第6話 #池袋地獄変

 ごぼ……。

 しゅー……。

 ごぼぼっ……。

 水の音がする。あぶくが水面に上って行って、銀色に光って消える。

 その向こうには白い灯りが見える。

 そして全てが暗くなる。


 池袋。

 私は雑踏の中ぼんやり立っていた。これだけ沢山の顔と顔と顔と顔の中で、たった一人を待ちながら。今日で付き合って何年何か月だろう。気にしなくなってから暫し経つ。目の前に居る事が、心の中に映る顔が当たり前になっている。あの顔を今日も待っている。


 仕事は、つらい。

 毎日毎日毎日毎日、嫌な人たちに会う。好きな人にも会う。私の好きな人は、私の嫌いな場所で出会った人だ。その場所は嫌いだけど、この仕事は好きだ。そして嫌いな場所から抜け出したときは、もっと好きな人になる。20年ぐらい生きてきて、今この人がいちばん背が高くて、いちばん好きな人だ。この人の事をもっと知りたい。もっと掴みたい。知れば知るほど汚い部分に踏み込んで、へどろまみれでのた打ち回って愛し合いたい。その為に、嫌いな場所からも、嫌いな人からも、遠く離れたこの街で逢瀬をする。いつもの約束。いつもの場所。待ち合わせの時間より少し遅れて電車がやってきた。そのぐらいでは人の流れも大して変わらない。私の生まれた田舎町では考えられないぐらい、人が多い。メッセージには既読だけが付いている。まだ来ない。


 みしぃっ、ぎぃっ。

 古びた木造の階段を軋ませて、ひっつめ髪をすっかり白くした老婆がゆっくり、ゆっっくり登ってゆく。手には年代物の藤で編んだ洗濯かごに薄汚れたシーツを詰め込んで。白く眩しかった時代は遥か昔。今は暗い地下の洗濯室のコンクリートから滲み出た都会の澱がそのまま染みついたような色合いをしている。所々、乾いた茶色や赤黒いシミが見え隠れする。洗っても洗っても落ちない業の深い色。

 みしぃっ、ぎぃっ。

 老婆は地下室から伸びる薄暗い階段を、ゆっくり、ゆっっくり登ってゆく。俯いたまま、口を真一文字に結んで。ゆっくり、ゆっっくり。

 やがて木製の少し傾いだドアの前に立ち、ドアノブに手をかける。皺だらけの手から節くれだった指先に微かな力が入ってゆく。薄明かりを浴びて鈍く光る銀色の取っ手に音もなく指が巻き付き、ぐっと引きつけて回す。

 ガチャッ。イイイィ。

 軋むドアを押しながらふと顔を上げた老婆の双眸には眼球が無かった。木彫りの人形みたいに皺の寄った顔の中で、目玉だけがすっぽりと抜け落ちた様な顔をした老婆が、少しだけ笑った。


 空はどんよりと曇っていた。梅雨。嫌な季節。地面から立ち上る灰色の匂いが、雨がまだ近くに居る事を知らせてくる。早く屋根のある場所に入りたい。待っている間に雨が降らないといいな、という程度の希望すら今の私には荷が重い。

 じわじわと纏わりつく湿気混じりの空気が私の皮膚に染み込んで、私と街の境界線を曖昧にしてゆく。暗い今日の空の下で生きている限り、永遠に浸食され続ける。


 私の頭の中で、ずっと同じ声がする。声の主はカエルだったりウサギだったり、昔好きだった人だったりする。ずっと同じ言葉を囁き続ける。

「この先何にもうまく行かないぞ。何一つ思い通りにならなくて、後悔したまま地獄行きさ。」

 不意に近くのパチンコ店のドアが開き、人の出入りにつれて店内の騒音も漏れ出てくる。どわん、と洩れた音が、自動ドアに遮られて再び掻き消えてゆく。足音と混み合う車の排気音が遠ざかって、またすぐ傍で鳴りだした。音が多すぎるのよ、と心の奥にこぼした言葉が雑踏の中に消えて行った。


 夕暮れ。どす黒い海の向こうで分厚い雲の間から射し込む濃いオレンジ色の光。波打ち際を俯いて歩く私。潮騒に紛れてすすり泣く。雫は砂に、砂は貝殻に。延々と続く砂浜を音もなく歩き続けている。つま先が、踝が、やがて膝から腰、胸元、肩まで沈んでゆく。海の水は冷たく、重苦しく体を包み込んでゆく。毎日ランニングして鍛えた足も、守り続けた貞操も、彼にいつも褒められる胸も、いちばん自信がある鎖骨も。全部沈む。何もかも木屑になって流れていけばいい。誰のものでもない海の底へ。


