第8話 タリスマン

 青く、どこまでも晴れた遠くの空の下でもうもうと立ち上る黒煙を見ていた。車も人も通らない田舎道。のどかな陽射しとぼんやり浮かぶ真昼の月。それとは対照的に、どこかで誰かの財産が、命が燃えている。

 ぼがん

 と低い音が響いて、ひと際大きな黒煙の塊が上っていった。青空のバケツに墨汁を流し込んだように、黒煙は高く高く上っていって、やがて薄く散っていった。


 ちりん。

 谷町九丁目の交差点。千日前通は深夜だというのに猛スピードで車が行き交っていた。生玉のホテルLOVEから歩いてきて、ここでタクシーを拾おうというわけだ。一緒に居る女の子は普段SMホテヘル嬢をしていて、彼女の勤め先がすぐ近くなのでこの辺りには詳しかった。ただ最近は店に出るよりもっぱら個人営業に精を出しているという。薬のせいで太ってしまった、と彼女は言うけれど、初めて会う僕にはとても素敵に見えた。肩のあたりまでまっすぐ伸びてつやつやした黒い髪、すっと切れた目、ぽってりとした唇。ふくよかな体つきと丸みを帯びたお尻。白くきめ細かい素肌が一際盛り上がったEカップの胸元で

 ちりん

 と小さな鈴が鳴った。

 角のタコ焼き屋で差し入れのを買おうとカウンターの前に立つ。ひどく不愛想で感じの悪い店主の態度に僕は少し釈然としないまま、寒いねえとだけ呟いた。彼女の舌でピアスが光る。

「ここのタコ焼き美味しいんだよー」

 彼女の言葉にも、店主の中年男は反応するそぶりを見せない。

「そうなんだ、いいなー」

 じゅわっ、じゅわーと熱した鉄板に生地を流し込む音と、香ばしい香りの湯気が冬の街の空気に溶けてゆくのを、冷たいベンチに腰掛けて呆然と見送った。

「どこ行こうか」

「んんーどこでも」

「いつもどこ(行ってるん)だっけ」

「宗右衛門町かな、ミッテラでもいいよ」

「じゃあそっち行こ。顔出したいお店あるんよ」

「おっけー」

 出来上がったタコ焼きを受け取るとそのまま交差点ですいと手を上げ、タクシーを停めて乗り込む。慣れた素振りの彼女を見て、やっぱりこの街の住人なんだなと思う。滑るように停まったタクシーの後部座席に並んで腰かけると、タバコとタコ焼きのソースのにおいに混じって、彼女の髪の毛からふわりといい匂いがする。艶々した黒いショートヘアーが揺れるたびに、ポプリのようにほのかに、確かに。

 ちりん。

 小さな音がした。そういえば、さっきから小さな鈴の音がしていた。

「それなに?」

「ああー、お守り。天使の鈴だよぉ」

 彼女はおどけて、ネックレスについている小さなキーホルダーを振って見せた。ニコニコ笑った天使が大事に抱えているピンク色の鈴が、ちりちり、と可愛らしい音をたてた。

「もらったの?」

「そー、おばあちゃんにねー」

「可愛いな」

「でしょー」


 御堂筋の交差点でタクシーを降りてから少し歩く。この時間でも道頓堀は外国人・日本人入り乱れての盛況が続く。ドラッグストアのアナウンスもどこの国の言葉だか、酔いの回った頭では判別つきづらい。人ごみの中を縫うようにして橋を渡って、三津寺の交差点を左に。日宝三ツ寺会館と書かれた古いビルの地下に、私の好きな店があった。ベレー帽の似合う店主が今日も待っていてくれるだろう。店中のレコード、映画のポスター、本には、彼女もきっと興味を持ってくれる。長い夜が今日も続く。


 のどかな長い長い坂道を登ってゆく空荷のトレーラー。ビニールハウス、温室、段々畑に青い空。白い雲。

 やがて坂道を登りきり、ゆっくりと滑るように下ってゆく無人のトレーラー。

 見渡す街並み、坂道の麓にはお寺。小さなお庭に滑り台とブランコ。

 小さな机いっぱいに広がる青空、線路、夢の街。可愛らしい手で握りしめたクレヨンから躍り出す沢山の希望。

 それを見て回る美しく優しい先生のエプロンには彼女の素敵な名前が刺繍されていた。

 園児たちは彼女を呼び止めては、自分の作り出した夢の話をする。海底を走る超特急、宇宙ブランコ、三日月の滑り台。やがて一人の園児が窓の外を指差して楽しそうに声をあげた。

 先生、空飛ぶトレーラーが来たよ!


 自分より背が高くて、自分より不細工で、自分より取り柄の無さそうな奴に限って自分より可愛い彼女や嫁が居る。ずっと好きだったあの子も、最近ちょっといいなと思ったあの子も、みんなそうだ。世の中は顔じゃない。だけど、世の中が選ぶのはお前じゃない。そうかそうか、そういうことか。それならそれで構わない。こっちはそれなりの復讐をして回るだけの事だ。これは自分より不細工なくせに自分より幸せにしてやがるオスどもへの復讐の連なりだ。俺の人生は、この先ずっと復讐のために費やされるんだ。死んでも恨みぬいて、血の一滴になるまで呪ってやる。

 気が付けば三十歳を越えて二年になる。立派な中年に向かってまっしぐら。そりゃあ二十歳そこそこの連中と話や感覚・常識・モノゴトの好みに至るまで合致するわけがない。向こうが気を使って合わせてくれているだけだ。

 あの毛玉のようなペンギンも、やたら叱るドラ猫も、人間関係の色眼鏡越しに見てしまっているからわからないだけで、本来イケ好かない人種が好き好んで見ているものじゃないのか。

 よく考えてみろ、何の不自由もなく親の金でいい大学まで行きやがって遊びみてえなバイトと遊びのサークル活動で忙しいとかぬかしてる奴と、実の親から死ぬ寸前まで理由もなく殴られ続けてたお前に何の接点がある。話をして何が楽しい?

 そのうえ指一本触れさせないと来たら、それ以上関わる方がおかしいだろ。不自然な友情を保つことでお前の何が満たされる?

 お前は何を楽しめる?

 まあいい。全ては終わったことだ。ジャガイモと深海魚を足したようなツラのアホみたいなブス男はそこでくたばってるし、こっちのお嬢ちゃんは自分の人生で味わったことのない屈辱や絶望、恐怖で腫れて鼻血まみれの顔を震わせている。

「ウッケる」

 天使のように整った顔をした少女が私の頭上で吐き捨てて鈍い夕焼けの空を真顔で飛んでいった。お嬢ちゃんのほうは相変わらず

 なんで、なんで……

 とブツブツ小声で言ってやがるが、それはこっちが聞きてえぐらいだ。

 汚れ切って猛烈な臭いのする便所の床に顔をこすりつけられて、髪の毛にも小便混じりの泥水が絡みついて。このジャガイモ深海魚はお前を守るために何が出来た? 

 お前を守るために何をした?

 目の前で犯されるお前を見てなんて言ってた?

