第19話 溺れるクラゲ

 空飛ぶクラゲは一つ目クラゲ。

 雲ひとつない青空と静かな青い海の遥か彼方にそびえ立つ観覧車。


 走る車もない片側四車線のハイウェイに透明な雨が降ってくる。延々歩く先にはかすむ摩天楼の群れ。晴れた空と澄んだ風の中で踊るしずくの一つ一つに映るプリズムが歌うようにささやくように話しかける。耳に胸の奥に心のなかに。

 雲もなく波もない青い青い空と海に浮かぶ観覧車がゆっくりと回り出す。誰も乗っていない観覧車のゴンドラは雨粒とプリズム。中身はからっぽ。めいっぱい詰め込まれた悲鳴と嗚咽以外は。


 黄色い小さなヒヨコをもらった。手のひらで包んだら足とクチバシだけが少しはみ出て、ピィピィと鳴く小さなヒヨコ。手を開くとヨチヨチ歩いてどこかへ行こうとするヒヨコ。どこへ行くんだと訊ねてもピィピィ鳴くばかりのヒヨコ。仕方がないのでヒヨコの後ろをついてゆく。ヨチヨチ歩く後ろをノソノソ歩いてみる。ヒヨコは角を曲がるたびに、太陽を見上げるたびに、ふと息をつくたびに楽しそうに、けれど少し怖そうに辺りを見渡してはヨチヨチ歩く。どこまで歩く。どれだけ歩く。ヨチヨチ歩く。


 海岸沿いの線路。土手の上に敷かれたレールを走るベイサイド特急。ベージュと赤のツートンカラーが懐かしい。今どきこのタイプで塗装の真新しい車両は珍しいどころかあり得ないほどピカピカしたボディに陽光が煌めいてキラリと光る。快晴の海原もキラキラと光って、見るもの全てを影にする。透明な雨を浴びながら走り抜ける特急列車の車窓から見える海と空の境界線は曖昧で、そこに浮かぶ一つ目クラゲが空を飛ぶ。海を飛ぶ。空を泳ぐ。海で溺れる。


 効かない目薬ばかり寄越す眼医者を藪に引きずり込んで串刺しにする。やがて死体を押し上げて伸びた竹が眼医者だった男の目玉を貫いて育ってゆく。上空に持ち上げられてぶら下がる腐乱死体の骨が見え隠れ。片方の目玉は串刺しに、もう片方の腐った目玉が転がり落ちて、見上げた空で溺れるクラゲ。


 キンコンキンコン、ピンポンピンポン。

 キンコンキンコン、ピンポンピンポン。

 無人のフォークリフトがアラームを鳴らして走り去る。ゆっくりと小さな車輪で硬い床をすべるように走ってゆく。電気仕掛けのモーターは軽油やガスを使っていたものよりずっと静かで、ただその静かさゆえにアラームを鳴らさなくては危険だというハナシになったという皮肉。そんな人間の都合などつゆ知らず、ぺちゃんこになったヒヨコの方にはリフトは目もくれず。お互いの無縁が交差して潰れて死んだ。毛虫もヒヨコも関係ない、アラームを鳴らして走るだけの無人のフォークリフト。


 工場の天井、壁、そして床の下には無数のパイプ。太いの、細いの、長いの、短いの、真っすぐ、エルボー、どこから伸びてどこまで伸びているのか。パイプ、パイプ、パイプ、パイプ。

 無人だった工場に響く足音。硬い床を踏みしめる靴音。無数のニンゲン。同じ服装、同じ背格好、同じ歩幅のニンゲンがぞろぞろぞろぞろやってくる。みんな真っ白い防護服に分厚い遮光ゴーグルとガスマスクをして、分厚い手袋と頑丈なブーツ。シームレスのいでたちで手押しカートの中には厳重にパッキングされた何かが山積みになっている。工場の外通路を歩いてくるニンゲンたち。くすんで苔のむしたブロック塀の前を、舗装路に書かれた順路の線と矢印の通りに、一糸乱れぬ歩調で工場の中へ吸い込まれるように歩く。

