第15話 In Your Face
膨れ上がってく
あぶくにうつる流星
Niji色の火花散らして
燃えて燃えて回りながら墜ちてく
繰り返す無限の潮騒が夜空にとけて
夢の生まれる海の底に俺は居る
かすむ瞳 眩む頭
君と僕が年を取って
ここから見る外の景色が
すっかり変わってしまっても
ホメオパシーを日本語からスペイン語へ
明け方強く降ってた雨はいつの間にか病んで
快晴と夕焼けの間に僕は居た
バイパスは二車線
今日もサイドミラーのミギヒダリから
軽トラックが俺を狙っている
俺を煽って殺そうとする
遠ざかりながら広がる赫いランプ
ピンポンパンポン
ようこそPARAMA JIPANGへ
スピーカーから流れ出した声が
俺のことを呼んでいる
弁当屋さんがワゴン車で運んで来る冷めた濃い味付けの弁当をもそもそ食べて時間ギリギリ少し前まで眠る。手元の端末をいじって、ニュースと広告をやり過ごしてゲームを進める。分厚く霜のついた配管を横目で見て、始業の予鈴を聞き流す
三連休
賑わう新大阪駅から梅田駅へ。広大な地下世界にあふれる音楽と商品と人、人。人。あらゆる目的が交差する駅。地上では行き交うトラック、タクシー、車。あらゆる目的を運ぶ道。当たり前のものが当たり前に並び当たり前に片付けられてゆく白昼の日常が滞りなく刻一刻。滞っているのは高速道路とバイパスと国道2号線。長い歩道橋を渡り、クジラのように走るトレーラーのコンテナを見送り、路地裏へ。華やかで大袈裟で整ったビル群から、猥雑な、好き放題に曇り空に伸びるビルの雑木林へ。道路には雨も降らないのにシミが幾つもあり、ごみの入ったビニール袋が小動物の死体のように中身をはみ出させたまま放っておかれている。カラスが弁当箱から白く細長い、悲しいパスタをつまみ出して羽ばたいた
雑居ビルよりもう少し欲望に忠実なレジャービルと名のついた建物。古いエレベーターに乗り込んでボタンを押す。表から見える場所には、あまり情報は無い。エレベーターのボタンが懐かしい形をしている。今はもっとこじゃれて偉そうなビルを建てている会社だって、一昔前はこの形のエレベーターとボタンを自慢げに使っていたのだ。そんな昭和享楽産業の置き土産、一つのビルに蠢く劣情の複合施設。軽薄たる文化、それは絢爛たる虚無
香水と体臭と無数の人間の欲望の匂いが染み付いた古く狭いエレベーターが低い唸り声を上げて上昇を始める。脳裏に浮かぶ雨の菜の花畑。茫洋とした風景。曇天の海に向かってのびた丘いちめんに広がる黄色い絨毯。降りしきる雨が景色を白く濁らせている。雨はどんどん強くなる。霞んで見えない海の彼方から吹き付ける潮風が横殴りの雨になって菜の花を揺らす。びゅう、と一際強く吹いた風によろめくと、エレベーターが三階についた
かこん、と遠慮がちな音を立ててドアが開く。床に一歩踏み出したら
にちゃっ