 手に持った液晶画面を光らせる。連絡は、まだ来ない。緑色のフキダシが独り言のように浮かんでいるだけ。読んでくれたと分かるだけマシか、と、不意に懐かしくも無い頃を思い出す。あの頃は、なんて。連絡する手段がどんどん変わって、透明になっていく。それは安心感と焦燥感を一緒に山盛りにしたような気がしてなんだか落ち着かない。だけどもう、昔には戻れない。私は貴方に気づいていますよ、と表明しなくてはならない。あなたの声に、メッセージに。気持ちに。

 こちらから

「あなたは私に気付いていますか?」

 と尋ねる事は許されない。それは実に後ろめたい、ワルイコトだと決められている。誰に?わからない。だから、貴方に対してばかり気付いて、読み取って行かなくちゃならない。そこに疑問を挟む余地はない。


 何処までも砂漠が続いている。遠くにかすむビル群に見覚えがある。あれは、いつか夢で見た街。まっすぐ伸びた片側4車線の大きな高速道路が、遠くの街までずっと続いている。どこか遠くから幼い子供の泣き喚く声が聞こえる。私はゆっくり歩き出す。裸足のまま。街に向かってゆっくりと進むと、泣き声も大きくなってくる。道路際で鬱蒼と茂る森の中に古ぼけた寺院が見える。周囲に他の建物は無い。泣き声はこの中から聞こえてくる。段々と泣き喚く声がモノのように思えてきた。私は寺院を通り過ぎる。泣き声も遠くへ、名残惜しそうに消えてゆく。再び砂漠の道がはじまる。

 よく見ると砂の中に大きな街が埋もれているのがわかる。高層ビルも電波塔も何もかも砂の海に沈んだ後の巨大な空虚の中で、この道路だけが綺麗に伸びている。


 青すぎるほど透き通った空は少し黒ずんで見え、雲一つないままぽかーんと晴れている。暑くも寒くも無い空気の全く動かない場所。延々と歩いても、かすむ街にはなかなか辿り着かない。あまりに青い空なのでぼけーっと見ていると、空の向こうにうっすらと街が見える。どんより湿った街並み。見覚えのある猥雑。

 ああ、あれは池袋。

 雑踏の中に佇む私。誰にも見つけられず、誰にも気づかれずに、薄暗い空の下、手元の光る画面をじっと見ている。そんなに悲しそうな顔をしないで。ココに居るのに。遠くにかすむ街には、まだ当分着きそうにない。池袋で突っ立ってる私が顔を上げる気配はない。泣いているのだろうか。周りの景色はお構いなしに流れて行って、今日も都会だ都会だと喚いている。ビルの正面に張り付けられた大きな液晶画面の中で、不気味な人形劇が始まった。まるで吸い込まれるように意識だけがその劇を見ていた。足も腕も呼吸も止まらないのに、じんわりと目の奥にまで広がってくるその人形劇には、不思議な生き物が出てきた。

 鼻が尖っていて、耳が長く兎のように伸びている。キョロリとした目玉には表情と言うものが全くない。不思議な動物は黒、こげ茶、灰色の人形があった。灰色の人形はお母さん。白地に花柄のエプロンをしている。こげ茶の人形がお父さん。紺の背広を着ている。ネクタイの色がわからない。見たことのない色をしている。そして茶色の人形が僕。白いシャツに紺色の吊ズボン。お母さんの朝ごはんを待っている。お父さんは仕事に行こうとしているけれど、さっきから息の臭さだけを気にしている。お母さんは台所で誰かと話をしているみたいだ。古い黒電話がじりりりいん、と鳴っているけど、受話器を上げても僕の悪口しか聞こえてこないから放っておくんだ。


 人形劇が続く都会の空の下で、私だけが泣いている。私はそれを空の向こうで見ている事しか出来ない。涙のわけを知りたい、悲しいのか、寂しいのか、怒りか、憐みか。気が付くと砂の海は荒涼とした岩場へと変わっていた。空もどんよりとして、もう池袋も泣いている私も見えない。俯きながら歩き出すと、数歩も行かないうちに異様な光景が広がりだした。初めは、何か布切れや綿の塊が転がっているのかと思った。だけど、それは赤く染まっているもの、腐臭を放つもの、そしてかろうじて姿形をとどめているもの……とあった。

 数万羽にも及ぶであろうウサギの死骸が地平の彼方まで延々と転がっていた。まるで地面に敷き詰められているように。籐を編んで拵えたテーブルの上にはタロットカードで作られたピラミッド。絵柄は全部首のもげたカブトムシ。

