序・ある夏の日(その2)

 潮音は半袖のワイシャツと黒い学生ズボンの制服に着替えて、学校を後にした。潮音と浩三は家の方向が同じなので、途中までは一緒に帰るのが常だった。


 潮音が浩三と別れて、西日が照り返す通りを歩いていると、やがてうっそうとした公園の木立が見えてくる。この住宅地の一角を占める少し大きめの公園は、近所の子どもたちの恰好の遊び場になっていて、潮音も小さなころからよく遊びに来たものだった。


 潮音はしばらく公園の入口にたたずんだまま、公園の中をじっと眺めていた。地面の上には、青々と葉を茂らせた木立が濃い影を落し、梢の間からは夏の夕方の強い西日が漏れている。公園の中央にある噴水から流れ出すせせらぎの音や、時折思い出したように勢いよく聞こえてくるセミの鳴声も、そのしんみりとした空気の中にしみこんでいくように思える。


 ちょうどそのとき、後ろで呼び止める声があった。


「潮音、部活の帰り? 椎名君と一緒に帰ったとこでしょ」


 振り向くと潮音の同級生の石川暁子いしかわあきこが、潮音のすぐ背後に立っていた。その隣には、先ほどまで潮音と一緒に水泳部の練習に参加していた塩原優菜の姿もあった。暁子は潮音と家も隣同士で、二人が物心つかないころからずっと家族ぐるみのつきあいをしていた。そして優菜は潮音や暁子と同じ町内に住んでいて小学校も一緒であり、特に暁子とは小学校のときからの親友だった。


「ああ…暁子じゃないか。いままで塾か?」


「そうよ。でも潮音、水泳部に精を出すのはいいけど、ほんとに高校受験大丈夫?」


「もうすぐ大会があるからな。それ済んだらやめて勉強するよ。椎名くらいの腕があったら推薦もらえるかもしれないけど、オレはとてもそこまではいかないし」


「だったらここの公園でぼさっとしてないで、さっさと家帰って勉強したら?」


 暁子が心配そうな表情で潮音に声をかけると、そばで話を聞いていた優菜までもがいやそうな顔をした。


「アッコ、受験の話なんかせんといてよ。私も部活で大変やから、勉強どないしようと思っとったのに」


 その優菜の言葉を聞くと、潮音はあらためて公園の中を見返して言った。


「いや、たしかに勉強はしなきゃいけないけど、この公園に来るとついつい昔ここで遊んだこと思い出しちゃって」


 潮音に言われると、暁子も急にしんみりとした表情になった。


「いや、ついつい昔ここで遊んだこと思い出しちゃって」


 潮音が答えると、暁子も急にしんみりとした表情になった。


「そうよね。あたしもよく潮音や優菜と一緒にこの公園でいろいろ遊んだっけ。椎名君なんかあの高い木に登ろうとしたこともあったし」


「アッコは椎名君に木の上から登って来いやと言われて、真っ先に登ろうとしたっけ」


「もう…昔の話じゃん」


 暁子は優菜の言葉にため息をつきながら、明るさを失いかけた夏空を見上げた。潮音が公園の木立の影に目を向けると、幼いころにここで一緒に遊んだ友達の歓声までもが、耳元にかすかに響いてきそうな気がした。



 潮音は公園を後にするとそのまま暁子や優菜と一緒に、自宅の方向に向かった。しかし潮音と暁子が親しげに話すそばで、優菜はどこかもじもじしていた。


 そこで優菜は、ぼそりと口を開いた。


「あの…藤坂君ってずっと神戸におるのに、なんで関西弁出えへんの? アッコかてそうやし」


そこで潮音と暁子は答えた。


「オレは母さんが東京の出身だからな。父さんとは東京の大学で知り合って、そのまま大学卒業してから何年かたった後に結婚したみたいだし」


「潮音にはお姉ちゃんがいるけど、そのお姉ちゃんも関西弁出ないしね。あたしだってお父さんはもともと広島の出身だし」


 そこから優菜も、少しおしゃべりの輪に加われるようになった。やがて優菜の家の近くで優菜と別れると、暁子は潮音にたずねてみた。


「潮音は高校どうするの?」


「あまり遠くないところがいいかな。できれば水泳部のあるとこ行きたいし。暁子は?」


「悩んでるんだ。県立に行くか私立に行くかもまだ決めてないし」


「暁子の成績だったら、高望みしなきゃだいたい行けるんじゃないか」


「それ言ったら優菜の方がもっと成績上よ。でもあたし、小学校までおとなしかった優菜が、まさか中学で水泳部みたいな運動部に入るとは思ってなかったわ」


 しかしそこで暁子は急に神妙な面持ちになると、口からふと言葉を漏らしていた。


「ねえ潮音…あたしたち、来年の四月に高校行くようになってもずっと一緒にいられるのかな」


 その暁子の言葉に、潮音は不意をつかれたような気がした。


「どうしたんだよ暁子、急にまじめな顔して…。そんなのまだわかるわけないだろ。学校別になっても、何も会えなくなるわけじゃないんだから」


 潮音はまだ、自分のそばから暁子がいなくなることが実感できないようだった。そのような潮音の態度に暁子は少し寂しそうな表情をしながら、あらためて暮れかけた夏空をじっと見上げた。