 引き裂かれた下着越しに肛門からあふれた血液と体液が混じった精液が垂れる。少し糞も混じっているようでうっすら黄色くなっているじゃないか。可愛い顔をしているが所詮は同じだな。

 愉快だ。実に楽しい。生まれてきてよかった。


 ハムスターの息子に生まれてよかった。

 真夏の陽射しかきらめくプールに体操着のまま飛び込んで、水面にのぼってゆくあぶくを見上げてそう思った。頭痛も腹痛も不安もない世界はボトルの中の水に沈んでいた。赤いラベル越しの炭酸水は今日も気まぐれで、三角定規を添えてみても何も言わない。屋上の物干しで揺れるタオルの色が赤赤緑きいろきいろ。タチの悪い運転をする黒い軽自動車のステッカーみたいで面白いねと歯のないうさぎが笑った。ボトルの水底できらりと光るタリスマンを掴みたくて、手を伸ばしても届かない、あぶくの向こうで天使がちりん、と笑った。


 空っぽの小部屋に居た。ここがお店だったのはつい数日前までのことだった。色とりどりの電球やLEDが薄暗い部屋を照らし、映画やパンクロックが流れていた、ささやかだけど賑やかな酒場だった。

 今では見る影も何もない。コンクリートがむき出しになった小部屋が不愛想に黙り込んでいるだけだ。明かりも、蛇口もない。ただトイレのドアと床と天井と壁があるだけの場所に、気が付くと青い線路が延びていた。それはおもちゃの線路で、電池で動くプラスチックの超特急が色とりどりの車体を揺らして走って来る。柔らかな陽射し、ボンボンとのんびり鳴る振り子時計、オヤツのクッキーとオレンジジュース。小さな男の子は寂しそうに、また別の青く丸っこい超特急を握りしめて眠っていた。過去に向かう夢の超特急に乗り遅れたら、またこの暗い部屋に戻って来るのだろう。男の子のポケットから顔を出した天使の鈴が振り子時計に合わせてちりん、と歌った。


 ①懐かしい潮風


 その日、知多半島はスカーンと音がするほど晴れ渡っていた。梅雨前の、あの沈鬱な季節を前にした最後の、初夏らしい日かもしれない。風と空気は少し冷たく、陽射しはやわらかくあたたかい。そんな日に、私は知多半島の先端、豊浜に居た。仕事を放って。

 一旦常滑まで出て、そこから247号線を道なりに南下する。ビーチランド、海水浴場、バーベキュー場、温泉ホテル、土産物店、集落の坂道。曲がりながらまっすぐ延びたアスファルトの道はそのままに、景色は刻一刻と移り変わる。青すぎる、晴れ過ぎた空と水平線が溶けて、どこから海でどこまで空かわからなくなる。見覚えのない景色、新鮮な風景はどんな些細なものでも面白く、脳に新しい風を吹き込んでくれるような気がする。ちょっと考えたら自分の住まいと大して変わらない、ここにはここの営みがあるだけの事なのだけれど。

 三十路過ぎの会社員には、このぐらいの小さな冒険が関の山で、身の丈に合っている。


 ふと目をやった集落の狭い路地。

 潮風まじりの陽射しを浴びて真っ白に光る地面。側溝の蓋の上。幅1メートル少々のその道を、老婆が一人ポクポク歩いていた。その上には湧き上がる雲、そして晴れ過ぎて少し黒いぐらいの青空。道端には老婆。

 なんていい日だ。

 時間にして0.5秒ほどの、一瞬の景色が目の奥に焼き付いて離れない。脳にまでしみ込んで、美化されて、具現化させると、もう別物。あの日あの時のあの景色を、いつも誰かに見てほしいと思っている。だけど、見せに行くときも、書き出したものも、やっぱり別物な感じがして。

 老婆はこの先も生きている限りあの道を歩くだろう。老人特有のあの小さな四輪を押しながら。それが日常だから。私は二度と見ることは無いし、決して会うことも無いだろう。そんな近くて遠い海辺の道をぐんぐん走ってゆく。もうすぐ師崎だ。折り返し地点はとうに越えている。

 後でどんだけでも仕事してやるから、今だけは邪魔せんどいてくれ。

 思わず口から出た言葉が、波間に消えて沈んでいった。


 ②ガソリンスタンドの雑然とした事務所

 ブラインドの向こうは晴れた夏の日


 ヤニ臭い冷房の風を浴びながらため息を吐く。今日も一日忙しくて、食事はおろか休憩もろくに取れなかった。昼イチで上がりのハズだったシフトは延々のびて今は夕方4時少し前。まだ、夏の陽射しはギンギンに照り付けている。漸く頂いた休憩時間があっという間に溶けてゆく。というか、帰っちゃダメなのか?

 さしたる理由も聞かずに、ひたすら店先で

「いらっしゃいませーーーーえ!」

 と叫び、走り回って、給油と窓ふきに明け暮れていた。いつもの通りだ。昨日も、明日も同じ仕事をする。お店には色んなお客がやって来て、好きなお客もイヤな奴も沢山いた。

「い~~~らっしゃいませぇ~!」

 オモテから聞こえてくる叫び声が、とっとと出てこい! と呼んでいるようで落ち着かない。まだあと10分あったはずの休憩時間がいつの間にか5分を切っている。まだ、まだあと5分……。コンビニで意味もなく買い込んだおにぎりやサンドイッチで腹は膨れたが、何も満たされないまま無為な時間が過ぎていった。シャツを着替えなきゃ。そう思ったが、外にある階段を登って二階で着替えて降りてくる、というのがとんでもなく億劫で仕方がない。どうせ汗まみれになるんだ。まあ、いいか。冷房ですっかり冷え切った背中から肩にかけての嫌な冷たさを無視してキャスター付きの椅子から立ち上がった。休憩終了3分前。律義に突っ込んだタイムカードが機械の中で詰まって出てこないまま、現在時刻だけを延々とタイプし続けている。15時57分、57分、57分、57分、58分。延々続く夏の日が黒いインクをにじませてゆく。


 ③毎日正気生活


 とある木曜日の午後2時。どんよりした雲の下。

 しょぼしょぼ降る雨の中を傘も差さずに歩く少女。

 黒縁メガネ、黒を基調にしたゴシックロリータ、黒いブーツ。

 古びたコンクリートの道路橋のアーチの上を、虹でも渡るように歩いてゆく綺麗な横顔。左から右へ。西から東へ。彼女は何処に向かっているのか。田舎道、県道の番号が振られた標識と信号機の地名には見覚えのない文字。つい最近リニューアルオープンしたのだろうか、この辺りの風景から少し浮き出ているぐらい真新しいカーディーラー。ドラッグストア。ローカルチェーンのスーパー。国道に続く道をトラックや商用車が行き交う。

 その自動車たちの群れの向こうを、速度も顔色も変えず歩き続ける。薄暗い空を見上げることも、流れゆく自動車を追うことも、端末や本を取り出すこともなく。ただ歩く。すれ違う人も居ない。遅い午後の田舎町。

 やがて不意に左へと折れ、線路の下をくぐって右へ。中央本線の駅に着く。真新しい駅舎と市庁舎。周辺には整備中の公園。明るく文化的な街づくりが進められている。そのどれもをくすませる薄暗い小雨の日を、彼女は相変わらず顔色ひとつ変えずに歩いてゆく。自動改札にプリペイドをパっとかざし特急列車をやり過ごし、快速名古屋行きを待つ。

 彼女はいったい、どこに向かっているのか。


 真夏日に愛をこめて。

 夕暮れの空に藍をこめて。

 はげ山に登った三日月が鋭く突き刺さって、どす黒い血を流す心の傷跡から生い茂る菩提樹。

 多弦ベースを抱えた長髪のアジア人が坂道の多い街をゆく。

 路面電車、キャディラック、乗り合いバス、ソウルフードの店。

 太陽は怒りに満ちて膨張し、真っ赤な土ぼこりをひとつひとつ照らし出す。

 砂粒ひとつ見逃さない、許さない。

 弾かれた弦がたわみ、放たれた音色はゆがみ、やがて響くそれは繰り返す喧騒という名のノイズ。

 今日も止まらない。


 寝たら明日が来る。

 ただそれだけが憂鬱で、朝も夜もいらなかったあの頃。

 些細なことで追い詰められて、抱えきれなくなった感情が手のひらから零れ落ちてゆく。

 指と指をすり抜ける理想と、手のひらに残った現実。

 死のうとも思えず、ただ嫌々生きていた。


 蔦が伸びる。捨て子塚の小さな小さな地蔵の群れがひとつ、またひとつ転がって。

 いつの間にか生い茂った茨が真っ赤な花を咲かせていた。

 垣根に、公園の遊具に、下水道に伸びて絡みついて、寝ている人々の耳の穴から脳へ。

 泣き喚く赤子のような声を直接流し込んで、やがて脳天に真っ赤な花が咲く。

 捨て子花は開いたり閉じたりする。

 やがて脳髄を、血液を吸い取って精神を侵した捨て子花は自らの依り代を作り出し、巨大な蔦植物になって街を踏み荒らす。怨念、悲しみ、恐怖、嫉妬、憎悪、怒り、嘆き……。

 あらゆる負の感情を養分にして絡み合い、天まで伸びた捨て子花。

 具現化した精神が人の形になっただけの、抜け殻の体が取り込まれているのが見える。

 耳から、目から、鼻から、口から、肛門から、膣から、尿道から、蔦が入り込んで絡みつき自ら産み出した負の感情に磔にする。生きながら死に、死んでもなお自らの精神によって現世に留められる。