 籐椅子には壮年の男性が深々と腰掛けている。髭を伸ばし、濃いサングラスをかけた掘りの深い顔。白髪交じりの頭髪がぼさぼさになっている。砂漠の風に吹きさらされているせいで、存在そのものが薄ぼんやりと埃っぽく霞んでいる。

「 の れ  は、居る」

 何か言っているようだけど、風の音でよく聞こえない。耳を澄ませ、彼に近づいてみる。

「夢の る 海 俺は、居る」

 何かを繰り返しつぶやいている。何処を向いているのか、誰に向いているのかもわからない言葉を、彼はココでずっと投げかけていたのだろうか。

「夢の生まれる海の底に俺は、居る」

 彼は確かにそう言った。ぐっと近寄って分かったことは、彼は既に死んでいるという事だった。血の気の失せた唇からどす黒い舌が覗いている。サングラスの下の瞳には、もう何も映ってはいないのだ。何処の誰にでもなく、あの言葉は私に向けられたものだった。


 籐椅子はいつの間にか手術用の大掛かりな機械仕掛けの椅子に。砂漠もウサギも消え失せた部屋の中には巨大な球状空間が広がっていた。機械仕掛けと配管がむき出しになった無機質な壁が広がる部屋の中央まで飛び込み台の様な細い通路が伸びていて、その先端に私は立っていた。傍らには例の椅子。通路の先は球体の内壁に繋がっていて、ぽっかりと黒い口を開けていた。出口だろうか、それとも入口だろうか。呆然と立っていると、その黒い四角い穴からゆらり、と人影が現れた。それはゆっくり、ゆっっくりと歩き出し、私を目指して進んでくる。ひっつめ髪をすっかり白くした老婆の姿が現れて、次いで年代物の籐で編んだかごに山ほど詰まった薄汚れたシーツが見える。老婆は大きなかごを後生大事に携えて、ゆっくりゆっっくりこちらに向かってくる。建物の内部の理路整然と組み上げられた混沌がそのまま具現化したように組み上げられた鉄骨たちと、その老婆の姿がどうにも釣り合わない。見覚えのない老婆、見覚えのないシーツ。近づくそれには血痕らしき赤黒いシミも見える。

 カチャリ。乾いた音がして振り向くと、傍らの例の椅子に見知らぬ男が縛り付けられ、頭には大小のパイプとコードが幾つも伸びたヘッドギアをガッチリと皮膚に直接縫い付けられている。手首も太腿もベルトをされ、濃灰色の薄く粗末な布で作られた乱暴なつなぎを着せられた男は身体を小刻みに震わせている。カチャリ、カチャカチャ、カチャ。男は震えながら剥き出しの口から血の混じったアブクを吹き出しながら助けを求めている。

 やがてジリジリと静かな足音とともに俯きながら黙って歩く老婆が私たちの目前までやってきた。シーツは相当汚れているようで、汗と血と粘液の混じりあって乾ききった、生臭くて塩辛いにおいがする。

 この男は殺されるんだ。そう思った。いや、死にたいのは私のほうなのだろう。それなのに、身代わりに彼が殺される事になってしまった。なんてこと。私は男と老婆に話しかけたかったけれど、いつの間にか赤茶けた膨れっ面のお面を付けられてしまい声が出せない。男の体の震えがどんどん激しくなってゆく。老婆が男の顔を覗き込み、機械ごと包み込むように持参したシーツを被せた。ばさ、という音の後に何も聞こえなくなる。自分の耳の中で絶えずなり続いているキィンという音さえも消えた球状空間で私は呆然と立っているほかなかった。老婆も、シーツも、微動だにしない。

「……」

 何か言っている。シーツの中で、血の泡を吹いていたあの男。なにか。

「 の う は 、いる」

「夢の に 俺 、居る」

 あっ。

「夢の生まれる海の底に俺は、居る」


 気が付くと私はツカツカと歩いていた。遅い午後のやわらかな陽射しが少し肌を焦がすようにじりじりと照らす。見覚えのあるプラットホーム。京浜東北線・石川町駅。池袋に居たはずなのに。記憶をたどると今朝は見覚えのない畳で目が覚めた。白く冷たいシーツ。天井の木目にはブラジルの形のシミ。和風の古旅館。起き上がるとフラつく足取りで洗面所へ。踏みしめた床のタイルがぐにゃりと凹む。中が腐っているのだろうか。蝶番の緩いドアが音も無く開き、中のトイレが見える。和式便所に無理やり洋式便座を据え付けたせいで、やけに低い位置に座る事になってしまう。腰掛けるとちょうど顔の位置の壁に顔が付いている。旅館の女将がしゅうしゅうと呼吸をしながら「おはようございますおはようございますおはようございます」と繰り返した。死んだ目の笑顔を貼りつかせたように微動だにしない顔。ビニール製のお面のような動きをする唇。中年女性独特の不快な口臭。便座から立ち上がろうとすると便座カバーのアラベスク模様が下半身、そして胸元まで染み込んできて身動きが取れない。

