第四章・人魚姫(その1)
二月も末になると、まだ風は冷たいながらも、部屋にさしこむ日の光もかすかながら明るさを増し、多少なりとも春の気配が感じられるようになる。そのような日曜日、潮音は自室のベッドの上に坐りこんだまま、ぼんやりとたたずんでいた。潮音は、いざ入試という目の前の目標から解放されてみると、あらためて心の中に空虚さを覚えずにはいられなかった。
潮音の前には、松風女子学園から配られた入学準備の手引書が置かれていた。しかし潮音は、それをパラパラとめくってみても、自分が四月から女子として高校に通うことになるという実感が今一つ湧かなかった。
そのとき、自室のドアの前で綾乃の声がした。
「潮音、何やってるの」
潮音が気のない生返事をすると、綾乃はさらに言葉を継いだ。
「どうせろくなことやってないんでしょ。入るわよ」
ドアがばたりと開いて綾乃が潮音の部屋に入ると、まず潮音の気が抜けたような表情を見て、戸口に立ちすくんだままため息をつきそうになった。
「あんた、何ぼーっとしてるのよ。入試終ってからずっとそうじゃない。せっかく高校も決まって、受験勉強ももうしなくていいというのに」
「いや…入試が終ってみると、いきなりその疲れがどっと出たような気がして」
綾乃はさっそく、潮音の前に置かれた松風女子学園の入学準備の手引書に目を向けた。
「やはり…入試の間にはあまり考えていなかったけれども、今になって女子校に通うのが不安になってきたわけ?」
「今さらそんなこと言ったってしょうがないだろ。…それに松風受けるのは自分から決めたことなんだ」
「無理に強がらなくてもいいよ。そりゃ今のあんたなら、どこの高校行くにしたって不安にならないわけがないし。…たしかにあんたは普通の受験生よりもずっと大変な状況の中で受験やってきたわけだしね。でもだからといってそうやって、部屋の中でウジウジしてばかりいたって始まらないじゃない。あんたはまだこれからいくらでもやり直せるんだから」
綾乃はため息混じりに話すと、潮音を強引に部屋から外へ連れ出した。綾乃の部屋に入ると、室内は整理しかけの衣類やら書物やらが所狭しと並べられている。
「姉ちゃんは何やってるの?」
「ちょうど大学の試験も終わったところだから、部屋の整理しとこうと思ってね。あんただって、せっかく高校入るんだから部屋の整理でもしてみたら、少しは新しい一歩を踏み出そうという気になるんじゃない?」
そこで潮音は綾乃のまとめた荷物の中に、何冊かのファッション雑誌がまとめて置かれているのを見つけた。
潮音は自分が男だったころは、もちろんこのような雑誌など目もとめなかったに違いない。しかし今の潮音は、なぜかその雑誌から目を離すことができなくなっていた。
グラビアのページをめくってみると、そこに写っているモデルたちは皆顔にメイクをしてヘアスタイルをきちんと整え、流行のファッションやアクセサリーに身を包み、自らの「女」という性をなんら臆することなくのびやかに打ち出していた。潮音には、グラビアのモデルたちがあたかもこうささやいているかのように見えた。
──何をそんなに悩んでるの? せっかく女の子になったんだから、おしゃれしたりかわいい服着たり、楽しいことなんかいくらでもあるのに。もっと自分に素直になりなよ。
潮音は心の奥に何かがひたひたと迫ってくるのを感じて、身を縮こませた。そこで潮音は、綾乃の何やら嬉しそうな視線を感じて、あらためて身を引きそうになった。
「なんだかんだ言って、あんたもそういうのに少しは興味あるんじゃないの? お正月だに流風ちゃんの部屋で服を着替えて化粧したときだって、そんなにいやそうな顔してなかったし」
潮音は赤面して、あわててファッション雑誌から目を離した。
「じゃあしばらくそれ見ておとなしくしてな。私はちょっと外で買い物してくるけど、変なとこいじんないでね」
