第12話 臨界都市

 まるで透明なガラスを張ったように目の前に付きまとう違和感を振り払おうと、少し首を振って空を見上げた。青すぎるほど晴れ渡った空と自意識の間には、やっぱり透明なガラスがあるような気がしてならない。雨が降ればこの体は濡れるし、心も風邪をひく。誰と話しても、触れても、重なり合ってもなお、このガラスからは解放されないでいる。

 何もかも嫌になるし、誰も彼も憎たらしい。きっと向こうもそう思っている。すれ違った見ず知らずの人間にさえそう思えてならないし、向こうもそう思っているに決まっている。一瞬すれ違った事さえ損をしたと思われて、どうやって楽しく前向きに生きられるというのだ。そんな時もガラスは少しも曇ってくれない。せめて顔を隠して、目を伏せて生きられたらどんなにいいか。


 部屋に帰ってきても静かだ。外の音が壁越しに染み込んできて、僕を街に閉じ込める。窓を開けて外の空気を混ぜ込んでみる。冷えた冬の固い空気が窓枠のサッシを滑るように這入りこんでくる。

 大小無数の配管が張り巡らされた空間。だんだんガスが濃くなってきた。送風ダクトから漏れているのだろう。窓を閉めたくなった。このままでは窒息してしまう。体の息が詰まると心も詰まってゆく。肺の中がコンクリートを流し込まれたように重くイガイガした感触に侵されてゆく。ガスを止めてくれ。


 なんだかわからない事が、実は一番正しい。このガラスもガスも配管も。疑問も確信も自分の言葉なんかじゃない。ただただ燃えやすい素材を火に近づけて、出したりひっこめたりしているに過ぎない。踝までひんやりとした外気と配管から漏れたガスが混じって、とろりとした空気が体の芯から冷やしていく。心も凍えてゆく。言葉などもう何年も交わしていない。口にもしないような言葉たちが今日も脳の中で虚しい電気信号のまま思想の暗闇へ消えていく。

 張りつめた心は脈打つように薄い膜を押し上げて、また押し込められてを繰り返している。際限なく。止める事も出来ない、

 答えは出ている。

(明日、遠く暗い空の下で)

 内臓も骨も髪も皮も永遠に残す事など出来ない。針を刺して検査をすればスグに答えが出る。数字に出ている。血も肉も体液も精液も目に見えない答えが色とりどりの濁流になって循環する。


 呼吸を止めよう。ガスを吸い込まないようにしなくては。すでに体内に滑り込んできていたガスが脳液に溶け込んでいく。やがて吐き出す息にすら混じり始めたガスは肺の中を行ったり来たりする。


 街の音が遠ざかったり近づいたりしている。星たちが明滅を繰り返す。脳の中に何かを埋め込まれた連中は今日も、同じ景色を同じ明度、同じ匂い、同じ温度で感じているのだろう。ID登録、ID検索、ID管理。全ては監視され、統制されている。何もかも登録、検索、管理が可能になった世界。権利も、平等も、自由も、貧富も、戦争でさえも。全ては登録された情報が依り合わせ、紡ぎあげてゆく。用もない観光地の土産物に並ぶ不細工な織物細工のように、それはずっとそこに存在している。天井からぶら下がって埃をかぶったまま何年もそこにあるようなものこそ、本当に必要で恐ろしいものなのだ。


 そんな不細工な土産物にも、登録され検索され管理される者にもなれなかったら、あとは毎日惨めに生きていくだけだ。何処で何をしようとも、負い目が、引け目が、卑屈な薄ら笑いが付きまとう。陰口と根回しの上手い奴がほくそ笑む。不細工な織物細工のような顔で。自分はそんな下らない奴にも劣るのだと烙印を押され、起きて寝るまで休まる事がない。


 見渡す限り紺碧の地平。そこには隙間なく敷き詰められたソーラーパネル。眩しい陽光を反射してにぶく光る科学の海原、その地平の彼方に林立する巨大風車。今この青すぎるほど晴れた空の下で、見えない電気が飛び交っている。頭の中を、心臓の奥を、駆け巡る微弱電流を集めて、今日も同じ夢を見る。


 濁りきったどぶ川の向こう岸。どす黒い雲の隙間から射し込む太陽の光に照らされて、そびえ立つ高層団地の群れ。死神の牙城か、堕天使の牢獄か、映画のように色を失い音を剥ぎ取った景色に引きずり込まれていき、やがてこんもりと茂った鎮守の森の奥に佇む古ぼけた神社に辿り着く。涼しげな石畳、苔むした灯籠、色あせた護符、柔らかな木漏れ日。しんとした時間の中で目を閉じて深呼吸を一つする。