「よくお休みでしたかよくお休みでしたかよくお休みでしたか」

 女将はお構いなしにまくし立てる。

「よく夢を見られましたか夢は見られましたか夢は夢はイヒイヒイヒヒ!」

 痩せて下がりきったどす黒い歯グキをむき出しにして女将が笑う。不快に笑う。臭い唾をまき散らして笑う笑う。

「夢を見ましたか。夢は見ませんでしたか。夢は駅のそばですか。夢を待ち続けて居ますか。」

 どうしてそれを知っている。

「夢はまだ来ませんか。夢はもう来ませんか。夢をまだ諦めないのですか。夢を夢を夢夢夢夢夢夢夢夢夢ユメメメメメゆmぶぐじぇ!」

「うるさい! 夢なんか見ていない!」

 壁から生えた顔に右の拳を固く握り、鼻の辺りを狙って叩き込んだ。ぐちゃ、と、ごきゃ、の混じった嫌な音がして、女将の顔が粘土細工のようにひしゃげてめり込んだ。

「ぶめえ、ぶめぶめえ、ぶめばばだぎばべぶば」

 まだ、夢夢、と言っているようだ。懲りねえな。立ち上がって今度は思い切り蹴り込んでやりたいと思ったが、相変わらず便器がケツから離れない。思い切って手元にあった水流のレバーを押しこんでみた。ギュウッと苦しそうな音がして、水の流れる音がする。壁に張り付いた女将の顔の穴と言う穴から黄土色の泥水が溢れだしてきて狭い個室をあっという間に満たしてゆく。汚い、臭い!と思うよりも強く、お尻と便座が引っ付いていた。このままじゃ手遅れになる、なのに、なのに。

 つま先が、踝が、やがて膝から腰、胸元、肩まで沈んでゆく。泥水は生暖かく、液状の不快感そのものとしてこの体を包み込んでゆく。古傷だなんてカッコつけてた膝も、欲望のまま擦り減らしてきた貞操も、醜く膨れ上がり垂れ下がった腹も、いちばん自信があった大胸筋も。全部沈む。何もかも脂肪に変わり果てて埋もれていくんだ。誰のものでもない海の底へ。

「ごぼ、ぐぶっ。ぐびびぶべべ」

 白目を剥いた女将が口と鼻から泥水を吹き出しながら何か喋っている。

「ぐぶぶぶげぶべぼごぐごげっ、ぐぐぶぐ」

 土石流の様な水音と猛烈な悪臭のせいで何を言っているのか全く分からない。そのうちに酸っぱい泥水が顔の位置まで溢れてきて、その重みに粗末なドアが耐えられずイカれた蝶番がカキン!とはじけ飛ぶと同時にドアごと体を押し流されて和室に戻った。すっかり水の引いた個室の壁で、女将がまだ何か喋っていた。

「夢の生まれる海の底に俺は、居る」

 その声は聞き覚えのある、見た事も無い人の声だった。


「俺の夢は、あの街に置きっぱなしさ」

 そう言って部屋を出た。建物の外は弘明寺だった。南警察署とローソンに挟まれた細路地を進んで3つ目の角を右に折れると懐かしい人の家。地下鉄の駅と商店街の入り口が直ぐ近くにあるはずだ。階段を下りてブルーラインに乗るため駅に入る。コインロッカーの荷物を取り出そうと鍵を探す。ポケットに入っているはずの鍵が無い。預けた荷物が何だったか思い出せないが、取り出せないと困る。鍵を何処に落としたのだろう。暗く伸びた通路の向こうに明かりが見える。改札だろうか。駅員に落し物が無いか尋ねてみよう。

 歩いても歩いても改札が見えてこない。それどころかさっきから誰も居ない。駅員も乗客も、列車が来る音もしない。どうなっているんだ。表に出てみようか。だけど階段の場所がわからない。