潮音は綾乃の部屋の中に一人とり残されると、さらに室内を見渡してみた。潮音は本棚の中の、鮮やかな色をした大きな一冊の絵本に目をひきつけられていた。それは古くなってあちこちすり切れた、アンデルセンの人魚姫の絵本だった。この絵本は潮音が物心ついたころから家にあったもので、特に綾乃はぼろぼろになるまでくり返してそれを読んでいたものだった。
潮音は何気なく絵本のページを広げてみた。すると最初の方のページには、色とりどりの海藻が揺れ、魚の群れが行き交う海の底で、人魚姫が姉たちと一緒に貝殻や珊瑚を手にして遊んでいる様子が見開きいっぱいに描かれていた。
潮音はその絵を前にして、はっと息をついた。その海の底の情景を目の当りにして、自分も幼いころに敦義の家の屋敷で流風と一緒に遊んだことを思い出したからだった。幼いころの自分にとって、古くてどっしりと構えた敦義の屋敷は、あたかも不思議がいっぱい詰った、絵本の中の魔法の家のように見えた。──特に今ごろの季節は、敦義の屋敷には華麗なひな人形が飾られ、潮音もかつてはかわいらしい着物を着た流風と一緒にひな祭りを祝ったりもしたものだった。
潮音はしばらく絵本のページを開いたまま考えこんでいたが、気を取り直してページをめくると、王子に恋した人魚姫が、足を手に入れるために海の底に住む魔法使いのもとを訪ねる場面が描かれていた。そのあやしげな魔法の薬やアイテムが並ぶ魔法使いの館を見て、潮音は敦義の屋敷の庭の片隅にある、ひんやりとした冷気の漂う宝物庫を思い出していた。
──あの日、あの宝物庫に足を踏み入れていなければ…。
潮音の心の奥底で、自分でもよくわからない感情が渦を巻いていた。潮音は立ち上がると、部屋の片隅の鏡台の前に来て、そっと引き出しを開いてみた。潮音は自分が幼かったころ、この鏡台をのぞきこんで遊んだことや、引き出しに入っていた則子の化粧品でいたずらして叱られたことを思い出していた。
しかし引き出しの中に納められたアクセサリーやルージュ、ファンデーションやその他の化粧品を眺めているうちに、潮音は今までは何とも思わなかったそれらのものが、まるで魔法使いの引き出しの中の不思議なアイテムのように思えてきた。潮音は手を伸ばすと、パールピンクのルージュを回してそっとケースから出してみた。
しかしちょうどそのとき、玄関のドアが開く音がした。潮音があわてふためく間もなく階段を上がる足音がして、ドアが開くと綾乃の傍らに流風の姿もあった。
「なんで流風姉ちゃんも一緒にいるの」
「家を出ているときに流風ちゃんから携帯に連絡が入ったの。ちょうどうちに届け物をしに行くところだというから、途中から一緒に来たわけ」
しかし潮音は、流風の姿を見ていささか気が重くなった。潮音の心の中からは、正月のとき以来のしこりがまだ消えていなかった。
流風は綾乃の部屋に足を踏み入れると、さっそく辺りを見回して潮音の傍らに広げられた人魚姫の絵本に目を向けた。
「懐かしい。この人魚姫の絵本、綾乃お姉ちゃんがよく読んでくれたよね」
流風は絵本を手に取ると、パラパラとめくってみた。潮音は落ち着かなさそうに口を開いた。
「…これまで人魚姫なんて、女の子の読むような話だと思ってたのに」
しかしそこで、綾乃が口をはさんだ。
「潮音…そのあんたが今手に持ってるものは何? 鏡台のところにもあんたがいじったような跡があるし」
潮音はあわてるあまり、綾乃のルージュを手にしたままだった。綾乃と流風の視線に、潮音がぎくりとしたときにはもう遅かった。綾乃がクローゼットからブラウスを取り出して潮音の前で広げてみせたとき、潮音はもはや逆らうことはできなかった。
綾乃がクローゼットから何着か服を取り出した中で、潮音は特に裾にフリルをあしらった、花柄のプリントされた一着の清楚なロングスカートに目をひきつけられていた。
