第四章・人魚姫(その3)

 その翌日からも、潮音の心の中からは、海辺で聞いた流風の言葉がなかなか離れなかった。黒い学生服を着て、男子として登校してみても、果たして自分はこのままでいいのだろうかという思いが抜けなかった。


 もはや潮音は、自分ですらよくわからなくなっていた。黒い学生服を着て、胸の膨らみをナベシャツで隠して学校に通っている自分が「本当の自分」なのか、なぜ毎日登校する前にこのようなめんどくさいことをしなければいけないのかということが。


 その次の週末になって、ようやく潮音は自室の整理にとりかかろうとしていた。潮音にしてみれば、そうすることで少しは気持ちの整理ができるのではないかという気になっていた。


 潮音が戸棚の中を整理すると、小学生のときに描いた絵が出てきた。その絵にはロボットや自動車を描いたものが多かったが、潮音はそれを見て、もしも自分がはじめから女だったら、やはり赤やピンクのクレヨンを使って人形や花、マスコットの絵を描いていたのだろうかとふと考えていた。


 ミニ四駆やプラモデルといった、潮音が小さいときから持っていたおもちゃも、このさい処分してしまおうと思った。しかしそのときには、本当に男の子だった自分の過去と訣別するような気がして、一抹の寂しさを覚えずにいられなかった。


 次いで潮音はクローゼットを開き、中に入っている衣類を取り出した。今の体型に合わない男物のトランクスは処分することにしたものの、なんとか今でも着られるシャツやトレーナーはそのままにしておいた。ジーンズやズボンは今の体形には微妙に合わなくなっていて、特にヒップのあたりが窮屈なのが難点だったが、それらを買い替えると金だってバカにならないから、必要となれば綾乃や流風のおさがりを譲ってもらって順次買いそろえていけばいいだろうと思った。なんとか服を整理すると、潮音はこれからこのクローゼットにはどのような服が増えていくのだろうと考えていた。


 ちょうどそのとき、潮音の部屋の前で綾乃の声がした。


「どう潮音、部屋の片づけはかどってる?」


 その声に潮音があわてふためく間もなく、綾乃が潮音の部屋に入ってきた。そこで綾乃は、捨てるものと取っておくものに振り分けられた潮音の持ち物を眺めて言った。


「このプラモやカードゲームも捨てちゃうの? あんたあれだけ好きだったのに」


「うん…どっちみちもう子どもじゃないんだ。あとこのサッカーボール、小学校でサッカークラブに入ったとき父さんが買ってくれたんだっけ…あまりうまくはなれなかったけど」

 

「捨てることないじゃん。女だってサッカーやってる人は大勢いるよ。ところで、もちろんあれは捨てるんでしょうね」


「あれって何だよ」


「またー、にぶいんだから」


 そう言うそばから綾乃は、潮音のベッドの下をまさぐってヌードのグラビアが載った雑誌を取り出した。


「違うんだ姉ちゃん、それはクラスの友達のお兄ちゃんが買ったのをもらっただけで…」


 潮音はすっかりあわてふためいている。


「今のあんたにはこれはもう必要ないわね。さ、捨てた捨てた」


 そう言いつつも綾乃は、雑誌のグラビアをパラパラめくって眺めている。


「あんた、こんな娘の写真見ながら喜んでたの?」


 綾乃が呆れ顔でページを広げると、潮音は困った表情を浮かべた。


「だから違うんだってば」


 綾乃はなんとかして潮音を落ち着かせて、部屋から立ち去ろうとした。しかしその間際、黙々と荷物の整理に向う潮音の寂しげな後ろ姿が目についた。


「あんたねえ、なんだかんだ言ってるけど、あんたこそが男とか女とかそういうのにいちばんとらわれすぎてるんじゃない。もっと自然にしなよ」


「自然にって…どうすればいいんだよ」


「そんなにくよくよしてないで、もっと自分に自信を持ちなって」


 しかしここで潮音は綾乃に食ってかかった。


「『自分に自信を持て』…よくそんなことが言えるよ。オレはその『自分』というものが何かわからないから…何を信じていいかわからないから…こんなに苦しんでるのに」


 そう言い残すと、潮音は部屋の整理も放り出したまま自分の部屋を飛び出した。綾乃は潮音を呼び止めようとしたが、そこで則子が彼女をとどめた。


「そっとしておきましょ。あの子だってきっとわかってると思うから」


 綾乃も黙って則子の言に従った。



 潮音はしばらく、午後の町をさまよっていた。もはや潮音にとっては、通りですれ違う、色とりどりの服を着てかわいらしく装った女性の姿を見ただけで、気後れを感じずにはいられなかった。潮音はあらためて身の周りに目をやって、自分がラフな部屋着のままで家を飛び出してきたことに気恥しさを覚えた。潮音にとって、この駅前の商店街は子どものころから家族や友達と何度も一緒に出かけていたにも関わらず、今の潮音は周囲から自分が一人だけ浮き上がったような空虚さを感じていた。