 真っ暗闇の地下通路に、気が付くと一人佇んでいた。

 前後2メートルぐらいは黄ばんだライトの光がぼんやり届いているが、その向こうはそれぞれ深く冷たい闇の帳が下りてしまっている。ココは何処の地下道だろう。古く汚れたタイルと、この鼻を突く刺激臭には覚えがある。関内?弘明寺に居たなら少し歩いた事になる。次は、桜木町。桜木町です。アナウンスが脳に直接響く。地下鉄に乗っても居ないのに。駅員も乗客も広告も何もない。売店に並ぶ新聞が全て白紙で、それを売るための店員は不在。白紙の新聞をひとつ手に取ってみる。何も書かれていないこと以外は全ての面が真っ白なのに、これは新聞なのだ。何も知らせる事も伝えるような事も無いって事か。次は、桜木町。桜木町です。またアナウンスだ。頭の中で直接、それも耳の真横にスピーカーがあるような音量でキィキィしながら響いてくる。

「うっ!」

 あまりのうるささに頭痛がする。頭を抱えしゃがみ込む。すると途端にどよどよどよ、という雑踏が蘇えった。周囲を迷惑そうに避けてゆく人々。せわしなく歩く駅員。下らないニュースが満載の新聞を並べた駅構内型のコンビニエンス。喫茶店に書店。すっかり綺麗になった桜木町駅がそこに広がっていた。南口か。駅を出た先の花壇に腰掛けて呆然とする。石畳の広場を囲むように、高層建築が圧迫的に立ち並ぶ。歩きやすく、見晴よく、味気なくなった桜木町。駅を出る傘の群れが、せかせかと動く歩道に吸い込まれてゆく。雨なんて降っても居ないのに。がさり、と手の中で音がした。新聞を持って来てしまった。しまった、と思って目を留めた大見出しにはこう書いてあった。

「夢の生まれる海の底に俺は、居る」

 1面トップの見出しにデカデカ書かれている。となりにある壮年の男の写真から吹き出しが出ており、彼がそう言っているように見える。この男は誰だ。籐いすに腰掛けたまま、短い休暇を終えた男。新聞を丸めて尻ポケットにねじ込んで歩き出した。池袋、池袋へ行かなくちゃ。

 京浜東北線で品川、山手線で池袋。京浜東北線で品川、山手線で池袋。京浜東北線で品川、山手線で池袋。京浜東北線で品川、山手線で池袋。京浜東北線で品川、山手線で池袋。京浜東北線で品川、山手線で池袋。京浜東北線で……。


 券売機は長蛇の列だった。緑の窓口は固くシャッターを閉ざしている。深緑の窓口もダメ。行列に並ぶ人はみな一様に黒い服を着ている。形もボタンの数も同じ。コートに帽子。全て黒。項垂れて、歩調を揃えて券売機に向かう。切符を手にしたものは、また同じ歩調で階段に向かってトボトボ歩いてゆく。あの列に並ぶのか、そう思った時には自分も巻き込まれて歩調を合わせて進んでいた。まるで機械にされた男たちが、機械のように歩いてゆき、機械から切符を買い、また機械のように歩いてゆくという一つの大きな機械のようだ。黒い列は遅々として進まず、時折の微動を繰り返して前進してゆく。足音も吐く息も目線の位置まで同じ。何処にも向いていない。

 やっと券売機が見えてきたと思ったら、券売機も黒い服の男だった。ただし壁と体が溶け合っていて、もう二度とそこから外れて出る事が出来なくなっている。何の配線かわからないが目の覚めるようなスカイブルーの線と血の色をした線が目玉や鼻の中を縦横無尽に走っている。胴体だけで下半身は無い。開いたまま固定された口腔内に硬貨をねじ込むと、耳の付け根あたりの皮膚の裂け目から小さな切符が押し出されてくる。どういう仕組みになっているのだろう。よほどの痛みを伴うのか、切符を売るたびに券売機の男は泣いていた。

 切符を手にして改札を通ろうとすると、自動改札ではなく駅員が昔懐かしいカッチンコする機械を握ってこちらをじっと見ていた。改札はふたつ。それぞれに水色とピンクの駅員の服装をしたオカッパ頭のオカマの双子が立っている。ねばっこく甘い声で切符を受け取り、カッチンコをかける。水色のオカマが切符に軽くキスをして渡してきた。ピンクのオカマは別の客と猛烈に抱き合っている。改札の小さなブースの中で下半身を絡めあいながら、オカマと黒服の乗客は激しく求め合っていた。オカマが乗客の黒い装いを次々に剥いでゆくと、やがて贅肉塗れで惨めに弛んだ肉体が露わになる。チリチリと生えた胸毛が余計に見苦しい。オカマはオカマで唇を貪りながら器用に服を脱ぎ、その白磁の様な肌と引き締まった見事な肉体を露出させた。男の尻をまさぐり、肛門に挿し込んだ指を引き抜いては舐め、また挿し込む。無表情な黒服の男は虚空を見つめたまま性器だけを怒張させていた。オカマは気にせず愛撫を続けて、やがて男の背後にまわり自らの性器をしごき始めた。男は涎を垂らしながら、だらしない肉体を紅潮させている。毛深い尻にオカマの見事な一物が吸い込まれるように這入ってゆく。