と音がする。妙な足音の正体は、ビルの三階そのものを覆い尽くした肉、肉、肉。粘膜、そして粘膜。さらに粘膜。赤黒い肉の壁、床、天井には幾つかの太い管と、無数の細長い管が縦横に走っており、かすかに蠢いている。白い骨のような塊がところどころ剥き出しになっていて、そいつが青白くぼんやりと光って照明の代わりになっているおかげ、だいぶ薄暗いが周囲を見渡すことが出来た。天井から垂れ下がったり壁と壁の角からはみ出したりした白っぽい部分が、ふるふると触れもしないまま揺れていた。床をうっすらと流れている粘液がほのかに異臭を放っている。酸っぱいような塩辛いような、懐かしい臭気。にちゃっ、にちゃっ、と音を立てて進む。靴底が一瞬だけ柔らかい床にめり込み、踏まれた瞬間だけ壁と天井がぎゅうと鳴く。にるにるにる、と音がするので振り返ると、エレベーターのドアも肉色の壁に変わっていた。ドアは、いや、隙間すら無い。のっぺりとした単なる肉壁だ。出口は……!? 周囲を見渡しても、他にドアや窓、階段室への入り口すらない。元はここがそうだったのだろうな、という名残だけを感じる廊下の突き当りで呆然と立ち尽くす。ワゴン車の弁当と雨の菜の花畑が遠ざかりながら拡大されて脳裏から消えて行く。奥へ……? 奥へ進むしかない
にちゃっ。にちゅっ。にちゃっ。ぬちゃっ
湿った足音が響くたびに靴底が糸を引く。床を流れる粘液に時折赤い血煙のようなものが混じっている。低い天井からも粘液がこぼれて垂れて糸を引く。髪に、肩に、腕に、手のひらに、指先に、胸に、つま先に垂れた粘液が少し乾いて異臭を放つ。いつか確かにどこかで嗅いだ懐かしい異臭。やがて曲がり角に差し掛かると、急に肉の回廊のそこかしこにぽっかりと穴が開いていて、それぞれぼんやり明かりが灯っているのが見える。その穴の奥から見え隠れする景色。知っている、確かに知っているぞ、この景色を。気持ち足を速めていちばん手前の入り口を覗き込むと、自室の真っ暗な天井が見えた。穴を覗き込んでいる自分は確かに二本の足で立っているのだが、穴の向こうに見える景色は確かに自室の天井だ。八畳間の和室に敷いたマットレスの上で、明日も夜明けが来て目が覚めて、起きて一日が始まることに怯えている。そんな夜の天井だ。次は、と覗き込んだ穴の中は真っ暗で、空っぽだった。ただ無限の虚無と百万遍の自問自答だけが充満した、空っぽで満たされた暗黒の洞穴がそこに広がっていた
それはしょうもないことを繰り返し跳ね返し、境界線のない暗がりの端を削り取って永遠に広がり続け、光はその先を目指して吸い込まれてゆく
何をどう言っても、どこの誰が叫んでも何も響かない、虚空の海底。次は、その次は、そのまた次も……!
どれもこれも自分が思い出したくもない、記憶の奥底、脳みその片隅に追いやって埋めたものばかりだった。失恋、失態、後悔、懺悔、暴力、無力、何もかも蓋をして目を逸らして生きてきた
やめろ!
穴を塞ごうとしても扉のようなものは何もない。肉壁に爪を立てても、粘液がどこからともなく湧き出てきて滑りが増すばかり
やめろ!!
見たくない、もう見たくないんだ! この穴は自分の記憶が埋葬された棺のようなものなのだろうか。なぜそんなものが、いまこんなところに。これまで味わってきた人生の、こんなはずじゃなかった、を突き付けられている。ここは記憶の墓場、それもとびっきり嫌な思い出ばかりが眠る巨大な霊廟なのだ
穴の方を見ないように、前だけを見て足早に歩く。相変わらず靴底は粘膜を踏んづけているので嫌な音がする。やがて無数の穴ぼこのあいた廊下の突き当りに小さなカウンターがあって、勿論これも肉と骨で作られて粘膜が張り付いていて、粘液がうっすらと垂れ流されている。骨のような灯りがぽうと灯っていて、小さな、片手だけが出し入れできる程度の四角い穴が開いている
……誰かいるのか?