 目覚める時を待っている。壁の向こうで無数の巨大な目玉がこっちを見ている。奴らに寝顔を見せてはいけない。やがて見ず知らずの誰か他人の夢を強制的に繋がれて、出られなくなる。いいか、あの目玉には近付かれるな、目玉に屈するな。視線を感じても決して振り向いてはいけない。それは籠森の果物がナイフを拒むように果汁を溢れさせて、やがて咀嚼される運命であったとしても。


 巨大な蝶の羽に見えるが、これは耳だ。

 巨大なナメクジの背中に、目玉がある。

 巨大な絨毯のような生き物が居るんだ。

 廃墟と化した都市、その内側に巣食うもの。

 絨毯のような体の裏側に潜む無数の触手と強酸の胃袋で丸飲みになったうえ溶かされる。骨も残らずに泡になる。何処かで目が覚めるはずだ。突然悲鳴を上げて、消えていく奴がいる。自分以外の人間が居る事に初めて気が付く。しかしどんどん居なくなる。耳に聞かれ目玉に見つかり、追い詰められて泡になる。次に見る夢は決まっている。廊下を走る足音、綺麗な、つるつるしたフローリングの明るい廊下。小さなロッカー、低い机、カラフルなチョークが踊る黒板。いつも同じだ。そしてガラガラと軽快に鳴る引き戸を開けると、無数の小さな手のひらが掲げる画用紙の中に、色とりどりの目玉、目玉、目玉、目玉目玉目玉めだまめだま。

 全部、こっちを見てる。


 真新しいアスファルトが敷かれたバイパスが青空に向かって伸びている。真っ白いガードレール、その外側は漆黒の崖底。ただこの道を歩いていくしかない。遠くにかすんだ街が見える。陸橋だろうか。線路が見える。真っ赤な電車が2両で走って行った。行き先はわからないが、向こうの空はまるで塗料をこぼしたように真っ赤だ。


 駅のホームは人いきれでごった返している。赤い電車を待っている。特急列車に乗り込むやかましい連中をやり過ごし、鈍行を待つ。時刻表も電光掲示板も無い。ただ、来るという事だけが分かっている電車をじっと待つ。ベルが鳴る。メロディが聞こえる。

 死ねよ死ねよ死ね死ね、と聞こえる。ふっと目の前が赤くなり、素早く通り過ぎる窓の動きがゆっくり止まる。駆け寄る足音、退屈そうな連中の顔色、悲鳴を上げる自分に酔いしれる醜悪な女、夢から覚めたようだ。


 明るい廊下を走る上品な靴下、つやつやした黒髪、弾む吐息、黄色い帽子、整頓された本棚に積み木の箱。子供たちの掲げる画用紙には、大小様々な、色も形もバラバラな、同じ目玉。いつも同じ目玉。子供たちの顔は、真っ黒に塗りつぶされている。画用紙の中の目玉だけがこっちをじっと見ている。そうして目が覚めるはずなんだ。


 もう何も思い浮かばない、もう誰も思い出せない、もう何処にも思い残すことは無い。体から赤い泡が次々に湧いて出て、自分が自分じゃなくなる感覚が日に日に強くなる。金属音、甲高いノイズ、あの日と同じだ。あの目玉に睨まれた時の、不快な金属音。止まらない。あの日から。それは間隔を短く、音量を高くして続く。止まらない、止まらない、止めてくれ、ノイズを止めてくれ。泡が……。


 巨大な制御室の壁一面の複眼モニターの画面には、階下のガラス床の下に埋め込まれた浴槽に似た装置に接続した人間たちが見ている夢を映し出している。夢の枯れた精神は肉体から分離され泡になって消えてゆく。さっきまで見ていたあの赤い泡は、その象徴を被験者が見ているのだ。抜け殻になった肉体は肉洞を構成する生体部品や、人造人間の原料になる。この白い部屋は精神と肉体の境い目にある遠心分離器のようなものだ。分離器にかけられた人間の精神の方を置いておく場所、それがこの精神世界だ。バーチャルリアリティをもう少し脳の奥まで届かせたようなものだと思えばいい。そこに精神力だけの存在となった人間がひしめいている。ある者は嘆き、ある者は怒り、そして争い、喰らいあってゆく。精神世界での死は、即ち意思の死、魂の死を意味する。そこで人間は完全に死ぬ。

 ここは死者の箱庭。だだっ広い精神の霊廟。


 今日も密かに続く脈動の中で、無数の繋がれた魂が嗚咽を繰り返す。怖いほどよく晴れた青い空の下で。

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