 そこで潮音は、一週間ほど前に綾乃や流風と一緒に海辺に行ったとき、流風がぽつりと口にした言葉を思い出していた。


──潮音ちゃんも少しはわかったんじゃない? あの人魚姫じゃないけど、二本の足で地面を踏みしめて歩きながら毎日暮らしていく、そして人と会って言葉を交わす、それが実はどれだけ大変なことか、そしてそれだけのことができなくて苦しんでいる人がこの世の中にどれだけいるかということが。


 そのとき潮音は、あらためてあのときの流風の言葉の意味を知りたいと思っていた。その一方で、流風ならば今の自分の気持ちを理解してくれるのではないかという思いもあった。潮音はさっそく、流風の住む敦義の屋敷に足を向けていた。


 潮音が敦義の古い屋敷に着くと、モニカがさっそく玄関口で迎えてくれた。


「潮音ちゃん、お正月に会ったときには髪長かったのに、どうして今日はそんなに短い髪しとるの。まさか切ってしもたんやないやろね」


 潮音がモニカに正月のときは綾乃のウィッグをかぶっていたことを説明するとモニカも納得した様子を見せた。潮音は陽気でテンションの高いモニカの様子を見ていると少し気が紛れたように思ったが、モニカに呼ばれて屋敷の奥から姿を現した流風は潮音の表情や様子から、潮音の心中やなぜ今潮音がここに来たのか、だいたいの事情を察したようだった。


 流風がさっそく潮音を家の中に通すと、家の中には華麗な段飾りのひな人形が、古びた和室の中でひときわ光彩を放っていた。


「これはダンナが流風が生まれたときに買ったんやけど、女の子のためにこんなきれいな人形を飾るなんて、日本には素晴らしい習慣があるんやね」


 嬉しそうに話すモニカを横目に、潮音はそのひな人形の柔和な表情をじっと眺めていた。そのうちに潮音は、流風とこの屋敷の中で遊んだ幼い日のことを思い出していた。


 そこで潮音はあらためて流風に、自分が綾乃とケンカしたことや、男子として生きてきた自分がこれから女子として高校でやっていけるのか、あらためて不安を感じていることを話した。流風は黙って潮音の話を聞いた後、すっくと立ちあがって言った。


「そんなときはウジウジ悩んでたってしょうがないわね。ちょっと来な」


 そう言って流風は潮音を、屋敷の奥にある板の間に連れて行った。この部屋の壁には大きな鏡がかけられ、バレエの練習用のバーもあった。


「ここは私がバレエの練習に使ってる部屋なんだ。お母さんもここでよくヨガや美容体操をしているし。ここでちょっと待っててね」


 そう言って流風はいったん部屋の外に出ると、しばらくしてレオタードに白いタイツを着用し、髪もネットでまとめてシニョンにした、バレエの練習着の装いで姿を現した。潮音はあらためて、流風の整ったプロポーションにどきりとさせられた。


 そして流風は、ラジカセでバレエのレッスン曲のCDをかけると、身も軽やかにバレエのステップを何曲か舞ってみせた。そのような流風の姿を眺めているうちに、潮音も小学生のときに、流風と一緒にバレエを習っていたときのことを思い出していた。そのときの潮音の表情を見て、すかさず流風が声をかけた。


「せっかくだから潮音ちゃんも、簡単でいいから久しぶりにやってみる? こういうときこそ、踊ってみたらスカッとするよ」


「でも…やっぱりバレエやるときはそのかっこしなきゃいけないの」


「家で練習するんだっら、動きやすい服なら何でもいいよ」


 しかし潮音は、今の流風の装いを見ていると、自分が昔流風に憧れてバレエを習い始めたころのことを思い出さずにはいられなかった。


「せっかくだから、バレエの練習着でやってみる?」


 流風に声をかけられて、潮音は軽くうなづいていた。さっそく流風は、部屋からレオタードとタイツ、バレエシューズを持ってきた。


「サイズも合いそうね」


 潮音は服をすっかり脱いで、ショーツもレオタード用に履き替えると、その上からタイツとレオタードを身に着けた。


 潮音はバレエの練習着に着替えてから、流風と視線を合わそうとしなかった。潮音にとっては、いくら流風が相手とはいえレオタード姿を人に見せるのにはやはり気恥しさがあった。しかし流風は、このような潮音の肩をぼんと押すと、潮音をバレエの基礎レッスンに誘った。


 バレエ自体は、潮音も小学校のころに習っていたとはいえ、久しぶりにバレエの練習をしてみると、当時の感覚を忘れていて戸惑うこともしばしばだった。そのたびに流風の厳しい声が飛んだものの、潮音はこのようにして体を動かしていると、先ほどまで自分にのしかかっていた重苦しい思いも忘れられたように感じていた。流風も潮音の表情が、バレエの基礎レッスンをしているうちに、次第に明るくなっていく様子をありありと感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る