 順路は線路、線路が搬路。この線をはみ出したり、踏み外したり、列を乱すことは許されない。何が入っているのか、どこへ向かっているのかわからない荷物とニンゲンの列がひたすら途切れることなく続く。続かなくてはならない。続かないことは許されない。ヒヨコも毛虫も踏みつぶしたってかまわない。無人のフォークリフトが我が物顔で走り回り工場の片隅に敷かれた線路の上だけは安全で、この上を歩き続けている限りは安全が保障されている。時折はみ出してきたフォークリフトに壁と挟んで押しつぶされたり、速度の出過ぎたリフトにハネ飛ばされたりしない限りは。何万人に一人という確率だけを信じてニンゲンたちが荷物を運ぶ。無人のフォークリフトは空荷で今日も延々走り回っている。何が目的で、何を作っていて、どこに出荷するのかもわからない。工場とリフトとニンゲンと荷物だけがただ存在するこの巨大な敷地の中で。今日も昨日と全く同じで明日もそれは全く変わらないということだけが厳しく義務付けられた空気の中で呼吸をするには、もはやガスマスクが必需品。

 巨大な機械が轟々と動き続ける。ベルトコンベアが延々回る。そこへニンゲンたちがやってきて順序良く荷物を並べて行く。ベルトの上の荷物がビニールのカーテンで仕切られた機械の中に入ると、中で悲鳴と共に開封される。そしてスロープの下で待ち受ける撹拌機にボトボトと零れ落ちてゆく肉片と血液。果物、雑誌、鉱石、廃棄の弁当、一つ目のクラゲ。パッキングされた品物は様々で、それが溶液で満ち満ちてグルグル回る撹拌機に放り込まれて溶かされてゆく。やがてその諸々溶け合った液体はパイプを通って工場内を駆け巡る。グルグルグルグル、とハラワタに響くような音を立てて流し込まれた溶液がところどころの機械を通って濾過されたり凝縮されたりはたまた枝分かれしたパイプを通ってまた違う機械へそれぞれ入ってゆく。視神経の奥でちらちらする能面を覚えておくといい。

 パイプのそこかしこに蛇口があって、透明な水が出る。それを小さな瓶にちょっと詰めてはカゴに入れ、それをまた別のニンゲンが同じ格好をして回収していく。この工場の奥の奥にはこんなにたくさんのニンゲンがいたのか。そしてこのニンゲンたちはみな、自分が何をしていて何のための工場なのかを知っているのだろうか。

 パイプの出口付近では遂に機械も消え、太く短いパイプを残すだけになった。その先は海に突き出ていて、あとはココから流れ出すままになっている。濾過、吸収、凝縮を経て出てきたヘドロのような残りかすと腐敗ガスを、嫌な音を鳴らしながら排泄する巨大工場。


 吸収された栄養素は工場のさらに地下奥深くに吸い込まれてゆく。地上から伸びてきたパイプが収束され、やがて一つの巨大なカプセルの中に繋がっていて、中では白濁した液体が大量に渦巻いている。これが上で吸い込まれた栄養素と溶液の成れの果て。さらにこの液体を別のパイプで運び出し、モノレール状のコンベアにハンガーで吊るされた真っ白い防護服の上から注ぎ込まれてゆく。するとみるみるニンゲンの形に膨らんで、別のモノレールから合流する頭部を乗せてまた注ぐ。仕上げに電気ショックをいっちょう浴びせて立たせたら、防護服を着こんだニンゲンの出来上がりだ。命を吹き込まれたニンゲンはすぐさま地上に向かってスタコラ歩き出す。ニンゲンのニンゲンによるニンゲンらしい暮らしを、明日も明後日も続けるために。未来永劫この工場は回り続ける。回り続けなくてはならない。

 止めることは許されない。

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