 精神の磔刑。

 逃げられない、この蔦は固定観念の鎖であり、肉をえぐり血管に食い込み、溢れ出る血液を浴びてさび付き、その毒性でさらなる膿を作り出す有刺鉄線。

 やがて限界に触れるまで伸びた蔦が、末端から腐り出す。腐りは鎖。逃げられない。朽ち果てることへの恐怖、死への恐怖、消滅の恐怖。逃げられない。アイデンティティの消失。

 力を失い、ぽろぽろと剥がれ落ちる抜け殻の人間たち。

 花は枯れ落ち、自分の体が徐々に朽ちてゆく。叫ぶ、嘆く、吠える、逃げられない。

 やがて大地に倒れ伏し、どす黒い血液を垂れ流して死ぬ。

 捨て子塚の地蔵の群れが

 バン!

 と弾け飛び、ただの石くれになる。

 ひとつ、またひとつと弾け飛び、いちばん大きな最後の一つが砕ける寸前に、捨て子花が音もなく立ち上がり、そして燃え上がった。


 バン!


 虹色のかぶとむしを捕まえろ!

 それは決して広くもない部屋の中を飛び回り、私を愚弄する。

 のろまで、頭が働かず、まるで泥沼に足を取られているように生きる私の愚鈍さをあざ笑う。

 羽根も持たず、キバもない、角もない、速くも走れない。

 だけど生きている。そのことを延々と罵倒され続ける。

 虹色のかぶとむしを捕まえろ!

 踏みつぶしてやる。そして殺してやる。

 私は愚鈍なんかじゃない、私は芋虫なんかじゃない。

 ただ地を這うことしか出来ず、いつも見上げた空にはかぶとむし。

 やがて狭い部屋の中で、自分以外の芋虫は硬くなり、動かなくなった。

 自分の空に閉じこもって、ドロドロの液体になっていた。

 私だけは違う、私だけは、愚鈍な芋虫なんかじゃない!

 かぶとむし、虹色のかぶとむしめ!

 じたばたと部屋の中を追いかけ回し、ヤツの羽音を聞き逃さない。

 耳を澄ませ、感覚を研ぎ澄ませ。

 頭の奥でゴォーっと血潮の流れる音がする。

 潮騒、雲雀、潮の香りが体の中に満ち満ちて。膝から肩へ。

 100年がまるで1日で過ぎ去ったような感覚。

 心臓が剥き出しになって、つくしんぼが生えている。

 揺れる揺れるつくしんぼ。

 精神世界の土手っぺりに生えて並ぶ無数のつくしんぼ。

 そこに舞う蝶の羽根の模様が全部、死んだような眼差しで無為に過ごし今日を終える私の顔。

 芋虫は、全部サナギになって、羽化して蝶になっていた。

 芋虫だと思っていたのは、みんな立派な蝶だった。

 本当に無能で何にもなれないのは私だけだった。

 私は芋虫ですらなかった。

 芋虫じゃない、と言いながら、立派な蝶になる芋虫すら愚弄していた。

 虹色のかぶとむしにされたことを、自覚もなく芋虫たちに浴びせ続けていた。

 ああもう自分は死ねばいいんだ。

 やっぱり自分が死ねばいいんだ。

 今日も無為に過ぎていった。部屋の中を飛び回り私を愚弄する虹色のかぶとむし。

 芋虫も蝶も生きている。花を求めて、蜜を求めて飛び回ることが出来る。

 精神世界の土手っぺりをひらひらとのんきに舞う蝶が、捨て子花の毒花粉を浴びて悶え死ぬ。

 狂いだした蝶の群れが一斉に空を覆い尽くし、赤黒い血液色の夕陽を隠してしまう。

 カミソリ、死体のような皮膚、全て見えなくなればいい。

 行き先は無い。心の奥底、月の裏側、バロンの待つ街へ天国旅行。


 そして何もなくなった青い空に、たった一匹。

 虹色のかぶとむし。


 脳が腐ってゆく。青い樹脂キャップのついた瓶の中で軽くなってゆく記憶と砂嵐の音。

 黄色い街。

 ゾンビになった気分は、どんなだろう。

 見た目を説明するにはどこから話せばいい? 鼻を突く臭いは? はみ出した内臓と垂れ下がった目玉と、膨らみ過ぎて破裂した脳髄は?


 晴れ渡る空。書き続けた追憶。失われた時間。

 この道も夏になれば混みあい、行儀の悪い連中だけが得をする嫌な道になる。

 今のうちに走っておきたい。今のうちに目に焼き付けたい。

 そんな景色が今日も脳からこぼれ落ちていく。それは地面に激突するまでは記憶の塊。

 だけど一度落ちて砕けてしまえば砂の塊。

 記憶は何かと聞かれたら、記憶は時だと答えるし

 時とは何かと聞かれたら、時とは砂だと答えるさ

 白く干からびたたんぱく質の中に、神経も回路も繋がっていて、薄桃色に蠢いていたころなんて想像も出来なくて。

 地面で砕けた脳蛋白を呆然と見つめる目玉が垂れている。視野が広い。三百六十度の腐れ目線で世の中の何もかもが自己嫌悪の種になる。気持ち悪いんだよ、何もかも自分のせいで、他人の気分も自分が害して、世界中の人間に迷惑をかけているという傲慢。気持ち悪いんだよ、別れた彼女が自分に未練があるのをいいことに繋がっている優しさに見せかけた自分の未練を元彼女に全部かぶせる不粋なブス男。切れよ、一度キッチリ離れないと何もかも客観視なんてできないし、客観視されたら困るのが見え見えなんだ。そんなこと思ってないなんて言わせない、お前は確かに甘い汁を吸ったんだ。それに未練がないなんて言わせない。お前はお前のツラに不釣り合いな甘い汁を浴びたんだ。その落とし前をつけるときが来たんだ。そして絶望しろ、お前の狭い世界でお前が優しくあろうとし、悩み、苦しみ、死にたいとさえ思ったこと。そんなものは彼女の前に広がるこれからの未来にとって路傍の石ころの裏で這い回るダンゴムシの抜け殻よりも価値なんてない。


 体が腐るのが先か、心が腐るのが先か。

 ロクでもない自覚は確かにある。だけど人並みに好かれたいし嫌われたくない。

 好きで嫌われ慣れたわけじゃないし、出来れば好かれたままでいたい。

 久しぶりの連絡が、連絡しなくてごめんなさい、だけで終わる気持ち。

 自分には、ただのチャット一通を返さないことの申し訳なさしかトピックスがない。その程度だと言われているようなもの。

 私が謝らせてしまった、私が謝らなくちゃいけないのに、私が謝ったせいで。

 なにをどうやっても自分が申し訳なく、自分が怒られて、自分が責められていた方が楽で簡単で居心地がいいのだということを誰も否定できないのをいいことに、今日もただ謝ってやり過ごす。