「このようなスカートは、マーメイドスカートというのよ。マーメイドというのは人魚という意味なの」
そう言われると、潮音の目には裾についているフリルの飾りがあたかも人魚の尾ひれのように見えてきた。
トップも春らしい軽やかな色合いのブラウスと薄手のセーターに着替え、両足にひざ丈までのストッキングをはいてスカートに腰を通すと、マーメイドラインのスカートはヒップから裾のフレアへとなだらかなラインを描いていた。潮音はあたかも自分が本当に人魚になったような気分になったまま、しばらく心の動揺をおさえることができなかった。流風もそのような潮音の姿をほめそやしていた。
「潮音ちゃんにはこういうシックな恰好も似合うじゃん」
そこで綾乃も、潮音と流風に声をかけた。
「せっかくそうやって服着替えたんだから、どっか行って気晴らししない? 流風ちゃんだっていることだし」
そして綾乃は、潮音の頭にウィッグをセットしたが、そのウィッグは綾乃の持っていたストレートロングのものとは違う、ゆるやかにカールしたものだった。
「このウィッグは劇をやってる友達に頼んで借りてきたの。こうやっていろんなヘアスタイルができるのも楽しいでしょ?」
そこで綾乃は、先ほどまで潮音が手にしていた化粧品の中から、少々控え目なパールピンクのルージュを手に取った。
「少し口を開けてごらん。じっとしてるのよ」
綾乃が唇にルージュを塗る間、潮音はじっと目を閉じていた。
綾乃が目の前から離れてからも、潮音はしばらくの間、唇のむずむずした感触に戸惑いながら、その場に立ちすくんでいた。そのとき綾乃が、潮音の肩をぽんと軽く叩いたので、潮音はようやく我に帰ることができた。
「私も支度するからちょっと外で待ってて」
潮音は人魚姫の絵本を手にしたまま、流風と一緒に綾乃の部屋を後にした。潮音が再び絵本を広げてページをめくってみると、そこにはきらびやかなドレスを身にまとって、王子とともに華やかなお城の舞踏会で踊っている人魚姫の姿が描かれていた。
──人魚姫は魔法使いから声とひきかえに人間の足を手に入れたものの、一歩一歩歩くたびに刃物の上を歩くかのような痛みに耐えなければならなかった。しかしその軽やかでかわいらしい歩き方に王子たちはひきつけられた…。
このくだりを読んで、潮音はいたたまれないものを感じて絵本を閉じてしまった。そこで潮音は、傍らにいた流風にたずねてみた。
「流風姉ちゃん…人魚姫は歩くたびに痛い思いをしなければいけなかったって、どういう感じなんだろう」
「やはり…自分も人魚姫の気持ちがわかるようになったというわけ?」
「そこまではまだわからない…でも、歩くだけで痛い思いをして、しかも声が出せないのでそのことを誰にも言えないなんて…こんなのかわいそうすぎるよ」
「…潮音ちゃんって優しいんだね」
そう言って流風は、潮音の背をそっと押してやった。潮音は流風に連れられて玄関に向かうと、則子や綾乃のパンプスやミュールをじっと眺めていた。
──なぜ女って、わざわざこんな歩きにくそうな靴はくんだろう。
そうしているうちに、綾乃が外出着に着替えて出てきた。綾乃は潮音に、スニーカーを少々おしゃれにした感じの靴をすすめた。
「わざわざ無理して自分に合わない靴はくことないでしょ」
そして綾乃は潮音と流風を連れて家を出ると、二人を車の後部席に乗せた。
「大丈夫なの…姉ちゃん。この前免許取ったばっかりでまだ若葉マークなのに」
「がたがた言わないの」
「それにこの車、ここにちょっと傷があるけど。こんな傷あったっけ」
「これはこないだ駐車場ですっちゃってさ。でも大丈夫だから」
潮音は少々悪びれた綾乃の表情に一抹の不安を感じながらも、流風と並んで後部席に腰を下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます