第三章・岐路(その1)

 夕凪中学の二学期の終業式は、ちょうどクリスマスの当日だった。クリスマスだけでなく、正月を目前に控えているとはいえ、高校入試や卒業を目前に控えた三年生の教室には、休みに浮かれるようなムードもない。


 午前中に先生の訓示が終ると、三年生の生徒たちの多くはそのまま帰宅していった。彼らの中には家で昼食を済ませた後、そのまま机に向かう者や、学習塾に行って夜まで勉強する者も少なくない。暁子や優菜も、塾の冬期講習に向かうためにそそくさと学校を後にした。


 そのような生徒たちを横目に、尾上玲花が藤坂潮音の机の傍らに来て声をかけた。この日の潮音は、黒い詰襟の学生服といういつも通りの服装をしていた。


「準備はええ? そろそろ行こか」


「ああ、勉強もあるからさっさと終らせたいんだ」


「もういっぺん念のために聞くけど、ほんまにええんやね」


「ああ…いやだったらすぐにやめときゃいいんだ」


 そして二人は連れ立って学校を後にした。



 二人が向かった先は、夕凪中学からさほど離れていないところにある玲花の自宅だった。玲花が玄関のドアの鍵を開け、潮音を家に招き入れたときには、潮音はずっと淡い憧れを抱いていた玲花の家に足を踏み入れることに対して緊張が止まらなかった。


「気にせんでええよ。今日は両親とも用があるし、お姉ちゃんも部活で夕方まで帰らへんから」


 さらに潮音が階段を上がった二階にある玲花の自室に通されると、そこは小ぎれいに片づけられ、花柄のタペストリーやぬいぐるみなどが飾られた、いかにも女の子らしい部屋だった。潮音は小学校のころまでは、暁子の部屋にもちょくちょく遊びに行っていたのに、女の子の部屋に入ることなどここしばらくなかったなと思っていた。


 しかし玲花は、そのような潮音の様子を見て潮音をせかした。


「藤坂君、はよ準備しいや」


「尾上さん…見てる前じゃ落ち着いて服脱げないから、ちょっと部屋から出ててよ」


「わかったわ。私はドアの外で待っとるから。でも何かあったらちゃんと言うんよ」


 玲花がいったん自室から出ると、潮音は一息ついて学生服の金ボタンを一つ一つ外していった。そして潮音が学生服の袖を両腕から抜くと、その下からは白いワイシャツが姿を現した。さらに潮音はベルトを外して黒い学生ズボンを下ろすと、自分のカバンの中から青い体操服のハーフパンツを取り出してそれに履き替えた。玲花は潮音に、前もってブラとハーフパンツを用意するように言っていたのだった。


 そして潮音はワイシャツも脱ぎ去り、持ってきていたハーフトップのスポーツブラを手にしたところでふと息をついて、自室のドアの外にいた玲花に声をかけた。


「尾上さん…部屋に入っていいよ」


 そして潮音は、ナベシャツに覆われた上半身を玲花に見せた。部屋に入った玲花も、潮音のナベシャツを興味深そうに眺めていた。


「なるほどな…男装するコスプレーヤーは、こういうの着て胸潰すとは聞いとったけど、本物見るのは初めてや」


「いいもんじゃないぞ。朝から晩までずっとこうやって胸締めつけてたら、どんなに窮屈か尾上さんも経験してみるか?」


「でもそないしてまで、自分の体を望む性別に近づけたい人がおるんやね」


 玲花は神妙な表情をしていたが、潮音は玲花のそのような疑念を打ち消した。


「今さらそんなこと言ってもしょうがないだろ。第一ほんとにいやだったら、はっきりいやだと言ってるし、今ここにも来てないよ」


 そう言いながら潮音は玲花に後ろを向かせると、ナベシャツを脱いだ。そしてすぐにハーフトップのスポーツブラを頭からかぶって胸になじませると、潮音の両胸はふくよかな曲線を描いていた。潮音も玲花の視線が自らの胸に向けられているのを感じて、思わず顔を赤らめながら両腕で胸を覆ってしまった。


 しかし玲花はすぐにクローゼットを向き直すと、引き出しから襟元が大きくV字型に広がった、白い無地のTシャツを取り出して潮音に手渡した。


「これはセーラーズインナーというんよ。これならセーラー服の襟元からもはみ出さへんし、第一今の季節、下にこれ着いへんかったら寒いやろ」


 潮音がセーラーズインナーを着終ると、次に玲花がクローゼットを開けて取り出したもの――これこそが襟元と袖口に三本の白いラインが入った濃紺のセーラー服、つまり夕凪中学の女子制服だった。


「これは私のお姉ちゃんが去年まで着とった服なんよ。捨てずにおいといて良かったわ」


 その中でも玲花はまず、濃紺のプリーツスカートを手に取って潮音の前で広げてみせた。もちろん潮音にとって、スカートに両足を通すのは初めての体験だ。潮音はごくりと生唾を飲み込んでスカートを手にしてはみたものの、どこが前なのか、そもそもどうやってはけばいいのかすらもよくわからない。そこで玲花は、やれやれとでも言いたげな表情で潮音の両足にスカートを通させ、ウエストの左脇でファスナーを上げてホックを止めてやった。そして玲花が、潮音の腰に手を回してスカートの丈を調整している間、潮音は胸の高鳴りを抑えることができなかった。