 そんなお前の謝罪はお前の自慰行為でしかない。

 そんなことを言われるのは私がダメだからだ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、腐ってら。


 クラゲが一匹、青すぎる空に浮かんで太陽の光に透けて消える。

 地面から、海面から、水たまりから、信号機の赤いランプから、送電線の鉄塔のてっぺんから、浮かんで泳いで透けて消える無数のクラゲ。

 青白くやわらかな頭を浮かべて、空の青に溶けてゆける。


 関わると謝りたいだけ謝られて加害者にされる。

 自分が自分自身に対しての加害者である限り、周囲の人間を誰かれ構わず被害者に仕立て上げるという妄想が他人に伝播した時点で暴力。お前が加害者なのは変わらない、ただ被害者が具体的に生み出されるだけ。妄想の具現化は被害者の具現化。その椅子に自らを縛り付け、今日も額に脳から搾った露を垂らし額の割れる日を夢見て発狂ごっこに興じるいい年こいたバカ。


 ようこそ腐乱死体の展示即売会。

 色とりどりの腐れ人形。

 掴みそこなった夢にすがる手がとっくに腐っていることを認められない連中の夜想曲。

 地に足が付かないまま地面に埋もれてもがくことも出来ない。

 何かに熱中するあまり狂ってしまった自分を押し出して、本当の自分の矮小さをひた隠しにする。

 そう言う人間同士が集まってくっ付いていた。そんな人間同士の関係性に青春を費やし、何も残らなかったことすら認められず、そのまま年だけ取って行く。年齢を重ねることが出来ず、年だけを取る。

 そして今、惨めな自分を隠せるものは何もない。初めから隠れてなどいなかったが、それでも自分には手札があると思いこんでいた。今はそれすらない。そしてそんな偽りの自分とも、付き合ってくれる他人もいない。自分たち以外の連中を見下し、レッテルを張り続けた結果、自らがそのレッテルの外側に隔離される皮肉。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 腐ってら。

 心も体も。


 茶色いビンの底からアブクが一つ。

 夢見た空はガラスの向こう。

 小さなビンの底から這い上がることも出来ず、諦めることも出来ず、自嘲と自己嫌悪と被害妄想の同じネタを垂れ流す。

 それは縮小再生産を繰り返し、やがて水蒸気より軽くなって、クラゲといっしょに空を舞う。

 浮かび上がって地面を離れて、やがてビンの中で快哉を叫び、フタに頭をぶつけて落ちてゆく。

 ビンの底のアブラのなかに。

 ひんやりした感触が砕けた骨、えぐれた肉、腐って抜け落ちた髪の毛、歯、目玉からしみ込んで、バラバラになった体を包んでゆく。そんな自分の姿をビンのフタに腰掛けて今日も見つめている。

 腐って垂れ下がった目玉で。




 テトラポッドより愛をこめて。


 散歩でもしよう、と思い立って適当なシャツを着て家を出た。黒いジーパンは少し緩くなった。白と黒のストライプが入った長袖のシャツでは肌寒いと感じたが、まあいい。青すぎるほど晴れ渡った空に向かって伸びる跨線橋をえっちらおっちら渡る。ありふれた塗装とステンレス製ボディの通勤列車を見て小さな子供がはしゃいでいる。親父らしき若い男はつまらなそうな顔をしている。

 あの日も、こんな風に晴れていた。不意に思い出したのは不安げな眼差しをした四十歳の彼女のこと。もう何年前になるだろうか。初めは軽い挨拶を交わすくらいだったのが、少しずつ話をするようになっていった。いつも午前中にこの道を通っていた彼女は、その先にある精神病院に入院していた。毎日散歩に出かけて、近くのコンビニでお菓子や飲み物、雑誌を買って帰る。そんな生活を続けていた。私は私で仕事もせず、疲れ果てて会社を辞めて以来ずっと実家でぼんやりと過ごしていた。同棲していた彼女と別れ、アパートを引き払い、母親と年老いた祖父母とロクに口も利かずに過ごす無為な日々に、彼女との軽い接触はちょうどいい刺激になった。


 四十歳になったばかりの彼女は、当時二十代半ばだった私から見ても十分に若く綺麗だった。背中まで伸びた明るい茶髪、細身の体は風が吹いても折れてしまいそうで、私を見つけると透き通るような声で呼びかけてくれた。夏になるとTシャツ越しに小ぶりだが形のいい胸がくっきりわかって、その無防備さもまた私を強く惹きつけた。


「私ね、年内で退院することになったの」

 彼女からそう打ち明けられたのは秋も深まった頃だった。

「そうしたら、もう会えなくなっちゃうと思って。あの、私マユズミ アイって言うんです! これに全部書いてあるから……見てくれますか?」

 怯えるようにして突き出されたその紙は住所氏名年齢電話番号などがしっかり書かれた何かの書類で、こっそり持ち出してコンビニでコピーを取ってきたらしい。

「あの、退院する前に一度お願いを聞いてもらえませんか」

 彼女は海が見たいと言い出した。退院したら家に閉じ込められてしまう、きっともう会えなくなっちゃうから……二人で海が見たいと思った、と。

「だけど、面会とか外出は手続きが大変だから、私の弟ってことにしてくださる?」

 そうすれば話が早いから、と彼女は言う。そんなことがまかり通るのかと思ったが、意外と

「みんなそうしてるんです、私は今まで会いに来てくれる友達もいなかったけど……」

と言って寂しそうに笑って、コンビニ袋から取り出したマウントレーニアのカフェラテにストローを刺した。今度の土曜日に、と約束をしてその日は別れた。


 こんなに気持ちが高ぶっているのは久しぶりだ。明日を、その次の日を待ちわびて生活をするなんていつ以来のことだろう。毎日、毎晩、明日の朝また起きるのが憂鬱で仕方がなかったというのに。仕事を終えて家に帰る車の中でも明日の仕事の事を考えて、また同じ道で朝は通勤ラッシュ、夜は帰宅ラッシュに埋もれて、割り込む車や邪魔な場所で停まって派遣社員を降ろすマイクロバスにうんざりすることそのものにうんざりする生活を長いこと続けていた。風呂に入って夕食を済ませてネットで動画見たり音楽聞いてたらもう寝ないとまずい時間だ。ああ、また明日が来るのか。そんな暮らしも今は遠い昔のようだ。


 土曜日が来た。病院があることは知っていたし建物はいつも見えていたが、中に入るのは初めてだった。受付で言われた通りに申請して書類に記入をすると、不愛想で無頓着な職員が拍子抜けするほどあっさりと通してくれた。真偽など如何(どう)でもいい、私は「そういうこと」にされているのだろう。

 ここでお待ちください、と通された面会室は、最近立て替えて清潔で美しい外観とは真逆で粗末な部屋だった。古びた木造建築そのままで、歩くと床板がドカドカ鳴った。ガタついたテーブルとイスがあるだけの寒々しい部屋は空調もなく椅子の尻が冷え切っていた。まるで昔の刑事ドラマに出てくる取調室だな、と思った。患者と職員と設備にお金をかけないことが経営のコツなのだろう。

 五分ほどして曇りガラスの嵌められたドアが開き、細いジーンズにグレーのパーカーを羽織った彼女が入ってきた。中年のくたびれ切った顔の女性看護師がこちらも向かずに「ごゆっくりどうぞ」と言い捨ててどこかに消えた。

「寒いでしょう、この病院ずっとこうなの」

 何故か彼女の方が申し訳なさそうにして、寂しい笑顔を見せた。いつもより少しだけぎこちない四方山話をして二人で部屋を出た。受付を気まずい顔で通り抜けて、車に乗り込む。彼女が助手席に座った拍子に、ふわり、と良いにおいがした。女性の髪の毛特有の甘くてやわらかいにおいだ。