 二人の家の前まで来ると、ちょうど潮音の四歳年上の姉の綾乃あやのも家に戻ったところだった。彼女はちょうど今年の春に大学に入ったばかりで、一見ちゃらんぽらんそうに見える。しかし暁子は彼女のことを「綾乃お姉ちゃん」と呼んで、あたかも実の姉のように慕っていた。


「潮音、暁子ちゃんと一緒なの」


「綾乃お姉ちゃんはサークルですか?」


「うん、まあね。でも暁子ちゃんはちゃんとまじめに勉強してるのに、潮音ももうちょっとまじめにやんなきゃ。母さんもぶつくさ言ってたよ」


「なんだよ、姉ちゃんまで」


「ま、潮音が水泳やりたいと言うのなら、悔いが残らないようにとことんまでやればいいけど。そうやって気持ちを切り替えた方が、勉強にも身が入るでしょ? それに潮音、中学入るまではあんなグズで弱虫だったのに、水泳部で鍛えられたおかげですごくたくましくなったよ」


 綾乃が潮音の浅黒く日焼けした顔を見て言うと、暁子もそれに続いた。


「そうよね。潮音は小学校のときはどっちかというと目立たなかったのに、中学入ってからなんか男らしくなったもんね」


「そんなに言うなよ。これでもうちょっと背が高くなればいいんだけど」


 暁子の言葉を、潮音はいささか気恥ずかしそうな表情で聞いていた。


「でも小学校の頃の、バレエ習ってた頃の潮音も今になってみるとけっこうかわいかったよね」


 その暁子の言葉には、綾乃も同感だと言わんばかりにニコニコしながらうなづいた。


「男がバレエやって悪いのかよ」


 暁子と綾乃の様子に潮音がふて腐れたような表情をしていると、ちょうど暁子の二つ違いの弟の栄介えいすけもサッカー部の練習から家に帰ってきた。


「姉ちゃん、このところ潮音兄ちゃんと仲いいよね」


「どういう意味よ、栄介」


 暁子はむっとした表情で言った。


「でも暁子も小学校のときは乱暴でいたずらばかりして、しょっちゅう怒られてばかりいたのに、最近なんか大人っぽくなったよな」


「そうそう。姉ちゃんは最近アクセサリーとか集めたり、ずっと鏡に向って髪型とか考えたりしおるし」


 栄介が茶化すような様子で言うと、暁子はむっとした表情をした。


「あんたら、言わせておけば…。栄介も後で覚悟しときなさい」


 そう言って暁子は潮音の手をつねった。そのような暁子の様子を、綾乃は少々呆れたような表情で眺めていた。


「暁子ちゃんもそういうとこなんかは昔のままよね」


 綾乃が笑顔を浮かべて言うと、暁子は顔を赤らめた。


「たくもう…。でも綾乃お姉ちゃん、美容院に行って髪にパーマ当てたの? そのイヤリングも新品じゃない。綾乃お姉ちゃんも大学に入ってからますますおしゃれになったのに、あたしもそういうのにもうちょっと気を使った方がいいかなって思ってるんだけど」


 軽くため息をついている暁子に、綾乃はそっと声をかけてやった。


「おしゃれなんかいつだってできるでしょ。高校受験は一生に一度だからね。それに自分らしいおしゃれの仕方なんて、そのうちわかるようになるわよ」


 暁子が綾乃の言葉にいささかほっとした表情を浮かべて、栄介を連れてそそくさと自分の家に入るのを見送ると、潮音と綾乃も自分の家に入った。



 日が暮れるころになると、潮音と綾乃の母親の則子のりこが保険外交員の仕事から帰ってくる。そして夕食の準備が始まり、潮音と綾乃、則子の三人で夕食のテーブルを囲んでいろんなことについて話し合う。父の雄一ゆういちは仕事が忙しくて、夕食の時間に間に合わないことが多くなっていた。


 夕食がすむと潮音はさっさと自分の部屋に戻り、テレビも見ずに机に向かった。しかし練習疲れが残っているせいか、ノートにシャープペンシルを走らせる速度も鈍りがちだ。潮音がついうとうとしかけると、いきなり後ろから頭をこづかれた。


「これ、寝るんじゃないの」


 潮音が振り向くと、綾乃が立っていた。


「姉ちゃん…部屋に入る前にはノックくらいしろよ」


「何よ、今ごろこうなってるだろうと思って起しに来たのに」


 そうやって二人がいがみあっているとき、則子が声をかけてきた。


「二人ともいいかげんにしなさい。お風呂わいてるから早く入ったら。でも潮音、ほんとに水泳部もいいけど、もうちょっとまじめに勉強したら?」


「だからもうすぐ大会終ったらやめるって」


 ちょうどそのとき雄一も会社から帰ってきて、藤坂家はひときわにぎやかな談笑のひとときを迎えた。

            


──しかし、このわずか数か月後に、どこにでもいるような中三の受験生だった潮音の運命が急転するとは、いったいだれが予想しただろうか。

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