誰が居るんだ、こんなところに
そう思った、まさにそのとき。にゅっと四角い穴から差し出されたのは一本のルームキー。茶色いアクリルの四角柱には白い数字で
211
とだけ書かれている。これは一体……? と思っていると背後でかすかに
にるにるにるにる
と音がした。壁が、開いたのか。恐る恐る振り向くとさっきまで開いていた無数の穴がすっかり消えて、代わりに一つだけ大きな四角い穴が開いた。エレベーター、なのか。疑問を胸に再び足を踏み出した。相変わらず床は湿っている
あれは、たぶん山羊だったと思う
いつからそこにいて、何を考えているのか。何のために出てきたのか。何をしているのか……全くわからない。だけどある日突然、夜眠れないでいる僕の頭の奥に現れた。頭でモノを考えるときにイメージする、心みたいなところに山羊がいる
ただ漠然と、山羊だ
眠たそうな目玉とお馴染みの角とぼんやりとした顔の、山羊
海のような空のような、青く澄んだ丸い惑星(ほし)を見つけた。夢に出てきたのか、夜が怖くて眠れなくなったせいなのか、いつの間にか暗闇の中にぽつんと浮かんでぼんやり光っている。どこまでも広くて、終わりのない球体は一面がこの薄青色の粘膜で覆われていて、よく見ると少しだけ波打っている
島や生き物の影はない。僕はこの惑星の上空をゆっくり飛び回りながら、いつも波打つ表面に映る自分の顔を見つめていた。薄青色になった顔の、薄青色の瞳の奥に潜む心のようなところ。深層心理だかなんだか知らないが、僕の行動や思考を無意識という名の意識下で勝手に操る黒子のような奴が息を潜めて嗤っていやがる
冬の風の強い寒い日に、晴れて晴れて晴れまくったせいでちょっと青黒くなっているぐらいの空と、その遥か彼方まで伸びている紺碧の海との境目が溶けてしまうほど青い青いところから雲が飛んできて波が押し寄せてくるのを呆然と立ったまま見ていたら僕は死ねるだろうか
無数に存在する選択肢が刻一刻と変化を繰り返す。一秒後の世界が同じだなんて誰にもわからない。今すぐ右を選んでも、一秒後に選んだ右とは全然違う未来が待っている
過去を食い尽くし未来を貪る怪物がいる。この世界のどこかに
その怪物から逃れるために選択を繰り返して生きて行く。人生には無限の可能性が存在する一方で、もう片一方の選択されなかった未来もまた遥か無限の彼方に続いてゆく。雲の行く先、執着の浜辺、時の最果てまで
過去を食い尽くして未来を貪る怪物。青い青い、空のような、海のような惑星からやってきた薄青色の怪物
それが、たぶん山羊なんだと思う
そいつは無表情で、鳴き声も出さず、ただ黙って世界を端からかじってゆく
それが過去だ
後ろを振り向いても暗闇しかない
いつまでもすがりたい過去は暗闇に浮かぶ夢物語、美化された名作映画の不出来なリメイクでしかない。山羊はそのフィルムを片っ端からかじってゆく
瞳の奥の古い無人の映画館で人知れず上映されるその映画は記憶の連なりになってやがて忘れ去られてゆく。思い出すことも、どこかに永遠に残しておくことも叶わない
全ては薄青色の山羊が食い尽くし、やがて記憶の存在すらも消してしまう
さぞかし楽だろう、忘れたことさえ忘れてしまえるのならば
ラジオだけが鳴っている暗い部屋でひとり。にじんだ血が指と指のあいだをすり抜ける。見上げた天井がゆっくりと時計回りに動き出し、スピーカーから流れ出る音楽が目の前の光景から浮かび上がり遠ざかってゆく
世界が突然色褪せて、記憶から光が消えて、景色から音が消えて、何もかも失ったモノクロームの静かな夜にラジオだけが伝えていた
ソラリスの呼び声を
引き裂けた皮膚から流れ出る真っ赤な血潮に、あとどれぐらいの化学物質と数式を溶け込ませたら僕は眠りにつけるだろう。蠢く筋肉と腱と軟骨を縫うように走る毛細血管がひとつひとつ膨れ上がっては縮み、脈打つごとに生命力を吐き出して垂れ流す