 海までは県道を走ってすぐだった。お目当ての砂浜は穴場で、この時期ならまず誰もいないはずだった。ステレオからLed zeppelinのお気に入りが静かに滑り出して、背もたれを心地よく揺らしていた。バイパスを逸れて側道へ。高架をくぐって舗装もされていない狭い道をどこどこ走る。背の高い草むらの向こうにキラキラ光る海と白い波が見え隠れすると、バックミラー越しの彼女の顔が心なしか高揚しているように見えた。

 やがてその草むらも途切れたところに車数台分ほどのスペースが開けていて、そこから砂浜まで歩いて降りることが出来た。ドアを開けると濃密な潮風が吹き込んできて、彼女は目をしばしばさせた。私は助手席のドアを開けて、車から降りる彼女の肩に腕を回して少し強く抱いた。彼女も私に身を任せて、そのまま歩き出した。

「私ね、海って久しぶり」

 潮風になびく髪の毛をかき上げて彼女が呟く。ごおーっという波の音だけが辺りにこだまする。思った通りに砂浜には自分たち以外に人の姿は無く、私は手ごろな高さのテトラポッドを見つけると軽く砂を払って彼女を促し、隣に腰を下ろした。重厚なコンクリートの塊だったが、さっきの病院の椅子よりよっぽどマシだった。座りながら肩にもたれかかってきた彼女の華奢な体つきと儚げな軽さが私の右腕から体温になって伝わって来る。心臓がいつもより大きく、早く鼓動を刻み始めて、だけど肩に手を回すことしか出来ないまま時間だけが無言で流れていった。

 それは、ごく心地の良いひと時だった。


 どれぐらいの時間が流れただろう。寄り添ったまま海を見つめて波の音を聞いていると、このまま時間など止まってしまうか、私の心臓が疲れて眠ってしまえばいいのにとさえ思う。

 ざあっ。

 と一際大きな波頭が砕けたとき、私にもたれかかっていた彼女も潮風に踊るようにして倒れた。彼女のジーンズから小さな瓶が転がり出て、テトラポッドの上で音を立てて割れた。それを見て、私もポケットから同じ瓶を取り出して封を切り、中の錠剤をひと息で飲み込んで深呼吸をした。潮騒の音と快晴の彼方、今この時のにおい、やがて潮が満ちてく。私と彼女を沈める。膝から肩へ。


 あぶくに抱かれ波間に飲まれ、やがてどこまでも流れてゆけるはずだった。目を覚ますと、そこは見知らぬベッドの上で、生き残った私を責めたてるような規則的な電子音だけが白い部屋の中で響いていた。

どれぐらいの年月を、あの白い壁と天井の中で過ごしていただろう。今ようやく家に戻り外を歩けるようになった。最後の記憶だけが曖昧で、彼女の事だけを思い出す。今、彼女はどこでどうしているのだろうか。私は、本当に生き延びてしまったのだろうか。死ぬ間際の夢なのか、現実なのか、もう何もわからない。ただ青い空に向かって伸びる跨線橋をえっちらおっちら渡っているときに、潮騒の音とそのときのにおいを確かに思い出すのだ。




 カイシャヲヤメヨウ。


 すり減って丸くなった石鹸を滑り落ちていった無数のあぶくを彩る虹色の被膜にうつった瞳の奥で、無数の僕が同じ事を考えている。今日は火曜日だ。僕は仕事をやめたい。僕は明日も仕事に行く。僕は仕事をやめたい。

 シゴトヲヤメヨウ。

 何度も口に出して文字に書いてみてもちっとも前に進まない両足が今日も重い。いつも通り、いつにもまして嫌な気分で仕事を終えて車に乗り込み、馬鹿の一つ覚えみたく巻き込まれて帰る渋滞のなかで見上げた夕焼けの空を覆う、どす黒い雲の下を這い回るピンク色の巨大なハサミムシ。もがくほど空に溶けてゆく触角、節足、弾け飛ぶ胴体からぶちまけられた体液が黄色い夕立になって街に、信号機に、車に、僕に降り注ぐ。横断歩道をずりずべ渡る老婆の背中にも降りかかった体液が泡立って、その被膜の虹が空に還って今日も綺麗にまとめられてしまう。


 無音のテレビニュースが映し出す夏の終わりの断末魔。言葉が音声になってしまう前に。耳から流れ込んでしまう前に。浮かんだままの音とリズムとトーンで伝わればいいのに。いつもあふれかえって押し寄せてくるのはいらないことばかり。


 古い折り畳み式ケータイ電話の小さな画面

 緑色の古くさいデジタル画面

 オレンジ色の少し新しい機種

 ぶら下げたストラップのプラスチックジュエリーがきらめいた数だけ涙も流してた


 左側車線に合流するトラック

 むせかえるような真夏日

 汗を拭いて握るハンドル

 バイパスの遥か向こうに立ち並ぶ風車

 すぐ横の埋め立て地を転がって行くガスタンク

 臨海公園でバーベキュー

 赤や黒や銀のクルマがピカピカと嗤う


 ぎらつく陽射しが差し込む踊り場

 真新しい小学校の屋上に続く階段

 積み上げたホームズ、乱歩、翻訳SF

 仰臥する肥満児の傍らを這う小さなハサミムシ


 喧騒の消え失せた校舎が夕焼けの中に溶けてゆくような、オレンジ色の風景の中に僕は立っていた。見慣れた景色が燃えるような色になって存在する非日常の世界で呆然としたまま、家にも帰りたくなくて、けれど一刻も早くここを出たくて。遠回りになる通学路を通らず、近道を歩くようになって久しい。そのまま帰ってきて家にも入らず自転車にまたがって、やみくもに走り始めた。夕暮れ時の街は家路を急ぐ人や車や自転車で賑やかく、喧しく、一人どこぞへ漕ぎだしてゆく肥満児を気に停めるものもなく。

 路面電車の終点を過ぎ、大きな川にかかる橋を渡ってそのまま左に曲がって堤防道路に入る。さしもの真夏の日差しもこらえきれずに地平線に零れて。薄暗く濃いオレンジの光と影の中をぐんぐん走る。陽が落ちそうだ、帰らないと。帰りたくない。帰れない。ここがどこだかわからない。


 山道は深い霧に閉ざされていた。カーステレオからはThe Art of NoiseのMOMENTS IN LOVEが低く流れ出す。

彼女は、女の子の体に男の子の心を持って生まれてきた。女の子が好きだけど、生活のために男に体を開く日々の中で私と出会った。私と過ごす時間の殆ども、そうした日々の繰り返しの一部だった。 

 低く絞った声で話し、綺麗な金髪をいつもショートカットにして、タバコの煙の向こうで眩しそうな顔で笑う顔はどこかあどけなく可愛げを残していた。

 部屋に入り、男物の服を脱ぐ。濃く生い茂った腋毛が露わになる。下着も男物のボクサーブリーフだ。そうして手に入れたお金でいつか手術を受けたいと言っていた。そのためには隣の県にある大学病院に行かなくてはならない。だけど山がちなこの街から、さらに山深い隣の県の、そのまた田舎の大学病院まで行くには電車とバスを乗り継ぐか、まったく理解のない母親に車を運転してもらうしかない、と。


 夏も終わりの水曜日。僕は会社を休んで隣の県の山奥の大学病院へ行くことにした。いつも待ち合わせ場所にしているコンビニの駐車場で彼女を乗せて、いつも走っている道を反対側に折れて。高速道路を幾つも乗り継いで、終点のインターチェンジからさらに走って走って。やがて県道とは名ばかりの細い道をくねくね走りついた先に、ぽん! と音がするように開けた街が現れた。真新しい広い道路が遠くの山の方まで真っすぐ伸びて、そのは途中にぽつぽつとコンビニやドラッグストア、ファストフードの店などが出来ていた。