 その時、突然電車がホームに滑り込む音がして、同時に背後から

「うおおおおおおおおおおお」

 と無数のうめき声が押し寄せてきた。男とオカマの行為に目を奪われている間に、後ろに並んでいた男たちが渋滞を起こしていた。南口改札からスターバックス、さらに動く歩道までいっぱいに溢れかえる黒ずくめの男たち。電車に乗れない、電車に間に合わない事が命にかかわるような大騒ぎだ。先ほどまでの操り人形の様な虚ろな動きと顔は何処へやら、鬼の形相で改札に殺到している。オカマが切符を切るのも間に合うわけがなく、やがて黒い波は怒涛の如く改札を抜け、青いラインの入ったステンレス車両を呑み込む勢いで走って行った。もう一人の、黒ずくめの男とまぐわっていたオカマは悲鳴をあげながら、男もろとも踏み殺されて無残な死体となって転がった。自慢の肉体も一物も次々に踏みつけられ、蹴りあげられ、無数のどす黒い痣や出血を伴う爛れた傷跡で台無しになっている。男の方は尻の穴から精液といっしょに腸をはみ出させ、ぶぢぶぢと嫌な音を立てて痙攣している。発車メロディが鳴る。聞き飽きるほど聞いたメロディが断末魔に代わる。

 乗り切れず溢れかえった男たちが車両の屋根に、窓に取りついたのにも一切構わず電車は発進。轢き潰されたりホームと車両に挟まれたり感電したり、さながら地獄絵図だ。ホームには血と吐瀉物と焦げた肉の匂いが充満し、ある者は追いすがった男の足にしがみつき、ある者は走り出した電車から蹴落とされ、またある者は頭をカチ割られて死んでゆく。ゆっくりと走り去る電車を呆然と見送りながら、ホームに折り重なった黒い死体どもを踏みつけて駅を出た。


 桜木町の南口も随分変わった。タイル張りの広場、渡り廊下でつながるビル、動く歩道、コスモワールド、黒煙を上げて炎上するランドマークタワー。濛々と立ち上る邪悪な煙に巻かれて上層から人間がボロボロと落ちてくるのが見えた。足元からは巨大な炎の塊が、このビルを呑み込もうとするように燃え上がっている。近づくほどに轟音と阿鼻叫喚の叫び声がうねりを上げて混じりあい響き渡ってくる。周囲の空気まで焼け付くように熱い。ああ、この建物は死ぬんだ。そう思った刹那。どん!と腸までゆする爆音とともに一際大きく醜い悲鳴をあげて、崩れかけたビルから燃え上がる老婆が降ってきた。品のいい白髪頭は顔面の大部分と共に焼け焦げて、割れた眼鏡が風に煽られて吹っ飛んで行った。恐怖で見開いた二つの目玉とバッチリ視線が合わさった。助けて!熱い!死にたくないの!そう言っていた。だが一瞬で地面に激突し、脳を露出させて数回だけ痙攣して死んだ。後には炭のようになった骨だけが残った。燃え上がるランドマークタワーの姿が海に映って上下対称になった様は美しかった。そこで死んでゆくことは、幸せなのかも知れない。自分には死ぬほど燃え上がった事がこれまで何度あっただろうか。それは本当に死んでしまいたいほど燃えていただろうか。ただ、今の自分は立派な燃えカスであり灰のような人生ではあるな、と思う。


 池袋に行かなきゃ。

 そんな声が脳裏にこだました。

 池袋に行かなきゃ。

 オウムが人の声を真似したような、カセットテープを早回しにしたような、かすれて甲高い不快な声色。そうだ、京浜東北線。咄嗟に乗り越えようと手をかけて、飛び上がった拍子にその柵がぐにゃりと曲がった。まるで油粘土のように形を崩したそれに体を浴びせるようにして倒れ込んだ。地面に激突して痛みが…走るはずだと目を閉じた。そのまま、地下深く、まるで空から落っこちるように何処までも何処までも潜って行った。変わり果てた石畳の下には何万年も降り積もった枯葉が詰まっていた。池袋に行かなきゃ、池袋に…。気が付くと自分でも繰り返しつぶやいていた。声が、あの不快な音色になっている。これが自分の声だっただろうか。こんな声だったっけ、どんな顔だったっけ、誰が自分なんだっけ。いちばん好きな人は、いま何処に居るんだっけ。