「やっぱりスカートはくの恥ずかしいん? そうやろうと思たから、ちゃんと下にハーフパンツをはくように言ったのに」


 その次はセーラー服の上着だ。潮音はまず長袖に両腕を通し、次にかぶるようにして上着の襟から頭を抜いた。玲花に上着の左脇にあるファスナーを下ろし、胸元と袖口のスナップボタンを留めるように言われると、潮音はセーラー服って、ずいぶん変った着方するんだなと思った。


 そして玲花は、青いスカーフを襟に通し、胸元のスカーフ留めで留める方法を教えてやった。潮音はスカーフをきちんと留めるのにもコツがいるということに、あらためて気づかされた。


 そこで玲花が声をかけた。


「サイズも合っとるみたいやね」


 潮音は今までずっと、自分が男子としては背が低くて小柄なことに対してコンプレックスを抱いていた。しかしそれが今では女子の服のサイズが今の自分にちょうど合うということに対して、複雑な気持ちにならずにはいられなかった。


 潮音がソックスも学校指定のものに履き替えると、玲花は鏡台の前に潮音を坐らせて髪のセットを始めた。


「藤坂君の髪って短いけどすごいサラサラやね。髪伸ばしたらもっとおしゃれできると思うんやけど」


 しかし潮音は正面を向くと、セーラー服を身にまとった自分自身の姿といやおうなしに向き合うことになって、鏡に視線を合わせることすらできなかった。



 着替えが終ると、詰襟の学生服に身を固めた男子生徒の姿で玲花の部屋に入った潮音は、セーラー服の女子生徒にすっかり姿を変えていた。髪型こそボーイッシュに見えるベリーショートヘアのままだったが、むしろそれが潮音の顔の肌のきめ細かさや唇のつややかさ、均整のとれた顔の輪郭のラインをかえって強調しているようにすら見えた。


 しかし潮音は、両足を閉じたままもじもじしていた。やはり潮音にとって、スカートの履き心地には心もとなさを覚えずにはいられないようだった。少し歩いてみただけで、スカートの生地が膝をなでる感触にも、潮音は戸惑いを抑えることができなかった。さらに、上着の空いた胸元や、腕を上げたときに裾からセーラーズインナーがのぞくのも、潮音の胸をどぎまぎさせた。


「藤坂君…いやこうなったらもう藤坂さんと言うた方がええかな…もっと自信持ってしゃきっとしいや。まじで今の藤坂さんはかわいいんやから」


 そう言って玲花は、潮音をあらためて鏡台に向かわせた。しかしその鏡に映った自分自身の姿を見て、潮音は息を飲んだ。


 濃紺のセーラー服は今の潮音の姿にすっかりフィットしていて、全く違和感はないどころか、むしろ今まで男子の制服を着ていたことの方が信じられないほどだった。顔つきは男の子だった頃の面影を残しているとはいえ、胸元では青いスカーフがきちんと留められ、プリーツスカートから伸びた、ソックスをはいた両足も贅肉がなくきりりと引き締まっていた。


 もはや潮音は、胸の高鳴りを止めることができなかった。そのとき潮音は、確かな強い感情がマグマのように心の中に湧き上がってくるのをひしひしと感じていた。――それは潮音が夏の水泳の大会のとき、プールの揺れる水面を目にしたときと同じ感触だった。


 潮音は自分の両手を目の前に持ってきて、しげしげと眺めた。その両手は潮音が男の子だったころに比べて、指も細くなり心なしか小さくなってはいたが、潮音はその両手を眺めているうちに自分が今までの人生で経験してきたことを一つ一つ思い出していた。やがて潮音は手のひらをぐっと握りしめた。その確かな感触こそが、潮音の心の中に一つの確信を生んでいた。


――体が女になったからといって、女子の服を着てたって、やっぱりオレはオレなんだ。…「藤坂潮音」として今まで生きてきたことは消せはしない。


 そう思うと、潮音はセーラー服を身にまとっていても気恥ずかしさを感じなくなっていた。むしろ潮音は、そうすることでかえって体の中を新たな力が満たしていくようにすら感じていた。


 そのとき、背後から玲花が声をかけた。


「どないする? もし藤坂君がそれでも自分は男や、女の服着ることなんかどうしても耐えられへんと言うんなら、すぐにこの服を脱いで元の学ランに着替えるんやな。そしてこのことはなかったことにするから」


 しかし潮音は、着るときにはあれだけ気恥ずかしさを感じていたにもかかわらず、今となってはこのセーラー服を脱いでしまうことがもったいないことのように思われた。


「もうちょっと…このままでいたい」


「…ええんやな。そろそろ昼どきやしおなかも空いたから、なんか食べよか」


 玲花はにんまりとした笑顔を浮かべて、潮音の返事に応えた。

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