり潮音の父の雄一の実母は雄一がまだ中学生の時に病気で早世したが、敦義は五十代も半ばを過ぎてから自分と三十歳ほども歳の離れたフィリピン人の女性と親しくなって再婚した。このフィリピン出身の後妻──つまり年齢は潮音の両親と全く離れていないにも関わらず、血縁上は潮音の祖母にあたる──こそが先ほど屋敷の前で潮音たちを迎えた藤坂モニカであり、玄関口にいた少女は敦義が六十歳近くになってモニカとの間に設けた娘の流風るかだった。


 このような事情から、流風は血縁上は綾乃や潮音の叔母にあたるわけだが、潮音とはわずか一つ年上なだけであり、まして綾乃よりも年下だった。しかし綾乃や潮音は子どもだったころはそのような複雑な事情などあずかり知ることもなく、流風とは普通の親戚同士として親しく遊んでいた。しかし流風は成長して自らの出自を自覚するにつれて、フィリピン生れの母親の美貌を引き継ぎながらも、内向的で物静かで、歳の割に大人びた、どこかミステリアスな雰囲気をたたえた少女になっていった。そして流風は小学校を卒業すると、中高一貫のミッション系の女子校である布引女学院に進学した。


 藤坂家の親族の中にはモニカや流風に対して好感を抱かない者もいたが、潮音は会うたびにいつも優しく接してくれて、いろいろなことを教えてくれたりする流風のことが好きだった。特に流風は幼少のころからバレエを習っていて、潮音が小学校の低学年のときに発表会でバレエを踊る流風を見ると、潮音はその可憐な踊りに魅せられていた。そしてすぐに潮音は、自分もバレエを習いたいと母親の則子にせがんだ。流風の通っているバレエ教室に男の子の姿は数名ほどしかおらず、周囲から珍しがられることもしばしばだったし、実際に小学校でも「男のくせにバレエなんかやって」とクラスの悪ガキからバカにされたこともあったが、それでも潮音は流風と一緒にバレエができることが楽しかった。小学校も卒業が近づくと、勉強やそのとき入っていたサッカークラブとの両立が大変になって潮音はバレエをやめてしまったが、それでも潮音の流風に対する憧れは変らなかった。 



 親戚一同を集めて敦義の屋敷の大広間で法事を行い、その後で会食に入ったにもかかわらず、親戚の中にはモニカや流風と顔を合わせようとしない者もちらほらいた。


 会食を済ませた後、潮音は秋の日の照らす屋敷の縁側で、苔むした庭を眺めながら綾乃や流風と話し合っていた。


「そっか…。潮音ちゃんは今度高校受験だよね」


「流風姉ちゃん、そうやって『ちゃん』づけで呼ぶのはやめてよ」


 潮音はいやそうな顔で答えた。潮音は流風が、こうやって自分を「潮音ちゃん」と呼ぶことに抵抗を感じていたのだった。


「でも流風姉ちゃんはいいよ。中高一貫で高校受験ないんだから」


「潮音、そのかわり流風ちゃんは中学受験やってるんだからね。それに潮音ったら、受験生のくせしてろくに勉強もしないし」


 綾乃が困った表情で話している間も、流風は潮音の着ている詰襟の学生服をしげしげと眺めていた。女子校に通っている流風にとって、男子の制服姿を見るのは珍しいらしい。


「学ランってけっこうかっこいいよね」


 流風がそう言って潮音の学生服を撫で回すと、潮音はなんとなく面映いような心持になった。


 しかしそこで、潮音の祖父の敦義が潮音を呼ぶ声がした。何かと思って潮音が敦義のもとに向かうと、敦義は土蔵の中の整理を手伝ってほしいと言った。


「わしもそろそろあの物置の中を整理せなあかんと思とるんやけど、このところ腰が痛くてな。潮音君に手伝ってもらえへんやろか」


 そして敦義は庭の奥に建っているどっしりとした古い土蔵を示すと、ポケットから鍵を取り出して、普段は固く閉ざされたままの扉を開けた。潮音が興味深げに土蔵の扉に目を向けると、敦義が潮音を土蔵の中に手招きした。


 潮音が土蔵の中に足を踏み入れると、カビ臭いひんやりとした空気に思わず息をつかされた。しんと静まり返った薄暗い宝物庫の中には、埃をかぶった古い箱や木像が、誰からも目を止められることなくひそかに佇んでいた。潮音はあたかも昔絵本で読んだ、魔法の森の中に足を踏み込んだかのような錯覚にとらわれていた。