 大学病院も巨大で綺麗な建物が二つ並んだ要塞のようなところで、だだっ広い駐車場に入って適当なところに車を停めて正面玄関から入って受付を済ませた。

 最初なので色々なことを記入する書類に、彼女の本名が書いてあったのが見えた。

 裸になっても、見えないことなんて沢山ある。これから彼女の事を、なんて呼べばいいのか一瞬だけわからなくなった。彼女が名乗っていたのは、可愛い男の子っぽい名前だった。それでいいんだ。見なかったことにしたはずのその名前を今でも覚えている。

 その日の帰り、いつも走っている道をいつも通り折れて、いつもの部屋で、診断書や紹介状をもらうためには何度も診察を受けなくてはならず、お金も思った以上にかかると知った彼女と初めてキスをした。


 深夜。誰も居ないショッピングモールの高い天井。

 遥か頭上までそびえ立つ無数の棚の列。子供向けのおもちゃが所狭しと並べられ、色とりどりのパッケージが、閉じない瞳が、値下げシールのオレンジ色と赤数字がこっちを見ている。

 ぬいぐるみ、着せ替え人形、ドレス、お化粧セット、ままごとセット、パズル、光線銃、怪獣、変身ベルト、ラジコン、鉄道模型、プラモデル、サッカーボール、グローブ、ラケット、図鑑、絵本、水鉄砲、モデルガン、ブロック、スライム、テレビゲーム。ありとあらゆるおもちゃが揃っているが、客の姿は無い。棚と棚のあいだを歩きながら、辺りを見渡す。色とりどりの光を放つレーザービーム、あらゆる音楽が混じり合うことでうなりを上げて流れ出す不協和音。

 無人の店内でひとりでに鳴り始めるキーボード。キリキリした電子音のノクターン。天窓から差し込む青白い月光が照らした床の矢印は深い夢の入り口か、正気の限界点か。それとも狂気の臨界点か。


 乗る人もいないエスカレーターだけがカタコンカタコンと規則的な作動音をたてている。淡々と流れて行く黒い階段。赤い手すりの下りと青い手すりの上りが交差する。ガラス張りのショーケースに反射する買い物客たち。振り向けば誰も居ない。在りし日の記憶だけが行き交う無人のショッピングモール。レジにも、カウンターにも、アッセンブルにも、もはや人の姿などない。人の姿を残しているものもない。あるのは少々の瓦礫と、虚無空間で永遠にこだまし続ける断末魔だけ。

 みんな喰われちまったんだ、夢に。

 耳触りのいい言葉や、逃れられない美徳と高潔で雁字搦めのままゆっくりと滅んでゆく。その過程で人の姿は少しずつ崩れていった。いびつで、惨めで、醜くなった。絆という焼き鏝を押し付けられたまま思いやりの泥沼に沈められて、同調圧力は気圧の谷をさらに広げてゆく。清潔な世界は廃墟にしかならなかった。水も、空気も、電気も、炎も、何もかも誰かのもので、誰も居ない世界だけが残った。


 豪雨の街で吠える巨大魚がコンビナートを炎の海にした。何もかも灰になってしまえばいい、そしてこの荒れ狂う雨が全て流してくれればいい。風光明媚なジオラマの線路を埃の積もったエル特急が走り去ってゆく。怪獣など、どこにもいない絵空事の世界に伸びる模型の線路を西へ。怪獣など、必要もない絵空事の世界から逃げ出したくて、どこまでも伸びる模型の線路を西へ。ビニール製のタコだけが見ていた。緑と白とオレンジのグラデーションの、ラメの入った体を横たわらせて。丸い頭があぶくのように膨らんで、そのまま宙に浮かんでふらふらと飛んでゆく。ラメに天井のライトが反射してチラチラ光るのを呆然と見ていると、まだ自分がウサギの人形だった頃を思い出す。陰惨な人形劇。鳴り響く黒電話はノイローゼ・ベル。アイロン台の陰に老婆の生首。カマキリの巣で作ったショートケーキは稲刈りの済んだ田んぼの匂いがする。錆びついた針金細工を握りしめて、零れ落ちた破片は焦げ茶色と銀色。薄暗い空の下で、今日もつま先のてっぺんにとまる蝶を待ってる。水たまりに反射した空が青くて、濡れたアスファルトまで青空の色になってる。赤緑緋色黄色の蝶の羽が風に揺れながら笑う。羽の模様のふりをしてこっちを見ている美徳と思いやりが俺を睨みつけて嗤う。俺の不義理や不埒を暴き出して嗤う。俺の不出来や不行き届きを探しては嗤う。手の回らない、小指一本分の手抜きを目ざとく発見して嗤う。ふらふらと飛んでいるだけで、なんの責任も負わずに嗤う。自分のワガママを他人の思いやりで包むために、ネチネチとボヤいてこちらから働きかけるように仕向けて嗤う。人に何かをさせておいて、自分がそれをやった気で嗤う。

 些細なことが灰のように積もった箱庭に模型の線路を走らせて、自分だけの世界を作りたかった。だけどいつの間にか住み着いた巨大な魚が吠えて、美徳の街を踏み潰す。絆の鎖につながれたまま、逃げることも許されずに。つま先が、指先が、髪の毛が、体のあちこちが黒く焦げてゆくのをただ悲鳴を上げて耐えるしかない。死ぬまで。


 電気スタンドも歯ブラシもフラスコの中。

 夜空の星と星を伸ばした指先で結んでみる。簡単さ、投げ出すように指させば、ひゅるひゅると指先が空高く伸びてゆくから。見慣れたバイパスにも一瞬だけ現れる、あらぬ方角に伸びた道路。走り出せば別世界へ。ジオラマの国から抜け出せる、美徳と絆と思いやりから逃げ出して、長い鎖を引きずって、明日に怯えず眠りにつける。

 止まない雨も明けない夜もないだろう、どうでもいいから朝など来るな。雨が降ろうが日が昇ろうがロクでもない明日がこれ以上続かないならその方がよっぽどいい。そんな毎日を積み上げたジオラマの線路をお気に入りの特急がジコーっと走る。電池が切れるまでグルグル回る。

 店の床がグルグル回る。壁も天井もグルグル回る。扉を閉めてスイッチを入れたら、全部蒸気になって消える。

 この世は巨大な電子レンジのなかの出来事。


 限りなく透明に近い、ごく薄い黄褐色のオイルで満ち満ちたパイプ。細長く曲がりくねったパイプの中を機械仕掛けの小さな蜘蛛が泳いでゆく。

 歯車がゴロゴロと回り、振り子が左右に揺れている。ピストンが上下し、ケーブルが縦横無尽に這いずり回る巨大な機械のなかを伸びて行く無数のパイプ。そのなかの一つを、機械仕掛けの小さな蜘蛛が泳いでゆく。誰も知らない、どこにあるのかもわからない。どこか遠く、だけどすぐ近く、遠ざかったり近づいたりする景色の遥か彼方にあるのか。廃墟の街に置き去りにされた大きな看板に描かれた荒野にかかる虹の麓にあるのか。誰も知らない巨大な機械の奥底を走るパイプの中に、誰も知らない小さな機械がひとつ。


 ごぼり、と浮かぶあぶくをすり抜けて機械仕掛けの蜘蛛がゆく。細い足を烏賊のように屈伸させて音もなく泳いでゆく。頭らしき部分には豆電球ほどの大きさの発行体が緑色の光を放っていて、曇り空の向こうから差し込んでくる陽射しのようにオイルの中を鈍く照らす。まっすぐ捻じれたパイプラインの行き着く先はスパーク。球状の発行体の中を無数の丸っこいオーブが激しく動き回っている。表面は水のように柔らかく波打ち、それを守るように幾重にも金属製のゲートが設けられ硬く閉ざされていた。スパークは、この中だ。スパークが、この中に。スパークは、この中で……? スパークを、どうして……?