確かに
無様に
割れた肉の隙間から流れ出した血液に交じる黄白色の脂。油膜の浮いた血液を循環させ続け、疲労と不純物とがとめどなく堆積してゆく大動脈の鍾乳洞。夜空を見上げれば星が見えるように肌を切り裂けば肉が見えるし、星も見えないほどの灯りとガスに汚された夜空のように脂と膿にうずもれて血肉に刃先が辿り着かない奴もいる。月明かりのナイフが暗い雲を切り裂くことは出来ても、文房具のカッターナイフじゃ分厚い脂肪に覆われたこの腕を切り裂くことは難しい
単線の小さな私鉄列車に乗って海の見える街へ行こう
長い長い河に架かったか細い、おもちゃのような鉄橋をガタゴト渡る
晴れた空、青い水面に赤い二両編成の車体がゆがんでうつる
吊り革が左右に揺れる
窓の外は晴天の街並み
県道を見知らぬ人々の自動車が行き交う
車内に他の乗客は無い
ひび割れたスピーカーとアナウンス。聞いたこともない小さな駅に滑り込む。ドアが開き冷たい空気が流れ込むものの、乗り込む客はやはり無く、再び青空に伸びた高架をゆく
やがて緑の多い里山を抜け、坂道の多い住宅街に入る
跨線橋のたもとにある無人駅。がらんとして、ここにも乗客はいない。すぐにドアが閉まり、緑のにおいのする空気だけが車内で少し心地よい
赤い電車はのどかな田園地帯に差し掛かった。刈り取られた茶色と黄色が多い田んぼ、土くれをむき出しにした畑、たまに線路沿いに建つ家や大型店舗
踏切を待つトラックの運転席に憂鬱を苛立ちでかみ殺したような顔の自分が居た
何もかもうまくいかない、だけどなんの打開策もない。明日も明後日も、週末まではこんな風に過ごして、また来週も同じことの繰り返し
違うのは憂鬱と苛立ちの原因と種類だけ
断ち切ることは出来なくても、逃げ出すことや投げ出すことは出来るというのに、その憂鬱が憂鬱を呼び、苛立ちが苛立ちを呼ぶ。そしてそれに自分で自分を縛り付けてまた繰り返す。一瞬だけ解放させてくれる週末の咳止めシロップよりも、遥かに快適な場所にこの赤い電車が連れて行ってくれる
早く乗るんだ、そして心の耳を澄ませろ
その音質の悪いステレオから聞こえてくる太った男の深夜放送にヒントがある
カギはそこに隠れている
お前には聞こえるはずだ
電波にまぎれたソラリスの呼び声が
やがて赤い電車は終着駅に着く
さびの浮いたトタン屋根に簡素な駅舎。乾いたコンクリートの床が潮風に吹かれて冷たく横たわる
降りる客は自分ひとり
乗り込む客はいない
電車は発車ベルを残しガタゴトと折り返していった
ぽかん
と音がしそうなほど晴れた昼下がりの青空。ホームから見渡せば坂道の下に海が見える。くすんだ銀色の改札には古ぼけた張り紙で当駅無人化の由
切符売り場もない。いつのものかわからないポスターに火災予防の標語
吹き抜ける冷たい潮風
快晴の何処か
遠く潮騒の音
囀る小鳥
血潮が、心が、脳の奥が、ソラリスの呼び声で満たされてゆく
幼い日々に刻まれた傷跡をひとつひとつほどいてゆくための過去に向かってのトランスファー
さあ、その顔を見せてくれ
ソラリスの山羊よ、お前が飲み込んだ記憶の正体を見せてくれ
それは痛み、それは苦しみ、そして憎しみ、或いは絶望。暗く影すら浮かばない曇天の長い長い道のりが終わる
坂道をとぼとぼと登って来る少年がいる。泣いている。くしゃくしゃになった顔にはその幼さとは不釣り合いな青黒い痣が見える。駅舎の前で立ち止まった彼が顔をあげた
ソラリス、お前が導いてくれたのはここだったのか
振り向けば白く薄汚れた駅名標にはひらがなで
こ ど も の く に
青すぎる空、白昼のぎらつく陽射しにかざした手のひら
その指先から空へにじんで溶けてしまいそうな午後
太陽の光が強くて空が青すぎると、景色の中の信号機とか看板とかが青い光のなかにぼやけて溶けてしまいそうに見えませんか?