 

 池袋に行かなきゃ。

 

 落ち葉の地層を潜り切ると、暗く四角い部屋にばたっと落ちた。不思議と痛みは無かった。池袋でも横浜でもない、何処か。狭い。明かりは無いけれど、この部屋が大体6畳ぐらいの広さしかなく、そしてあるのは一面真っ黒の壁と床と天井と、一つだけドア。

 ドアの場所はわかるのに、手探りで進むもどかしさ。そこにある、ドアノブを捕まえろ!握りしめた丸っこい獲物を軽くひねる。

 ガチャリ!


 ごぼぉっ!

 ごぼ……。

 しゅー……。

 ごぼぼっ……。

 水の音がする。あぶくが水面に上って行って、銀色に光って消える。

 その向こうには白い灯りが見える。

 そして全てが暗くなる。


 水だ。大量の。ココは何処だ。地下水路。巨大な、どこまでもがらんどうの空間を満たすほどの水。きっと人工的な地下水脈。その水面をここから見上げていると、青白い光に溶けてゆく銀色のあぶくが、なんだかとても儚くて悲しいものに思えた。

 沈んでいるのか、浮かんでいるのか。それさえもわからない。自分の呼吸の音だけが、耳の中で、頭の中で渦巻いて酸素を取り込んでゆく。この水に溶けた酸素はとても甘くていつまでも吸い込んでいたいのだけれど、肺の中で満ちるほど目にも鼻にも胸の奥にも激痛が走って吐き出してしまう。痛みが過ぎ去るとまた苦しくなって、甘い酸素を吸う。痛む、吐き出す、吸い込む。手を伸ばしてあぶくを掴んでも、指と指の間をすり抜ける。ゆらゆら輝く水面は眩しくて、浮かび上がりたいけれど。半分砂に埋もれたままの体が心地よくって。このまま沈んでしまいたいと思う自分も居る。地下水路は大河に、地下大河は深海に。砂に埋もれたまま流されてゆく。もうどのくらいこうしているだろう。ぼんやりと開いた口からごぼり、と泡が出て消えて行った。水面に上ってゆくあぶくたち。色とりどりの幻を包んで浮かび、音もなく消える。その繰り返し。水面は空、あぶくは星。そうか、ココは

「夢の生まれる海の底に俺は、居る」

 夢の生まれる海を見た。


 どよどよどよ、足音と話し声とスピーカの宣伝と音楽とが入り混じり、雑踏という言葉に集約されて体の周りを通り過ぎてく。パチンコ屋、家電量販店、政治結社、寄付金集め、待ち合わせ、立ち話、痴話喧嘩、おかまバー。色んな声と音とが耳の奥にしゅるしゅると滑り込んできて、君の声を記憶の中から押し出してしまおうとする。ここがいつまでも思い出の場所なのに、この場所は刻一刻と姿カタチを変え、声を荒げ、新しい場所になろうとする。新しい思い出の場所、誰かの思い出の場所。その一瞬後には、もう他の誰かの場所。自分だけの場所、お前だけの場所、ここにいつまでも居座って居たい。その思いだけが肥大化して小さな足跡になり、往来の先へと続いてゆく。ぺタペタペタ、とリズムよく地面に刻まれた足跡たち。その後を追う力も無い。しゃがみ込んで膝を抱えて道行く人々を滲む瞳で睨み続けた。お前たちは良いよな、こうしている間も楽しそうで。無数のカタツムリで埋め尽くされた部屋に閉じ込められたような気分が永遠に続く。絶望感で立ちすくむ足元からじわじわと昇ってくるカタツムリ。殻には苦悶に満ちた顔、迷いの中の顔、逃避の言い訳を考えている時の顔、一瞬の快楽に身をゆだねている顔、色々な僕の顔が浮かんでは消えている。小さな足跡を埋め尽くすほどのカタツムリが集まって、こっちに向かってくる。四方八方から押し寄せるそいつらをバリバリと踏み潰し、僕は歩き出した。ぐちゃり、と嫌な感触が靴の裏を通して踵、股間、はらわた、胸元、延髄、そして頭のてっぺんまで走ってくる。不快な電気信号。真っ暗な部屋の中を這い回るカタツムリ、踏み潰し迷い続ける自分自身と重なり合う、潰れて死んだカタツムリ。やがてその肉、殻、内臓の破片がじりじりと寄せ集まり、ぬちゅるぐちゅると不快な音を立てて積み重なってゆく。嫌な思い出、辛い過去のコラージュがカタツムリの形になって歩き出した。とびきり巨大なカタツムリの形になって。