 

 薄暗い下水道。湿度が高い。暗がりのコケとコンクリートの継ぎ目を這いまわる暗い紅色をしたムカデ。金網に引っかかったままの古い空き缶。腐りかけた手足を水面にのぞかせる多足哺乳背面口腔引裂動物の死骸。背骨に沿って大きく開かれた口から折れたキバと腐乱した舌がはみ出している。めくれ上がった唇が途中で千切れて、向こうから吹く生臭い風に揺れる。天井から垂れ下がった鎖に滴る血が、泥と苔と何かよくわからないもので汚れた床にこぼれた。そのかすかな音が下水道の壁に、天井に、汚水に、金属製のハシゴに、打ち捨てられたドラム缶に、背中の裂けた哺乳類の死骸に、色とりどりのキノコに体ごと飲まれたネズミのキバに、羽が20枚ある猛毒のクラガリオニヤンマの複眼ひとつひとつに跳ね返り、響き合い、生きた無機物のアンプリファイアーを作り出す。やがて轟音となって、濁流となって、閉ざされた下水道を圧縮されながら流れ出す。血の混じった下水が地面の奥を突っ走る。行き着く先も知らないまま、ただ圧倒的、ひたすら圧倒的なパワーに身を委ね流されてゆく。


 赤い屋根の小さな家。ダイニングに差し込む朝陽を浴びて、テーブルに置かれた白い皿と、その上のトーストが浮かび上がる。バターを塗られた表面がひとつひとつキラキラして、ほのかに立ち上る湯気ひとつひとつが芳醇な香りを含んで真冬の静かな空気に溶けてゆく。おはよう、おはよう。歌う目覚まし時計をそっと掴んで。

 おはよう、おはよう。鳴り止まない目覚まし時計をそのまま抱えて。おはよう、おはよう。叫び続ける目覚まし時計を壁に向かって投げつけた。跳ね返り砕け散った無数のバネや小さな板切れがトーストの上に降り注いで朝陽を浴びて、ひとつひとつがキラキラと光った。おはよう、おはよう。壊れた目覚まし時計が頭の中で鳴り響く。おはよう、おはよう。目覚まし時計を止めてくれ。おはよう、おはよう。誰か目覚まし時計を止めてくれ!おはよう、おはよう、おはよう、おはよう。俺の目覚まし時計を止めてくれ。頭の中で鳴り響く目覚まし時計を止めてくれ。誰か俺の目覚まし時計を止めてくれ。誰が目を覚ますのか教えてくれ。おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう。

 誰か俺を起こしてくれ!


 下水道の通路に打ち捨てられた、汚れ切った古い車椅子に座ったまま俺は倒れていた。頭の中は空っぽで、換気扇だけが静かにきしみながら回っている。その後ろから差し込む幸せな陽射しが規則的に光と影を生む。記憶も、痛みも、感情も、全て取り出され、どこかに閉じ込められてしまった。オイルまみれになった機械仕掛けの小さな蜘蛛が俺の頭からわらわらと生まれてきて、どこぞへと消えてゆく。俺の体の上を踏み越えて行くときの、ごく些細な振動と重圧でさえ酷い痛みを感じる。だが身動ぎひとつ取ることが出来ない。小さな痛みが無数の針のように俺の神経を駆けのぼって脳に突き刺さる。痛みを感じる間もなく次の痛みが。また次、そのまた次。一瞬の感触が無限に積み重なって、加速度的に痛みを増し続けてゆく。叫びたくても舌が腐って歯が抜けて喉には風穴。声も出せずただ天井を見上げて空っぽになった目玉を見開いて、蜘蛛たちのせせら笑う声を聴いているだけ。その声がまた耳の中で響いて、空っぽになった頭の内側で響き合って、増幅されて下水道へ。壁に、天井に、俺の頭から発信された蜘蛛どもの笑い声が伝わって、跳ね返ってを繰り返して、暗いパイプの中を満たす巨大な嘲笑になる。

 そして俺は今日も古い車椅子に座ったまま倒れている。目に見えない笑い声に苛まれて。

 無限のamplifierに今日も怯えている。


 雨。

 金属質の雨。

 溶融金属の雨。


 街に、道に、ビルに、家に、屋根に、窓に、庭に、木立に、下水溝に。

 人に、髪に、肩に、胸に、つま先に、傘に、靴に、帰り道に、帰る場所に。

 銀色の雨が降り続く。近未来の遠い国。どこかの午後二時三十分。


 月も星も偽者になって、雲の上に隠れている。誰もその姿を見なくなって数十年が経った。今はただひたすら降る雨とともに暮らすだけの空。高層ビルも、電波塔も届かない程度に高く、重くのしかかるほど低い低い黒い濃脂雲塊から滴り落ちるのは今日もHeavy Rain


 訪れる者も居なくなった廃映画館で独りでに回り続ける古ぼけた映写機。ガタゴトと映し出すのは、まだ月も星も空のものだった頃の物語。ネオンサインがバチっと鳴り、円盤が回る。磁気、レンズ、フィルム、光源。何もかも懐かしい。

 色褪せた映像のなかで黒い馬に乗った父と幼い息子が砂漠をゆく。父親はガンマンだが息子は裸だ。一糸まとわぬ姿のまま馬に揺られて旅をしている。半分ぐらい砂に埋もれた修道院に辿り着き、くすんだステンドグラスが嵌め殺しになった窓に父子の影が躍る。飴細工のように揺らぐ画面を引き裂く砂嵐。白と黒の風が画面を縦横に走る、走る。

 

 銀色の稲妻が夜空を貫いて、砂上の修道院の屋根を撃つ。燃え上がる憂鬱の偶像が目を覚まし断末魔を上げて灰になる。乾いた風が祈りの骸を撫でて行く音だけがヒョオと響く。どこにもない、天国への扉など。どこにもいない、神の子供など。


 脳から、肺から、指先からつま先まで。空気を抜く、二酸化炭素を吐き出す。眼を閉じて軽く吸い込んだ呼気をゆっくり、ゆっっくりと。全身の空気と血液が混じり合って、膨らんだ胸と腹の奥を絞って行くほどに体が縮んで、内側の筋肉の奥の奥がググっと伸びる。腹の外側を引っ込めて、へその内側を拡げる。次に鼻から深く吸い込んだ息を全身に伸ばしてゆく。背筋も、首筋も自然と伸びて行く。頸椎のてっぺんが引っ張られていくようで、頭と首の付け根がググっと伸びる。吸い込んで、吐き出す瞬間に一瞬だけ息を止める。ほんの数秒が永遠に感じられるほど長く、心地よい眩暈が脳の裏側を揺らしてゆく。眼を開けると少し背が高くなった気がして、ピンク色の夕焼けも、オレンジ色の電話も、空を歩く魚も、どす黒い脂まみれのくらげも、偽者の月も星も機械の世界も、みんなみんな綺麗に見えた。


 メンソールのタバコは楽園ゆきの片道切符。あの夏の日に僕の隣で微笑んでくれた雪菜ちゃんを探しに行こう。エンジンがうなってアクセルを踏み込んで、僕は高速道路を西へ西へ。鈴鹿、四日市、亀山。渋滞は24キロ。雨ざらしのインターチェンジ、すっかり錆びついた緑の案内看板。幻影と幽霊だけがドン詰まりを起こしている思い出と現実が混じり合うジャンクション。死んでもまだ決まった時間に家を出て、車に乗って、よせばいいのに邪魔な場所で右折する。死ぬまで続いた毎日と、死んでからも終わらない毎日なら、お前の地獄は一体どっちだ。