クラゲが泳いでいった
スイスイ、と青空の大海原に小さな波紋を描いて
足がもう動かない
見上げるしかないこの空の向こうで君が晴れ舞台を迎える日
些細な理不尽を積み重ねた我慢の果てに待っていたごくごく些末な破綻を数えて
煙のように風がさらってゆくのを
追いすがって惨めな気分に酔っているだけの日々が終わる
デジタルの腕時計のタイマーが作動して、残りの命を指折り数える。
懐かしき痛み
鼻っ柱に拳が炸裂した時の、あのツンとした匂い。あれは痛みそのものの匂いだったんだ。ほんのガキだった頃から散々喰らい続けた家庭内暴力が教えてくれたのは、たったそれだけだった
愛情の裏返しだとか、不器用な表現だとか思ったことも、これっぽちもない
ただただ毎日、地雷を踏まないように、大きな音を立てて夜勤前に起こさないように、勝手な判断で殴るに値すると思われないように生きるので必死だった。それでも生きてた。何度も死んでやろうと思ったし、死ねばいいと思ってた
高速道路でトラックの大事故を知らせるニュースを見るたび、アイツだったらいいのにと思った。だけど、現実は誰も死なずに、お互いのうのうと生きた。小さな小さな悲劇の主人公として
そしてそれから二十年後、おばあちゃんが死んだときには元気にビービー泣いてるのを見て、やっぱり殺しておけばよかったと後悔した。お前が死ぬほど殴りつけて、尊厳もお金も奪っていったというのに
輪郭のハッキリした雲が海の向こうで呆然と立ち尽くしている
巨大な煙突に隠された足元から悲しみの雨が降る
あの雨に濡れてしまえたら、いまどんなに楽になれるだろう
肺も心臓も心も体も、重い風邪を引いて熱を出せばいい
高熱を出してうなされているときの夢が忘れられなくて
いつでも不幸な悪夢の中にいる
毎日が正気で生活するには複雑すぎて
シンプルな結論は死に直結する
棺桶に入って暮らしているようなもの
シンプルな人生は死の匂いがする
クジラ、イルカ、お気に入りのレコード
蒸し暑い夜、ビルとビルに挟まれた、生暖かい風の吹く公園で
赤いボトルの中で嘲りと裏切りのあぶくを浮かべている炭酸水を飲み干せば、胃袋のなかで断末魔の罵詈雑言
甘えと優しさの区別もつかないぐらい
人から嫌われることが怖かった
些細な違いを受け入れていたら、どこかで疑心暗鬼が芽生える。その亀裂は無意識のうちに深く、深く、不覚を呼ぶ
余計なことをいつか言わせるために
それでいいんだ、君も僕もそれでいい。そう言い続けていたらかえって孤立して、どこにも取り付く島もない。答えのないところに答えがあるに決まっている。不信は確信へとゆがみ、いびつな感情が真夏の青空に輪郭をぼやかして溶けてゆく
夕立のあとに残った水たまりにうつっているのは独りぼっちの自分だけ
片側三車線の湾岸道路を挟んで林立する巨大工場、煙突、風力発電機、色とりどりのネオン
上空を悠々と泳ぎ霧消する雲で出来たクジラ、イルカ、クラゲ
どろり、と濁った茶色い海のなかに生き物はいない。ヘドロの塊がまるで生きているかのように海底を転がって、そのまたヘドロを掻っ攫って肥大化してゆく。やがて陸を目指し転がり続けたヘドロの中心部で海中の栄養素が凝縮され、海の汚れが質量を持つ。海洋汚染の意思はひとつ
何もかもヘドロの中に飲み込んでしまうことだけだ
波打ち際に上がったヘドロを待っていたのは、異常気象の猛暑だった
あっという間にカラカラに乾いた末端を引っ込める間もなく波止場に引きずり出されたヘドロが、後悔と断末魔をあげることすらなく乾いて乾いて、動きを止める。噴出したガスで周辺一帯を死の街に変えながら自らも滅んでゆく。海中でそれを待つ海洋意思の悲鳴が津波になって押し寄せてくる
林立する巨大工場、煙突、風力発電機、コンテナを積んだトレーラー、無数のヘルメット、朝礼、危険予知。誰も知らないところで膨れ上がったヘドロが無実の人々の平和な日常を奪い、飲み込んでゆく
六階で全部見ていた
ベランダで、窓際で、ベッドの上で
六階で全部見ていた
過ぎ去った関係も、空っぽの心も、ぽっかり開いた隙間にぴったりハマる形の雲を探して、今日も真夏日。青い青い青すぎる空をクラゲが泳いでく
空飛ぶクラゲ、地を這うクジラ。自由のクラゲ、不安のクジラ
あぶくが生まれて、あがって、弾けたのは六階の出窓
いくら手を伸ばしても、指先で追いすがっても、真夏日の青空に溶けた日々はかえらない
喧騒と渋滞とサイレンと潮騒と
それでもいい。いつでも見守っている。それでいい
それでいいんだ
青すぎる空、白昼のぎらつく陽射しにかざした手のひら。その指先から空へにじんで溶けてしまいそうな午後
太陽の光が強くて空が青すぎると、景色の中の信号機とか看板とかが青い光のなかにぼやけて溶けてしまいたくなりませんか?
そう、あの日飛んでいったクラゲのように
時間だよ、鐘が鳴る
赤い列車がやってくる
曇ってて夕焼けの
いつもより低い紫の空が
遠ざかりながら広がって
鬱屈の心とあたまを
小春日和の太陽
どうにかしてよ
自分なりの昼下がり
それなりの人生
どうにかしてよ
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