 カタツムリの背に乗って眺める往来は壮観だった。人ごみも悪くない。自分がその真っ只中を歩くのでなければ。ゆっくりと進むカタツムリの下で人々がブッ潰れて死んでゆく。うわあ、とか、ぎゃあ、とか言えばいいのに。みんな死ぬときまで黙って静かに死んでゆく。火を放ち秩序を乱し混乱を貪るのはいつもあいつ。一度黙ってしまえば死ぬまで声を上げることなどできない。だが一度貪ってしまえば奪い続けるしかない。骨の髄まで搾り取られるまで。


 池袋。

 雑踏の中で僕はぼんやり立っていた。これだけ沢山の顔と顔と顔と顔の中で、たった一人を待ちながら。今日で好きになって何年何か月だろう。思い出せなくなってから暫し経つ。画面の中に居る事が、心の中で追いかける顔が当たり前になっている。あの顔を今日も待っている。

「ずっとここに立ってたんだよ?」

 僕の隣には、あの頃の彼女。少女のままで、穢れの無い彼女。

「いつか会いに来てくれると思ってた。早くおいでよ、って」

「いつでも心の中の私に会いに来て」

 髪形も、顔つきも、変わってしまった君はもう居ない。其処に居るのは僕の好きだった君。少女のままの君。誰のものでもない頃の君。

「階段があるの。金色の」

「いつでも私に会いに来て。心の中の私に会いに来てね」

 雑踏をかき分けて進む。ふわり、ふわりと宙に浮いているような足取りで進む。隣には君。まるで僕の心の中を抉り取ったように輪郭の紅い君。やがて路地裏に入り、また大通りに出る。片側3車線の道路のど真ん中にそびえ立つ金色の階段。それは空高くのびていて、僕たちを待っているようだった。轟々と通り過ぎる自動車の群れ。カッと照りつける太陽。眩しい白い光の中をゆっくりと歩き出し、金色の階段に足をかける。右足がぐっと乗り、力を込めて踏みしめる。宙を浮く感触は消え失せ、確かな足応えを感じた。君と手を繋いでいれば、何処へでも行けるさ。

「いつでも心の中の私に会いに来て」

「いつでも心の中の私に。いつでも。いつでも。心の中の私に会いに来て」

 君は繰り返し繰り返し呟いた。階段を一段一段登りながら、君の手を握りしめた。強く、強く。手すりも柵も何もない、ただの階段。ただの金色の階段。他に登ってくる人もいない。誰も足を止めたりもしない。君の繰り返す言葉を聞きながら、黙って僕は歩き続けた。

 黒く長い髪の毛。前髪をぱつんと切ったお姫様のような髪型。黒縁の眼鏡。小さすぎず大きくも無い鼻、優しい眼差し、意志の強さと聡明さを表すような瑞々しい唇。君の顔全てが愛おしい。あの頃のまま、変わらないのは名前だけ。顔も、立場も、愛する人も、君は変わった。僕は何も変わらなかった。変わる事も、変える事も出来ずに、今日も魂だけが池袋の雑踏を彷徨っている。遥かな足元では池袋の街の中を歩き回る人々の群れ。その中で、あの日の君が、今も僕を待っていてくれる。懐かしい顔、懐かしい装いで。

 そして手を繋いでた君は何処かに消えて、あの懐かしい声だけがいつまでも響き続ける。待ってくれ、もう少し、もう少しだけそこで待っていてくれ。思わず手を伸ばした拍子に、僕の身体は階段の横から投げ出されるようにして落下していった。

 遥か雲の中を風を切って堕ちてゆく気分はどうだい?

「いつでも私に会いに来て。いつでも心の中に。いつでも私の心に。いでつも心私は中のい会にてくきかけてか私私私私の心の中に。会いに来て」

 何処に居るんだ、君は、あの頃の君は何処に。誰のものでもない、穢れを知らない君は何処に。落ちてゆく空に浮かぶ、あれほど好きだった君の笑顔にブロックノイズ。


 ごぼぉっ!

 ごぼ……。

 しゅー……。

 ごぼぼっ……。

 水の音がする。あぶくが水面に上って行って、銀色に光って消える。

 その向こうには白い灯りが見える。

 そして全てが暗くなる。


「夢の生まれる海の底に、俺は居る」

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