 バイパスで古いトンネルと真新しいトンネルを交互に抜けると君のいた街に出る。周囲を低い山に囲まれた長閑な盆地は濃脂雲塊の滞留型積乱状態にあり、街に近づくほど雨は激しさを増していた。もはや普通の自動車では道路を走ることはおろかその場にとどまることもままならず、流されるまま僕は街を目指した。崩れ落ちた支柱に半分ひしゃげた案内看板が辛うじてぶら下がっていて、僕の進む先に彼女のいた街があることを示していた。

 降り続いた銀色の雨は重金属の泥濘となって、家もビルも店も滑り台もブランコも重機も電話ボックスも、流れるものはなんでも押し流していった。時々その鈍く光る土石流のなかを巨大なムカデ魚(うお)やヘドロスナメリ、金色の鱗を脂でぬるぬる光らせた一角噛突鮫がざあざあと泳いでいった。


 もうハンドルも動かない、エンジンも役に立たない、旧型のオーディオにセットしたLed Zeppelinが鳴りやんだら僕もきっと最期だろう。思い出の街は道はビルは家は、全て重金属の泥の中に消えていった。君と歩いた遊歩道の吊り橋が、ひしゃげて沈んでいるのも見た。君と二人になりたくて顔も見ずに誘った部屋は名前だけ変えて、かつての建物は骸としてそのまま残っていた。窓も看板も何もかも失くして、廃墟の街に呆然と立ち尽くしていた。

 

 この雨からは誰も逃れられない。ありふれた悲劇と重い足取りと脂にまみれた毎日が何もかも麻痺させて、ただゆっくりと僕たちの暮らしを沈めてゆく。飲み込まれてしまった人を、もうほとんど思い出せなくなっている。目から、鼻から、耳から、口から、指先や足の傷跡から、じわじわとしみ込んだどす黒い脂で腹の奥の奥まで重くざらついた感触に支配されている。腐って、壊れて、沈んでいくんだ。

 

 僕の自動車を飲み込んだ一際大きな脂の波が、窓ガラスを押し割って流れ込んできた。あっという間に泥の中に沈み込んだ僕の口から、

 ごぼり

 とあぶくが一つ、浮かんで行った。それはまるで、泥の中を逃げてゆく、小さなくらげのようだった。

 静かな海をゆっくり走る、内臓がぎっしり詰まった巨大タンカー。

 波の音に紛れて脳裏で微かに響く鼓動。

 途切れ途切れのラジオはノイズ混じりの古い歌謡曲。

 どこかで降ってる雪が風に吹かれて舞っているような。

 目の前を延々と通り過ぎる銀色のタンクを呆然と見送るあいだにも、血が肉が腐ってゆくんだよ。


 陽光が海面に反射して金色になった波が寄せては返す。砕けた波頭のしぶきを目で追いながら走る海岸沿いの国道。片側一車線の舗装路が曲がりくねって、遥か向こうまで伸びているのが見える。のどかな集落に見え隠れする鏡の中の道化師。月極駐車場に、とっくの昔に閉店した小さな商店に、郵便ポストに。

 どこにでもいる小さな道化師。

 このままずっと波を見ていたい。明け方にここへきて、夜になったら帰ればいい。

 行き帰りの道のりを考えただけでうんざりしそうで、それ以上具体的な事は考えないようにしていた。行こう、と決めた日に。決めた瞬間に、行きたいと思っているうちに時間が巻き戻されてくれればいいのに。何かをするための時間もお金も足りないのは今に始まった話じゃないが、圧倒的に不足しているのは気持ちの余裕だ。


 クラゲが今日も空を泳いでいる。

 クジラは今日も街を彷徨っている。

 心も美徳も絆も活用せずに生きてきた。心には穴が開いたし、美徳は虫食い穴だらけで、絆なんてあれば苦労しないだろう。でも絆があるが故の苦労のほうがどちらかといえば御免こうむりたいね。


 横倒しになった筒状の水槽。あぶく一つ上がらない青く透き通った水の中で。

 見上げた空がゆれるゆれる。

 プラスチックで出来た魚が笑いもせずに泳ぐ。赤、緑、黄色黄色。

 これでやっと忘れられる。これでやっと楽になれる。

 目に浮かぶ光景はどれも地獄絵図。それも子供だった頃の自分。

 拳、靴底、灰皿、テニスラケットの柄。どんなに楽しくても、どんなに疲れていても、どんなに理不尽でも、どんなに突然でも。

 自分に一切非がなくても、自分より力の弱い家族を標的にされても。

 逆らい、抗う術など無かった。許されてさえいなかった気がする。

 アスファルトに叩き付けられて、部屋の中を引きずり回されて、風呂場で沈められて、好き放題暴力を浴びた後は決まって泣き出し抱きしめてうわ言とも戯言ともつかない呪文を垂れ流しているのを、冷めた心持で聞き流していた。この状況であってすら逆らえばまたイチから暴力なので泣かせるがまま話を合わせていた。死んだ目をしたまま感動の場面をやり過ごして、次に殴られる瞬間までまた怯えて暮らす。

 そんな日々ともおさらばできる。水槽の中で泳ぎ回る自分の顔は酸欠気味に笑っていた。


 巨大タンカーが通過するのを呆然と見送る。銀色の鏡面タンクが右から左へ、ゆっくり、ゆっっくりと動いている。中身は生きた内臓だと知っている。何故だ。僕は知っているぞ。

 これはタンカーなんかじゃない、限りなく無機的な生物だ。

 だが見た目はタンカーそっくりだ。それも見たこともないぐらい巨大な。波ひとつない静かな海の上をゆくタンク。視界に入りきらないほどの大きさのタンク。

 ドッコン、ドッコンとかすかな鼓動が漏れている。タンクは微動だにしていない。内臓が詰まっているのはきっとタンクの中だけじゃないはずだ。

 船体にも船底にもきっとみっちり詰まっているに決まっている。

 ここからじゃ見えないがきっと水面下では大きく、淫らに脈打っている部分があるはずなんだ。

 そう思ってしまったが最後、もうこのタンカーを目の当たりにしていることがたまらなく恥ずかしく、いやらしいことに思えて仕方がない。


 明け方前、暗いうちに家を出る。まだ朝ではないけれど夜は確実に終わりを告げている、くらいの空に名残惜しそうな月と星。少しずつオレンジ色になってゆく空と冷たい風。緑のにおいをたっぷり含んだ空気の粒が霧になって浜名湖から流れ出て、吸い込むと頭の奥からつま先までしみ込んでゆくみたいだ。

 影絵のようになった建物と街路樹、見下ろす街は浅い眠りのなか。

 背を向けて走り出せば朝陽がバックミラーを刺す。千切れた細い雲をまとった山肌がぐんぐん近づいて、人も車も建物もどんどん減ってゆく。山の上に幾つも並ぶ風力発電のプロペラと、その下にびっしり敷き詰められたソーラーパネル。エコロジーな自然のエネルギーとやらに取りつかれた挙句、本来の自然の景色や情緒が失われていることからは目を逸らしている。

 焦げ茶色のソーラーパネルに埋め尽くされた風景を超えてさらに山奥へ這入ってゆく。細く長い道のりを何も考えずひたすら北へ。


 触手で埋め尽くされた太陽が引きずり出されて、悲鳴を上げて燃え上がる。

 ぼたぼたと燐光をこぼしながら、青く澄み渡った空の上をのたうち回り、千切れた触手はしばらく動いてすぐに干からびた。

 触手の先には鋭いキバを持つ口がついていて、一つずつが意思を持っているようにぐねぐね動き回り、手あたり次第に噛みついたり食いちぎったりしている。共食いもする。


 外は雨。寒くて冷たくて、嫌な雨。

 最近、気が付くと雨が降っている。

 なるべく明日が憂鬱になるように。

 今日より明日が死にたくなるように。

 日々、一日一日が死にたくてたまらないのに、死ぬのに最適だったのはいつも昨日。

 昨日より今日、今日より明日がもっと死にたい。

 明後日、そんな先の事はわからない。

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