 潮音は土蔵の中の収納品に目を配っている敦義を横目に、いつしか宝物庫の奥に足を踏み入れていた。そのとき潮音は土蔵の奥でふと何かがキラリと輝いたのに気づいた。──それは丸くて古い鏡だった。


 潮音はなぜかその鏡から目が離せなくなっていた。その鏡は薄暗い土蔵の中で、ひときわ明るく輝いているように見えた。


 潮音はそっと鏡を手に取った。裏側に華やかな装飾の施されたその鏡は、古びているにもかかわらず、なぜか普通の鏡とは違った澄み渡った光を放っていた。潮音はなめらかな鏡面に映った自分の顔を見つめているうちに、鏡の中に吸いこまれそうな感じがして、一瞬頭がくらりとした。


 そのとき、潮音の目の前にぼんやりとイメージが浮かび上がった。──あでやかな薄紅色の振袖の着物に身を包んだ、まだあどけなさを残した少女の姿が。しかしその少女は顔つきこそよく見えなかったとはいえ、なにやら寂しそうな表情をして潮音の方を見ているらしいということはわかった。


 ふと潮音が我に返ると、先ほどの少女の姿はどこにもなかった。


──この鏡、いったい何なんだろう。それにさっきの少女の姿は…。


 潮音が気になりかけたときだった。いきなり鏡が強い光を放ったかと思うと、もやのようなものが鏡の中からたちのぼった。潮音はなぜと驚く間もなく、次の瞬間目がくらみ、意識が遠ざかったままその場に倒れこんだ。


 敦義も潮音からふと目を離したすきに、宝物庫の奥からいきなり強い光が発せられたのを見た。敦義がいやな予感を感じてその方に向かうと、宝物庫の奥の収蔵品の間で潮音が気を失って倒れていた。そしてその傍らでは、古い鏡がひんやりとした床の上に転がっていた。敦義はあわてて潮音を介抱し、声をかけたが目を覚まそうとしない。敦義はいったい何が起きたのかに疑問を感じる余裕もないまま、家から他の親戚たちを呼び寄せて潮音を家の中へとかつぎこみ、布団に寝かせた。



 潮音がようやく目を開けたのは、数時間ほどが過ぎて晩秋の早い日も西に傾きかけたころだった。潮音が起き上がると、布団のまわりには潮音の親戚たちが集まって、みな安堵の色を浮かべていた。


「オレ…いったいどうしたんだ。土蔵の中にあった鏡を見ていたら、何もしないのにいきなり鏡がキラリと光ったかと思うと…あれ、なんか頭がぼーっとするし、体がだるい…」


 潮音が口を開くと、敦義が心配そうな表情で声をかけた。


「ほんまに大丈夫なん、潮音。驚いたよ。いきなり変な光が出たかと思たら、お前が土蔵の奥で倒れとったんやから」


 敦義の隣では、モニカも心配そうな表情をしながら勇の顔を見ていた。


「ほんま心配したんよ。みんながいくら声をかけても起きへんし…」


 しかし潮音は、自分の身に何が起きたか、自分自身ですら十分に認識することができなかった。


「あの鏡…いったいどうなったんだろう。それにあの着物を着た女の子は…」


「女の子?」


 敦義とモニカは、きょとんとして顔を見合わせた。


「ちゃんとかたづけといたから。それにしてもこの鏡、いったい何なんやろ」

 

 そう言って敦義は潮音に鏡を見せた。しかしその鏡を見て潮音ははっと息をついた。その鏡は薄汚れた表面に光をただにぶく反射させるだけで、先ほどのような妖しい輝きは消え失せていた。


 潮音は布団から起き上がると、あたかもキツネにつままれたような面持ちで、黙ったままじっとその鏡を眺めていた。そのような潮音の様子を見て、潮音の母親の則子がそっと声をかけた。


「どうなったのかよくわからないけど、この子にとっては今が受験の追い込みの大切なときだし,何かあったら大変だわ。ともかく今日は家帰ってゆっくり休んだ方がいいみたいね」


 敦義の屋敷を後にする潮音の家族たちを、敦義やモニカ、流風は不安げな面持ちで見送った。


 しかし潮音が家に帰ってからも、頭がぼんやりする感じと体のだるさは抜けなかった。潮音は勉強の進み具合を気にしながらも、カゼかなんかだろうと思って早く床につくことにした。しかしそのときすでに、潮音の体の奥では変化が始まっていた。

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